ひょんなことから、あるとは思えないエンジュの老木を探すはめになった。井上頼寿の改訂「京都民俗志」(東洋文庫129, 平凡社, 1968)の槐の項に『下京区(現東山区)耳塚通り五条下がる三丁目蛭子町の西側の路地を入った突き当りで、槐大明神としてこれを祭り、…』とあったのを手がかりに、その界隈に出かけた。この辺りは、お地蔵さんの多い界隈で、11月(霜月)号に載せた地蔵・大日分布地図作りのためによく訪ね歩いたところであるが、そんな木は見かけたことがない。耳塚通りというのは今ではない。耳塚のすぐ側の今井念珠店で訊ねると、以前は「耳塚通り大仏前」と言ったそうで、今でもこの住所で郵便が時々届くそうである。おそらく現在の本町通りの一筋東の大黒通りのことであろう。「五条下がる三丁目」という言い方も一見奇妙に聞こえるが、本町通りも五条通りを起点として本町○○丁目という言い方をするから、耳塚通りもこのように言い習わしていたものと思う。蛭子(えびす)町という町名は、ちょうど本町二丁目から三丁目にかけての東隣に今も存在する。今は、蛭子町北組と南組に分かれている。なお、大黒町通りは大和大路が松原通りと交差するところから斜めに南に大和大路と並行して七条通りまで延びている。
 これで場所の見当はついた。おそらく目的の槐はないだろう。「民俗志」は続けて『槐大明神は今では稲荷社となり、木の精は耳のある白蛇(あまり大きくない)で、付近の人はときどき日に浴しているのを見受けるという。祠はなく、青石に神号を刻し、周囲に玉垣をめぐらしてある。町内の人がお火焚きをする以外には何の祭りもない。木は空洞となって溝の中にある。』とこれだけ具体的に記述されているのだから、何らかの痕跡が見つけられると信じて出かけた。

 蛭子町がある区間はせいぜい200m程度である。北から始めた。蛭子町の北隣の北棟梁町で、まず訊ねた初老の男性は「そんなん、このへんで知らんな。えびすちょう???。ああ此の字か、なんて読むんやろな。難しいな。(しばし沈黙)あ、ひょっとしたら、稲荷やったらあっちの方のと違うやろか。鞘町通りの」。鞘町通りは本町通りの一筋東、「民俗志」の同じ項目中に『そのころには鞘町などはなかったという』なる記述があったので、ひょっとしたら、そちらかもと疑ってきた。「民俗志」は言う。『そのときの槐と伝えるものが、加茂川の東堤址(その頃は鞘町などはなかったという)といわれているところ、民家の奥に二、三本残存している。その一つは』の後に、冒頭の下京区云々の地名が記述されている。
 まずは、大黒町通りを南に歩いて見ることにした。西側の何本もある路地をくまなく入ってみたが、それらしきものは皆目見つからない。しょうがないので鞘町通りの「稲荷社」を探しにいった。いわれたあたりにやってきて、鳥居まである立派なお稲荷さんがあるのを思い出した。明らかにこれではない。
 また、大黒通りに引っ返して南に下り耳塚までやってきた。方広寺で一休み。知り合いのお寺の奥さんに尋ねてみたが、ご存じない。「耳塚前の念珠店の方が古いし、そちらで訊ねられたら」とアドバイスをいただいた。お寺より古い念珠店とは、びっくりである。玄関先で二人の女性が念珠作りに余念がないのが通りから見えた。恐る恐る、ガラスの引き戸を開けて訊ねた。先にも記した「耳塚通り」が存在したことは分かったが、「槐」についての手がかりは全然ない。「おばあちゃんが生きてはったら、…」という殺し文句で退散した。

 ちょうど、12時。今回はあきらめて、此の近所の知り合いのネパール料理店で、腹ごしらえをすることにした。此の店は「八百勘」という江戸時代から続く八百屋の七代目が始めた店で、ここのご主人ならなんか知っているのでは、と淡い期待を抱いて行ってみた。西側の八百屋の方はしまっている。ネパール料理店の店先に野菜が並べてある。中をのぞくと、息子二人が懐かしく迎えてくれた。主人は不在、ネパール滞在中とのことで、「槐」に関しては何の役にもたたなかったが、疲れをいやし、腹ごしらえは出来た。蛭子町の町内にあった「稱名寺」というお寺で訊ねてみよう、という考えも浮かんだ。
 気を取り直して、また大黒町通りを今度は上がっていった。稱名寺の門をくぐり、インターホンを押すが反応がない。広い三和土(たたき)の玄関の扉が開いていたので、中に入って「お尋ねします」と叫んでみた。しばらく待っても応答がない。あきらめかけた頃、静まり帰った庫裡から、奥さんが出てきて下さった。しかし、何一つご存じない。が親切にも、「だれか知った人に尋ねて分かったらお電話いたしますので、…」とお申し出いただいた。当方の名前と電話番号を記して、何か満たされない気持ちを抱きながら大黒町通りにでて、北へほんの数歩いった途端に、東側の路地の突き当たりにある小さな稲荷社が目に飛び込んだ。
 近づいてみると、何の変哲もない京都の町中でよく見かけるお稲荷さんである。背後は高い土堤になっており、昔の加茂川の段丘の痕跡と見受けられた。近くに石垣町という地名も残っている。そもそもなぜ槐の木がこの辺りに植わっていたかというと、「民俗志」によれば次の通りである。『醍醐帝ことのほか雷をきらわせ給うたので、空海が加茂川の東岸に槐の木(榎も植えたという)を植えたら、雷はみなその方へ落ちて、都へは落ちなかったという。』醍醐天皇[元慶9(885)年〜 延長8(930)年]と空海[宝亀5(774)年〜承和2(835)年]とは、時代的に会えるわけではないが、槐が雷よけに植えられたのはありそうなことであり、それが加茂川の岸であったとしてもおかしくはない。さらに榎も植えたとなっているのも、槐と榎がよく混同されていることからもうなずける。

 大阪市中央区松屋町の上町台地に榎大明神(白蛇大明神)と称する小さな祠のかたわらにっ注連縄が巻かれた御神木の樹齢650年と推定される槐の古木がある。長堀通りから見上げる坂道の上である。
 「雷と槐」と「雷と榎」の取り違えの話もある。
『太平広記云、唐ノ代州ノ西ノ方十余里二大ナル槐ノ木アリ。嘗テ夏ノ時、天俄二里雲垂覆雷鳴露電閃キ輝キテ雷槐ノ木ニ落タリ。』(『訓蒙故事要言』巻1天地門81「雷公挟樹」)と
『城外一里程わきに、大き成榎あり。時に夏半なりしに墨雲かな引わたり、稲光しきりなりしに、雷崩るゝがごとく鳴はためき、雨うつすが如く、終にかの榎におちかゝりて…』(『拾遺御伽婢子』巻2の2「雷之言話」)である。
 後者が前者をふまえていることは、神あさ子によって指摘されている。前者の槐が後者では榎になっている。
 「本草和名」(918)には「槐実和名恵乃実」とあるから木の名は「エ」である。「和名抄」(931年)では「恵爾須」エニスとある。これがエンジュになったという。こちらの方は日本在来のもので、今では、イヌエンジュとされ、中国渡来の槐がエンジュと称されている。

 見つけた稲荷社が井上のいう槐に関わりのある社とは何ともいえない。「西の路地奥」ではなく「東の路地奥」であるから、場所的にも何か解せないものが残る。祠に一つだけ手がかりがあった。祠の鈴にぶら下がっている何本もの布製の房に書かれた名前はすべて「水谷勝一」である。この人を捜し出して訊ねれば何か分かるかも知れない、と思いながら人気のない路地を出た。と路地の入り口の北角のお宅が「水谷」であった。これはこれはと思いながら、インターホンを押してみた。
 幸い留守ではなく、私と同年輩のご主人が出てこられた。もつけの幸いといろいろ訊ねてみたが、槐の木なんかなかったと断言される。奥さんも呼んでいただき稲荷社の由緒をたずねてみた。お話では。昔、路地も含めてこの辺り一帯を所有していた竹内さんという方が、引っ越される際、世話を頼まれたので、詳しい由緒は知らない。とつれない返答であったが、社の名前が「榎本大明神」ということが判明した。「やっぱり、エノキ…」という気持ちで、「お火焚きはやっておられませんか」と訊ねると、意外にも「ずっとやっていましたが、お導師さんが亡くなられてから、中断したままです。かわりの方を頼むのもたいへんだし、もうやめています。」とおっしゃった。
 榎とお火焚きと稲荷社、そして蛭子町という町名は井上の書き残したことと一致する。しかし、決定的な物的証拠を欠いたまま、今日の探索を終えた。槐が残っていなくても、井上が『青石に神号を刻し、周囲に玉垣をめぐらしてある』と記した通りのものを見つけたい。乞ご教示。

inserted by FC2 system inserted by FC2 system