2 エノキ

エノキの漢字は木偏に夏。木に四季の字を添えてみると、早春に花をつける椿、夏に繁って木陰をつくる榎、秋に実って長いさやを垂らす楸(キササゲ)、冬に実をつける柊、ともっともらしい説明がつく。楸は古くは「ひさぎ」と読み、アカメガシワとキササゲに共通して用いられていた。前者はトウダイグサ科、後者はノウゼンカツラ科で、全く別種。万葉集に「ぬばたまの夜のふけぬればひさ木生ふる清き河原に千鳥しば鳴く」と読み込まれている(都大路No,126,烏丸中学校自然誌研究会,1999)。
 早春に花をつけるのは椿だけではないし、夏に木陰を提供してくれる木は何種類もある。秋や冬に実る木も多い。実は「榎」は俗字で正字は木篇に賈である。枝の多い木だから「枝の木」と説明されることも多い。エノキの語源についてはこれ以上言及しない。興味があれば、前川文夫著「植物の名前の話」(八坂書房)、深津正,小林義雄著「木の名の由来」(東京書籍)などを参照されたい。
 四月から五月にかけて淡い黄緑色の小花を開き核果を結び、十月ごろ赤褐色に熟す。甘くて食べられる。エノミあるいはヨノミというのがそれである。それでエノキを「ヨノミの木」と呼ぶところもある。食べられるのは実だけではない。若葉を飯に炊きこんだり、樹皮の煎汁を漢方薬に用いたりするという。
 エノキはムクと同じニレ科の落葉高木であり、よく混同される。ムクのことをムクエノキと各地で呼んでいる。エノキにもメムクノキの方言がある。エノキの樹皮は灰色で、石のような肌ざわりを呈し、所々に横に皺ができるが剥げない。葉には縁の中ほどより上に鈍い鋸歯がある。ただし、エゾエノキという種には鋸歯は下部からあり、果実は黒色である。中央脈からでる側脈は3-4対、枝分かれするが先はへりに達しない。ムクの樹皮は灰褐色で、老木では短冊状に剥げてくる。葉には全周に鋭い鋸歯がある。中央脈からでる外脈は6-10対、先はへりに達し、一番下の一対の脈からはっきりとした数本の分枝が出ている。ケヤキもニレ科の落葉高木であるが、樹皮は灰褐色で直径数センチずつに鱗片状に剥げ、燈色の地肌を所々に見せる。葉には全周に大ぶりの鋸歯がある。側脈は7-15、鋸歯と同数であり枝分かれしない。
 以上は植物学的な差異であるが、エノキとムクでは人間との関わり合い方でも違っているようだ。町中には、いかにも人間に寄り添って生きているという感をあたえるエノキが多い。それに対して、ムクは町はずれや目立たない片隅にひっそりとたたずんでいるのがふさわしい。
 浦島太郎の皺をもらった「皺榎」の伝説に見られるようなユーモラスな付き合いもある。「シワエノキは宮津線網野駅の北1Km余、網野町網野の本覚寺裏にある」と田中武文氏の「植物風土記 近畿の巨樹・老木」(京都園芸倶楽部1972年)に紹介されているが、まだ健在かどうかは確かめていない。[2004年12月の京都新聞に嬉しい便りが乗った。台風16号と23号で幹が折れ20mの高さが8mになってしまったのを,木の支柱二本で支える処置が施された。網野町の「ふるさと自慢百選」の一つで、折れた幹は網野郷土資料館で保存、展示するという程大切にされてきたようである]
 徒然草の「榎木僧生」の段にあるように、人間のたわいなさを引き受けてくれるのもエノキである:公世の二位のせうとに、良覺僧生と聞こえしは、極めて腹あしき人なりけり。坊の傍に、大きなる榎の木のありければ、人、「榎木僧生」とぞ言ひける。この名然るべからずとて、かの木を伐られにけり。その根ありければ、「きりくいの僧生」と言ひけり。いよいよ腹立ちて、きりくいを堀り捨てたりければ、その跡大きなる堀にありければ、「堀池僧生」とぞ言ひける(西尾実校注)。この僧生は「一本の榎に三度腹を立て」と後世まで汚名を残す羽目となった。
 町中に残っているエノキのかたわらには、必ずといっていいほど祠が祀られ、榎(木)大明神と称する所が多い。エノキでないのに「榎木大明神」と名がついている木もある。たとえば、大阪市中央区安堂寺町2丁目の道の真ん中にそびえている、樹齢650年と伝えられている木はエンジュである。
 古来、神と人間の間を取り持つのがエノキであり、エノキに異常な力を認めてきたのが人間であった。屋敷の戌亥(乾、北西)のすみにエノキを植えて禍を防いだり、嫁入り行列が「縁切榎」の前を避けて通ったり、昔は何かと縁起を担いだ。東京都板橋区本町岩ノ坂に「縁切榎」の根株だけ残っているという(石上堅「木の伝説」p.186、宝文館出版1969年)。公武合体の証として、和宮内親王が中仙道を上って徳川十四代将軍家茂の許へ嫁いだおりも、「縁切榎」を迂回したとか、根元から枝葉まですっかり菰で隠したとか伝えられている。なぜ縁切りかというと、この中仙道の入り口岩ノ坂には、榎と槻がそそり立っていた。よっ「エンノツキノイヤナサカ」。あるいは、元禄の終り頃、伊藤身禄という油屋が富士山の上で死のうと願をかけて家族に別れを告げた所に、たまたまこのエノキがあったからとも伝えられている。明治17年の板橋の大火で焼けて枯れ、二代目の若木が植えられたが、南下の事情で伐られたそうである。
 戦勝を祈願したエノキも各地にある。今は大阪の町中になってしまったが、遠い昔は三韓坂と言われた古道のわきに、大阪冬の陣のとき真田幸村が鎌を打ちつけて戦勝を祈念したエノキが大阪市天王寺区空清町4-2の圓珠庵にある。今日でも鎌八幡と称して、「病根断ち、縁切、因縁断ち、悪霊断ち、厄払、悪運断ち」と「合格祈願」に霊験を発揮しているようだが、そう太くもない 幹にいっぱい鎌を打ち込められ悲痛である。他にも、鎌を打ちつけられた木にはタプノキの例が石川県鹿島郡西町の鎌宮諏訪神社にある。こちらは農民が鎌の持つ呪術的な威力に何かを託したものではないかと云われている。さしあたってエノキには関係ないが、ついでにもう一件、鎌を打ちつけた木として和歌山県かつらぎ町丹生酒殿神社内のイチイガシが知られていることを記しておく(園芸春秋206号所収田中武文「タブの木断片11」)。さらに増田廣樹の素晴しい写真集「木霊」(光村印刷、1998)には新潟県中里村の「剣木」と長野県小谷村の小倉明神の鎌を打ちつけられた悲壮な姿のスギ紹介されている。全国にはまだこのような信仰が多く残っているようだ。
 人間にとっていいことばかりでもない。今はムクしか残っていないが、有済小学校内の山吹御前の塚の傍らにあったエノキは触れるだけで崇ったというが、他の木にくらべて崇った話は意外に少ない。松谷みよ子の「現代民話考9」(立風書房,1994)の神木の崇の節に採録された58件の中で、エノキにまつわる話はたった3件である。崇ったエノキの話をはじめとする民俗学的な話は柳田国男の「争いの樹と榎樹」の論考に譲る(ちくま文庫版「柳田国男全集14」所収)
 エノキは、人間の精神活動だけでなく、具体的な生活にいろいろと役立ってきた。かつては一里塚に植樹され、旅する人にオアシスを提供した。一里塚は街道の両側に一里ごとに土を盛って里程の目標に樹木を植えた塚で、多くはエノキが植えられた。一里塚にエノキを植えるようになった由来としては、信長、秀忠あるいは家光といろいろいわれるが、「よのきをうえろ」という命令を家来が「ヨノキ」と聞き間違えたという俗説が流布している。ヨノキはエノキの別名。お陰で旅人に木陰を提供したことだけはたしかである。「くたびれた奴が見つける一里塚」、「麦めしと書いて榎へ立てかける」と旅ゆく人の目印であり、また「落武者は榎を植えぬ道を逃げ」と負の目印ともなった。「旅」が冷房をガンガン効かした車で走りまわることに変わってしまった現在では、無用の長物としてどんどん伐られ、ほとんどなくなっている。かろうじて残っていたものも、遺跡として保存されている物はまだしも、そばがガレージになり葉っぱが落ちるといって大きな枝を全部伐られ、幹だけで突っ立つ羽目になったものも多い。京都から湖西線に乗ると、堅田駅の手前で琵琶湖側の車窓から、立派な枝振りのエノキを目にすることができた。これは仰木道と北国海道(西近江路)が交差するところにあり、北国海道の一里塚的な役割をもっていた。エノキの下には「白髭明神是より…」と刻まれた天保七(1836)年の石造の道標がある。残念ながら、そばのガレージのエスロンの屋根に落ち葉が溜まるということで枝を切られてしまってかっての雄姿は望めない。エノキが「枝の木」でなくなった。
 人助けをしたエノキが実話として残っている。明治40(1907)年笛吹川が大氾濫をしたときエノキによじ登って百数十人もの村人が助かったという。これらの人々は一夜をこの木の上で明かすことになったが、同一の目的をもってよじ登ってきた無数の蛇の群れとの生存競争を強いられたという(「山梨県名木誌」,1931)。同じ様な話が、明治18(1885)年の淀川洪水に際しても残っている。このとき淀川左岸が枚方付近で決壊し大阪市内の大部分が浸水したが、大阪市東成区大今里の八剣神社のクスに多くの人がしがみついて助かったという。エノキはそれほど太い木ではないが、名は体を表わす如く結構太い枝を出し、何人もの人が泊まるのに好都合だったのであろう。府中市の多摩川左岸に「お助け松」というのがあるが、これは安政6(1859)年7月23日の多摩川の出水で避難し遅れた村の3人の若者がすがりついて一命を取り止めたいわくつきのマツである。新潟県栃尾市の一里塚のエノキも大正15年の大洪水の折りに老婆の命を救った木である。
 樹冠を広げたエノキには人間だけでなく、昆虫たちも大いに恩恵にあずかっているようだ。小山内龍氏の名著「昆虫放談」(築地書館,1991年新装版)にオオムラサキを飼育する苦労がユーモアたっぷりに描かれている。オオムラサキの幼虫はエノキの新鮮な葉しか食べないそうで、いかにエノキの新鮮な葉を大量に確保するかに、オオムラサキ飼育の成否がかかっている。葉を持ち帰ってもすぐしなびてしまうし、葉のついた枝を折ってきて生けておいても、水揚げが悪くて一日ともたない。それで根ごと引き抜いてきて鉢植してみたが、うまく根付いてくれない。おそらく新芽の出る前に鉢植しておくべきだと気がついても、もうどうにもならない。仕方がないので一時全部の枝葉を切断して、「来年の飼育のために、万全の計画の実現となるわけである」と悦に入ってみても、今年の幼虫は容赦してくれない。結局どんな解決法が見つかったか、そこまで明かすと、本の販売妨害になるのでやめておくが、そのかわり著者の本職である挿絵を無断で拝借するのに目をつむってもらいましょう。エノキの葉とエノキの枝振りが見事にとらえられている。
 「宇津保物語」の国譲の中段に桂川に避暑に行った夏七月頃の景色の描写に「さし離れて玉虫多く棲む榎二本あり」とある。現在はあまり見かけないが、以前は人里近いエノキやケヤキの大木にタマムシが群れ集まっていたと云う。法隆寺の「玉虫厨子」にはタマムシの前羽が何千枚もはめ込まれているが、これをどのようにして集めたのか。「タマムシは真夏の正午前後の炎天下に、活発に飛び回る。しかし、朝晩や曇天には行動が鈍り、葉の表面にへばりついていあまり飛ばない。薄暮や暁に、タマムシの止まっている木を叩けば飛ばずに落ちてくる」(黒沢良彦、週間朝日百科、動物たちの地球79,1992)、この習性を利用すれば、棚からぼたもち式に大量のタマムシを得ることができるのではないか。それはともかくタマムシもまたエノキの葉のお陰を蒙っている。
 環境庁の調査報告によると、幹周り9.1mのエノキが大阪府忠岡町にあることになっているが、これはデータ処理の誤りだそうで実在しない。1992年11月30日付けの読売新聞によると、環境庁は「あくまで行政関係者らが使う基礎資料集で、巨木の順位づけが真意ではない」と苦しい弁解をしている。筆者も現地まで行って無駄足をふまされた。明らかなタイプ間違いも多く、完成度の低い資料集である。
 岡山県有漢町の飯山家の庭先にあるエノキが幹周り8.6mで最大である。しかし、下部の大枝が2本折れて根元が削げ落ち、今では幹周6.4mになってしまった。戦国時代に津山城の砦として飯山城が築かれたときに記念として館屋敷の前に植樹されたと云う。次いで福井県勝山町の松ヶ崎に幹周り8.0mのエノキがあったが、残念なことに1997年に枯れたためにあっさり伐採された。地元では標木としてよく知られていた。
 なくなる巨樹が多いなか、喜ばしいことに、幹周8.7mのエノキが発見された、というか地元では知られていたのが公になった。場所は徳島県美馬郡一宇村で、村長さんを先頭に「巨樹の里」として売り出し中である。
 エノキの大木は全体的にムクより一回り小さく、国の天然記念物に指定されているエノキはない。京都市内では幹周り5m以上のものは少なく、上記の環境庁の報告書には京都御所と御苑の5.15mと5.07mの2本が記載されているだけである。残念ながらこの資料からは、どこのエノキかは特定できない。エノキも幹周が4mを超えれぱ立派な大木であり、市内で大木として残っているものは、ムクとは違って植栽されたものが多いようだ。[2008年3月の環境省の新しい資料によると、京都御苑の最大径のエノキは、出水口の石垣の上にある幹周りで5.91mのエノキである]

家に寄り添うエノキ

 東山仁王門の東一筋目の南北に走る細い道は、南へ下がるのは古川町通の名があり、有名な古川町商店街である。北へ上がる小道には特に名もなく、二条通に突き抜けるだけである。その途中の左手に、これ又狭い路地がのぞいている。その北側の角の植西さんの家にへぱり着くようにして大きな樹冠を広げているのはエノキである。その周りの何軒かの家の大屋根を覆っている枝張りは見事である。それに引きかえ根元は、半分根をむき出して周囲はコンクリートで固められ、背後は家の壁に攻められている様は何ともいえない。もっとも榎のある部分だけ家が削りとられているという趣きでもある。主幹は地上3m辺りで二股に分岐しており、その間が凹んでいて雨水でも溜まるのであろうか、幹の表面が半分だけ濡れている。幹周は主幹が分岐する直前で4mをもある。
 何年か前にこの家が建て替えられていて、エノキの運命や如何と心配していたが、立派に共存共栄できているのを見るのは嬉しい。実は、「家は退いても、えのきは退かぬ」が真相で、エノキの成長に従って、家の方を建て変えたという。これで三度目というからたいしたものである。[ところが、何があったのであろうか2003年に伐採されてしまったのを発見した。理由はよそ者には教えてもらえなかった]
 幹が二つに分れて二股の処がうつろになって水を貯えたエノキは各地にあって、霊験を顕る話が多く伝えられている(柳田国男「争いの樹と榎樹」ちくま文庫版「柳田国男全集14」所収)。宮城県丸森町の木沼にあるエノキは地上2mの所で南北2幹に分かれ、幹の上部に凹所があり雨水を湛えており、昔は湖のように魚も棲息していたと、1956年刊行の宮城県史にみえる。木沼という地名もこれに由来しているというから、さぞ老木であろう。江戸名所図会に紹介されている戸田羽黒の霊泉は、椋の二股の控(うろ)から湧いている、と説明にあるが、霊泉を柄の長い柄杓で汲み取っている図に描き込まれている木の枝振りから見て、この木はエノキである。ムクとエノキの取り違えと思うが、今となっては調べようがない。
 これとは違って、場所は同じ様な路地奥であるが、家の庭に悠然と枝葉を伸ばしているエノキがある。東大路と北大路の交差点を西に一筋、イズミヤの西側を北大路を南北に渡る道は、修学院を通って大原を抜けはるか北の若狭小浜まで通じる古い街道である。いわゆる鯖街道である。10年程前は風情のある軒並みがこのあたりにも見られ、疎水のたもとに赤の宮(賀茂波爾神社)の社叢が広がっていた。今ではこの神社の境内もまた自動車に占領されていて、境内のクスの枝が過度に勇定されているのは何とも残念である。[この神社の来た東の隅にエノキの大木が境外にまで枝を伸ばしている]    赤の宮の向い、自転車屋さんの北側に西に入る小道がある。ちょっと入った北側の車田さんの庭の北西奥にそびえているのが当該のエノキである。根元は小高い塚状になっており、祠が祀られている。残念なことにプロック塀越にしか、拝むことができない。幹周は3.5m見当である。近所の人に何の木か問えば、「お屋敷のヨノミです」という答えが返ってきた。おそらく「福榎」として植栽されたものであろう。
 屋敷の戌亥の隅にエノキを植える風習は相当古くからあったようだ。今昔物語の巻27第4話に「…向の僧都殿の戌亥の角には大きに高き榎の木有けり云々」と出ている。一方、中国では墓に植栽することがあったようだ。同じく今昔物語の巻10第20話に「…墓の上を見れぱ三尺許有る榎の木生たり云々」とあって、その注釈として「○(木編に賈)を墓に植えることは左伝哀公十一年に見える」とあるが、それは伍子胥が「吾が墓に○(木編に賈)を植えよ。○(木編に賈)が棺材となるころには、呉は亡びるであろう」と遺言して死んだことを云うのであろう。紀元前484年のことである(白川静「漢字」,岩波親書C95,1970)。ただし、○(木編に賈)は「ひさぎ」と読まれているが、エノキのことと思われる。
 たいへん残念なことに、町中にあった貴重な一本のエノキが、つい最近寄り添っていた家が立て替えられて、古い家もろとも跡形もなく消えてしまった。北野天満宮の南側、御前通と七本松通の中間を南北に走っている相合図子通(正式には下の森通)は幅5mに満たない小道であるが、下町の雰囲気を残した界隈である。仁和寺街道から少し下がった右手に、このあたりの町中では珍しい背の高い木がかってはあった。このエノキの根元にはお地蔵さんを祀った祠があったが、この方は二、三軒先に移転されていた。坪何十万かは知らないが、ほんの畳半畳の土地を供出できなかったものか。明治の初めに、自らの財力で小学校を創立してきた京の町衆の実力も地に落ちたようだ。
 町中のエノキとして今も健在なのは、千本出水の8階建てのマンション「西陣グランドハイツ」の南側にあるガレージの中のエノキである。幹周りは2.2mに過ぎないが、樹冠はマンションの最上階にとどいており、その広がりに目を見張るものがある。この太さで、風雨に曝されている大きな樹冠を何年も維持してきた強靭さは何に由来しているのだろう。現代の土木技術がこれから学ぶものは何もないのだろうか。根元には祠があり、注連縄で飾られている。傍らに寄り添った2本のエノキがある。一回り小さいが仲良く一本の注連縄が巻かれ、次の世代も準備されているのだが、マンションの傍のガレージにいつまで居候さしてもらえるのであろうか。
 市内で三指に入る幹周のエノキが、旧知事公舎、現京都府立府民ホール「アルティ」の正面玄関北側、職員通路の入り口前の植え込みを飾っている。幹周4.9mと書かれた府指定の天然記念物の標識が添えられているが、今までどこにも紹介されたこともなく、何世紀ものあいだ静かに世の移りゆく様子を眺めてきたことであろう。公舎がなくなった今でも相変わらず、ホールを訪れる人たちの注目を引く事もなく、四季折々の美しい樹形を見せている。
 旧市長公舎にも同じ様なエノキがある。この方は京都市国際交流会館の裏門の位置になってしまい、「アルティ」のエノキ以上に目立たない。旧知事と旧市長の格の差を表わしているようで、幹周りも一回り小さく3.5mをに過ぎない。ただし、「京都市の巨樹名木」の第1編(1974年)に紹介されている。この時の幹周は3.1mであったから約4半世紀に40cmも太った。周辺の環境は必ずしも良好とはいえないが樹勢は盛んである。わずかではあるが根の周りに土盛が残されていることが幸いしているのだろう。
 何らかの植生の名残として人家に寄り添って今も生きているエノキはこの他にもいくつかある。御薗橋西詰の樋本さんのガレージの傍の幹周4.1mのエノキは賀茂川の堤防上あるが、かつての御土居の植生の片割れであろう。同志社中学校の裏、佐々木さんの門前の塀際の幹周3.5mのエノキ、熊野神社の裏の家の土蔵とプロック塀の間の狭い場所に閉じ込められてしまってはいるが、また今年も元気に芽吹いた老エノキ。まだまだ過酷な環境で生き抜いているエノキの大木が、どこかに身を潜めているいるかもしれない。
 例えば、高野川の御陰橋の東南には、川端通から身を潜めたように民家の背後に隠れている幹周2mばかりのエノキがある。その地は大きなガレージの金網と民家のプロック塀に前後を挟まれた東西2m、南北10mの忘れられ去られた空地である。エノキのあるところは市有地だそうだが、不思議なことにブロック塀の内側、民家の敷地内に石作りの祠があり、その前には朽ちかけてはいるが木製の鳥居がしつらえてある。民家が建つ以前はエノキと祠と鳥居は一体のものであったと推測されるが、その由緒は知れない。乞御教示。

敬われていたエノキ

「祇園の御旅所に世々経る榎有り、明和九年の秋、暴風にて倒れたり、余も行て見るに、老樹朽果て算を飢すが如く砕けたり」で始まる翁草の祇園御旅所の榎の話は古人の樹に対する愛情がほとばしっている。翁草は近世初期の関西での風俗、事件、文壇事情などに関する幅広い体験談や書物からの採録を全200巻にまとめた神沢杜口の著作。神沢杜口は1710年に生まれ、京都東町奉行所の与力を勤めた人。43才で退役し、晩年にこのライフワーク的書物をまとめた。墓所は上京区の慈眼寺。四条通寺町東入ルにあるこの八坂神社の御旅所の前はいつも人で溢れている。昔は榎の辻と云ったそうだが、今はエノキがあったことを偲べるものはなにもない。彼の告別の辞を掲げる。
『至れる哉、時なる哉、いほの春秋に貞操をあやまらず、應仁の騒しきにも遁れず、さのをの神やどります、棟もたわゝに靉き茂みて、九夏の耐へがたきには、木の下闇に行人を停む、そのかみ、玄旨法印このもとにて、「涼しさにえのきもやらぬ木陰哉」とものし給ひ、また往し元禄の頃、眞珠庵如泉が歳旦に、「今朝見れば四條の榎霞けり」など、それかれの詠に預りし事、棹歌齋信安が花拾遺にもあらはなり、華洛の名樹、はた神木と称せんに、をさをさ恥ざるべし、圖らずもことし、明和壬辰秋のあした、唯假初の風の心地となんほの聞ゆるまゝ、打おどろかれて、あけの日いち早く行見れば、はや事きれたるさまなりけり、吁時なる哉、至れる哉、なき骸は杣に任せん千々の秋』
 井上頼寿氏は「京都民俗志」に、今は跡形さえないがかってはたいへん崇敬されていたエノキを記録にとどめてくれている。榎大明神のエノキが、北野の転法輪寺吐と西高瀬川四条上ルに、ムクの節で記した大宮頭の林町の人気大明神のエノキが、若宮八幡宮には源義家が戦勝を祈願したエノキがあったと云う。井上に倣って、まだ目にすることのできる畏怖すべきエノキを記録しておこう。
 三条大宮商店街を一筋南へ入ると寺院街で今も穏やかなたたずまいを見せているが、そのような界隈に武信稲荷神社の神木が旺盛な樹冠を社殿の上に広げている。これは市の天然記念物に指定されており、平重盛が安芸の国の厳島神社から苗を持ち帰って植えたと言い伝えられている由緒あるエノキである。樹齢800年、胸高幹周3.9m、板根が張り根周りは10m近い。武信稲荷神社は平安時代藤原一門の養生治療院である延命院の鎮守社として創建された。院はいつの間にか廃亡し鎮守社だけが残っていた。江戸時代は摂津尼崎藩の京都藩邸内に取り込まれたが、明治の廃藩後も神社は残り付近一帯の産土神として崇敬されてきた。今も近所の人達の信仰を集めていて、お参りする人が絶えない。三条通と四条通の間にあるにもかかわらず、周囲を細い道に囲まれているためか、境内は駐車場に変貌することもなく、町中の緑のオアシスとなっている。なお境内にはもう一本、幹周2.7mのエノキがある。
 往古から今日まで野性のかきつばた群落を伝えている大田の沢、そのかたわらに大田神社がある。今は上賀茂神社の境外摂社となっているが、はじめはこの地域の地主神として創祀され、農耕守護の神として崇敬されていたものであろう。参道の前の道角に、当社の末社福徳社の祠を根元に抱いた老エノキがある。今まで紹介されたことはないが市内では相当な老大木で幹周り3.8m。丁字路の脇にあり根回りの環境は良く、かなり衰えているようで芽吹きも遅く、梢が枯れがちとなっていた。残念なことに、1998年の台風7号で無残に倒れ根元から伐採された。毎年2月24日にこのエノキと社を中心に幸存祭が行われてきた。祭の当日は15歳の男子の青年入りを祝って、御幣を立て鉦や太鼓・笛で囃しながら町内を練り歩く。この祭は村の農家の祭で、上賀茂神社の社家の祭は加茂祭(葵祭)である。「階級が違っているので、お互いに参加しあうことはなかった」とは、社家の出である神戸大学の市忠顯先生の談。「さんやれ」は「山野礼」であって、山の神と野の神に感謝する意味だという。春に里に下り「野の神」として五穀豊穣をもたらし、秋の収穫を終わると山に帰って「山の神」になる。そのような自然神の依代がこのエノキではないか。
 脇道にそれるが、湖東や湖北を歩くと「野大神」と明記された大木にいくつもお目にかかれる。樹種はいろいろである。思いつくままに掲げると、
 余呉町上丹生のケヤキ幹周9.lm
 木之本町黒田のアカガシ幹周6,9m[伐採]
 同町大音のシラカシ幹周10.6m
 高月町唐川のスギ幹周8.7m
 同町柏原のケヤキ幹周8.7m
 同町高野のスギ幹周4.0m
 伊吹町杉沢のケヤキ幹周4.0m
 山東町井之口のスギ幹周6.7m
 日野町村井のスギ幹周4.3m
 同町鎌掛のムク、タプ、ケヤキ等の森
などがある。
 これとは対照的に忘れ去られ放置されているエノキがある。上賀茂神社の末社で小森社というのが旧大宮通の東、北山通の北2筋、上緑町の児童公園の真中にあり、祠の背後に老エノキが控えている。この祠とエノキがある場所は、周りよりも一段高くなっていて、周囲をコンクリートで固められた祭壇の上であるが、エノキ以外に何の植生もなく、砂漠の中に鎮座しているに等しい。根はむき出し、根上がりの状態で、樹皮は乾き切っていて惨めである。人の心も乾き切っているようだ。祀られているのが水分(みくまり)神であるとは何と皮肉なことであろうか。
 東大路通の一筋西に鞠小路という名の道が通じている。この通りと東一条の交差点から斜めに南西へ走る通りとに区切られた一画は、近衛通りまでは京都大学医学部が占めている。鞠小路から見えるこんもりとした樹冠を追って、医学部の構内に入っていくと立派なエノキに出くわす。幹周4.5m、市内では横綱級である。根の周りには色あでやかに化粧された石仏に囲まれており、正面にはろうそくを立てる簡単な祭壇が設けられている。エノキを中心とした5m四方の一劃は木の柵が巡らされている。お参りする人があると見えて柵内は掃き清められていて、大学の構内としては、何とも奇妙な地である。ただ、少し離れて、昭和48年8月の日付が刻まれた実験動物供養の石碑が立っていることが、医学部構内であることを示している。この地は保元の乱で破れて讃岐配流となった崇徳院の怨霊を鎮めるため、後白河法皇によって創祀された神社崇徳院粟田宮と関係があるらしい。この旧址には崇徳(すとく)をなまって「人喰い」地蔵と称されていた地蔵があったが、さすがにこのほうは、付属病院建設にあたって聖護院の積善院に移された。怨霊を鎮める塚のほうは今でも必要であるようだ。
 東山三条から三条通を西に少し行くと南へ下がる細い道がある。角に造り酒屋風の家屋が目にはいる。「千鳥酢本舗」である。この裏に大将軍神社があるが、その境内の東側の鳥居のすぐ傍にエノキを従えた東三条社がある。大木ではないが、老木の風格がある。法勝寺の鎮守の社と伝える「大将軍社」もこの近辺にあったことが、竹村俊則「昭和京都名所岡會2洛東 下」にみえるが、京都の四方に王城鎮護のために設けられた大将軍神社の東の一つは、東山三条西入ル下ルに比定されている当該の大将軍神社である(京都市「京都の歴史1平安の新京」p.342、学藝書林1970年)。竹村俊則氏の書には、この大将軍神社とは名記されていない。この付近一帯は、平安時代摂政・関白が太政大臣や左・右大臣より上であるとして、摂関政治の基礎を確立した藤原兼家の邸宅の一つ東三条殿が、東西130㍍、南北280㍍という広大な敷地占めていた。しかし、世を経るにつれ一叢の森と化し、明治維新まで「東三条の森」と呼ばれ、鵡の伝説を生んだ地である。この森から飛来した化鳥は頭が猿、胴体が狸、尾は蛇、手足は虎という怪獣で、勅命を受けた源頼政に退治された。「平家物語」や「太平記」で取り上げられ、世阿弥作の能「鵡」に脚色もされている。「ヒュー、ヒュー」という鳴き声がヌエドリ(トラツグミ)に似ていたから「ぬえ」と呼ばれた。今の世にもぬえ的人物は多いが、退治しようという勇気ある人物は少ない。「東三条の森」あたりは、今や京都一の文化ゾーン岡崎公園に変貌してその片鱗もない。運動場の真中になってしまった地はつい最近まで、「ぬえ塚の榎の梢ほの見えて粟田の山にかすむ夜の月」と蓮月尼が詠じたエノキが塚の上で枝を広げていた所である。1955年に運動場の拡張整備で姿を消したというが、どのくらい大きいエノキであったか、今となっては知るよしもない。なお、大将軍神社境内にはもう一本、幹周3mのエノキが西側の鳥居の脇の荒熊稲荷の傍にある。
 高野川の左岸、川端通を上って行くと、山端のあたりで若狭街道と合流する。このあたりだけはまだ、高野川の岸辺に生えている落葉高木の梢が風になびいているのが、マンションの背後に見られる。北白川通を渡って上高野の集落に入る。上賀茂や松ヶ崎がもうほとんど住宅地と化した現在、市内で唯一農耕集落の面影を強く残している所である。左手に一見古墳を思わせる樹木が茂った小高い丘が見える。「おかいらの森」というのがこれである。窯跡はまだ見つかっていないが、ここは平安京造営に際して瓦を焼いていた「小野瓦屋」址と伝える。瓦屋がなまって「おかいら」となったとか。円形の地の周りに垣根のように高木が樹冠を広げている。特に抽ん出ているのがエノキである。幹周2mと太くはないが一見の価値はある。現在この地は崇道神社の御旅所となっている。崇道神社は、三宅橋を渡って高野川の右岸をもう少し遡った蓮華寺の東に鎮座する。桓武天皇が長岡京を放棄して平安遷都を行ったのは、この神社に祭られている早良親王の怨霊に対する恐れからである。早良親王は藤原種継暗殺事件に連座し、淡路に配流される途上、自ら食を絶って憤死したと云う。その怨霊をなだめ、都に侵入するのを防ぐために崇道天皇の追号を贈り祭祀した。若狭街道の京都の入口にあたるこの地が選ばれたのはこのためである。両側を欝蒼とした常緑樹に囲まれた長い参道を入っていくと、左手の杉木立の間に背の高い古木を2本認める。樹幹は蝕まれて何の木か判然としないが、板根の張り具合や枝振りからエノキとみえる。樹葉は高くて識別に利用できない。落葉を探してエノキと同定できた。両木とも幹周り3.5m前後の老大木である。周りの植生にそぐわないが、うず高く積もった落葉に埋もれた「八幡社址」の小さな石碑を見つけて、何となく納得がいく。

路傍や川端のエノキ

 京都の街中を歩いたり、自転車で走ったり、バスで出かけたりすれば、思わぬところで立派なエノキに出会える。乗用車や地下鉄ではこの楽しみは味わえない。車でもバスなら、運転は運転手に任せて高い座席に腰掛けてゆっくりと外の景色を味わうことができる。夕暮れ時、葵橋から賀茂川の流れに目をやると、出雲路橋のはるかかなたに望まれる北山の山波が墨絵のように重なり会っている。その景観は「山紫水明」そのものである。本来は、鴨川に面した東山三十六峰を望む景観を賛えたものであるが、見飽きないのに変わりはない。「紫に匂へる山よ透き通る水の流れよ見飽く時なし」と橘曙覧が歌っている。歩きながら、自転車で通りがけに、バスの車窓からそれを味わえるのは贅沢である。さあ、街へ出かけてみよう。
 木屋町通も四条を過ぎると、高瀬川の両岸を覆う樹木が目立つ。木屋町通を南に下がって五条通に出くわすあたりは、鴨川の堤防との間が児童公園になっていて、その南側には扇塚の植え込みがある。公園と塚のあいだで、鴨川の土手まで枝を伸ばしているエノキがある。日当りもよく、端正な自然な樹形は町中にしてはたいへん貴重なものである。眺めていても気持ちがいい。幹周りは2.6m、まだ若い青年木で、これからの成長が楽しみである。
 五条通りを越えると河原院址の2本のエノキに出くわす。幹周り2.9mと2.1mの老夫婦木の間に「此附近源融河原院址」の石標を抱えている。河原院は嵯峨天皇の皇子の左大臣源融が造営した邸宅である。難波から潮水を毎日運んで、塩を焼かせ藻塩のけむりが立つのを見て楽しんだというから、風雅な遊びも中途半端ではなかった。相続した子の湛は広大な邸宅をもてあまし、そっくり宇多天皇に献上した。これまた中途半端でない。この邸宅の内には、奥州塩釜の沖合いの島を真似て作った「籬ノ島」があったが、度重なる鴨川の氾濫や兵火で荒廃し一叢の森と化し「籬ノ森」と称されていた。背後に小祠があって老エノキは昭和の初期までは榎大明神として崇められていたようだ(井上頼寿「改訂京都民俗志」p.165、平凡社)。そんな関係でか、今まで伐られずに残ったのは幸いである。
 五条通東大路西入ル北側の若宮八幡宮の前に、七代清水六兵衛の筆になる書を刻った「清水焼発祥之地」の記念碑が建っている。若宮八幡宮はもとは、五条通をずっと西へ堀川通まで行って少し下がったあたりにあった源頼義の邸内の鎮守社であった。社前に大きなエノキがあり、頼義・義家親子が奥州征伐(前九年の役)に出かけるに際して、「勝利を得るなら、榎の実、地に落ちて芽を生ぜよ」と戦勝を占ったという伝説が残っている。「後年(東)本願寺の厨門の中にあったのがその木である」と柳田国男は述べているが筆者は確かめていない(ちくま文庫版柳田国男全集14,1990年)。若宮八幡宮は、応仁の乱に荒廃し1583(天正11)年に東山区茶屋町に移転したが、方広寺大仏殿の建立に当たって、翌年に現在の地に移転した。
 この界隈には戦前には十指に余る登り窯を有する窯業会社が並んでいた。1971年の大気汚染防止条例で多くはこの地を去ったが、藤平窯業という会社が若宮八幡宮の裏手に残っている。この会社の木造の長い作業場と石塀の間の狭い空間にしっかりと根を下ろしているエノキがある。洛東中学校の裏の行き止まりの細い道は、このエノキの樹冠に覆われて昼なお暗い。どん詰まりの向こうは車の流れが絶えない五条通であるが、ここは別天地である。
 五条より南、東福寺あたりまでの東山山麓はたいへん起伏に富んだ地形である。往年は、東山の渓谷や丘陵が入り組みながら、東大路の西に張り出して、人目を引きつける景観を呈していた。現在は山は削られ、谷は埋り、川は暗渠となって人家がひしめき建ち、車が溢れており昔の面影はない。しかし東大路を自転車で走れば、その起伏の多い地形を実感でき、所々にエノキやケヤキなどの蕎木の梢を目にすることができる。
   西大谷の鳥辺野墓地を通って清水寺へ登る道の南側の谷の斜面には何本ものエノキの高木が生繁っている。南に下って渋谷街道を西に入った北側の路地奥の、民家に取り囲まれたわずかな土地に根を張っているエノキ、同じ渋谷街道を山科方面へ上って行くと、京都女子大学の構内に取り込まれてしまって、校舎の裏に隠れたように枝を張っているエノキ、さらに東大路を南に下がると、国立博物館、パークホテル、三十三間堂の各々の庭のエノキたちが目にはいる。豊国神社の境内には4mを越える立派なエノキがある。東山七条の東側では、智積院の北門、いわゆる「女坂」の上り口を覆っているエノキの見事な樹冠が見られる。
   今は暗渠になってしまった今熊野川に架かっていた「夢の浮橋」のたもとのエノキは今も健在である。「夢の浮橋」は、天生年間(1573-92)に開通した泉涌寺に至る泉涌寺道の今熊野川に架けられた橋である。さらに南へ下れば東大路は右に大きく旋回し本町通りを乗り越えて九条通りに至るが、本町通りを南へちょっと下がれば東福寺の北門に出くわす。そこにもエノキの高木を目にできる。本町通りを逆に北に上がれば、滝尾神社に出くわすがその境内には見事に伐採された何本ものエノキの残骸がある。
 平安神宮の大鳥居をくぐる神宮道は知恩院の南門、すなわち円山公園の北の入り口まで通じている。門前の和順会館の玄関前にエノキの老大木が彫刻の様に飾られていた。周辺は舗装され、根周りのほんの小さなスペースも玉砂利が敷き詰められ何の植生もない。地上1mの高さで二幹に分れ、猿の腰掛けがいくつも付着している。一本の幹はすでに枯れていて、空(うろ)は最近流行の焦げ茶色のプラスターで補修されている。まさに一つのオブジェであった。他の一幹にはまだ梢があり、かろうじて生き物であることを示していた。幹周りは、二幹に分かれる直下で5.1mもあり、往年の素晴しさが偲ばれる。根周りの植生を残し、空もそのままにしておいてはいかがなものか。プラスターで補修するとかえってまだ生きている梢が枯れることがある。もうこのエノキはない。いつの間にか伐採され、二代目が同じ回りをコンクリートで固め られたままで植栽されたのはいかにも残酷である。
 円山公園の北門を入って、公園内をまっすぐに通り抜けると、芭蕉堂に突き当たる。左上手は西行庵で、いずれにも由緒を記した立て札が立っている。観光客は一瞥して西に下っていく。その背後からエノキが静かに木陰を落とす。エノキのある場所は野外音楽堂の南西隅に当たり、野外音楽堂と丁字路の間の何かいわくありそうな地である。文人画家の池大雅とその妻玉欄の住まいが近くにあった。ここは、彼等の死後門弟達が建てた大雅堂の旧址である。大雅の祖父金左衛門は深泥ヶ池の百姓であったが、もう一人同村の山ノ手に金左衛門が居たので、池の端に居た祖父は池ノ金左衛門と称された。大雅の姓池野はこれに由来する。「泥池やたいがとびこむ水のおと」(???)。
 野外音楽堂の金網沿いの薄暗い地道を巡ってみると、金網の向こうにも立派なエノキが2本ある。催物がないときは施錠されていて堂内にはまともには入れない。金網を乗り越え幹周測定におよんだところ、4.0mと3.1m。堂外の先述したエノキは3.7m。主幹は大蛇が巻きついているが如く、うねうねとして支幹を出している。素晴しい生きたオブジェである。相当な老木と見受けた。なお円山公園内にも2〜3mのエノキは幾本かある。また根周り4.6mの切株が子供達に格好の遊び場を提供している。
 エノキが植わった一里塚がまだ京都市内に残っているとは思わなかったが、一ヶ所市の文化財史跡に指定されて保存されている。旧東海道から分岐した奈良街道は山科盆地の東山麓を南下して名神高速道路をくぐる。その直前の西側の空地にあるのが大宅(おおやけ)の一里塚である。近年まで道路の両側にあったが、道路拡幅工事で東側の塚は撤去された。残った塚は高さ1.8m、直径4〜5mで、塚上に幹周2.5mのエノキが繁茂している。北隣は花屋さんで、不用となった鉢の土が根の周りにぶち撒かれ、草花が共生している。周囲の空き地は大蔵省の土地らしく、今のところ駐車場に変貌せず、地中長く張っているであろう根が雨水の恩恵を受けられるのは幸いである。ただ交通量の多い道路脇で、排気ガスを四六時中呼吸せざるを得ないのは、気の毒である。植物は逃げ出せない。
 南側に植物園の垣根が続く北山通のこの辺りは、北側には現代ファッションのブチックやケーキ屋・パン屋に、お惣菜屋、レストラン・喫茶店、果ては茶道や武道の会館にラブホテル(ファッションホテル)、フリーマーケットのスペースなどが軒を並べており、京都で一番ナウい街路とか。こんなところにもエノキの梢を目にすることができる。植物園側ではなく、北山橋から一筋東へ行った北側のファミリー・レストラン裏のガレージに残っている。幹周2.6mとまだ太くはないが、人工物ばかりの中にあって、若々しい樹冠は目を休ませてくれる。根の周囲には少しばかり土盛が残されており、どのくらいまで太れるか見守っていこう。
 秀吉は、応仁の乱で焼け野原になった空き地に目をつけ、洛中の大寺院を次々に移転さして京都の都市改造を行った。現在も京都の寺院街の一つとして知られている堀川寺之内界隈の景観も、この時に始まった。焼け野原のあとにはエノキなどニレ科の落葉高木がいち早く成長したと想像される。それを偲ばせる一隅が、紫明通が鞍馬口通と小川通を従えて堀川通に合流する辺りである。南北に走る小川通の東側に妙覚寺が、西側には同寺の墓地、後花園天皇火葬塚、大応寺、水火天満宮、公園さらに京都市の北清掃事務所があって、何かと樹木が多い。さらに南へ上御霊前通を越え寺之内通まで緑の多い界隈である。今日庵庭園、不審庵庭園、本法寺、宝鏡寺、慈受院、妙顕寺、さらに堀川通の西には妙蓮寺・興聖寺などがある。その中にあって一際目立つのが、妙覚寺墓地の片隅にあるエノキである。幹周3.0m程度の木ではあるが大きな樹冠を広げている。墓地だけに根周りの環境には恵まれているが、交通量の多い堀川通の排気ガスの影響が心配である。一昔前なら町中でも墓地がビルに変貌する心配はあまりなかったが、今ではそうとも言えない。秀吉以来の第二の都市改造が待ち受けている。
 平安京造営時に開かれた一条通は、開通当時の都城の北限を守護する大路の性格をとっくの昔に失ってしまった。七本松通から天神川にかけては、庶民的な商店街が続いていて、特に下の森通から御前通にかけては、露店も出て日々の買物客であふれている。ここから西陣讐察署の前を通って北野天満宮へ斜めに抜ける広い道がついているが、この道の角に一条通にへばり着くようにして小さな市場がある。その市場の魚屋の裏のブロック塀に、これまたへばり着いているエノキがある。幹周2.0mのエノキがかろうじて立っていられる以外にすき間のない空間ではあるが、樹冠は大きく市場の建物を覆っている。プロック塀の外は数棟のアパートの敷地内で、敷地内の樹木はすべて頭をちょん切られまことに惨めな格好で水溜まりに立っていることを強いられている。塀際には北野会館記念碑、大鳥居建立の碑がならんで建っており、南西部の一角には木造の講堂風の建物が金網に囲まれて残っているところからして由緒ある土地であったと思われる。自分の住んでいる周囲の公共地に対する無関心さには腹が立つ。自分の家や車のなか以外ならどんなに汚れていても気にならない、そのような精神構造はいったい何時、どのようにして形成されるのか。頭のちょん切られた幹が、日々目に入る場所に放置されているのに、だれも気にかけない。切られて、放置されるのは木だけではない。今に、人間の胴体が公道にころがっていてもだれも気にかけなくなろう。
 川の土手や河川敷に枝を思う存分に伸ばしているエノキを眺めるのは気持ちがよい。この様なエノキは少ないが、桂川の松尾橋東詰の南側の堤防上に一本ある。幹周りはそれ程でもないが、単木でまわりに障害物がなく、剪定もされていないので背は高く、遠くからもその雄姿を眺められる。桂川沿岸では、嵐山の渡月橋たもとのエノキの他にも、ここから左岸を少しの遡ったところにもう一本残っている。これは、「京都市の巨樹名木補遺4」(京都市景勝地植樹対策委員会、p.12、1980)に「嵐山・渡月橋畔の榎」として紹介されている。それによると胸高幹周3.46m、樹高15m、扁円形の樹冠が大堰川まで張り出し、板根が隆起している。人通り多い府道に面しているが、小督庵の庭園を背後にひかえ、そのアラカシの生垣の中にあって、根周りの環境は恵まれた方である。
 賀茂川と鴨川の河川敷や土手上にもエノキは多い。北大路橋西詰の橋の両側に見える二本の高木はエノキである。老木であるが、幹周り3.5m前後に過ぎない。ここから南へ、出雲路橋までの土手にはエノキが多いが、幹周3.5mを超えるものはほとんどない。上賀茂橋から御薗橋にかけて、堤防上の道路にあるエノキも最大径のものでも幹周り3.6mである。エノキはムクより一回り小さいようだ。出町柳から荒神橋にかけての鴨川の右岸沿にも、屋敷内に取り込まれたエノキを何本か目にすることができる。その中でちょっと気になるのは、「サントマス学院」と看板がかかっているカトリック男子修道院の庭内にあるエノキである。荒れ放題の庭内の鴨川沿いの北隅に、石の鳥居があり、その奥に祠が朽ちるにまかされている。その傍に寄り添っているのがエノキである。聞くところによると、1930年ころまでは個人の屋敷であったというから、鎮守社のエノキとして崇敬されて今まで残ったものと思われる。往年はこの辺り一帯には大きな屋敷が並んでいた。いまでは、美術館、宿泊施設、修道院や大きなガレージに変貌している。エノキなど樹木にとっては多難な時代である。建物が建て変わるたびに樹木の占有できる面積が狭くなる。現状の施設も、単位面積当たりの収益が少ないと云って、いつ建て変えられるや知れない。最悪は、完全に伐採されガージになってしまうことである。
 琵琶湖疎水は蹴上の船溜りで幹線と別れた支線が、南禅寺の後ろから北上して高野川の底をくぐり、下鴨中通(旧鞍馬街道)以西では暗渠となり賀茂川に注いでいる。その間、沿道は水辺の散策道として整備され、多くの樹木を目にできる。「哲学の道」や松ヶ崎浄水場から下鴨本通にかけての桜並木は見事である。橋本関雪の夫人米子が1921年に疎水べりに植えた300本の桜を「関雪桜」という。もう80年近く経っておりそろそろ寿命であろう。植え継いでいく篤志家が現われることを願っていたところ、2000年を記念してか人知れず何本かの苗木が植栽されているのが発見された。近年まれに見る快挙である。単に植えるだけならお金の問題であるが、育てていく努力も大切である。その他の樹木はツツジやモミジなど中低木がほとんどを占めている。その中にあってエノキ、カジノキ、センダンといった高木が下鴨本通から下鴨中通へ抜ける疎水沿にあるのはどういうわけだろう。いずれも立派な大木で見事な樹幹の広がりをみせている。年に何回か土堤の草狩りが行われているようだが、その時、サクラ、モミジ、ツツジ以外は邪魔者あつかいで、せっかく太くなっても根元から伐採される木が多い。エノキは造園屋の美的感覚では見苦しい雑木に過ぎず、エノキの名も知らぬ植木屋もいる(小山内龍「昆虫放談」、p.169,築地書館,1991年新装版)。銀閣寺道をちょっと東へ入った疎水端にも立派なエノキがそびえているが、サクラに紛れて見過ごされている。

京都御苑のエノキ

 糺の森は「ムクの王国」であったが、御所にはムクの大木は少なく、エノキの大木が目につく。糺の森と違って、明治維新までここが皇族・公家の邸宅や寺院の里坊などであったことに関係しているかもしれない。思いつくままに以下に列挙すると、ムクの巻で既に紹介した、梅林のなかのエノキ(幹周4.4m)、清和院御門北側の自然林内のエノキ(幹周4.6m)と梨木神社のエノキ(幹周3.6m)。梨木神社の創建は以外と新しく1885(明治18)年である。京都御所三名水の一つ染井が湧き出ており、水汲む人の列が絶えない。「京都市の巨樹名木 2」に記載されている「踊りえのき」(幹周3.35m)。これは御苑の東南隅の落枝処理場の前、テニスコートの横にある。その枝振りが、諸手を上げて阿波踊をしている姿を連想させることから「踊えのき」と云われるのだろう。幹面には深い隆起があり、数条の溝ができている。相当な老樹の相であり、今では幹周4.1mの巨木である。
 同じく「御苑西南境の大榎」(幹周4.54m)。括弧内の幹周は同書に記載されたもので1974年の調査による。1989年に高木俊夫氏が測定した結果は「踊えのき」が3.96m、「御苑西南境の大榎」が5.05mといずれも15年で50cm以上太っていた(京都御苑自然現況調査報告書第1集,p.7,京都御苑保存会,1990年)。今はこの「大榎」は朽ち果てて根株を残すのみであるが、御苑内のエノキとしては最大径の部類に入っていた。参考までに根周りを測定したところ4.9mであった。ここより北の、出水御門までの石垣の上には何本も大きなエノキなど高木が集まっていて、烏丸通に緑の壁を作っている。最大径のものは出水広場の南の入り口の土堤にある一本で、数本の株立のように見えるが、完全に密着して板根と化している。胸高で幹周りは5.5mを超える立派なエノキである。新聞種になったエノキが寺町御門を入ったすぐ左手にある。この幹周3.5mのエノキは、1994年の秋の台風26号で主幹がばっさりと縦に裂け、そのみじめな写真が京都新聞に紹介されていた(1994年9月30日付け京都新聞朝刊)幸い今は自然に傷も癒えて御苑の緑に溶け込んでいる。

学校のエノキ

 ムクの巻ですでに紹介した北野中学校の双樹の片方のエノキ(幹周3.2m)の他にも、京都新聞に連載されていた「学校の名木」に選ばれたエノキがある。桂小学校(幹周3.5m)、養生小学校(幹周2.3m)と音羽小学校(幹周3.0m)の3本である。それぞれ、京都新聞「学校の名木」No.38(1995年6月2日)、No.50(1995年7月14日)、およびNo.84(1995年12月22日)に掲載された。生徒の作文も盛り込んで、京都新聞社から近々出版されると、堀川高校の塩谷則子先生から御教示いただいていたが、「京都市立学校・幼稚園名木百選」として立派な布張りの装丁本として出版された。
 この中でも桂小学校のエノキは、錦林小学校の幹周3.7mのケヤキに次ぐ大木である。樹齢150年と推定されており、校内地に取り込まれたのは、室戸台風後の校舎改築の際である。養生小学校のエノキは逆に室戸台風で倒壊した校舎の跡地に移植されたものである。元は校内のどこかに記念樹として植栽されたものだと云うが、その場所を明らかにしない。一方、音羽小学校のエノキは学校創立(1939年)以前からのものであり、おそらぐ植樹されたものではなく自然の植性の残りであろう。1992年の体育館建設に際しても設計を変更して、付近の植性とともにエノキも残された。今どき珍しい配慮である。選には漏れたが西陣の真中にある成逸小学校のエノキは立派である(幹周2.4m)。今は御多分に漏れず廃校となっている。「学校の名木」の選に漏れたのは致し方ないが、堀川通からその姿がいつまでも拝めるよう、何かの形で保存してほしい。松ヶ崎小学校のエノキは惨めである。瓦屋根のある白い土塀から覗いているのはちょん切られた太い幹に梢も出せずに、葉をいっぱい繁らせているあわれなエノキである。学校の塀を取り除いて、植栽して町の緑を増やそうとされている昨今、校長先生をはじめ、学校近辺の方々の一考をお願いしたい。[甲斐もなく、いつの間にかこのエノキは消えてしまった]
 大学構内にも大きなエノキが結構ある。例えば、同志社大学のクラーク館横の茶室前のエノキ、幹周3.5m。京都大学構内では、工学部の土木総合館前、理学部植物園内、旧教養部東門近くの塀際、[京大吉田寮の裏庭]などに幹周3m以上の巨木があることを、後々のために記録に留めておこう。

落ち葉拾い

 本文中に書き込められなかったエノキをいくつか拾っておく。
大原戸寺の街道沿いのエノキ、幹周3.5m
櫟谷七野社のエノキ、幹周3.5m
上賀茂小池湖畔のエノキ、幹周2.0m
宇治隠元橋自衛隊正門前のエノキ2本、道路拡張のためあっさり伐採。
吉祥院天満宮のエノキ、幹周2.5m
関西電力荒神橋のテニスコート入り口のエノキ、幹周2.9m
「榎街道」(旧千本通りの淀-羽束師橋)の数本のエノキ(京都新閉1998年11月3日付け記事参照)
井出の木津川堤防沿いの「国道のエノキ」、幹周5.2m(「京都の自然200選,(植物部門)」,1991)
下京区諏訪開町の諏訪神社のエノキ
松ヶ埼岩上神社のエノキ、幹周3.9m
黒谷参道、ガレージ際のエノキ、幹周3.5m
西院野の宮神社のエノキ、幹周3.5m
富小路殿公園のエノキ、幹周2.9m
西本願寺のエノキ、幹周3.5m
島原歌舞練場跡のエノキ、幹周3.㎞
興正寺(堀川七条上ル)のエノキ、幹周2.7m
不動明王(花屋町通天神西入ル)のエノキ、幹周2.4m
桂離宮入り口のエノキ、幹周3.8m
西寺跡のエノキ、幹周2.8m
吉祥院三ノ宮神社のエノキ、幹周2.6m
東山自然緑地(御陵琵琶湖疎水端)のエノキ、幹周3.lm
伏見濠川肥後橋付近のエノキ、幹周3.7m
鳥羽離宮跡公園のエノキ、幹周2.8m
城南宮参道のエノキ、幹周2.3m
醍醐火防稲荷大明神のエノキ、幹周4.2m
久我菱妻神社のエノキ、幹周2.7m
羽束師鴨川町神川神社のエノキ、幹周2.7m
京都パークホテルのエノキ、幹周3.5m
[千本釈迦堂のエノキ]

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