3 ケヤキ

 ケヤキの漢字は木偏に擧で「欅」。擧は「みな、ことごとく手を高く挙げる」の意であるから、ケヤキが空に向けてたくさんの枝を出している、そんな樹形を貴んだ作字である。また樹姿の「けやけき」ゆえにケヤキと呼んだとよく云われる。室町以前は「ツキ」と呼称し、木偏に「規」をあてがい「槻」と書いた。「規」は定規の規で、本来ぶんまわし(コンパス)の意できちっとしている様子を形容するのによく使われるから、これまたケヤキの端正な樹形を表現したものではなかろうか。槻の方は地名の中に多く残っている。高槻、大槻、小槻、岩槻、吉槻、槻本、八槻、槻下、槻川、槻瀬、槻野、槻田、槻沢、槻屋、槻木等々。亀岡市西別院町には大槻並という地名もある。高槻へ抜ける間道の谷合集落で、昔は道路脇にケヤキが並木をなしていたと云う(竹岡林「丹波路」,学生社,1976)。「槻」を「月」にかえて残っているところも多い。高月、大月などは月並である。「都岐」、「附」や「調」で当てることもある。例えば、埼玉県入間郡都幾川村大附がある。牧野和春「鎮守の森再考」(春秋社,1994)にはこの集落の村指定の大ケヤキが紹介されている。
 ケヤキの美しい樹形を一番よく味わえるのは冬である。真直ぐの主幹から大枝、中枝、小枝、細枝、梢と規則正しく分岐していく様子がはっきり見えるのは、葉を落としたときである。ムクやエノキとの識別に利用できる。しかし、老木になるとそうはいかない。ながい年月の間に枝が折れて不規則に分岐したり、落雷で幹が裂かれたり、幹の空洞で失火を被ったりして根元近くで二幹になってしまったケヤキも多い。園部の旧山陰街道の観音堂の傍にあるケヤキは、巨大な臥牛を連想させる。「京都の自然200選(植物部門)」(京都府保健環境部環境対策室企画,1991)で番外19点の一つに選ばれた名木である。このケヤキは1917年の大風で倒れたがそれでも生き続けて、今でも石のようなごつごつした肌から小枝をだして毎年芽吹いている。その生命力に圧倒される。山梨県中巨摩郡若草町の三恵の大ケヤは国の天然記念物で、幹周14.72m環境庁全国巨木リストで第25位(ケヤキとしては第2位)にランクされる老大木であるが、朽ちてできた主幹の空洞に人が入って失火を起こし、幹内が焼ただれてしまった。それでも四本の太い枝が支幹となって何とか樹形を保っていたが、1959年の7号台風の直撃を受け、今はわずか二本の支幹を残すのみとなった。樹種不明の木が根元まで真二つに裂かれた体だ。こんな木の樹種を知るには根元を見ればよい。ケヤキは、ムクやエノキのように普通の状態では板根を張らない。象のような足でしっかりと大地を踏みしめて立っている、という感がある。エノキのように根際から幹に立ち上がる所に、横に皺がよることはあまりない。樹皮は剥げ落ちるがムクのように短冊状の剥片でなく、鱗片状が多い。剥がれた所は朱色がかった明るい茶色である。幹に苔がついている時はどうしようもない。単木であれば落葉から同定できる。ただし近辺の人が、木の葉一枚でも落ちているのに我慢がならない、といったたぐいの人でなければの話であるが。落葉が手に入らないときは春を待つことである。しかし、せっかく芽吹いても梢が高くてよく見えないことがしばしばである。夏は木陰で読書し、秋の錦を愛でて、晩秋の落葉季節を、あわてずに待つことである。
 薄緑色のケヤキの芽吹きは美しい。ケヤキの別名は陽気木と言われ(根本順吉「江戸の晴雨考」,中央公論社,1993)、昔の人はその芽吹きの様子で、その年の陽気を云々した。特に農業を生業としていた人は、ケヤキの発芽の良し悪しでその年の豊作凶作を占ったと云う。山梨県の根古屋神社にある二本の大ケヤキは社殿に向かって左側を田木、右側を畑木といい、春になりどちらが先に芽を吹くかで、稲作か畑作のどちらが良いかを卜した。しかし当たるとは限らない。1928年は田木の方が十日以上も早く発芽したのに、実際は田の方が畑に比して不作だったと云う(「山梨縣名木誌」,山梨県,1931)。
 奈良時代以前の何百年間は今よりもっと寒冷な気候ではなかったか(山本武夫「気候の語る日本の歴史」,そしえて,1976)。そして大きなケヤキが奈良盆地のあちこちに見られたのではなかろうか。古事記の雄略天皇の条、「又天皇、坐長谷之百枝槻下、…」と記されて、新嘗屋での饗宴に登場する百枝槻。「百枝」は枝の繁ったことを表わしているのだろう。用明天皇の磐余(いわれ)の宮は池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)と呼ばれ、「双槻」は槻の並び立つ所を表わしている。それは日本書紀の用明天皇の条、「宮於磐余。名日池邊隻槻宮」の条から知れる。その他にも、「両槻宮」や「二槻宮」が見られる。多武峰(とうのみね)の嶺の上の槻の木立の辺りに、石垣をしつらえて造営された両槻宮に対して、「…宮材燗れ、山椒(頂)埋れたり」とか「石の山丘を作る。作る随に自ずからに破れなむ」と誹られている。為政者の無駄な土木工事による環境破壊は今に始まったことでもなさそうだ。
 蘇我馬子の建てた法興寺には日本書記にしばしば登場するツキ(ケヤキ)の大樹があった。この木のもとで行われた蹴鞠を楽しみながら中大兄(後の天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)は大化のクーデターを謀議した。そして有名な大槻樹下の誓約がおこなわれた。また壬申の乱でもこのツキが登場する。近江方の使者穂積臣百足(ほづみのおみももたり)はこのもとに軍営を設け、後にここで殺されている。天武天皇が即位して政権が落ち着くと、このツキの下でしばしば饗宴が行われた。667年に多禰嶋(種子島)人が、688年には蝦夷の男女213人が、この大ツキの下で饗を受けた。695年には隼人大隅の人達がやってきて隼人相撲を披露している。その間、681年秋に自然に枝が折れ落下したことを日本書記が伝えている。よほど有名な老大木であったに違いない(田中文丈「植物風土記」,京都園芸倶楽部,1972年)。
 万葉集にも飛鳥のツキノキは数多く登場する。ツキノキは飛鳥だけでなく地方でも、古代には特別な役割を演じていたようである郡家の庭や館の前の広場には大きなツキノキが聾えていて、その樹下は地域社会に於ける公的な空間であり、「槻の木は家と生命持続と繁栄を象徴する巨木として最もふさわしいものであった」と云われている(保立道久「巨樹説話と道祖神」,史潮33,34合併号,1993)。しかし天皇を中心とする律令社会が確立するとツキノキはたんなる「由緒ある木」になり、畿内の政治の中心から徐々に姿を消したようだ。日本列島も温暖化し、ツキノキはケヤキと名前を変えて関東から北に繁栄の中心を移した。
 武蔵野といえばケヤキの屋敷林を思い浮かべる人が多い。しかし敗戦から間もない1950年前後には「ケヤキ革命」なるものが流行って、古い屋敷を囲むケヤキ林は封建的な農村の象徴とされ、そのように見られたケヤキは一本また一本と切り払われる危機に面していた(足田輝一「樹の文化誌」,朝日新聞社,1985)。しかし、1960年以降はそんな生易しいものではなかった。高度成長というブルドーザーが、ケヤキだけでなくありとあらゆる樹木を根こそぎにした。今はブルドーザーが入り込めなかった隅っこに、かろうじて単木で残っているだけである。井上靖は、このようなケヤキを守ろうとした人達をテーマにした新聞小説を日本経済新聞に書いた(単行本「欅の木」,集英社,1971)。クライマックスの「けやきを守る会」主催、某新聞社後援のけやき講演会での「銭湯の主人」、「八百屋のお内儀」と「けやき老人」の演説は拝聴に値する。楽しい小説でもあり、一読をお薦めする。例えば、この三人が講師となる件は辛辣である。後援の新聞社の人物が「銭湯と八百屋ですか、大丈夫かな。僕の方は、会長(副主人公の老実業家、主人公はもちろんケヤキ)とご老人のほかは、大学の先生を二人予定しているのですが」と言ったのに対して、ケヤキ老人は「大学の先生? ほう、それはいらんでしょう。だめでございます、大学は」「大学の先生はやめましょう。大学はいりません。(中略)大学はいりません」と猛然と反対する。そして井上はこのメンバーで講演会を大成功させる。確かに関東や東北には守るべきケヤキの巨樹も多い。
 近畿地方にはケヤキは少なく、あったとしても相対的に寒冷な地である滋賀県や兵庫県の北部である。特に滋賀県の北部、余呉町、高月町、多賀町はケヤキの宝庫といえよう。そんななかにあって、近畿一の大木は大阪府下にある。大阪府豊能郡能勢町野間稲地の「野間の大ケヤキ」で、幹周12m、全国的にみても立派な大木である。環境庁編「日本の巨樹・巨木林(全国版)」(1991)によると幹周としては第5位である。この程度の幹周の木になると、その断面積は京間の6畳の部屋に相当し、一見に値する。日曜日と毎月1日に京都駅10時発の「能勢妙見」ゆき京都交通パスがあるこれに乗って「本滝口」で下車すれば徒歩10分である。「本滝口」11時45分着、帰りは15時05分であるから、大樹の下で弁当を使ってゆっくりと鑑賞できる。[京都交通が京阪に合併された現在は、こんな便利な公共交通手段はない。京都から行くとすれば、JR京都駅から山陰線で亀岡駅までいき、京都交通バス穴太寺線(亀岡駅前〜学園大学)に乗車、京都交通「学園大学」バス停下車、ふるさとバス西別院コース(学園大学〜太歳経由〜神地)乗り換え、ふるさとバス「神地」バス停下車、妙見山送迎バス乗車、山上へ行く途中で降ろしてもらわねばならない。これは不可能であろう]
 京都府下では兵庫県との県境の園部町天引の八幡宮のケヤキが幹周8mで最大である[とされてきたが、ケヤキではなくムクである事が判明した。詳しくはhttp://www.kyoboku.com/find/hokoku.pdf]京都市内となると6mを越えるものは見い出せないだろう。国の天然記念物に指定されているケヤキは多い。環境庁の1991年の集計では福島県の天子神社のケヤキが最大幹周15.4mを有していた。[2002年の再調査で山形県東根市のケヤキが幹周日本一に認定された。15.77m  http://www.kyoboku.com/keyaki/touhoku/higashine.html]。国指定の最大幹周のケヤキは上述の三恵のケヤキである[が老化が激しい]。
御土居
 御土居が賀茂川に沿って北に遡り、御薗橋近くで急角度に西に折れ曲がり、紙屋川に沿って南に下がっているのは、洪水対策としての意味が濃厚であるとされている。そのため、高さ3m、基底部の幅9mの土堤には縦横に根を張って土を固める役割を担った竹木が植え込まれた。今は何ヶ所かに残っている御土居跡には竹はなく、落葉高木が繁茂している。西田直二郎は土居の曲折点には大樹を植裁したのではないかと推定している。その例証として、元禄15(1702)年の「御土居繪圖」(京都大学文学部蔵)に、今の西大路仏光寺あたりで西へ向かっていた土居は京都の西側を囲むように北走するが、この曲折点に「角の榎木」と記した一株の樹木が描かれていることを掲げている(「京都史蹟の研究」,吉川文館,1961)。また同氏は、土居が二条通を横切った地点から北方46間の所に大樹が描かれていることも記している。この辺りの一角には現在史跡として保存されている9ヵ所の「御土居跡」の一つがある。市五郎大明神が祭られた祠の背後の小丘がそれである。大木としてはエノキが一本ある。なお史跡「御土居跡」は次の9ヶ所である

。   ①北区紫竹上長目町、上堀川町
  ②同区大宮土居町
  ③同区鷹峰旧土居町
  ④同区鷹峰旧土居町3
  ⑤同区紫野西土居町
  ⑥同区平野烏居前町
  ⑦上京区北野馬喰町
  ⑧同区広小路
  ⑨中京区西の京中合町

 御薗橋西詰めを少し賀茂川沿いに下がった所が御土居の北東の曲折点にあたっているが、ここに立派なケヤキが一本ある。幹周3.5m、枝張りは良好である。樹高も十分であり遠望できる。しかし残念なことに北側の民家側の枝が切り詰められており、ケヤキの左右対称な樹形がひどく歪められている。史跡として指定されている御士居跡の敷地内にだけしか生きる場所がないとは、何とも悲しいことである。
 紙屋川は北大路通をトンネルのように潜り抜けている。かつては紙屋川の勢いは大変強く、鉄砲水となって京の町を何度も襲ったことを物語る。西田は、この辺りの紙屋川沿いの御土居の1920年頃の状況について次のような記述を残している。
「其れより北において紙屋川は御土居の外側を流れ、渓水深く地を刻し、土居は川の東岸懸崖の上に築かるを以て地形の雄偉益々加はり、南鷹ヶ峰町の人家ある背後の地點に於ては土居は高く聳立し、河邊より之れを仰ぐに、外壁は高さ實に二十間にも餘り、其の急傾斜を容易に登攀すべきにあらず。形状の豪壮なるは此の邊りを以て最とすべし」(西田直二郎「京都史蹟の研究」,吉川弘文館,1961)。今では[紙屋川は]コンクリートで三面を固められ、すっかり手足を縛られた格好であるが、まだ往年の植生を残した場所が何ヶ所かある。北大路を潜り抜けた所の低地にある紙屋児童公園もその一つであり、この公園内に立派なケヤキが2本残っている。北大路通を金閣寺に向うバスの車中からもよく見える。周辺は市内に珍しい急峻な地形である。このケヤキをまのあたりにするには遠回りして階段を降りていかねばならない。間近に見ると、太い幹が真直ぐに空に向かって立ち上がっている姿は結構迫力があり、その木陰のさわやかさは何ともいえない。公園の底にあるのが幹周3.9m、コンクリートの斜面には幹周3.Omと2.6mの2本があり、地上2mあたりまで合体しており、分岐直前の高さ4.2mになる。
 さらに南に下がれば、紙屋川は北野天満宮の西の境内を縦断する。天正19(1591)年5月18日、秀吉が御土居の検分をおこなっている。「殿下堤御一見ノ為、社頭へ御入候間、其脇の家に入て居候」と北野社へ、そうとは知らずに詣でた西洞院時慶(ときよし)が書き残している。この時秀吉によって植樹されたと云えるケヤキが今も元気に生きている。地上4mぐらいで2つの支幹を斜めに出し、主幹とともに大きな枝を展開して、典型的なケヤキの樹冠を見せている。幹周4.5m。根周りの表土が流出したため根茎が根上り状に露出しており、その一部はケヤキとしては珍しく板根を形成してる。今では株まわりには土留の石囲いがめぐらされている。この辺りの紙屋川の河岸台地には、他にもケヤキの大樹が7本もあると報告されている(京都市景勝地植樹対策委員会「京都市の巨樹名木 補遺1」,京都市,1979)。さらにケヤキ以外にも、ムク、エノキ、カエデ、シイ、アラカシなども繁茂しており、往年の紙屋川の河岸の植生の面影を最もよく残している一帯である。
 大徳寺通京都の四周外郭として築かれた御土居には、洛外に通じるいくつもの開口部があった。今でもこれに関係した地名があちこちに残っている。例えば、北区大宮開町。大徳寺の東北隅をかすめてまっすぐ北上する旧大宮通(大徳寺通)と分かれて、西北へ上る道は、現在では北山通にぶつかって消えてしまう。しかし一昔前には、玄琢下まで斜めに北上し御土居に穴をあけていた。ここが大宮村の開であった。御土居を抜けた道が、一方は西賀茂へ、一方は鷹ヶ峰に入り周山街道に合流するのは今も変わらない。
 閑話休題、一昔前大徳寺通に沿った大徳寺の土塀風景は、沢田重隆氏の精密画にあるように、土塀とケヤキ2本が共存していた。「…土塀の美しさ、そして樹々への思いやり」という絵につけられた説明は過去のことで、今では2本のケヤキは跡形もなく土塀だけが続いている。この景観は「続京都の大路小路」中に山谷和弥氏のペン画でも取り上げられており、1993年1月12日付けの京都新聞も「先住者の領分は侵しません」という大見出しでこのケヤキを紹介している。その記事によると30年程前に、小川を埋めて道路を拡幅したとき、大徳寺が幹の部分だけ穴をあけて土塀を設置した結果だと言う。記事は「威厳ある寺の建造物ながら、先住者の権利は侵さない。自然保護の心もこうありたいものだ」と結ばれている。どんなわけで先住者は抹殺されたのか。
 幸いこの辺りより少し南に寄った境内にもう一本ケヤキの大木が残っている。地上5mあたりで3幹に分岐し、そのうちの一つが東側にやや斜めに伸長しているが、残りの二幹はほとんど直上しており、ケヤキらしい枝振りと樹冠を見せている。珍しく根元は四方に隆起して板根を形成し根回り5m強である。このケヤキのさらに南方にも幹周5m弱の同齢と思われるケヤキがある。この北側にはムクの章で紹介した大きなムクが2本もあり、大徳寺の土塀がなかった時にはこれらの高木が並木をなし、どんなに素晴しい景観だったことか。残ったわずか数本の喬木も、一本また一本と伐れていくのを見るのは辛い[既に、すべて伐採されている]。
 大徳寺通は大宮通の西一筋目にあたり、南は北大路を少し越えた建勲通までであるが、北方へは大宮通より長く伸びており、古い街道らしく蛇行しながら御土居をくぐってさらに北へ通じていた。街道筋には上賀茂神社の境外摂社の総神社天満宮、久我神社や貴船神社が鳥居を並べている。先に述べた御土居を越えたあたりには大昔の大宮の森を思い起こさせる「林町」という町名と「人気大明神」と云われた朽ちかけた祠と朽ちかけた幹に立派な緑の樹冠をのせたムクに出くわす。「上緑町」には水分神を祀る小森社が、背後に根上りのエノキを従え児童公園の真ん中に鎮座している。何かと緑の多い界隈である。その中にあって、久我神社にはケヤキが多い。最大の見ものは境内の南側に鎮座している周囲5.6mのケヤキの切株である。樹齢600年と云われていたが、1990年以前に枯死したものと思われる。1975年の京都市景勝地植樹対策委員会の調査でも健康状態は芳ばしくなかった。老幹の半分には樹皮はなく、木質部は露出しており、室戸台風で失った上頂部は鉄板で覆われていた。当時の幹周は5.48mとたいへん大きかったが、樹高は8mに過ぎなかった。今では注連縄で飾られた切株だけが白砂の上に祀られている。往年の姿を知らぬ者にとっても、高々と樹冠を掲げた雄姿を想像させる存在である。境内の周辺は、ケヤキをはじめとした中程度の高木が育っていて静かなたたずまいを呈している。  維新の激動期の京都の地図を見ると、堀川は大徳寺の境内をぐるりと囲んだ環濠から流れ出ている。今は埋め立てられ消えてしまった小川と一条で合流して京都の市街を貫き、市中の寺や武家屋敷の引き水を提供していた。そのような水の多い環境には、ケヤキの一本や二本はあったと想像される。確かに一本残っている。堀川上御霊前通を西に入った北側の路地奥にある幹周3.8mのけやきらしいケヤキがそれである。東側を物置小屋と隣家の壁にさえぎられ、根の周りをコンクリートで固められ生育環境は決して良くないが、邪魔者扱いされた様子もなく伸び伸びと枝を張っている樹形はさわやかである。町中に奇しくも残っただけに、末永く路地奥の人達に木陰を提供し続けてほしい。もちろんケヤキ本人はそう願っているだろうが、木陰を享受する方が落葉をきらって枝を伐採しないとも限らない。ひやひやしながら時々見に行くことになるだろう[幸い、今では隣の興正寺の境内に取り込められ周囲は整備されてた]。

相国寺(しょうこくじ)境内
 相国承天禅寺は足利三代将軍義満が創建した五山第二に位した名刹である。創建当時の寺域は広大であった。北は上御霊神社に接し、南は今出川通まで、西は、義満の邸宅室町殿に接して烏丸通を越え室町通まで、東は鴨川べりまでが境内であったと云う。しかし、失火で炎上し、再建された堂宇も室町幕府に隣接していただけに、応仁の戦火にことごとく焼失した。秀吉、家康の寄進等で一時復興したものの、京都を焼尽くした天明の大火で法堂を残して烏有に帰した。禅寺特有の一直線状の伽藍配置で、三門と仏殿を未だに欠いている。こんなこともあって境内は何かと空き地が目立つが、三門址と仏殿址には赤松が植栽されていたりして、他の禅寺の境内に比べて緑が多い。仏殿址の西側にある宝塔の背後に高木が5,6本並んでいる。このなかの4本がケヤキである。最大幹周は4.Om。さらに本坊の東北隅にある相国寺創建600年記念事業として建設された承天閣美術館の裏に一本ある。美術館のロビーからガラス越し見えるのは立派な根元とまっすぐに立ち上がった主幹だけである。さぞかし立派な枝振りと期待して裏に回ってはならない。例によって極度に勇定された枝を目にすることになる。これしきに臆していては、総門からの道が、東門へ通ずる道と交差する地点から、東南に展開する風景を凝視できない。さらに宝塔横の後水尾天皇髪歯塚の入り口に立つ「竹木等を切らぬこと宮内庁」の立札の背後をみると、不格好きわまりないクスのおばけが並んでいる。総じて寺院は樹木の自然な姿を好まない。

鴨川畔
 都市の中で河川敷は樹木が枝を精一杯に張れる唯一の場所である。鴨川の河川敷が都市公園として残されているのは幸いである。御薗橋から北大路橋の右岸の鴨川公園や堤上の道路脇にはケヤキが多い。これと対照的に、北大路橋から南、出雲路橋にかけてはエノキが群を成している。比較的大きなケヤキは賀茂橋の南側に集中しており、最大幹周4mを筆頭に3.8m,3.6m,3.Om,2.5m等の立派なケヤキが並んで枝張りを競っている。さらに北山大橋畔には幹周3.7mと3.1mの二本が両側から加茂街道を覆っている。今日では、加茂街道は市内から貴船、鞍馬など洛北に抜ける主要な道になっていて、「鞍馬街道」の感を呈しているが、本来の鞍馬街道は、葵橋から下鴨中通を抜け地下鉄北山駅に達し、さらに北へ、深泥池から岩倉を通って二軒茶屋で加茂街道からの道と合流して鞍馬に達している街道の名称である。
 この他に幹周3m前後のケヤキは、御薗橋畔に2本(2.8mと2.4m)、北山大橋の南に2本(3.3mと2.7m)、紫明通を越えた辺りに1本(3.1m)の計5本を数える。結局御薗橋から葵橋まで3km余の間に合計12本程度が次世紀の大木の候補であるに過ぎない。
 忘れてはならぬケヤキが一本、出町より南の鴨川畔にある。場所は鴨川の河川敷にある府立医科大学のグランドの入口にあり、健在である。幹周4.2m、樹高15m、石で囲まれた一段高くなった塚の上に屹立している。そめ見事な樹冠は河原町通から垣間見ることができる。18世紀初頭の「京都明細大絵図」を見ると、今の府立病院から北にかけてのこの辺りには梶井御門跡が賀茂川に接して描かれている。梶井御門跡は大原三千院の里坊で1689(元禄11)年徳川将軍綱吉が造進した。その時以来大原は修行の地となった。明治維新に大原の政所が梶井門跡の本殿と定められて以来、ここは徐々に府立医科大学や修道院、立命館大学の体育館からガレージヘと変貌してしまったが、町名にその名を残している。その頃からのケヤキとすれば樹齢300年以上ということになる。京都市も他の市町村に見られるような「保護樹・保護樹林」の制度を設けてこの様な町中の貴重な樹木を守っていくべきではなかろうか[市民の誇りの木という制度ができ、多くの樹木が指定された]。

京都御苑
 加茂街道や糺の森には思ったほどケヤキは多くない。大径木も少なく、あっても寿命間近い老木ばかりである。しかし京都御苑はケヤキの大国である。若いのから老いたるものまで、太くて低いものから華奢で背の高いものまで、幹周3mを超えるものだけでも50本を下らないだろう。そして広々とした所にある木は近づいて実測すると思ったより高くて太いのが常である。
 御苑には九つの御門と六つの口がある。北から時計周りに、今出川御門、今出川口、石薬師御門、清和院御門、寺町御門、富野小路口、堺町御門、間の町口、椹木町口、下立売御門、出水口、蛤御門、中立売御門、乾御門と名無しの口が西南隅に一つある。東北の石薬師御門から入苑すると、まず門の両脇に聳えている2本のケヤキが目にはいる。北側が幹周3.4m、南側が幹周3.7mと以外と大きい。振り返って右手の散策路に目をやると真新しい便所が目に飛び込むが、その傍らに門脇の2本より一回り大きいケヤキが控えている。幹周4.4m。糺の森でならこの大きさの木は肌の荒れた老木の範疇に入ろうが、御苑ではこの程度の大きさのケヤキでも、まだ壮年期の美しい木目の細かい樹肌を持っている。単木で存在しており、周囲に気兼ねすることなく日差しを一人占めにして樹冠を精一杯広げている。散策路には入らずに京都御所の白壁を左に見ながら砂利道をまっすぐ西の乾御門の方へ歩いていくと、北の今出川御門に通ずる道角で、主幹を地上5m位でなくした瘤だらけのケヤキに出くわす。主幹の上部がない分だけ樹高は低くなっているが、支幹の枝張りは見事である。遠くから一見しただけでは低くて目立たないが、近づいて木の周りを一巡りするとほとんど空洞となった主幹の太さに驚く。幹周4.8m。今出川御門に通ずる道に接して一段高い土地上にあるが、乾燥しがちの根周りの環境は理想的とはいえない。
 砂利道から別れて御苑北西部の散策路の中へ踏み込むと、水草がいっぱいの細長い池が金網越しに見える。これは旧近衛家の池泉回遊式の庭園の跡で、園内には入れないが、幸いにも金網の外に双幹のケヤキが一本ある[ムクと取り違えている]。2株が根元で合体したようであるが・幹周4.5mを測る老木である。この一画は以外と湿気ており、どの樹木の肌にも苔が着いている。ケヤキの樹皮もポロポロと剥げ落ちる。今出川御門の西側の築地塀際の2本のケヤキ(幹周3.7mと3.2m)も同様であり、しかも根元はケヤキに珍しく板根状を呈している。何か生育環境が違っているようだ。
 御苑の烏丸今出川の北西隅あたりから南へ、蛤御門にかけての築地塀際を歩けば3mを越すケヤキに次から次に出くわす。石垣土塁の築堤を廻らしたときに植樹されたものと思われる。乾御門の南脇にあるケヤキが最大幹周3.9mを有する。同様の植栽されたとおぼしき並木は北東隅の運動場の寺町通側にも見られる。こちらも見事である。蛤御門から南はエノキが優勢となる。丸太町通に面した南側でも堺町御門の両側に2,3本あるに過ぎないが、仙洞御所之南側に幹周5mに近いケヤキが、南西隅のテニスコートの北側の苗園の背後に幹周4.0mの大木があることを記しておく。このケヤキは1974年の京都市景勝地植樹対策委員会の調査では「胸高幹周3.45m、樹高30m、…枝下9m、樹勢は良好である」とあり、20年で50cmも太った。平均して年輪幅で4mmにも達する旺盛な成長を示している。まだ元気であるが、のっぽであるだけに枝張りはケヤキらしくない。

下鴨神社・糺の森
 今でこそ糺の森は市民の憩の地となっているが、一昔前は大変寂しい所であったようだ。明治40年3月28日の夜京都駅に着いて、糺の森近辺の知人狩野亭吉の家にやってきた夏目漱石は、『京に着ける夕』と言う小品で『かんからゝんは長い橋の快を左へ切れて長い橋を一つ渡って、ほのかに見える白い河原を越えて、藁葺とも思はれる不揃な家の間を通り抜けて、梶棒を横に切ったと思ったら、四抱か五抱もある大樹の幾本となく堤燈の火にうつる鼻先で、ぴたりと留まった。寒い町を通り抜けて、よくよく寒い所へ来たのである。(中略)「是が加茂の森だ」と主人が云う。「加茂の森がわれわれの庭だ」と居士が云う。大樹を僥ぐって、逆に戻ると玄関に燈が見える。成程家があるなと気がついた。』家の庭にはケヤキがあったようだ。『暁は高い棒の梢に鳴く烏で再度夢を破られた』と記している。末尾に『依稀たる細雨は、濃かに糺の森を罩めて、糺の森はわが家を遶て、わが家の寂然たる十二畳は、われを封じて、余は幾重ともなく寒いものに取り團まれていた』と京の寒さに毒づいている。
 この市民の憩の地には以外とケヤキの古木が多い。時として寿命が尽きて根元から倒れることがある。最近では、1992年の祇園祭の頃に境内で最大の幹周を持ったケヤキ(1991年の森本幸裕の調査で直径180cm、単純に幹周に換算する1.8×3.14=5.7m)が倒れた。樹齢は600年と推定されている。空洞になった根元部分が数日来の雨を吸収して、過度の負担に耐えられなかったからだと云う(京都新聞、1992年7月17日朝刊)。1939年の池田政晴氏の調査では4.4m、1973年の京都市景勝地植樹対策委員会の調査では5.4mとあり、それ以降の成長速度は確実に低下していたようだ。最近は延命手術が境内の何本かの老ケヤキにも施されているようだが、寿命とあれば致し方なかろう。延命手術で赤茶けた樹肌を晒しているケヤキを2,3本境内で見かけるが見苦しい限りである。
 1939年の池田政晴氏の調査時と比べて、境内のケヤキの大径木は半減してはいるが、糺の森を散策すればまだ何本かは目にすることができる。南の入り口(下乗所)の東を流れる泉川の橋のたもとに、ケヤキらしい枝振りの大木がまず目にはいる。幹周3.1m。ここから泉川と瀬見の小川(季節によっては「蝉の小川」と書きたい)に挟まれた参道の木陰を上がるとすぐに左手、川畔に片側の根元をむき出したケヤキが見える。一見、川の流れでむき出しになったかのようだが、瀬見の小川に今は水はなく枯れた流路を目にするだけである。最近の発掘調査によってむき出しになったのかもしれない。幹周3.4m。ここから朱塗の鳥居まで、泉川側にケヤキの古木2本を認めるが、余命いくばくもない体である。幹周4.1mと3.6m。それらとは対照的に泉川の東側、左岸の林内には若い元気なケヤキが育っているのが参道から窺える。その中の最大幹周のケヤキは境内の東側の塀際にあり、境外の塀沿いの道からまのあたりにできる。幹周3.6m。社殿の北側の樹林内にもケヤキがありそうだが、北側は高い土塀に囲まれており境外からその幹の大きさを窺えないのは残念である。冒頭に記した寿命の尽きたケヤキもこの樹林内の北東隅にあった。案外他の老ケヤキもすでに朽ち果て更新していないのではないか。1939年の池田氏の調査では、この近辺に2本のケヤキが存つたが、1983年の森本の調査では枯死していた(森本幸裕「糺の森の樹木学」、四手井編「下鴨神社糺の森」,ナカニシヤ出版,1993に所収)。  鳥居のすぐ西側の朱塗の玉垣の前に2株が根元で合体した元気きなケヤキがある。玉垣の中にある「連理の賢木」(樹種はシラカシ)に劣らずお目出たい「相生の槻」である。幹周は2.9m+2.6mである。ここから、夏に納涼古本市が開かれる古馬場を通って南へ引き返すと、「糺森自然遊園」の洒落たプラスチックの看板と大きな倒木が目にはいる。この背後の樹林内は鴨社神宮寺の跡であり、水はないが池の形や流路もはっきり認められ、笹に隠れた石橋も渡ることができる。この周辺にケヤキの老木が2本ある。池跡の傍らにある1本は延命処置を受けて赤茶けた樹肌をみせており、水のない池と相まって辺りは異様な景観を呈している。幹周3.4m。他の1本は笹に覆われた河合神社へ通ずる池からの流路沿いの小径の傍らにある。幹周3.3m。

洛外のケヤキ
 御土居の外は、特産の京野菜を作っていた畑と田圃が広がり、その中にこんもりとした鎮守の森が散在していた、そんな洛外の田園風景はもう望むべくもなく、地図上で「○○の森」と言う地名に痕跡を留めているのを見つける喜びしかない。江戸時代の京都案内の代表的な書物を集めた「京都叢書全23巻」には70近い「森」が取り上げられているという(吉田博宣「京の森」,四手井綱英編「下鴨神社糺の森」,ナカニシヤ出版,1993に所収)。以前にも書いたように山科盆地の自然は壊滅した、といっても言い過ぎではなかろう。そのような中でエアー・ポケットのように田園風景が残されている一画があるのは奇跡以外の何ものでもなかろう。北花山河原町がその地名である。「北花山の三本欅山科北花山河原町元慶寺(がんけいじ)の東南100米にあり」と京都園芸の付録「京都の巨樹名木(三)」(1938年)の記事を頼りに元慶寺を訪れると、その背後、北側に華山寺というお墓を売り出し中の禅寺があり、門の両側に見事なケヤキが2本聳えていた。幹周は3.1mと3.3mとそれほど大きくはないが背が高く門前の道を覆っている。花山天皇縁りの元慶寺とその西側には緑が多いが、その東南100mに木は一本もなく、駐車場と醜いコンクリートの塊を目にするばかりである。「北花山の三本欅」は遠い昔に伐採されたことであろう。
 山科のケヤキとしてはエノキの章でちょっと触れた東野八反畑町の三宮神社のケヤキが極めて大きい。拝殿の右裏手の竹薮との境にあり、幹周は実に5.7mを測る。地上10m当たりで2幹に分かれ、さらに直上する一幹はさらに分かれケヤキらしい樹形を形成したにもかかわらず、樹冠は著しく伐り詰められている。かつては山科盆地のどこからでも望まれたという名大木だけに、今の姿はいっそう惨めである。1975年の京都市景勝地植樹対策委員会の調査では幹周5.43mであったことを付記しておく。
 山科の他にも洛外には大きなケヤキが残っているかもしれない。実際、大原の戸寺町にある江文神社の御旅所境内には幹周5.8mの市内で最大径のケヤキがある。大原ゆきバスの花尻橋停留所のすぐ右手である。このケヤキは地上5m当たりで最初の支幹を分かち、直立した主幹はさらに上方で3つに分岐し斜めに伸び、ケヤキらしい骨格を有している。しかし、いずれの幹の梢部分も損傷が著しく芽吹きがほとんど見られない。痛ましい姿ではあるが主幹の樹肌は元気そうで、根周りの環境も悪くない。見かけより老齢なのか、それとも国道367号の激しい交通量が影響してのことだろうか。1976年の京都市景勝地植樹対策委員会の調査では幹周5.55mであった。ここ20年来の幹周の成長速度は三宮神社のケヤキと同程度である。同調査でも「風害の跡が著しく梢部を損傷しているのがみられる」とあり、それ以来回復していないようだ。回復できないのは排気ガスのためではないか。老ケヤキにとっては多難な時代である。
   阪急上桂駅を少し東にいった所にある御霊神社に二抱え半の大きなケヤキがある。境内にはクスの大木もあり、「照玉の松」と称する枯朽した松の切株が大事に残されている。神社の前の道は今では車の多い商店街になっているが、一昔前は静かな洛外の集落であったことを偲ばせる。
 御土居の南東の角には東寺口が開いていた、そのすぐ西は羅城門の址である。そのさらに南東には吉祥院の農村集落が広がり、吉祥院天満宮の森があった。吉祥院天満宮は菅原氏の氏寺に道真の霊を祀って神社としたものである。吉祥院の由来は、この地の菅家の邸内にあった堂宇に、守護神として吉祥天女が祀ってあったことによる。天満宮境内の森は「身返りの杜」と云い、最近まで梅、桜、かえでなどの樹木が繁茂していたが、台風による被害、付近の工場の煤煙で多くが枯れたと云う。明治の終頃までは常夜灯に照らされた長い参道を従えているのが望見された。今の地名で言えば千本十条あたりから緩やかなカーブを描いて天満宮に至る参道があった。今でも十条通の両側に明治35年建立の常夜燈が残っている。その傍らに「正徳六年正月五日」の銘のある道標があり、「これよりにしきっしゃういん天満宮へのみち行程四町」と刻されていると云う。なお十条通は平安京に由来する「○条通」とまったく関係がない。平安京は九条まで、十条は明治37年の開通である。また、千本通は九条以南では鳥羽街道となり淀川沿いに大阪まで通じている(千宗室、森谷魁久,「続京都の大路小路」,小学館,1995)。今は無味乾燥な十条通を突き当たり、西高瀬川の橋を渡ったところに吉祥院天満宮を見い出す。境内は森とは程遠いが、それでもクス、ケヤキ、エノキ、ムク、モチの高木が散在して以外と静かなたたずまいである。ケヤキの幹周は2.5m。
 天満宮のすぐ北、南区吉祥院船戸町に、学校の名木の一つに選定された吉祥院小学校のケヤキがあることを付け加えておく。昭和の初め頃に植樹されたものであり、それ以後大事にされ、すくすくと育ってきたことが、2.6mという幹周から知れる。学校の名木としては、ムクの章で紹介した錦林小学校の幹周3.7mのケヤキが随分大きいが、この方は聖護院の森の名残りで樹齢200年近いものと思われる。この界隈には他にも、東大路に面したお医者さんの敷地内と水道局疎水事務所の駐車場に立派なケヤキあるが、いずれも過度に勢定され醜い姿を晒している。特に水道局疎水事務所のケヤキは幹周4.1mもあり、枝が伐採されていなければどんなに素晴しい樹冠を見せていることか、想像に難しくない。四月の終りに幹周を測らせてもらった時、作業に邪魔になるので切れれば切ってしまいたい、という話であったから春の芽吹きは見られないかもしれない。

ケヤキ並木
 ケヤキといえば「並木」(道路技術基準によると、道路上に列植された樹木を並木と規定し、市街地にあるものを街路樹と規定している)を思い浮かべる人が案外多いのではないか。京都にも何ヶ所かケヤキの街路樹がみられる。地下鉄工事で物議をもたらした御池通のケヤキの街路樹は、つとに有名であった。これは1954年御池通が完成し、木屋町通を起点とし西へ堀川通まで、約7m間隔で列植されたのが始まりである。それから50年もたたぬうちに姿を消した。一部残された室町通-堀川通間のケヤキも「シンボルロード整備事業」と称する土建屋の金儲けのために撤去するという。山中草兵衛氏は1957年、完成間もない御池通のケヤキ街路樹に期待を込めて、「この樹特有の枝振りを大空に伸長して本来の樹姿の美観を見得るのには、少なくとも二、三十年を待たねばならないが、まことに所を得た構想で、実に堂々たる街路樹がはじめて京都に見られることとなるものである」(山中草兵衛「京都の欅」,京都園芸,43号,1957)と述べている。自分がオートバイで運んで植えたご本人、御池通のケヤキの生みの親である佐野藤右衛門氏は「新しい御池通りは地表の土の部分は3.5mしかない。下は地下鉄とか地下駐車場である。これは排水や土壌管理にお金をかけることで解決するとしても、これまでのような3mの幅しかない植栽帯では成長は無理ではないか」と語っている(「御池のケヤキはどこへいった」,京都Tomorrow,Vo1.2, No.2, 1992)。御池通から撤去され、造園業者のもとですくすくと育っていたケヤキは、幸いもう一度御池通に戻されることなく梅小路の公園に移植された。
 京都府立植物園の正門前の200mにも満たない道路の両側にケヤキ並木がみられるが、これは現在の家庭裁判所の所在地にあった旧三井別邸内の自然実生の苗木を植栽したもので、それ以来60年以上たった今、やっと一抱え程度の木に成長している。幹周3mを越えるケヤキがどんなに貴重なものかがわかる。その他にも、堀川通の一部や府庁前、白川通などにケヤキの街路樹がある。しかし、最近白川通のケヤキは、車の右折車線を新設するために何本も引っこ抜かれてしまった。  なお、白川通を南にずっと下がった錦林車庫の裏、真如堂の背後の日吉神社という小さいが由緒ある神社に幹周2.7mのケヤキがムクと並んで梢の高さを競っていることを付け加えておく。

落ち葉拾い
本文中に書き込められなかったケヤキをいくつか拾っておく。

浄福寺のケヤキ
千本釈迦堂のケヤキ
東本願寺出版部横のケヤキ、幹周3.1m
方広寺大仏殿跡(旧平安房)のケヤキ2本、幹周4.7mと4m
伏見稲荷駐車場前のケヤキ、3.5m
広隆寺の根つながりのケヤキ、幹周2.4m
同 植樹帯のケヤキ、幹周3.1m
下御霊神社のケヤキ、幹周2.4m
中京中学校のケヤキ、幹周2.5m
三条大宮公園のケヤキ、幹周2.2m
東寺金堂前のケヤキ、3.1m
東寺北出口便所横付近のケヤキ、4.1m
小野下の町清滝川沿いのケヤキ、幹周2・6m
等持院公園のケヤキ、幹周3.4m
下鴨本通り一本松街路広場のケヤキ、幹周2.1m
岩倉出亀のケヤキ、幹周2.7m
小川公園(上立売通小川上ル)のケヤキ、幹周2.1m
橘公園(智恵光院笹屋町下ル)のケヤキ、幹周2.3m
立本寺(七本松通仁和寺街道上ル)のケヤキ、幹周2.8m

樹木地図について
 ニレ科の代表種、ムク、エノキ、ケヤキを巡り終えるにあたって、取りこぼしや間違った情報、独り善がりの解釈が多いと思いますが、それは追々追加、修正、訂正することにして、とりあえず主なものを各種のごとに一枚の地図上にプロットした。
 下敷きにした地図は、1967年刊行の松本清張、樋口清之著「京都の旅第2集」(光文社カッパビブリア)に付いていたのを拝借する。この地図は1960年代の京都が偲ばれる。左上の周山街道の笹峠は今では笹トンネルである。京都市内の骨格は道路ではなく市電の路線で示され丁いる。そして市内に入る道は、いずれもこの骨格の外側までしか描かれていない。名神高速道路も新幹線もすでにあったが、市内の交通は市電が担っていた時代である。樹木にとってはまだ住みやすかったのではないだろうか。いろいろな場所で出くわしたように、市中の自動車の氾濫が、町の「緑」を蝕んでいる元凶である。それは人間の体だけではなく心をも蝕み始めているように思える。車優先の交通体系は見直すべきで、高速道路を通じて京都市内にアクセスできるような計画は以ての外である。市電を復活して市民の足を確保している町もあり、その意味でこの地図はたいへん示唆的です。自家用車による観光を排除する交通体系を考えてみてはいかがなものか。
 歩いて楽しい京都を演出する小道具は街路樹である。醜くなった通りの景観を隠すために、街路樹を高く伸ばすことである。今のように電線優先で幹や枝を伐採せず、電柱を隠す樹冠を確保してはいかがなものか。落葉に文句が出るようなら、今のように紅葉前や落葉前に造園業者に高い費用を税金から払って伐採してもらうのではなく、清掃にその費用を回し、丁寧に世話をして育てることに意を用いるべきである。伐採した幹や枝葉を燃やすと、二重の意味で大気中の炭酸ガスを増加さすことになる。せっかく光合成で固定された炭素を炭酸ガスの形で大気中に放出する一方、木々の光合成の能力を奪って、大気中の炭酸ガスの吸収を弱めている。
 [註 3枚の地図はA4版で原本に折り畳んだ形で添付されていたが、小さく縮尺されていたので,次頁以降に掲載した如く、極めて見難いものであった。今回の覆刻に当っては、Google Mapを利用して作成し直した。上に掲げた3つのサムネールをクリックすれば現れる。この地図では拡大縮小が自由にでき、掲載樹木の正確な位置が分かる]

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