5 ク ス

クスノキの漢字は樟である。楠とも書かれるが、本来は誤りである。木に東西南北を添えて木の名となるのは南だけである。クスノキは日本では本州中部以南、四国、九州、沖縄の太平洋側によく見られる暖地性の樹木であるから、木偏に南の字を用いることになったのかもしれない。常緑の喬木であるが、落葉もすれば紅葉もする。ただ一斉に紅葉し落葉しないだけである。たしかにクスノキの若葉が初夏の日差しに一斉に映えるのは美しいが、秋たけなわのころ、濃い緑の葉の中にいくつかの葉が赤くちらつくのに、清少納言なら「ただひとつふたつなど、ほのかにいろづくもをかし」と書くかもしれない。しかし実際は、清少納言はクスノキをよろしく思っていなかった。枕草子では、「楠の木は、木立おほかる所にも、ことにまじらひたてらず、おどろおどろしき思ひやりなどうとましきを、千枝にわかれて恋する人のためしにいはれたるこそ、たれかは数を知りていひはじめけんと思ふにをかしけれ」(池田亀鑑校訂「枕草子」,岩波文庫,1962)とある。葉の縁は波打ち、風にそよぐ様は心地よい。葉脈は葉身下端の少し上で三つに分かれ、分かれ目に一対のふくらみがある。ダニの部屋である。ダニ部屋を持つ植物は熱帯地方では何百種類も知られているが、日本ではクスノキだけである。開花は5月から6月、淡い緑がかった黄色の小花が、新葉の腋から出た円錐状の花序にまばらに生じる。光沢のある暗紫色の小さな球形の果実が10月から11月にかけて熟すが、濃緑の葉に隠れてあまり目立たない。幹、根株、葉、種には樟脳が含まれており芳ばしい。樟脳は薬用にもなり「カンフル」というのはその薬品名で強心剤、興奮剤であり、急性虚脱には皮下に注射する。犬や猫に体重1kgあたり1から2gあたえれば、死に至らしめることができるという。

樟 脳

 化学的にいえば、栂脳はテンペル系ケトン化合物(テルペニールケトン類)融点175℃、沸点204℃、比重(18℃)0.9853。アルコール、エ一テル、アセトン、ペンゼンなどの有機溶剤によく溶けるが、水には溶けにくい。小片を水に浮かべると水面を活発に動き回る。ニトロセルロース(硝化綿)と固溶体を作る。この性質をセルロイド、フィルムの製法に利用している。
 紀元600年ころアラピヤで貴重な薬として用いられていた記録がある。英語のcamlphor、仏語のcamphreなどはアラピア語のkafulからきている。ギリシャ、エジプトでも不浄を清める霊薬として使われていた。ヒンズー教徒の間では今でも礼拝に際して、仏教徒が線香を焚くのと同じように、樟脳を黄金の皿に入れて燃やす習慣がある。マルコ・ポーロの東方見聞録の中に、スマトラ島のバロス地方で、黄金と同価値で取り引きされていることが見える。
 樟脳の製法は、おそらくジャワ、スマトラ方面から中国南東部へ伝えられ、南シナ海沿岸を北上し、明末に台湾に伝わったものと考えられている。台湾でクスノキの豊かな天然林に遭遇し、樟脳製造は大いに発達した。日本へは、高麗人が18世紀初頭にもたらし、薩摩藩で製脳が始まった。藩の専売とし、長崎から中国人とオランダ人によって各地に輸出された。次で土佐藩にも広まり製脳器の改良が進み製脳事業は大いに発達した。
 明治維新を迎えて九州、四国はもとより紀伊、伊勢、駿河、伊豆地方の各地に製脳業が興った。明治期の重要な輸出品であった。播磨国加古郡の船乗りで、ハワイに漂流して日本人で最初にアメリカに帰化したジョゼフ・ヒコ(浜田彦蔵)は、合衆国領事の依頼で1868年以降の神戸港から輸出された樟脳の額を調査している( 「開国逸史アメリカ彦蔵自叙伝」p.412,ぐろりあそさえて, 1932年)。それによると1868年の98,300斤が、1884年には356万6千斤と3.5倍に達している。1斤600gで換算すると2,000tonを越える。
 1903年に専売となり、戦後も1949年の「樟脳専売法」によって長く日本専売公社の専売となっていたが、この法律は1962年に廃止され、以後自由取り引きとなって現在に至っている。日本は最盛期には年間3000㌧を生産する天然樟脳の主要生産国であったが、最近は激減している。なお合成品は大一次世界大戦中にドイツで工業化され、戦後世界市場に出回り、今では合成品は米諸国で合成品が製造されるようになった。

クス材

 本題のクスノキに戻る。材は古くから利用されており、特に船材として珍重されていたようだ。土中から発見された割船の材質はクスノが多い。二、三の例をあげれば、天保9年尾張国諸桑村出土長さ70尺、幅7尺(高田宏「木に会う」,新潮社,1989)、明治11年大阪難波いたち川出土長さ11.0m、幅1.2m、大正6年大阪市東成区今福蛤江川出土長さ13.5m、幅1.9m(以上直木幸次郎:熊野那智大社の樟、司馬遼太郎他編 「樹齢」,人文書院1976)などがる。また、静岡県清水市から出土した鎌倉時代後半の丸木船は全長5.1m、幅1.3mでクスノキ製であった。今は真空凍結処理を受 けて、清水市の文化会館に展示されている(京都新閉、1999年3月4日)。
 記紀や風土記は、クスノキで鳥のように早く走る船を造った話をいくつも伝えている。「日本書紀」は素菱鳴尊が眉毛を引き抜いてばらまくとクスノキに成り、その材で船を造るように定めたと伝えているし、「古事記」ではイザナギ、イザナミの両神が生んだ大山津見神、野椎神の二はしらの神が鳥之石楠船神を生み、またの名を天鳥船といい大国主の出雲の国譲りに重要な役割を担った話が見える。播磨国風土記の逸文には、仁徳天皇の代、明石の駅家の駒手の井戸のほとりに、朝に淡路島に、夕に大和にその陰を落とすほどのクスノキの大木があり、これを伐り倒して造った船は天を飛ぶ鳥のように浪を切って走ったという。そこでこの船で天皇の朝夕の食事時に、井戸の水を汲んで運んだが、ある時遅刻して、次のような歌を詠んでもう止めてしまったという。
「住吉の大倉向きて飛ぱぱこそ早鳥といはめ何か早鳥」
「古事記」にも同様の伝説が載っているが、後日談として、役立たずになった船の材木は塩を焼くのに使い、焼け残りの船材を琴に仕上げたことを伝えている。
 飛鳥時代には、仏像彫刻の木材はもっぱらクスノキであったらしい(西岡常一、小原二郎「法隆寺を支えた木」,日本放送協会出版,1978)。例えば、広隆寺の宝讐弥勒像、中宮寺の弥勒像、法隆寺の百済観音像や法輪寺の観音像はみなクスノキでできている。長谷寺の十一面観音像の材は、近江国高島郡の白蓮華という渓谷にあったクスノキの古木で、大雷雨で流出し木津に流れ着いて大和を転々とした後、長谷の河畔に放置されていたものだそうだ(造願由来の伝説)。「日本書記」でも欽明14年の条に茅淳の海から得たクスノキで仏像二体を造らせたことが見える。また、クスノキに彫刻した仏像が寺の起源となったことを伝える「○○寺略縁起」なるものも多い。例えば、隆豊禅師が小塩山に始めて登ったとき、この地あった松に向日明神が降り立った。この時一頭の鹿が飛び出し、明神が矢を射るとこれが一本のクスノキに命中した。明神はこれを霊木とし、隆豊禅師と力を合わせて一体の千手観音像を彫刻した。これが京都西山の西岩倉金蔵寺の起源となった千手観音像である。
 生木に彫られた仏像も残っている。例えば、徳島県勝浦郡生比奈村大字星谷の「星の窟」という岩窟の前の大クヌには、雲に乗った不動の半身像が彫りつけられている。これは、ある男がこのクスノキを伐ろうとして崇れたので、斧の痕を雲に見立てて、その雲の上に不動の像を彫ったものである、と伝えられている(石上堅「木の伝説」,宝文館出版,1969)。また、愛媛県周桑郡丹原町今井の正善寺にあるクスノキの空洞中には、地蔵尊が彫られている。これは弘法大師が一夜で彫刻したもので、大師がこの像を刻んだとき、鶏が夜明けを告げたので、右耳を彫り残したと伝えられている。それでも何故か耳の病に霊験があるという(山本四郎、秋山英一「愛媛県老樹名木図説」,同刊行会, 1966)。佐賀県武雄市若木町川古のクスノキには僧行基が彫ったと伝えられていた2.4mの観音立像があったが、明治初年の排仏段釈で削り取られてしまったという(牧野和春「異相巨木伝承」,牧野出版,1989)。

クスノキにまつわる諺

 次にクスノキにまつわる諺をいくつかあげると、
○楠木分限 手堅く財産を作り上げた人のこと。成金(俄分限)に対する言葉である。クスノキが着実に伸びていつのまにか千枝を繁らせる様子にたとえたものであろう。西鶴の「日本永代蔵」に「何事しても頭に来て今は金銭うめきて遣へども跡はへらず、根へ入ての内証吉、是を楠分限といへり」とある。
○千枝の楠 片思いで、心が乱れること。「和泉なる信太の森の楠木の千枝に分かれて物こそ思へ」(古今六帖、紀のうら女)。同じクスノキの繁茂したことのたとえでも、平安時代と江戸時代ではこれほど違っている。
○石となる楠も二葉の時は摘まるぺし 禍は発生したばかりの、小さな芽のうちに摘み取るようにしないと、後からではとても処理しきれなくなるという意味。クスノキは化石に成りやすいという。そうなればチェーンソーの歯も立たない。敵方は赤子までも皆殺し、下手に助けて禍を生むようなことをしてはならない、という戦国時代の武将の戒めである。なお、京都府網野町五色浜から出土したクスノキの化石が府立植物園の温室の中庭に展示されている。これは珪化木といって、樹幹の化石であり、細胞中の内容物と水溶性のケイ酸とが置きかえられ、化石化の途中で、ケイ酸が不溶性・非結晶質の二酸化ケイ素となったものである。外観は石炭のように黒く、高さ1m、長径が50cmほどの楕円柱である。1000万年以上前のクスノキと鑑定されている(「京滋植物風土記」,京都新聞社,1974)。また、上賀茂神社の本殿へ向かう石の橋はクスノキの化石であるとのことである。
○楠はくすりにしても内裏守護 クスノキは樟脳となっても雛人形の内裏様を守る。それほど天皇家に忠誠であるという意味で、諺というより、楠木正成ら楠木一族の忠誠を皮肉った川柳である。楠木の旧姓は実は橘だったという。河内守だった橘成綱が門前にクスノキをたくさん植えていたのでいつしか楠氏と呼ばれるようになったものらしい。楠木正成の後喬、甲斐荘正秀は三人の妻達、かつ、いと、千代の間にできた子供らに次々と性懲りもなくただおと「楠」の字が入った名前を付けている:楠香、楠鋭、楠音、楠郷、楠武、楠幹、楠雄麿、楠實男。楠音(ただおと)は大正時代に売れっ子の日本画家であった。
 家康に召し抱えられた甲斐荘氏の屋敷跡は現在も「弓町の樟」(東京都文京区本郷)として有名であるが、最近、敷地内の「樟木亭」というフランス料理店であった日本風家屋が高層ピルに立て替えられて、樹齢600年クスノキにとっては生き辛い時代となってきた。
 名前に「楠」の字をつける風習は和歌山県海草郡を中心に伊勢志摩、土佐にある。 「予の一字は楠の神より授かり、兄弟六人もみな楠の名が付く」と自伝に記した南方熊楠はよく知られているが、その他に楠一、楠二、楠三、楠雄、楠市、楠太郎、楠蔵、楠昭、楠吉、常楠、岩楠、芳楠等々、女なら、くす、くすの、くすみ、くす子、楠枝、楠美子、楠尾子などみな楠の宮さんの申し子である。

淀川水系とクスノキ

 閑話休題。日本の巨木を語るときクスノキを除くことはできない。環境庁の全国巨木リストの上位11本中10本がクスノキである。その内訳は福岡県に3本、鹿児島県と佐賀県に各2本、あとは大分県、高知県、静岡県に1本ずつである。鹿児島県蒲生町の八幡神社のクスノキが幹周24.2mで日本一である。根周りでの断面積は畳60枚に相当するというから、わが家より広い。終戦直後アメリカの進駐軍が蒲生町を取り囲んだ折、クスノキは日本だけの木だから、日本一ではなく世界一ではないか、そんな木の下を踏み固めてはよくない、もっと大事にしなければいけないといわれて、成るほどと感心したという(牧野和春 「巨樹の民俗紀行」,恒文社,1988年)。
 クスノキは本州中部以南に多く育っているが、多数群生している原生林は、福岡県立花山山腹が北限で、普通に目にするのは社寺の境内に植栽された単木である。しかし、かつて大和川が淀川に流れ込んでいた時代の大阪平野はクスノキの森ではなかったか、と想像させる痕跡をいにしえの淀川や大和川の流域沿いに見つけることができる。例えば、京阪電車萱島駅の高架フォームに突き出た樹齢700年のクスノキや門真市の喧騒の中にかろうじて生き残ってきた三島神社の樹齢1000年を越えると伝えられている近畿一のクスノキ (幹周12m)。これらは、今やドブ川と化している古川沿いに残された貴重なクスノキの大木である。戦火や高度成長期の無差別殺裁をかろうじて免れてきたものであるが、今や、「緑を守ろう」という大義名分のもと狭い場所に閉じ込められ、人間の勝手な都合でそこからも追い出されたり、手足をもぎ取られたり、伐採されたり、多難な時代を生きている。何か、居留地に押し込められ、石油やウランが見つかると、落ち着く間もなく他に追いやられたりしてきたアメリカインディアンの末路に重なる。
 大阪平野のクスノキ巡りはいつか稿を改めて書くことにし、ここでは京都盆地周辺のクスノキを巡ろう。残念ながら京都には真に巨木といえるクスノキはない。クスノキとしてはみな中太で幹周5-7m程度、神社や寺院の境内に植栽されて残った樹齢400-500年までのものしか目にすることができない。それでも由緒だけは何かとうるさいものが多く、新聞種や絵にされる木に事欠かない。

洛中洛外のクスノキ

青蓮院のクスノキ(5株)

 全国的に有名なクスノキである。白塗りの土塀と、城のような石垣との間の傾斜した築土の表面をうねりくねっている太い根、苔むした幹、石畳の坂道に覆いかぶさった樹冠、まさに絵になり、写真になるクスノキの森といえよう。幾多の画家や写真家達、作家・歌人やエッセイスト達の格好の題材となってきた。巨樹に魅せられた写真家の一人である永瀬嘉平は束山魁夷の画文集「京洛四季」中の「年経る樹」に付された一節「青蓮院の楠も、その逞しい幹や枝に漂る力、網のように地表を這う根に古都の重みを感じる」を引いてる。
 「晩秋に青蓮院の大楠は若葉の色にひろがりて照る」
これは川端康成がスウェーデンに旅立つ直前に青蓮院の大楠を訪れて詠んだ歌で、画文集 「京洛四季」の序文の冒頭に収められている。康成は青蓮院門前の大楠を荘厳、魁偉、優雅、妖艶、優艶、繊麗、高雅、神韻、やさしい、こまやか等々の「言葉」で飾りたてている。アメリカ大陸やヨーロッパ大陸の老大樹にはなく、日本の古木にだけある美だという。そしてこの様な美を愛でる伝統も日本にだけに存るものだと信じて疑わない。「美しい日本」の彼の小さな頭のなかだけに形成された世界である。それはほとんど国粋主義である。青蓮院門前のクスノキはそんな狭い観念の世界に閉じ込められさぞ迷惑していることだろうし、この高名な作家の文章を読むものにとっても、どんなクスノキなのかさっぱり分からない。
 歌人の岡本大無は「巨木巡礼記」に「ああ、この樟の老木よ。底つ石根に太しき立てた宮柱のそれよりも、しっかりと地下ふこう根をおろし、その露出根を竜蛇の如く大地に幡屈させ、緑の天幕を張ったように、こまごまと枝を葉を、菊修と生い茂らして、風塵雨雪を凌ぎ、三伏酷暑の夏なお涼しき蔭をつくっている。何という爽快且厳粛な存在であろう」と描写している。高名な作家の歌よりも、「淡々たる風格」の歌人の文章のほうが、心に迫るものがあり、はっきりとした印象を与えてくれる。この歌人は、このクスノキは 「自然力の刻々止まざる営みの積もり積もった尊い産物である。大切に愛護しなければならぬ。世上往々にして存する有識の古老も又然りである」と付け加えることを忘れない。拝観料の取れる国宝以上に貴重な天然記念物であるのに「如才ない坊さまの沽(う)らんかな主義があまりにも露である」と嘆いてもいる。市の天然記念物に指定されたのは1998年の3月である。
 山口華楊の描いた「青蓮院の老木」(1970年作、京都府立総合資料館蔵)は絡まりあった根を前衛にして、手のように枝を振りかざした太い幹が、見るものに迫ってくる、実に躍動的な絵である。これにたいして東山魁夷の「年経る樹」は形の面白さ表現した、たいへん静かな平面的な、どちらかといえば装飾的な絵である。安井曾太郎の油彩画 「粟田口風景」(1905年作、京都市美術館蔵)に描かれたクスノキはみずみずしい写生である。新緑をつけた長い枝が画面いっぱいに伸びており、それを逆にたどると黒っぽい幹が太々と画面右上に描かれているのがおぼろげに分かる。弱冠16歳の作品である。曾太郎はその前年に浅井忠の聖護院洋画研究所に入所しているから、彼の油絵第一作はこの「粟田口風景」かもしれない。三人三様、青蓮院の老木はこれほどに違った印象を画家達に与えた。
 青蓮院には、神宮道に面した四脚門の両側に2本、駐車場の南向かいの長屋門の両脇に2本、良殿前の庭園内に1本、全部で5本クスノキの大木がある。いつも題材になるのは長屋門の西側の1本である。これは、神宮道から拝観入り口になっている薬医門へ向かう右角にあり、その錯綜した特異な根と神宮道を覆う樹冠のためであろうが、幹周は4.7mと以外に小さい。最も大きいのは、拝観入り口のすぐ傍、長屋門の東側の1本である。地面に露出した根は、西側の一本とは違って平板状につながって地表を覆っている。そのため幹周は測りにくいが、株廻りと称される幹周は8m近い。この株は、地上3mあたりで4つの大支幹に分かれているが、これより下の最も細いところでも5'9mもある。神宮道に面した他の2本はこれより小ぶりであり、北側の株が5,0m、南側の株が5.5mである。しかし、最初の4.7mの株とあわさって見事な並木を形成し・神宮道を覆っている。その樹冠のあまりの見事さに「修蒼とした繁りに惑わされて10株ほどと勘違いしていた」と杉本秀太郎が書いていたくらいである。庭園内の1本は、幹周3m程度の株であるが樹冠の大きさは一番であり・樹高も最も高い。これは周りの環境の為せるわざであろう。境外の4本のクスノキは寺伝によれば親鸞上人のお手植えというが、現況の地割にうまく配置されていることから、1639年知恩院の造営に際して寺地の一部を割譲し、規模を縮小した頃の植栽であるとするのが妥当ではないか。往々にして流布されている樹齢より若いのが常である。

宗像神社のクスノキ(2株)

 京都一太いクスノキが意外なところに隠れている。京都御苑南西の一角の築地塀を廻らした宗像神社の境内である。社殿裏の空き地は駐車場になっており、長くて重たい引き戸をやっと人一人が通れる程度開けて忍び込むと・右手の奥が築地塀に沿って小高い台地になっているのが目にはいる。この台地のなかに埋るようにしてそびえているのが「宗像神社三幹の樟」である。台地上90cmくらいで四幹に分かれているが・そのうちの一支幹は昭和9年の室戸台風で失なわれた。残りの三幹はいずれも周囲3m以上もあり、それぞれが立派な巨木である。1974年の調査では、東北支幹3.53m、南支幹4.20m・西支幹3.35m(京都市景勝地植樹対策委員会 「京都市の巨樹名木2」,京都市,1995年)となっているが、20年後の今でも同じで成長は止まっているようだ。地上80cmでの全周囲は7.6mに及ぶ。推定樹齢は600年。西方に緩やかに傾斜した台地には、古材が堆積放置されたままになっているが、落葉が堆積して適度な湿潤が保たれており生育環境としては悪くない。こんな立派な巨木が人の目に触れないのは残念な気もするが、本木にとってはこの方が幸いかも知れぬ。その代理として、一般に知られているのは神社入り口の東側にある花山稲荷社の神木である。「三幹の樟」の子供であり樹齢400年、幹周4.9m、まっすぐに地上5mあたりまで伸び、そこから4枝に分かれている。四周へ伸び伸びと展關する枝張りはたいへん美しく、気品がある。将来の「四幹の樟」である。牧野和春著「巨樹名木巡り北陸・近畿篇」,牧野出版,1990年)の京都の部の冒頭を飾っており、「太いシメ縄を巻いた姿に惚れぼれとする貴族的な美しさをおぼえる」と賛辞をもらっている。別冊歴史読本特別号「樹の文化史」,(新人物往来社、1990)や「花と樹木のものしり百科」(新人物往来社、1995)中の日本の巨樹・巨木のリストにも記載されていて国の天然記念物となっているが、これは何かの間違いである。

新(いま)熊野神社のクスノキ

このクスノキも有名で毎年暮れの新聞に出る。直径が10cm、長さ10mもの太い大注連縄を毎年暮れに掛け替える綱掛祭が執り行われるからである。本殿に供えられ清められた綱は、小忌衣に身を包んだ氏子20人に担がれて境内を一巡してから、当該のクスノキに麻のひもで飾り付けられる。こうして真新しい綱を巻きつげられ、迎春の準備が整った写真が年末の紙面を飾るのである。胸高幹周6.5m、地上6mあたりから主幹は分岐し、支幹からの枝張は四方に繁茂し、欝蒼とした樹冠は高さ20mに及んでいる。しかし、東山通りに張り出した繁りは、電線によって大きな穴を穿かれ、非対称な醜い姿を呈している。樹冠だけではなく、地中の根も、昭和の初めに行われた東山通りの拡幅によって切断されている。石積みに周りを囲まれ恵まれぬ立地ではあるが、樹勢は旺盛である。
 新熊野神社は、熊野権現を深く信仰した後白河上皇がこの地に紀州熊野の神霊を移し、平清盛に命じて社殿を造営せしめたのが起りである。当該のクスノキも創建に際し紀州熊野から移植したと伝える。それを信じれば樹齢800年余りである。この大木は熊野の神々が降臨される影向の神木として・いつの頃からか・皇室だけでなく都人にも長寿、諸病平癒、安産などを願って広く信仰されるようになった。 「くす」という音と「水」の連想から「九頭龍辮財天」に見立てられ、「辮」が「便」に通ずるからか、特にお腹を守護する神として信仰を集めている。
 今熊野界隈は往年はたいへん変化に富んだ地形だったようで、このあたりで東山の山並が断続し、幾多の渓谷や丘陵が人目を引き付ける景観を呈していたという。現在は山は削られ、谷は埋り、川は暗渠となって人家がひしめき建ち、車伊溢れている。神社の傍を流れていた今熊野川も暗渠になって久しいが、地下水は未だに健在らしく、ずっと大昔に根を張った神社のクスノキは地の利を得て長寿を保っているようだ。

若一(にゃくいち)神社のクスノキ

 西大路通八条上ル東側の歩道上に若一神社の神木のクスノキが生い茂っている。この地はちょうど新熊野神社の真西にあたり、新熊野神社を造営した平清盛の邸宅があった所である。そもそも若一神社は、熊野権現を信仰した清盛が自らの邸宅の西八条殿に熊野権現の分霊として熊野の第一王子を祭ったことに始まる。若一は若宮一王子の略。ここでいう王子とは熊野権現の末社のこと。京都から和歌山県の熊野神社へ参詣する途中の各所に若王子を勧請して祀った所である。総称して九十九王子といい、その第一が一王子であ。王子は、帝王の治める地、王地のことか。もとあった木は枯れ、今はその二代目が育っているが・まだ幹周3m程度の中木である。交通の激しい市中にあって生育環境はよくない。これから21世紀にかけてどれくらい大きくなれるだろうか。
 今では想像も難しいが、この辺りもかつては「浅水の森」と呼ばれる清らかな水に恵まれた土地であったようで、湧き水栽培の芹田が広がっていた。京都は地勢から見て西南部は低湿な所が多く、芹の栽培が古くから行われていたようだ。続日本後記の承和5(838)年の7月の勅に「諸家京中好営水田。自今以後、一切禁断。但元来卑湿之地。聴殖水葱芹蓮類」(京都の内で水田が作られているが、これから以後一切禁止。ただし元来水湿な地であるから、水葱、芹、蓮を作るのは許す)と出ているところをみると、平安時代にすでに芹が栽培されていたことが分かる。桃山時代になると湧き水を利用した栽培が行われるようになった。冬の間は湧き水の方が地表水より温度が高く芹の生育にはよかった(林義雄「京の野菜記」,ナカニシヤ出版,1975年)。クスノキの生育にとっても地下水の豊富な地はたいへん適している。
 しかし、大正以後、特に昭和になってから市街地がひろがり始め、昭和8年の区画整理で西大路通りが拡張されたが、その際の工事で根を切られ枯死寸前まで追い詰められたことがあったという。また市電西大路線の開通にあたって伐り払われる運命にあったが、幸い残された。この時木を切ろうとした人や、木に手を入れようとした人が、病気になったりケガをしたりして、次々に6人も亡くなったと伝わっている。京都で一番恐ろしい木という汚名までを頂戴していたという。今もこのあたりで西大路通りが少しカープしているのはこのクスノキのためである。1970年に樹医の山野忠彦氏の診断治疲を受けている。根を切断された木の周囲を石で囲ってしまったため根の活動が止まり、放っておけば枯れるに任せるしかない危篤状態であったという(山野忠彦 「木の声がきこえる」,講談社,1989年)。治療のかいがあってか樹勢は回復している。神社自体は歩道の束側にあるが、若一講大祭のお火焚祭はこの大クスノキを前にして毎年11月10日に執り行われる。

藤の木社のクスノキ

 上賀茂神社の境内を流れる楢の小川は境外に出て明神川と名をかえる。この川沿いには社家が東西に軒を連ねており、趣のあるたたずまいを見せている。明神川が南に振れる一角にクスの古木がある。かつては路上まで太い枝が延びていて自動車など通行し得ないほどであったという。今は枯れたか、伐られたか知らぬが路上を覆うほどの樹冠はないが、均整のとれた樹形は見るものをほっとさせる。古色蒼然した樹幹にはいろいろな植物が着生している。このクスノキのある町内を藤ノ木町というのは、かつて大蛇のような藤葛が纏まっていたことに由来する。そのころがこの大樟の最盛期であったらしく枝張りは四隣半町を蔽っていて、妖味ある巷説があったという(岡本大無「大無随筆京洛巨木巡礼記」,1979)。幹周4.4㎞、地上2mあたりから今も太い支幹が4, 5本出ているが、北側と東側は交通の激しい街路に面しており新月の夜も明るく、おばけも出づらかろう。推定樹齢は500年。樹下には上賀茂神社の摂社藤ノ木社が鎮座し、まわりを朱塗の玉垣にかこまれ、根元はきれいに掃き清められている。

平野神社のクスノキ

 紙屋川の西、北野神社の北に平野神社がある。当社は平安遷都にあたり、桓武天皇が大和から勧請した神々を祀ったことにはじまる格式高い神社である。重要文化財の本殿は平野造りといわれる珍しい社殿である。境内にところ狭しと、植えられた何種類もの桜は特に有名で、江戸時代から花見の名所となっていた。その名に隠れてあまり知られていないが、中門を入ってすぐ・拝殿の左手にクスノキの大木が悠然と控えている。その樹冠は拝殿と中門の間の広場を覆い尽くすほど見事である。幹周は以外と小ぶりで4.7m、樹齢は600-800年。さらに境内の北東隅にある猿田彦を、祀る社のそばにも幹周4.3mのクスノキが大きく育っている。当社地は今では洛中となっているが、かつては御土居のすぐ外に位置し、紙屋川沿いの湿潤な地であったことが想像される。クスノキの生育には適していたことだろう。そのころに十分伸ぱした根が、乏しくなった地下水をなんとか吸い上げ樹冠を潤してきたのだが、最近の乾燥がちな気候でか、梢の緑が薄くなってきたのが気にかかる。

学校のクスノキ

「京都市立学校・幼稚園の名木百選」が布張りの立派な装丁の本となった。頒価は2000円。全部で104の木々が選ばれているが、その約1/4がクスノキである。しかし、大木といえる代物ではない。名木といえるかどうかも怪しい。ほとんど植栽されたものであるが、適地でなかったり、管理が悪かったり、校舎改築などで何度も移転されたりして成長が遅い。大原野小学校の幹周3.5mのものが最大である。幹周3mを越えるものは、これを含めて5本に過ぎない。いずれも植栽されたものであるが湿潤な地で大きく育ったのではなかろうか。
 伏見区の伏見板橋小学校の幹周3.0m、樹齢75年のクスノキの傍らには「白菊の井戸」があり伏見の名水としてつとに知られている。桂川の右岸にある神川小学校のクスノキは120年で幹周3.2mに育っている一この辺り一帯は水害の多い地で、学校自体は石段を積んだ高台に建っている。下京区西七条にある七条小学校の樹齢100年、幹周3.Omのクスノキも、今はいざ知らず、かつては芹田のあった湿潤な環境で大きくなったのだろう。先述した若一神社はすぐ南である。樹齢120年、幹周3.0mの衣笠小学校のクスノキは背後に紙屋川を控えている。大原野小学校のクスノキは、学校ができる以前からあったものと思われる。樹齢200年、幹周3.5m大木であるが、後述する大原野灰方の長峰八幡宮のクスノキに近く、善峰川を南に控えている。
   これだけそろえば偶然ではなかろう。クスノキが大きく育つには、湿潤な環境が必須条件であることが分かる。それも幹の周りだけでなく、地中で遠くまで伸びた根の先が水を十分に吸収できなければならない。クスノキを大きく育てるには、幹の周りを小さく囲んでしまってはならない。

洛外のクスノキいろいろ

○長蜂八幡宮のクスノキ幹周5.8m、高さ35mに及ぶ大木である。まっすぐに伸びた主幹が見事で、周囲の樹木の樹冠から抜き出て、大きく枝を伸ばし遠くから眺められる。長峰神社は洛西ニュータウンの南西約1.5キロメートルにある無住の社であるが、境内にはクスノキ科のカゴノキをはじめ、スダシイ、ムクの大木も繁茂し社寺林を形成している。 ○十輪寺のクスノキ 同じく洛西にある。十輪寺は善峰道の中程、大原野小塩町にある天台宗延暦寺派の寺である。古来この地は存原業平閑居の地と伝えられてき、毎年5月28日に存原忌が行われている。当該のクスノキは本堂の前方10m、白壁のそばにある。西側の幹は室戸台風でなくなっているが、斜めに伸びた東側の幹が主幹となっている。それでも幹周は5mを超えており、二本の大きな支幹がそろっていたころの均整のとれた雄姿を偲ばせるにたる大きさである。今は幹の基部も半分近く腐朽し空洞化し、木全体が東に傾いており痛ましい。
○岩屋寺のクスノキ岩屋寺は花山の南、西野の高台地にある曹洞宗永平寺派の寺で、赤穂浪士大石良雄の隠栖地として知られ「大石寺」の名がある。毎年12月14日に義挙記念祭が行われる。クスノキは大石遺髪塚の東にあって目立たないが、幹周5.1mの均整のとれた大木である。
○石清水八幅宮のクスノキとタブノキ石清水八幡宮は府下八幡市男山の山頂にある京都南効屈指の神社である。楠木正成の手植えと伝えるクスノキの大木があることで、昔から有名であったようだ。「山城名所寺社物語」(1757)という江戸時代の本には正成が植えた千本のクスノキの内、百本ばかしが残っていたと記されているが、今も京都府の天然記念物に指定されている幹周7.Omの大木が文庫の傍に、幹周5.5mのものが本殿に向かつて左手の裏に、さらに本殿を囲む土塀際の斜面にも大木が見られる。この他にも樹齢600-700年の大木が4本もあるという(京都新聞「ふるさと名木探訪10」1989年8月29日)。
 桂川、宇治川、木津川の三川合流点を北に望む男山は、牡山、雄徳山、あるいは丈夫山ともしるし、この地の先住民が山中から湧き出る清泉を神として祀ったのが石清水八幡宮の起こりと伝える。長年の間、神域として保護されてきたため、比較的人手が加わっていない林が残されており、上記の七本のクスノキもこの様な環境に恵まれた地に生育してきたものであろう。麓の高良神社には同じクスノキ科のタプノキの大木もある。幹周6.Om、この木を上述の天然記念物のクスノキと間違えて、これだけ見て帰ってしまうという、仁和寺の僧の轍を踏まぬように。
○橋本のクスノキ 三川合流点のこのあたり一帯は水に恵まれ、クスノキが大きく生育するにもってこいの地であったと想像される。谷をへだてて八幡宮の北にある神応寺には、幹周10m、樹齢600年の巨大なクスノキがあったが、昭和20年頃の台風で倒壊し、今は大きな窪地が残っているだけである。京阪電車の八幡市駅と次の橋本駅の丁度中間点の木津川堤の府道沿いには、幹周4.3mのクスノキが枝を広げ堤下の間道を覆っている。もと民家の庭に自生していた3本の内の1つである。他の2本は例によって、国道建設で伐採された。八幡市の木は「クスノキ」で、この地とクスノキとの縁は古い。古墳時代この地に勢力を張った紀族は大和水軍を率いていたが、南九州から大隅隼人を招じ船材としてクスノキを用いることを習ったと伝える。八幡市美濃山や田辺市大住あたりは大隅隼人が定住した地である。これらの付近には弥生時代の集落遺跡や古墳が点在しており、古くから開けた土地であった。南北朝時代に楠木正成が石清水八幡宮に奉納するずっと以前から三川合流点一帯は、人間と共存してクスノキが繁茂し、淀の流れをかかえた照葉樹林が大阪平野まで続いていたことだろう。
○雙栗(さぐり)神社のクスノキ 近鉄大久保駅から府道宇治淀線を西に、国道24号線を越えて2キロ程行くと右手に一叢の林が見えるが、雙栗神社の鎮守の杜である。雙栗というのは、羽栗郷と殖栗(なぐり)郷両郷の鎮守社に因んで名付けられたともいうが、羽栗の「羽」を「双」に写し誤ったものが定着し、いつのまにか「隻」の字を使うようになったともいう。もともとこの地に居住していた古代豪族の羽栗氏の祖神を祀った郷社であったから、羽栗が双栗になったとするほうがもっともらしい。地図を見ると、この地は旧巨椋池の南に位置し、木津川の旧河道である古川を東に控えたいへん湿潤な地であったことが窺える。今は巨椋池は干拓され、古川は巨椋池の干拓地を経て宇治川に流入している排水溝にすぎないが、かつては鎮守の杜を育み、豊かな田園風景を展開していた。御多分に漏れず、この様な地には、クスノキの大木が残っている。本殿の北東隅に稲荷を祀る祠を従えた幹周5.5mのクスノキがそれである。高い位置から3本の支幹を分岐し、東西30m、南北20mに及ぶ見事な樹冠を形成しており、末広がりに広がった根際は、十分に遠くかつ深く根を張っている地下の部分を想像させるに足る。樹齢400-500年の青年期の元気なクスノキである。境内は広く、数百本も数えるツバキをはじめとする照葉樹林を形成する樹木がそろっていて昼なお薄暗い。しかし、境内を一歩外に出ると交通の激しい府道と団地が続く一帯であり、青年のクスノキにとっては多難の時代に直面している。今は「昔むかしから、人と木はとっても仲良しだったんだよ」(宮崎駿「となりのトトロ」)などと歯の浮くような台詞をはいていられる時代ではない。
○久我(こが)神社のクスノキ 久我は桂川の右岸に古くから開けた村落である。今日では伏見区久我町と称し新興住宅地に変貌している。街道から西へ入った民家の背後にひっそりとたたずんでいるのが久我神社である。見事な鎮守の杜を形成しているのは幹周5.8mのクスノキの樹冠である。

落ち葉拾い

本文中に書き込められなかったクスノキをいくつか拾っておく。
山王神社(山ノ内宮脇町)のクスノキ・幹周3.9m
猿田彦神社(山ノ内荒木町)のクスノキ、幹周3.6m
上御霊神社(上桂西居町)のクスノキ、幹周3.8m
三ノ宮神社(桂徳大寺町)のクスノキ・幹周4・4m
五社神社(下津林楠町)のクスノキ、幹周4.1m
児子神社(大枝塚原町)のクスノキ・幹周4・2m
蔵王堂光福寺(久世上久世町)のクスノキ、幹周5.6m
久世菱妻神社(久世築山町)のクスノキ・幹周4.Om
柊野別れ(上賀茂本山町)のクスノキ、幹周3.6m
マンションコスモ紫野(紫野北船岡町)のクスノキ、幹周5.1m
蓮如上人の墓(山科区東野狐薮町)のクスノキ、幹周4.5m
山科三ノ宮神社(東野八反田町)のクスノキ、幹周4.2m
誕生院(日野西大道町)のクスノキ、軒岡3.6m
藤森神社(深草鳥居崎町)のクスノキ、幹周4.lm
淀若宮神社(淀際目町)のクスノキ、幹周4.7m
久我菱妻神社(久我石原町)のクスノキ、幹周4.1m
羽束師神社(羽束師志水町)のクスノキ、幹周3.6m
八坂神社(東山区祇園町)のクスノキ、幹周3.6m
法住寺(大和大路七条下ル三十三間堂廻町)のクスノキ、幹周3.8m

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