4 モチノキ科

 モチノキは漢字では「黐樹」。「黐」の音は「チ」で、「とりもち」と訓む。モチノキの樹皮から黐が採れるから黐樹である。黐はモチノキ科の植物以外にもヤマグルマの樹皮やヤドリギの実からも採れ、モチノキから得られるものより良質であると言う。ヤマグルマの別名はトリモチノキである。モチノキ科の植物には、モチノキの他に常緑性のものとしては、クロガネモチ、タラヨウ、ソヨゴ、ナナミノキ、イヌツゲ、シイモチなどがある。いずれも雌雄異株で、照葉樹林の重要な構成種である。クリスマスの飾りに用いるヒイラギモチ(セイヨウヒイラギ)や南アメリカで古くから飲用されているマテチャもモチノキ科の植物である。
 クロガネモチの名は葉が乾くと鉄色になるところからつけられたが、モチノキとの識別にはその場ですぐに役に立つわけではない。クロガネモチの幹の色は、名とは違って灰白色である。むしろモチノキの幹のほうが黒味を帯びている。庭木などではほんとうに真っ白な樹皮をしたクロガネモチを見かける。クロガネモチの白っぽい皮は柔らかくすぐに傷がつくため、落書きにもってこいであり、人の名前が影りつけられた幹をよく目にする。しかし、落書きで傷だらけになった幹を見るのは痛ましい限りである。クロガネモチとモチノキの決定的な違いは、モチノキが前年の枝に花をつけるのに対して、クロガネモチはその年の枝に花をつける点である。また、クロガネモチの当年枝や葉柄、裏面の中央脈は紅紫色である。これに対して、モチノキのものは黄緑色である、と書かれているが個体差があってこのことだけからは識別しかねることが多い。花や実の付き具合が諸般の事情で見られないときには、樹冠の色合い、葉の形状や樹肌の色などで総合的に何となく決めるしかない。何か決め手になる、モチノキとクロガネモチの識別法があれば御教示下さい。

 とりもち(鳥黐)は捗虫・捗鳥に用いられていたゴム状の帖着性物質。モチロウともいわれ、パルミチン酸と高級アルコール(モチルアルコール、イリシールアルコールやトロコールなど〕のエステルからなっている。一時期蝿捕り紙の粘粘着材料に使われていたことがある。水に不溶性であるたため、手賀沼鴨猟では、張切網と連動して、とりもちを塗った縄(ポタ縄)を水面に流して、鴨をからめ獲るのに使われていた。漁業用の延縄の釣り針を、とリもちに替えたものである。
 江戸時代、鷹匠の配下で鷹の餌を請け負ったものを、鳥刺しと称していた。彼らのいでたちは、「帯の上に帯止三尺をしめ、大小両刀をさして、刺しとった雀を入れる篭を腰につけている。その反対側にさげた小箱は鳥黐を入れておく箱である。鳥刺し竿は三本つぎ、四本つぎとあり、まっすぐな、また強弱をよく吟味した竹を使っている。」(三谷一馬、江戸商売図絵,p.559,中央公論社1995〕。この竹製継ぎ竿の先にとりもちを塗って、狙い定めて竿を刺し出したり、投げつけたりして雀を生け捕りにしていた。
 この様なとりもちを使った狩猟は戦後禁止された。ただし、有害鳥類の駆除、飼い鳥の目的で捕獲する場合は、環境庁長官から鳥獣捕獲許可書の下付を受けてとりもちを便用できる定めがある。

 タラヨウの葉は大きく・厚く、長い楕円形で、鋸歯が有るのですぐに見分けられる。葉の裏面を棒の先で擦ると黒くなり、字を書くことができ紙の代用になる。タラヨウは多羅葉と書いて、インドで葉に経文を書いたヤシの一種オウギヤシに因んだ名前である。ソヨゴの葉はクロガネモチとモチノキと同じようではあるが、葉のヘリがやや強く波打っている。若枝は微毛を帯びている。また赤く熟した球形の果実は、クロガネモチやモチノキのように群がって葉の脇につくのではなく、長く垂れ下がった柄の先につく。
 ナナミノキはモチノキ科で唯一楕円形の果実を結ぶ。葉には鋸歯がある。モチノキやクロガネモチとはこの2.点ではっきりと区別がつく。名前の由来は「斜めの木」、「長実の木」、「七実の木」などその果実によった説が多い。中国ではこの木を「冬青」といい、この種子から蝋燭を作っていた地方があったと云う。
 モチノキやクロガネモチは強度の勇定に耐え、幹の切口はすぐ樹皮に覆われて丸くなる。庭木によく用いられているが、隣家側や道路側が極度に剪定されおり、美しい樹形を目にするのは稀である。
 名古屋地方ではクロガネモチの別名を「フクラシパ」(福来柴)と言い、縁起のよい木として庭木の主木となっている(名古屋市農政緑地局「生きている文化財 なごやの名木」, 名古屋市, 1984)。
 九州では、造園用にはモチノキやクロガネモチよりもナナミノキのほうが好まれるようだ(深津正、小林義雄,「木の名の由来」,東京書籍,1993)。地方によっては防風の目的で植栽される。大抵1.0mあたりで主幹が切断され、さらに大きな枝も払われるが、こんもりとした美しい樹形に作られている。用の美である(小林則夫ほか,「ふくいの巨木」, 福井自然保護センター, 1992)。
 ソヨゴを稲架木に用いる地方もある(難波浩(写真)立石憲利(文)「岡山の巨樹」,山陽新聞社,1993)。腐りにくく長持ちするからと云う。タラヨウも防火樹として使われてきた。明智光秀は亀山城構築の際、堀ぎわにタラヨウを植え巡らし火攻めに備えたと伝えられている。それに倣って、富豪や庄屋は蔵の周囲にタラヨウを植えたとも云う。竹岡によれば、1971年4月、亀岡市河原尻の高野部落の一角から発した火事が、風下にあった民家のタラヨウの茂みで見事に防がれたという。火の通り筋にあったカキやキリの巨木は見る影もなく焼けただれたのにタラヨウは東半分をこがしただけで、西方の建物は類焼を免れた、と言う(竹岡林「丹波路一木一草に秘められた歴史地理」,学生社,1976)。なお同書には火に強い木としてナナカマドがあげられている。その名の由来は「七度かまどに入れても燃え切らないところから」きていると言う。そんな関係であろうか、亀岡にはタラヨウの大木が多い(亀岡市名木古木選定委員会編,「亀岡の名木-緑と文化を訪ねて」,亀岡市,1996)。
 モチノキ属の木は熱帯から温帯にかけての植物であり、日本でも多くは本州中部以南に分布している。そんななかで、宮城県塩竈市の盛竈神社のタラヨウは注目に値する大木である。植栽可能な北限であるにもかかわらず、地際で束西二幹に別れた幹は、分岐点でそれぞれ2.4㎞と2.3mの幹周を有している(宮城県教育委員会,「宮城県の文化財」,宮城県文化財保護協会,1993)。均衡のとれた樹冠は見事という他はない。ちなみに、県の天然記念物に指定されているタラヨウの最大幹周は2.7mで、埼玉県にある(埼玉県教育委員会,「埼玉の文化財6名勝天然記念物編」, 埼玉県(1983)。その他にも、島根県には村指定の幹周3.1mのものが(島根県林業改良普及協会,「島根の巨木」,1989)、石川県には幹周2.9mものが報告されている(里見信生・鈴木三男編,「石川県の巨樹」,石川県林業試験場,1982.)。
 茨城県にはなぜか、モチノキの大木が多い。幹周4mを超えるものは皆無であると言っても言い過ぎではないのに、4.8mのモチノキが個人のお宅にある(茨城県緑化推進委員会,「茨城の名木・巨樹」,茨城県緑化推進委員会,1996)。
 クロガネモでよく知られている大木は、広島県の正伝寺の幹周4.6mのもので、福島正則が文録の役のときに朝鮮半島から持ち帰った苗木が育ったものだと伝える(広島県監修,「文化100選7花と木編」,中国新聞社,1990)。クロガネモチの大木は、これまたなぜか、広島県に多く知られている。佐賀県には、幹周5.0mもの大木がある(佐賀県農地林務部森林保全課,「佐賀の名木古木」,佐賀県,1976)。島根県にも同程度の大木があることが報告されている(島根県林業改良普及協会「島根の巨木」,1959)。
 ソヨゴとナナミノキの大木はあまり知られていない。ソヨゴに関しては、宇治の万福寺に「宇治の名木」に指定された3mを越す大木があったが、寿命が尽きて枯れ果て、今は跡形もない(「守ろう 緑 名木散歩⑯」,朝日新聞1984年9月1日)。ソヨゴは幹周1mを越せば都道府県指定の天然記念物に値すると言われている(里見信生・鈴木三男編,「石川県の巨樹」,石川県林業試験場,1982)。万福寺のソヨゴは国の天然記念物に指定されていてもおかしくなかった。
 一方、ナナミノキでは、幹周3.Omのものが広島県で、幹周2.Omのものが、山口県で県の天然記念物に指定されている。

 聚楽第のモチノキ
 聚楽第は豊臣秀吉が築いた城郭風邸宅で、今の二条城を一廻り大きくした規模であったと推測されている。築邸から破却までわずか9年。その遺構の一部は諸寺院や伏見城に移された。その広大な庭園には立派な木もあったと想像される。想像だけでなく実際に、400年もの永きに亘って何世代もの人々に見守られてきたモチノキがあった。室戸台風で倒れて枯れたあと、二代目が大きく育っていた(駒敏郎「京洛名水めぐり」,本阿弥書房,1993)。1990年までは! その年の2月、この二代目のモチノキを神木としてきた八雲神社の祠と玉垣はプルドーザーに一溜まりもなく圧し潰された。この祠は初代のモチノキで作られたと伝える。次いで、この二代目の神木の枝が払われ、太い支幹がチェーンソーの捻りもろとも地に落ちた。根の周囲が掘り起こされ、根は寸断された。ここ聚楽第の東の堀があった辺りの大宮通下長者町東掘町周辺の地は、不動産業者に転売され、借地買された約600坪の土地に50億円の抵当権が設定されたという。法律上では個人の所有であった八雲神社境内も不助産屋の手にかかって、社員寮建設のため更地にするという名目でプルドーザーが入った。神木であろうとなかろうと、モチノキも一気に伐採されるはずであった。根元まで作業が及んだところで、何があったのか、城南宮から急遽神主が呼ばれて、御祓が行われたと言う。この御祓で神木の怒りも静まり、幹は細断され、モチノキは跡形もなく消え去った。木だけでなく鳥のさえずりも、蝉の鳴き声も聞かれなくなったと「聚楽第の遺跡梅雨の井と住環境を守る会」の中川さんは以上の経緯を淡々と話してくれた。7年以上たっても更地はそのまま。モチノキは何のため命を縮めなければならなかったのか。
 彼女は「切られたモチノキは二代目だけど、社殿の上を枝が欝蒼と覆っていて、その支幹が、北側の二階建ての民家の大屋根の樋をひん曲げていた」と言う。その跡が今も見うけられた。幹周といい、樹高といい、モチノキとしては相当な大木で境内を覆う樹冠は見事であったろう。春先の葉変わりと夏の落花はすばらしかったと彼女は目を輝かせて語った。
 「散るときはねばりも見えずもちの花」
という句もあり、黄緑色の群生した小さな花を咲かしているときにはあまり目立たないが、それが一斉に散ったときは見事なことであったろう。
「梅雨の井」の保全ならびに復元を求める請願書に引用されていた「京都府史跡名勝地調査会報告書」には「八雲神社のモチ木。新大宮通、下長者町上る西側の路地内に八雲神社有り、其位置は実に梅雨の井の東数歩にあたる。八雲神社は、官弊大社祇園神社の末社なり。この神祠の背に於てモチの古木あり、樹幹径二尺五寸許神木と称せらる。此樹はもと聚楽第の庭園にありしものなりと云う。…」という記述がある。
 この請願書は1990年5月29日に「梅雨の井」を守る会によって京都市議会に提出され、同年12月に全会一致で採択されたものである(聚楽第の遺跡梅雨の井と住環境を守る会「梅雨の井」,同会発行, 1994)。「梅雨の井」はモチノキの傍にあった聚楽第の遺跡であるが、昭和の時代になっても付近住民の生活水として役立っていた。その水を産湯に使った人が今もおられると云う。近所の酒造会社の酒造りにも使われていた。
 八雲神社とモチノキが破壊されたのをきっかけに、この井戸の保全と復元を求めることを通じて、悪徳不動産業者から自分達の生活を守る住民運動が始まった。8月には、転売された土地の所有者と面談し、遣跡の保全に協力し、住民の追い出しはしない事の言明を得ている。今は「聚楽第の遺跡梅雨の井と住環境を守る会」と名称をかえて、歴史と文化遺産を語り継ぎ、住環境を守るいろいろな活動が行われている。結局モチノキだけが割を食ったようだ。

隠元橋のクロガネモチ
 隠元橋は宇治川に架かる橋である。隠元の名から推測されるように、この橋を渡って東に向かうと禅宗黄檗派の総本山万福寺に至る。黄檗は「キハダ」のことである。ミカン科の落葉高木でコルク質の樹皮の内部は鮮黄色である。黄檗はこの内皮のことであり、苦味健胃剤として古来用いられてきた。漢方では黄柏という。奈良県洞川の「陀羅尼助」は黄柏を主原料にし、腹痛の妙薬としてよく知られている。万福寺の境内にも一本のキハダが「黄葉の木」として大事にされている。中国福州の万福寺にはキハダが多数自生していたので、宇治の万福寺の山号を黄粟山と名付けたと云われている。
 開山隠元はこの地で宇治川を渡ったと云う。東畔に隠元和尚渡川の地を示す看板が立っており、昭和の始めの地図には橋はなく、「隠元渡」と記されている。今は「渡シ場町」という地名にその名残を留めている。
 この西畔にクロガネモチの雄木がある。その樹冠は東側の堤防上の車道を完全に覆うほど見事なものである。高さ3mを越す堤の西側に育っていたこの木の幹は肥大し、車道にはみ出ては車に当てられ、幹の表面は擦り削られている。車道側の根元には細かいガラスの破片が散乱しており、まともに車にぶつけられたことも何度かあろう。これに対して反対側は空地であり、安心して枝を伸ばせるかと思いきや、そうではなくかつて畑地であったため陰を嫌われてのことか、枝を払われ左右非対称な樹形となっている。堤防上の地上lmあたりで2幹に別れているが、畑地から胸高幹周を測ると3.7mもある。堤防上の車道は乗用車がやっと離合できるほどの狭い道幅であるのに、京滋バイパスに通じているためか交通量は大変多い。クロガネモチもいつ当たられるか気が気でないことだろう。「京都市の巨樹名木」の最後を飾る由緒有る名木として取り上げられたものだけに、交通事故から身を守れる保護策(柵)ぐらいは施してほしい。

浄福寺のクロガネモチ
 千本一条を東に少し入った所に、この界隈では珍しい浄土宗のお寺がある。俗に「赤門寺」と呼ばれている浄土宗知恩院派の恵照山浄福寺である。束西に細長い境内の東の門は最も古く天正期の建立で、赤く塗られている。この門を入ったすぐ右手にあるお堂は、護法大権現を祀っている。「護法」とは「祈祷によって物の怪などを調伏する法力」、「大権現」は「仏菩薩が衆生を救うために、仮の姿で現われたものを尊んでいう」名称(いずれも小学館の国語大辞典による)譲法大権現は鞍馬天狗の姿をしてお堂の傍らにある大きなクロガネモチに降りてくるという。たしかに素晴しく大きなクロガネモチがある。幹周3.6mもある雄株で、地上5mあたりでこの主幹はなくなっており天狗が舞降りる格好の足場となっている。その下から分岐した支幹がお堂の屋根を覆っている。相当の老木と見え、主幹のあちこちに穴があいており、金属の板で丁寧に覆われている。太い幹の中はホンガラで、ひょっとして天狗の寝床になっているのではと思いたくなる。
 クロカネモチのあるところは境内の北東隅で鬼門にあたる。境内の建物のほとんどが亨保18(1733)年の再建であるのに、赤門だけはずっと古い。これは、火事に際して天狗がこの木の上で、団扇でもって火勢を防いだためだという伝説が残っている。今でもその法力に頼み事をし、願を掛ける人が絶えないようだ。まわりに拝み絵馬や禁酒、禁煙など約束事を描いた絵馬がたくさん奉納されている。西陣のお年寄りが朝早くから赤門の開くのを待っていると言う。

満足稲荷のクロガネモチ
 東大路通三条をほんの少し上った仁王門のバス停留所の前にあるのが満足稲荷である。この境内に個性豊かな樹形をしたクロガネモチがある。幹周2.5mの主幹は平べったく、地上2mあたりで10本もの支幹を垂直に出しており、きわめて特異な枝張りを呈している。黒々した濃緑の葉のなかに真っ赤な実をつけており、雌株であると分かる。梢の中にはカラスが巣をつくっていた。
 相当な古木と認めて何か由来がありそうなので神主さんを煩わしたが、とくにこの木にまつわる話は聞けなかった。樹齢300年は有りそうだということだけは次のようなことから推測された。この神社はもと伏見桃山城にあり、同城の守護神として秀吉公の崇敬篤く、公の満足するところあるを以て「満足稲荷」という呼称を得た、というようなことが同社の由緒要略に書いてある。元禄6(1693)年に今の地に法皇寺の鎮守社として遷祀した。長岡京市にあった乙訓寺は、宇多天皇が出家後しばしば訪れたため法皇寺と号した。禅宗南禅寺派に属し、いまは南禅寺の塔頭の一つで、同寺境内北東にある。そのころ境内に植えられたのがこのクロガネモチであったと云う。法皇寺は明治11(1878)年に南禅寺に移転したが神社とクロガネモチはこの地に留まった。

太閤坦(だいら)のナナミノキ
 太閤坦とは元豊国神社の社殿があった平坦地のことである。ここから563段の石段を登ると豊臣秀吉を葬る豊国廟である。家康は豊臣氏滅亡後、豊国廟を破壊し参道中央に新日吉神宮を移して墓参を妨げた。「新日吉」は「いまひえ」と読む。もとは今熊野日吉町にあった。豊国廟参道の中央に移されていた当社は、明治になって参道の改修に当たって南側に再度移された。社殿の背後に素晴しいスダシイの巨木がある。幹周4.1m。そのため豊国大明神を祀る神社は朽ちるままに放置されていち明治13(1880)年豊国神社は方広寺の地に再興され、旧配下の黒田、蜂須賀の人達によって豊国廟の修築も行われた。しかし、旧社殿のあった平坦地には社務所が奥まったところにあるだけで、サクラの木が何本か植わった憩の広場となっている。ここから石段を登って廟に参るには50円を払う。幸い、ナナミノキは階段の下、廟に向かって左手にある。楕円形の小さな実がいくつか地面に落ちており雌株と知れる。その背後と階段の両側はアラカシ、コナラなどが茂る薄暗い樹林となっている。幹周2.2m、樹高2.0mのナナミノキもまた阿弥陀ヶ峰山麓の照葉樹林の植生を構成する一員で、自生していたものであろう。この背後にもう一本、少し小ぶりのナナミノキが育っている。  新日吉神社の裏を神木のシイノキを右にみながら南へ下ると緑に包まれた小高い丘が右手に見えてくる。京都市の地蔵山墓地である。その北側は智積院の墓地となっているが、こちらは木一本もない殺風景な墓地である。この地蔵山の墓地にもナナミノキが何本かそびえている。

金札宮のクロガネモチ
 金札宮は伏見区役所から北へ150m、人家や酒造工場などが密集する伏見の中心部に鎮座し、伏見で最も古い神社の一つである。社伝によれば創建は西暦750年までさかのぼるという。秀吉の伏見城築城によって外堀の外へ移転させられたが、1604年に旧地の一部である現在地に復した。この境内のクロガネモチは、それ以前からあった古木である。というのは、「今尾州屋敷当社ノ旧祉也。神木尚存ス」と「山城名跡巡行志」に出ているところを見ると、秀吉は神木まで移転させなかったようであるから、樹齢は少なくとも400年以上である。胸高周囲は2.2m、地上lmあたりに大きなコブが2つあるのが特徴で、古木の風格十分である。主幹は4つに分岐しこんもりとした樹冠を形成、枝先に赤い実を沢山つける晩秋から冬にかけては見事である。市の天然記念物に指。定されている(京都市文化財保護課「京都の木歴史のなかの巨樹名木」,京都市,1986)。

円山公園のクロガネモチ
 円山公園の名木といえばシダレサクラ。京都の代表的な名桜として名高く、公園の中心部のたいへん目立つ所にある。このサクラの先代は、宝寿院建内氏の庭園内にあった。1866年同院の失火や周りの諸坊の取り壊しにより人目につくようなった。このサクラは1947年に枯死したが、同じ場所に今の二代目が育っている。これは、佐野藤右衛門氏が初代の実生を育て、元の場所に苦心して移植された結果である。
 その南手、公園開設当初に開店したと伝える茶店の背後に、傘を広げたような樹冠をもった見事なクロガネモチがある。茶店の人にことわって台所の裏にもぐりこんで幹周を測らせてもらったところ、約3m。1975年の京都市の調査報告(京都市景勝地植樹対策委員会「京都市の巨樹名木2.」,京都市,1975)では2.65mとあるから20年で30cm以上も太っている。しかし樹勢には衰えが見え梢の葉がまばらである。樹幹はほとんど直上しており、狭い場所に押し込められた株元には太い根が隆起し、瘤ができている。本樹は真葛ヶ原の自然植生の生き残りで、秋から冬にかけて紅果をつけて美観を呈しているが、公園に集う人とて「花より団子」、茶店の前で見上げる人は皆無である。

印空寺のタラヨウ
 『隠れた逸材見つかる』と大見出しで紹介されたのが、右京区山越西町の印空寺のタラヨウである(京都新聞,1992年5月7日)。京福電鉄北野線の鳴滝駅から音戸山西麓沿いに広沢池の東方に出る道は、平安時代、幾多も歌に詠まれ、江戸時代には広沢の池に出る道と思われていた「千代の古道」のコースの一つと考えられている道である。また音戸山の上には「さざれ石」と呼ばれる岩が露出しているそうで、なにかと風情豊かな地である。
 この道が福王寺の五叉路の交差点から宇多野の療養所を通って広沢池に向かう道と出くわす所にあるのが、印空寺である。後者の道を「千代の古道」という説もある(山州名跡志巻八)。京福電鉄嵐山線の有栖川駅から北上する道とする意見もある。一方、双ヶ丘の南から北西にまっすぐに広沢池に至るコースが妥当とするものもある(竹村俊則、「昭和京都名所回曾4洛西」,駸々堂,1983)。京より北嵯峨に行く道なら、いずれも「千代の古道」であるということだろう。
 それはともかく、1991年までは、印空寺の本堂や庫裏が南側にあって、背後のタラヨウは道路から見えなかったようで、一般には知られていなかった。寺の全面的な建て替えで、本堂と庫裏が境内北側に移転したため、伊佐義朗氏に見つかってしまった。今は遠くからその真直ぐに立った優姿が見られる。樹高1.7m、幹周2.6mと京都では他に例を見ない大木である。京都府の天然記念物に指定されていてもおかしくない貴重なものであり、「材」にしてしまうには惜しい。ちなみに、都道府県の天然記念物に指定されているタラヨウは5件あるが、その中で最大幹周は2.7m(埼玉県幾川村慈光寺)、最大樹高は2.5m(福井県美山町真杉家の旧庭園跡)である。
 なお1ヵ月あと、上賀茂神社の本殿北側の茂みを西へ入ったところにイチイガシの巨木が存在していたことが、伊佐氏の調べで判明している(京都新聞,1992.年6月3日)。同氏が会長をされていた京都園芸倶楽部が創立70周年を記念して上賀茂神社の樹林調査を実施して作成されたリストの中にあったと言う。樹高26.5m、幹周3.2mの風格十分な古木である。

上賀茂岡本町のクロガネモチ
 深泥ヶ池から太田神社を通って上賀茂神社に至る山際の道の中ほどに、「やすらい堂」の石碑が建っている岡本町の集会場がある。このちょっと手前、東よりの人家が建てこんだ山際に小さな祠が見える。稲荷を祀っているのだろうか、祠前にはよく見かける小さな狐の像が一つ、寂しげに置かれている。その背後に、根元から2幹に分かれたのか、それとも2株の根元が合着したのか判然としないクロガネモチの大木がある。
 一方の幹には太い藤蔓が巻付き、一方の根際からはツバキが育っている。これらが混じっておどろおどろした奇態を呈しているが、その一方何ともいわれぬ魅力がある。2本の主幹の幹周は1.6mと2.Om。その一方は藤蔓に締め殺されて死んだかのように元気がなく、人家に直接に面している西側は、例によって極端に枝が切詰められており、見苦しい樹形となっている。祠があるために伐採されずに残ったものと思われる。どんな由緒が秘められているのだろうか。

櫟谷七野神社境内白薄大明神のクロガネモチ
 大宮通芦山寺上ル西入ル、社横町に鎮座する櫟谷七野神社は紫野斎院跡を神社化した由緒ある旧村社である。付近には集社町、中社町、西社町、社突抜町、竪社北半町、竪社南半町などこの社に因んだ町名が多い。
 南の鳥居の左手に白薄大明神を祀る末社があり、クロガネモチの古木が神木として控えている。何と主幹の半分は焼失しており、半円周の樹皮を残すのみである。なくなっている半周を復元した幹周は3.5mにも達し、京都市内で三指に入るクロガネモチの大木であったろう。未だに、往年の勇姿を想像させるにたる樹冠を有しており、七野神社の本殿前の広場を覆っている。

檀王法林寺のクロガネモチ
 三条京阪の喧騒に向かって門をあけている浄土宗鎮西派の寺、正式には栴檀(せんだん)王院無上法林寺というが、世人は「だんのうさん」と略す。鴨川の氾濫や応仁の乱で衰微していた寺運は袋中上人によって再興された。彼は中国に渡ろうとして、琉球に漂着して、ときの国王の帰依を得て琉球にあること三年、帰国して京に来住して、当寺で九年有余念仏教化に励んだ。後を継いだ良仙団王もまた教化に勤め庶民の信仰を得た。「だんのうさん」と称したのは「団王」故かもしれない。
 閑話休題。この寺に川端通の横門から入ると、かつては京都市内では珍しい乳垂れイチョウにお目にかかれたが、今ではすっかり弱ってしまい、主幹を短く切りとられ乳垂れもなくなっている。その右手の四天王楼門の傍らにコブだらけのクロガネモチの古木がある。残念ながら雄株で一年中目立たないが、幹周2.3m、それ相応の樹冠を持っており十分見応えがある。境内は保育園の遊び場になっており、園児達に格好の木陰を一年中提供している。三条通へ通りに開いている正門へ抜ける途中の左手に建っている「かしわ」の供養塔は珍しい。

金撰八幡宮のクロガネモチ
 金閣寺から西大路通を下がって行くと、芦山寺通を渡ったすぐ西側に籔八幡宮がある。西大路通より数段高くなった境内の玉垣の上から歩道に見事な樹冠を張り出しているのはクロガネモチの雌株である。秋から冬にかけて赤熟した球形の果実を、黒っぽい葉のわきに群がりつける、その様は見事という他はない。

千本釈迦堂のクロガネモチ
 北野神社の東、千本釈迦堂の名で知られている大報恩寺の境内の本堂西北隅にクロガネモチ(雌株)がある。クロガネモチにしては珍しく真直ぐにそびえ立っており、枝下高さが7mに及ぶ。そのような木を「通直完満樹」と言う(京都市景勝地植樹対策委員会「京都市の巨樹名木補遺2」,京都市,1980)。主幹の頂端部は風害で損傷しているが、樹高1.6mにも及ぶ高木である。幹周は2.5m。根回りは石積みによって土止めが施されており、周縁の環境はいたってよい。庭園に植栽された風であるが自然生のものだと言う。境内には町中のわりにムク、ケヤキ、カヤノキなど喬木が多く昔の北野の森の名残りを思わせる。

大原野のクロガネモチ
 大原野は、背後に小塩山を負い、前方に乙訓の里を一望にした段丘地からなっており、竹薮のあいだに民家が小集落をなして散在する長閑な山里である。古くは乙訓郡石作郷と称し、代々石棺を作ることを生業としてきた石作氏一族の居住する地であったという。今も大原野に残っている灰方、恢谷、出灰の地名は石作氏が造棺材料とした石灰の生産地に由来していると言う。乙訓郡物集女村で火葬され、遺命によって山稜を築かず、遺骨を粉砕して散布せしめた淳和天皇の遺灰が降った地が灰方、灰谷、出灰であると言う俗説も伝わっている。この古くから開けた乙訓郡大原野村は1959年に京都市に編入され、60年代の高度成長期に一気に宅地化が進んだ。大原野の東北部の竹薮を割いてできたのが、人口四万を超える洛西ニュータウンである。なぜかラクセイでなくラクサイと訓む。宅地化が進んだと言っても、まだまだ近郊野菜畑やたけのこ生産のために残された竹薮があり、昔ながらの大きな農家もいくつか残っている。
 また山麓には藤原氏が春日神社を勧請して創建した大原野神社や善峰寺をはじめ金蔵寺、勝持寺、十輪寺など幾多の由緒ある寺院が現存している。それとともに多くの巨木・名木も残されているのは幸いである。思いつくままにそのいくつかを挙げれば、大原野神社のモミ(幹周3.1m,樹高2.5m)、ツプラシイ(幹周3.4m)、勝持寺山門前のエノキ(幹周3.Om)、善峰寺の遊龍のマツ(枝張り全長さ40m)、桂昌院お手植えの枝垂れサクラ、高野マキ、十輪寺のクス(幹周5.1m)、北春日町椎ノ木谷のイチイガシ(幹周5.8m)、長峰八幡宮のクス(幹周5.8m)、大原野小学校のクス(幹周3.5m)等々。
 表題のクロガネモチは大原野神社の東側にある西迎寺というひっそりとしたお寺の前の空地の角に、毎秋に真っ赤な実をたわわに付けてそびえていた。数年前落雷を受け樹高を縮めたが、それでも1.5mの樹高を誇っている。樹勢も回復し、わずかながらも赤い実も付けている。樹冠はクリスマスツリーのような三角形状に剪定されており、モチノキらしからぬ樹形である。幹周は2.6m、クロガネモチとしては大きい部類に入る。
 この他にも秋の大原野を散策すると、モチ科の木々をあちこちで見かける。棚段状にきれいに勢定されたクロガネモチが家々の土塀から覗いており、寺院の境内には大きな果実をぶらさげているカリンに混じってタラヨウがあり、里山の麓ではソヨゴがサクランボのような赤い実を垂らしているのに出会う。この人間活動と調和した自然の豊かさこそかけがえのないものではないか。

乙訓寺のモチノキ
 乙訓は桂川右岸、西山の麓、古来交通の要所で、古くは弟国ともしるされた。今は京都市の一部、向日市、長岡京市、大山崎町にまたがる一帯で、竹薮の続いた丘、農家の点在する長閑な村里はあっという間に宅地開発の波にさらわれ見る影もない。乙訓郡の名を冠するのは大山崎町だけとなった。将来は乙訓の名は寺名に残るだけかも知れない。乙訓寺は聖徳太子の開創と伝える古刹であり、牡丹の名所として知られている。
 ここに長岡京市指定の天然記念物のモチノキがある。立て札によると幹周3.Om、樹高9m、樹齢400-500年の雄株である。近年、樹勢が衰えていたが、1994年に京都府の「緑と文化の基金」(100億円)の運用益から140万円の助成を貰って腐朽防止と土壌改良の手当を行った結果、元気を取り戻した(京都新聞1994年11月29日)。モチノキ特有の階層状の樹冠が明瞭になってきている。モチノキの大木は京都には珍しいだけに、まだまだ元気でいてほしい。

加茂みたらし茶屋のタラヨウ
 下鴨神社の北西側の参道入口を背にして、下鴨本通を西に渡った北寄りに、みたらし団子を商う茶店がある。庭を覗くと赤い毛髭を敷いた床机が目にはいるが、その奥に暗緑色の葉を繁らした背の高い木がある。市内には珍しくタラヨウの大木である。根元で4幹に分岐し、民家の屋根を凌ぐ高さにまで成長している。4幹あわせて一抱えもある。秋には赤い実を着けるが、大きな分厚い葉っぱに隠れて目立たない。
 この前に祠があり、これも京都ではあまりお目にかからない鬼子母善神を祀っている。鬼子母善神は千人の子を生んだが、他人の子を奪って食したので、仏は彼女の最愛の末子愛奴を隠し、これを戒めた。救児・安産・育児などの祈願を叶えるという(広辞苑)。ここの鬼子母善神は子供の夜泣きにも霊験があるらしい。このタラヨウには注連縄が巻かれており、神木として古くから崇められてきたという。タラヨウの神木も珍しい。聞くところによると、毎月7日には妙蓮寺のお坊さんを呼んで月次祭が行われており、毎年11月7日には大祭がある。その折には祠が開かれ鬼子母善神の姿を見ることができる。
 妙蓮寺は上京区寺之内堀川西入ル北側の日蓮宗のお寺。酒を入れるタルの「柳樽」の因になった京の大酒造業者柳屋仲興の妻妙蓮が帰依した日像上人の開いた寺。屋号「柳酒屋」に因んで「柳寺」と云われていた。山号も「柳」を二つに分けて「卯木山」としている。元は下京区五条西洞院の柳屋仲興の邸宅内にあったが、法難にあって転々とした。最終的に聚落第造営に際して移った現在の地に落ち着いた。境内には名木妙蓮寺椿、10月から咲き始める御会式桜がある。最近では、毎月第3土曜日に「万葉粥の宴」を催したり、境内で手作り市、フリーマーケット西陣楽市楽座が毎月12日に開かれたり、西陣活性化の中心となっている。

同志社女子大学のクロガネモチ
 今出川の同志社校内にはムク、エノキ、ユリノキ、オガタマ、クス、アベマキ、カリン等いろいろな樹木が大きく育っている。しかも有難いことに、木の名前が学名とともに記された札がぶらさげてあり、植物園のように教育的である。校内はほとんど舗装されているが、他の大学に比べて緑が多く散策しても楽しい。モチノキのたぐいも何本かあるが、その中で女子中学校の自転車置場の傍らの二本のクロガネモチは一見に値する。雌雄二株が仲良く根際で合体している相生のクロガネモチである。雌株は地上1mで二幹に分かれている。その下での幹周は1.2m。雄株はほんの少し大きく幹周1.3m。

京都大学理学部植物園のナナミノキ
 この植物園は入場無料、手入れはほとんどされておらず、木々達は自由に背丈を伸ばし、互に背比べをしているようだ。目につくままに名前をあげれば、エノキ、ムク、ムククロジ、フウ、センダン、キハダ、カゴノキ、ユクノキ、ヌマスギ、ニワウルシ(シンジュ)、ボダイジュ、メタセコイヤ等々、そしてモチノキ、タラヨウ、ナナミノキが育っている。クロガネモチとソヨゴは見当たらなかった。
 その中でも、数理解析研究所の南側の入り口から入って・まっすぐ東へ歩を進めると、「ゴミを捨てるな」と書かれた札を覆い隠しているゴミの山が目にはいるが、その背後の竹薮内にあるナナミノキは見事である。地上1m当たりで2幹に分かれ、さらにその一方の幹が地上3m当たりで分岐している。これら3本の幹からは枝が何本も伸びており円形のきれいな樹冠を形成している。主幹が分岐する直前での幹周は3.5m、太閤坦のナナミノキより一回り大きい。おそらく全国的に見てもこれを凌ぐ木は少ないだろう。
 道を隔てた向い側にもう一本まっすぐに主幹を伸ばしたナナミノキがある。幹周1.7mと先の半分であるが、背丈では退けをとっていない。いずれも若くて元気な木である。剪定し過ぎのいじけたモチノキ類ばかり見てきただけに、何とも気持ちの良い木であることか、「天までとどけ」と励ましたくなる。

寺町頭西園寺のクロガネモチ
 西園寺は出雲路橋の南、寺町頭にある西園寺家の菩提寺。寺町通に面した門を入った左手奥の塀際に幹周2mのクロガネモチがある。寺町通から、赤い実をいっぱい付けているのが見え、たいへん印象的である。このクロガネモチの木肌は、たいへん白く、柔らかい餅肌そのものである。

吉祥天満宮のモチノキ
 吉祥天満宮は東寺の西南、西高瀬川を渡った所にある道真の霊を祀って神社にしたもの。南から入った右手に見える高い木がモチノキである。幹周2.2m。モチノキらしい階層状の樹冠を呈している。

車折神社向いの金春大明神のクロガネモチ
 京福電鉄嵐山線の車折神社で下車して境内を通り抜けると交通の激しい三条通に出る。これを渡った所にある建設会社の敷地内に金春大明神がクスノキとクロガネモチの樹冠に覆われて鎮座している。

落ち葉拾い
 本文中に書き込めなかったモチ科の巨木を順不同に掲げる。
上醍醐開山堂のモチノキ、2.8m
吉田神社のモチノキ
修学院鷺の森神社のモチノキ
横大路中ノ庄の浄貞院のモチノキ、2.6m
鹿王院のモチノキ(嵯峨北堀町)
大将軍八神社のモチノキ(西大路一条東入ル)
西賀茂神光院のクロガネモチ
旧「かわら塾」(新烏丸通下切り通し)クロガネモチ
下鴨神社パス停西入ル北側の民家のクロガネモチ
聖護院西町の民家のクロガネモチ
高台寺境内のクロガネモチ、幹周3.lm(1990年2月2日枯死)
仙洞御所のクロガネモチ、幹周2.9m
金地院東照宮うらのクロガネモチ、幹周1.8m
妙心寺塔頭桂春院のクロガネモチ、幹周2.4
白峰神社のクロガネモチ(今出川堀川東入ル北側)
久我神社のクロガネモチ(伏見区久我町)
西大谷のクロガネモチ
京都御苑のクロガネモチ(京都御所北東角)
久御山町隻栗神社のクロガネモチ、幹周2.5m
霊光殿天満宮(新町通今出川下ル)のクロガネモチ、幹周1.3m
六条院小学校(河原町通上枳殻馬場上ル若松町)のクロガネモチ、幹周1.3m
八大神社(一乗寺院釈迦堂町)のクロガネモチ、幹周2.6m
宮の森公園(吉祥中河原宮の東町)のクロガネモチ、幹周1.5m
日向地蔵(吉祥院政所町)のクロガネモチ、幹周1.6m
久世会館(久世上久世町)のクロガネモチ、幹周1.6m
大薮小学校(久世大薮町)のクロガネモチ、幹周1.4m
大歳神社(大原野灰方町)のクロガネモチ、幹周2.7m
無量院(堅原上池田町)のクロガネモチ、幹周1.7m
北野天満宮御旅所の、クロガネモチ、幹周2.8m
春日神社(太秦)のクロガネモチ、幹周1.8m
野の宮神社(西院)のクロガネモチ、幹周3.8m
西野山階町のナナミノキ、幹周1.3m
粟田口大日山墓地のナナミノキ
伏見区日野の延生院のナナミノキ
光照寺のナナミノキ(新町通上立売上ル安楽小路町)
淀の与梓神社ナナミノキ
嵯峨野常寂光のナナミノキ
鞍馬寺精進橋上流のタラヨウ、2.1m
擁翠園(京都貯金事務センター)のタラヨウ
修学院鷺の森神社のタラヨウ
鹿王院のタラヨウ(嵯峨北堀町)
紫野高校のタラヨウ

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