6 モクレン科

 冬枯れの山に春の訪れを告げるコブシ、街角に華やいだ春たけなわの雰囲気を醸し出すハクモクレン、庭園木として愛好され、一年中分厚い葉を付けているタイサンポク、神社によく神木として祀られているオガタマ、エキゾチックな街路を演出するユリノキ、高級下駄の代名詞で、古くから日本人の生活とかかわりの深かったホウノキ。これらはすべてモクレン科の木本植物である。
 モクレンは「木蓮」もしくは「木蘭」と普通は書かれているが、本来どういう漢字(漢語?)をあてるべきか、たいへん込み入っている。牧野富太郎は「辛夷はコブシにあらず、木蘭はモクレンにあらず」と言い放った。彼によると「古来どの学者でも辛夷をコブシであるとして疑わず涼しい顔をしており、また従来どんな学者でも木蘭をモクレンで候としてスマシこんでいるのは笑わせる。(中略)コブシ(Magnolia kobus DC.)は日本の特産で、中国にはない落葉喬木である。そして全然漢名はないから。これを辛夷というのは絶対に間違っている。モクレン(Magnolia liliflora Desr.)は中国の特産で、辛夷がまさにその名である。落葉喬木で庭園の鑑賞植物である。そしてこれはけっして木蘭ではない。木蘭(Magnolia sp.)はこれまた中国の特産で、高さ数仭に達する常緑の大喬木である。そしてもとより和名はない」(「植物一日一題」,博品社,1998)。なお、学名のMagnoliaは17世紀のモンペリエ(フランス)の植物園の園長であったピエール・マニョル(P.Magnol)に由来している。というわけで、植物名に漢字をあてるのはあまりよくないかもしれない。辛夷は拳、木蘭は木蓮とも書かれ、無花果がイチジクであったり、木瓜がボケであるのはまだしも、胡子や茱萸がいずれもグミのことであるにいたっては、もうお手上げである。しかし、古来日本人が植物名に漢字をあててきた営為とその結果には感服せざるを得ない面もあり、草木の名前をすべて、所かまわずカタカナ表記するのはいかがなものか。書きにくく、読みにくい。
 モクレンといえば、ふつう春先に葉に先立って白い花を咲かせる落葉高木を思い浮かべるが、これはハクモクレンで白木蘭あるいは玉蘭と書く。紅紫色の花で、葉の展開に伴って咲き続ける落葉低木がモクレンである。本来はシモクレンであるがモクレンと呼ばれることが多い。北アメリカ東部にはキモクレンというのもある。開花直前はほとんど緑色だが、開くにつれて黄色味が強くなる。ヒマラヤには桜色やパラ色の花を咲かすモクレンもあるという。シモクレンとハクモクレンはいずれも中国原産で、中国の宮廷に植えられ愛でられていて、園芸的に栽培もされていた。日本にも古くから渡来し、庭木や寺院の境内木として親しまれてきた。欧米でも人気のある花であり、園芸的な改良研究が盛んになされ、シモクレンとハクモクレンの人工交配種であるサラサレンゲの和名を持つマグノリア・ソウランギアナ Magnolia soulangianaは特に人気があるという。花弁の色合いが下部より紅紫色から白色に漸次移り行く気品のある容姿が人気の由縁であろう。
 このモクレンの所属するモクレン科モクレン属には、ホウノキ、オオヤマレンゲ、コプシ、シデコブシ、キタコブシ、タムシバ、タイサンポクなどが属している。神社の神木としてよくみられるオガタマノキや街路樹で見かける奇天烈な形の葉を付けたユリノキもモクレン科で、それぞれ独自の属を形成している。
 ホウノキは朴木あるいは厚朴と書かれ、日本の特産で、古来日本人の生活に深くかかわってきた木である。ホウノキの樹皮はなめらかで木目が細密、縦にも横にも鉋がきき、軽く柔らかいわりには狂いが少ないので工作にもってこいである。そのためかその材はいろいろなものに用いられてきた。鎌倉末期に枕にも使われたという。
「みちのくのくりこま山のほほの木の枕はあれど君が手枕」(夫木集)。
 高級な下駄の代名詞でもある「朴歯の下駄」は、歯にホウノキの材を使用したものである。そのほかにも将棋の駒、版木、膳、椀、盆、画板、こたつの櫓、仏像、木魚などにホウノキの材は重宝がられた。飛騨高山の山中にある有道という村の特産品であった「有道杓子」もホウノキである。白州正子によれば「飽をまぜる時は、絶対にひっつかないので具合がいい」という(白州正子,「木の声、木霊」,住まいの図書館出版局,1987)。朴の旧字である「撲」の第一の意味は「未加工の木材、木材の質ままなること、きじ、あらき」であり、ホウノキにぴったりのあて字である。卵をひっくり返したような、先のほうが丸みの強い形(倒卵長楕円形)の大きな葉は、飯を盛るなど食器としていろいろ利用されてきたし、味噌をのせてあぶり、その香を賞味する「朴葉味噌」という食物もある。大昔はホウノキの葉を器の形に折って酒をついで飲んだ風習があったようだ。もっとも万葉の頃にはすでにすたれていたことが、大伴家持の歌
「皇神祖之 遠御代三世波 射布折 酒飲等伊布曽 此保宝我之波」
(いにしえの天皇の御代御代には、これを折りたたんで酒を飲んだそうですよ、このほおの木の葉は) から知れる。一方、田植え時に飯を盛る葉として朴葉を利用する民俗は今も各地に見られるという(倉田悟「樹の花2」,山と渓谷社,1970)。
 ホウノキはよく根元から分岐し、けっこう太くなる。岡山県の高梁川の上流、新見市の北に朴木原というところがあり地名のとおりホウノキの大木が残っている。これはとてつもなく古くて大きい。根元から8つに分かれてホウノキの森を形成している。枝張りは東西18m、南北25m、一番太い幹は10mを超える。兵庫県の村岡町長瀬の八幡神社には4本の幹が叢立し周りを細い支幹に囲まれたホウノキがある。樹高32m、叢生の全周は9mにもなっている。奈良県榛原町の戒場神社には、ホウノキで唯一、「新日本名木百選」(読売新聞社,1990)に選ばれた大木がある。幹周り8.6mの古木であったが、残念なことに1998年の台風7号で大きな被害を受け、上半分が無くなってしまった。
 「どうしても雪だよ。おっかさん。」「雪でないよ。あすこへだけ降る筈がないんだもの。…おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花」これは宮沢賢治の童話「なめとこ山のくま」の熊の親子の会話である。ひきざくらは岩手、秋田両県で通用するコブシの方言名である。東北の諸県では広くコプシのことを「タウチザクラ」とも言い、春を告げる花として北国の里人の待ち遠しい花である。大麻の種まき時に咲く花でもあり、「イトサクラ」とも呼ばれる。「イト」は大麻の方言。コブシは四国を除いて北海道から九州まで分布するが、どちらかといえば北の方に多く、湿った平坦地を好み、尾根筋や急斜面では見かけない。
 コブシのアイヌ語はオマウクシニ(良い香を出す木)又は、オプニケ(放屈する木)である。宮沢賢治も、なめとこやまの熊の母子が去ったあと「くろもじの木の匂いが月のあかりといっしょにすうっとさした」と記すように、コプシの枝を折れば芳香を放つ。
 京都では嵐山や丹波の山に見かける。京都の北山にはこれに似たタムシパが多い。タムシパは日本固有で本州、四国、九州の尾根筋や急斜面に生育している。コブシとタムシバはよく混同される、というよりは一般には区別されていない。タムシパが時としてニオイコブシといわれるのは、クロモジのような芳香を放つためという(「週刊朝日百科植物の世界」No,100,朝日新聞社,1996年)。とすると、賢治もアイヌもコブシとタムシバを区別していないことになる。
 吉井勇の「短歌歳時記」には「辛夷は私の好きな花の一つである。何時だか山陰の旅路で見たその花は、まるで残雪のような白さを見せて、そぞろに深い旅情を感じさせてくれたが、洛北の山路で見るものは、それよりも更にはかない叙情味があった」と述べている。花でコブシとタムシパを区別するには詩人の感性がいるが、両種は葉を見れば一目瞭然で、コブシの葉は先端が少し突出するが倒卵形であり、タムシバの葉は先がしだいに狭まる披針形、すなわち細長い楕円形である。タムシバの枝先を噛めば肉桂のような味がすることからその名は「噛む柴」に由来するという。タムシバの萼片は花弁の3分の1から2分の1で、コブシよりずいぶん大きい。このような違いがあっても、実際に目にする花の時期には葉は出ていないし、やすやすと近づける所にはなく、遠目にはよほど慣れないと区別できない。
 滋賀と京都の県境の安曇川の支流筋に「思子淵」という名の神社が点在している。地図には「志古淵」「鬼子渕」「忍子渕」と書かれているが、みな思子淵という筏の神を祭る神社である。山仕事で生計を立てていた村人は雪解けの早春、切り出した木材を筏に組み、安曇川を下って琵琶湖まで流していたそうで、思子淵神を水難の守り神として信仰してきた。これには次のような話が伝えられている。
 その昔、思子淵が息子と一緒に筏を流していると、ある淵で筏がとまってしまい、息子の姿が見えなくなった。河童のいたずらである。怒った思子淵は河童をとらえ、息子を取り戻して、今後は、菅の蓑笠をつけ、香蒲のはばき(脚絆、すねあて)をはき、辛夷のさおを持ったものには決して害を加えないと、約束させた。こうして思子淵は筏乗りに守護神として祭られるようになった(「京滋植物風土記」,京都新聞社(1974)。京都北山の片波に住むおばあさんの思い出話しによれば、コブシ製の竿が実際に使われていたということである。山人たちの春を迎える喜びを象徴しているようだ。
 タムシバにまつわる悲しい話も伝えられている。熊本県の山奥内大臣渓谷には、春のある朝、源氏の白旗とコプシの花を取り違えて、平家の落人が皆自刃して果てたという。この地ではタムシバのことをコブシと呼んでいる。
 コブシで3mを超える大木は珍しい。岩手県宮古市の個人のお宅にある市の天然記念物に指定されているコブシは、なんと幹周り4.6m、背丈はそれほど高くなく「田うち桜」の名のとおり大きなサクラの古木そっくりである(「岩手の名木・巨木」, 岩手日報社, 1997)。その他に天然記念物に指定されているコブシの巨木は2件、東京都と岐阜県にある。岐阜県のコブシは、富山県との県境、小鳥川をせき止めてできた下小鳥ダムに水没してしまった保の集落の近くにあって、今でも毎年5月中旬に白い花を多数つけてる。幹周り3.1m、根周りは4mを超す大木である(「ぎふの名山名木」,教育文化出,1991)。
 コブシより葉が少し大きいキタコブシは、その名のとおり北海道から本州中北部の日本海側に分布するが、青森県八戸市には幹周り4.4mの巨木がある(「青森県の古木・名木」,青森県緑化推進委員会,1994)。近くでは敦賀市のはずれ、笙の川の源流に位置する池河内の集落からさらに奥、池ノ河内湿原に向かうハンノキ林の南のはずれに、大きなキタコブシが1本ある。叢生周囲1m、4月中旬四方に広がる枝々にこぼれるばかりに白い花をつけるという(「ふくいの巨木」,福井県自然保護センター,1992)。なお、池ノ河内湿原は標高300m、古来よりの自然相が残っている貴重な湿地帯である。ヒメザゼンソウ、カキツパタ、ミツガシワなど深泥ケ池でおなじみの花が咲き、北海道や東北でしか見られないミズドクサ、ヤナギトラノオの飛地的な南限となっていて、樹木では、深泥ケ池で、従来から知られていた雌株に加えて最近、雄株が発見されたミヤマウメモドキが池ノ河内湿原では群落をつくっているのが見られる。
 なお、深泥ケ池でミヤマウメモドキの雄株が発見されたいきさつについては、うきしま通信No.54(1997年6月号)の藤崎氏の記事「ミヤマウメモドキ雄株発見裏話」は必読!
 タイサンポクは、大きな楕円形の分厚い革質の、濃い緑色の葉が一年中密に付いているのでそれと容易に知れる。厳冬から早春にかけての短い時期を除いて、あとは一年じゅう、腐りにくい葉をのべつパラパラと落とす。クリーム色の、径が15-25cmもある大きな花を6月に咲かせる。夏の季語である。
 「地に燕泰山木の古葉落つ」(信女)。
この木は北アメリカ東南部の原産で、米国ではルイジアナ州の州花、ミシシッピーの州木となっている。「泰山木」とふつう書かれるが、牧野富太郎博士は「大蓋木」とされている。それは、承け咲きに開いた花の姿を大きなさかづき(蓋)になぞらえた例が江戸時代の園芸書「広益地錦抄」に見られ、明治初期に渡来したとき「大蓋木」と園芸家が呼び始めたのだろう、というのが牧野博士の説である。ところがそれがいつのまにか「大山木」と書かれるようになっていたが、園芸植物の大家であった松崎直枝が「義は泰山よりも重し」という詞に因んで「泰山木」と命名し、それが定着したものらしい(深津正、小林義雄「木の名の由来」東京図書,1993)。
 オガタマノキはヲガタマであり、招魂あるいは招霊の意味であるといわれている。確かに昔から神事に用いられてきたようで、賢木の一種と考えられていたらしい。小香玉木、小賀玉木、御賀玉木などの漢字を当てることが多い。ときには黄玉樹、廣心樹とかかれるが、これは何と混同されたものであろか。どの漢字を当てるのが正しいかはともかく、オガタマノキは暖地性の常緑の喬木であり、西南日本、琉球諸島、台湾に分布している。葉は中折れ状の長楕円形、革質で表面は濃い緑色、裏面は白みをおびている。この固い葉を好んで食べる虫がいる。ミカドアゲハの幼虫はオガタマノキの葉を好んで食べる。高知市にこの優美な珍蝶の生息地があり特別天然記念物になっていて、オガタマノキの自生地でもある。オガタマノキは基部が紅紫色を帯びた黄白色の小さな花を2月から3月につけるが、人目につくことは少ない。常陸宮家の紋章は、菊の周りをオガタマノキの花で囲んだものである。秋になると、小形の袋果が集まって集合果をつける。熟すと袋が破れて真っ赤な種子を露出するのですぐわかる。古今要覧稿に「をがたまの木は日向国にある樹なり。葉のさまは榊などのようにて表青く裏白みあり、実は数十果房をなして一果ずつ殻われて赤き子のあらわれること辛夷のごとし。樹は香気あり。漢名いまだ詳ならず」ときわめて的確な説明がなされている。
 オガタマノキには、薯と花冠の区別はなく花被片は普通12枚である。これとは異なり、花被片が6枚しかないものが何種類かあるが、カラダネオガタマ(トウオガタマ)もその一つである。これは中国南部原産の常緑低木であり、中国では生け垣などによく用いられているという。日本では神社や寺院の境内に植栽されているのを時々見かける。花の香がパナナそっくりで、含笑花(がんしゅうげ)とよばれている。英語の名前はbanana treeである。
 暖地性のオガタマノキの日本海側の北限は山口県西北部あたりで、油谷町の日吉神社の境内には稀に見るオガタマノキの大群落がある。しかし、神社や人家の庭に植栽されて大きくなったオガタマノキは西日本各地に見られるが、巨木となると、やはり九州・中国地方西部に多い。日本一の大木は、長崎県の「小長井のオガタマ」である。国指定の天然記念物であり、根周り9m、主幹が途中から切られ建築材にされたが、その切り口から芽吹いた十数ほんの枝が成長して、オガタマノキらしくないこんもりとした樹形となっている。鹿児島県川内市の石神社境内にある「永利のオガタマ」は樹齢800年、幹周6.7m(根周り10.9m)、樹高22mの大木である。残念なことに樹勢は良くない。1995年度と96年度にオガタマノキ樹勢回復事業なるものが実施され、枯れた大枝の切除、防腐処理、土壌改良、周辺環境の整備などが行われた(「かごしまの天然記念物データプック」,南日本新聞社,1998)。
 チューリップツリーことユリノキに漢字を当てることはほとんどない。しいて当てるとすれば、「百合樹」である。明治期のある雑誌にはこう書かれている。しかし、れっきとした日本名をもっている。「ハンテンポク」がそれである。これは花ではなく葉の形を絆纏に見立てたものである。グンパイ(軍配)ポク、ヤッコダコ(奴凧)ノキ、クラガタ(鞍形)ノキなどの呼び名があり、いずれもその奇妙な葉の形から命名されたものである。果実がろうそくをならべたようなので、ロウソクノキとよんだり、まっすぐに突っ立った樹形からエンピツノキというものまである。
 なお中国名は欝金香樹であり、修金香草はチューリップのことであるかチューリップツリーの直訳である。ユリノキはアメリカ合衆国東部の落葉広葉樹林の主要な樹木である。日本でなら常緑の照葉樹が主である山地下部の暖温帯で落葉広葉樹が広がっており、そのなかでユリノキは、直径lm以上、樹高40mにも達して最上層林冠を形成している大木である。
 わが国へは、明治の初めに種子がアメリカからもたらされ、それが育ったのが最初である。その後各地の街路、公園、学校や大学の構内、植物園、植物試験場などに植栽されていった。なかには立派な大木に育ったものもある。胸高周囲3mを超すものが見られる所を列挙すれぱ、東大理学部付属小石川植物園、新宿御苑、岩手大学農学部付属家畜病院前、国立科学博物館、鈴鹿市の庄内小学校、弘前市の小島喜草園などである。最後の小島喜草園のものはわが国二番目のユリノキといわれているもので、明治20年前後に園芸家でリンゴ栽培の功労者の菊地盾衛氏が植えたものといわれている。幹周3.7m、弘前市の指定保護樹である。庄内小学校の2本のユリノキは1932年に旧校舎の日除け用に7本植えたものの残りである。そのうちの5本が、1968年の旧校舎跡を運動場にしたため伐採されたという。残ったものは胸高周囲3.3mというから、7本がそろっていればどんなに見事な並木だったことだろうか。御神木になったユリノキもある。岩手県稗貫郡石鳥谷町の熊野神社のユリノキがそれである。樹齢50年、幹周りは2.9mに過ぎないが、樹皮が瘤状になった部分があり、神木としての貫隷は十分である。岩手県にはユリノキが極めて多く見られる。これは岩手緑化研究会を創設したユリノキ愛好家の毛藤勤治氏が精力的に植栽を勧めた結果である。同氏の魅せられた樹の博物誌という副題が添えられた「ユリノキという木」(アポック社出版局,1998年)は素晴しい本である。

招善寺のハクモクレン
 招善寺は紫竹西野山町に所在する浄土宗の寺院で、お土居の上に建っている御薗橋で南西に折れ曲がったお土居は、大宮交通公園を斜めに横切り紙屋川までまっすぐに伸びていたが、史跡として保存されているお土居九ヶ所の一つが、玄琢坂下の南側にある。その前の南北の小道を少し下がったところに、長い石段をしつらえた山門を構えた寺が本念山招善寺である。山門をくぐった正面の本堂の前庭にハクモクレンの老大木がある。お寺の住所は紫竹だが、このハクモクレンのある所は大宮西野山町である。この辺りの大宮一帯は、一昔前まで東に比叡山の雄姿をのぞむ広々とした田園地帯が広がっており、交通公園もかつては牧場であった。本堂の広い縁側に腰をかけ、右手の鐘楼の瓦屋根にかかる枝先に清楚な白い花を付けたハクモクレンに堪能して、目を正面の土塀の向こうに移しても、比叡山はもう目にすることはできない。無粋な四角の白っぽい建物が目をさえぎる。京都の借景庭園はどこもだいなしである。モクレンに目を戻そう。
 主幹はすでになく、支幹が6本、プラスチックで固められた朽ちかけた主幹を囲むようにして根際から成長している。この株元から萌芽した側生幹と本幹がつくる台座の直径は1m以上あり、雄大な株立ちをしたハクモクレンだったことが想像される。30年ほど前に、地上5mあたりで各幹を剪定してから樹勢の衰えが目立つようになったという(京都市景勝地植樹対策委員会「京都市の巨樹名木補遺4」,京都市,1989年)。それなのに、それ以降も剪定がおこなわれ、ついに主幹はプラスチックで固められるはめとなった。残りの支幹の先も切り詰められているが、そこから何本もの細い枝が伸び、枝先にいっぱい大きな花を咲かせる。境内と前の道との落差は7mもあり、境外から眺めたると、天空にちりばめられたふっくらとした白い花は玉蘭の名に恥じない。1989年の調査では、樹高約7m、主幹が幹周は1.8m、6本の支幹はいずれも1m前後であった。樹齢は定かなことは不明であるが、堀川高校のハクモクレンが110年で50cmにしか育っていないから、生育環境の差はあるにしても招善寺のは300年は超えているものと思われる。住職の話では500年ということで、当寺の開山が1626年であるから、その頃すでに堀川高校のと同年齢ということになる。まわりは盛土され、スギゴケで一面覆われている。かってはクマザサで囲まれていたが今はない。高台のため日当りもよく、適度の湿りけもありハクモクレンの生育環境としてはたいへん恵まれている。
 本堂の背後の庭の片隅には、土塀に接してラカンマキの大樹も育っている。庭を囲む土塀から覗く幹の大きさに圧倒される。樹齢200年という。ここから西側一帯の台地は墓地である。マツの大樹やハクモクレンなどが陽を浴び、灌木が繁り、珍しく緑の多いたいへん気持ちのよい墓地であった。しかしここ数年来、松は枯れ・灌木は伐採され、古い墓は改葬され、御影石の真新しい墓が目立つようになり、せちがらいご時勢が安らぎの地を呑み込みはじめた。

白峰神社のオガタマノキ
 今出川通堀川を東へ入った喧騒の地に、多くの名木の見られる白峰神社がある。その中でも京都市の天然記念物となっているオガタマノキは見逃がせない。今出川通に面する表門を入ったすぐ右手、境内の東南隅に高さ20mになんなんとする濃い緑の樹冠を一年中広げている。幹は根元で南北二つに分かれていて、それぞれが2.4m、2.5mの幹周を有する京都一の大木である。二つに分かれ幹からは多くの支幹が伸ている。特に南幹からはさらに三つの支幹が出て、その各々から中枝が数本伸び、南側の土塀際にあるクロガネモチの樹冠を覆っている。北側の幹は直上して、高さ2mあたりから太い枝を東に伸ばし塀を乗越えて油小路通に枝を広げている。株元の幹廻りは4mを越え、地際には根株が広く隆起し露出している。その周囲は直径3mにおよんでいて、根周り10mと記されている(京都市文化観光局「京都の木歴史のなかの巨樹名木」,京都市,1986)。樹齢は定かでないが、白峰神社は明治元(1968)年に崇徳・淳仁両天皇を祀る官幣大社として創建される以前は、飛鳥井家の屋敷があり、このオガタマノキはその庭内に生育していたとすれば、齢数百歳の老樹である。さすがに10年ほど前から樹勢が衰え、樹勢回復のためか薬剤を注入する太い注射針が幹に何本も刺されていた。
 飛鳥井家は和歌と蹴鞠の宗家で、境内には飛鳥井家が蹴鞠の守護神と崇める精大明神などを祀る末社の地主社がある。昨今はサッカーの上達を祈願する人が多いという。特に去年は、ワールドカップでの日本チームの勝利を願って、神頼みにやって来る人も多い。境内には、先述したクロガネモチを始めとし、ムク、アラカシ、タチバナ、マツなど自慢の木が多い。その中でも本殿前の名香木「含笑花」ことカラダネオガタマ(トウオガタマ)は必見。五月中頃に筒形の雌蕊を付き出した六弁の美しい黄白色の花が微笑む。バナナの匂(臭?)を嗅ぐことができる。カラダネオガタマは宇治の万福寺の塔頭法林院や天竜寺塔頭三秀院などの寺院の境内でも見かける。

同志社大学のオガタマノキとユリノキ
 同志社大学は、新島穣が明治8(1976)年に相国寺門前近くで英語学校を開校したのに始まる。今出川通に面した校門を入った所に、新島穣の永眠50年に際して建てられた、徳富蘇峰の筆になる記念碑がある。碑には新島穣の書簡中の一節が、彼の故郷の馬県に産する碓氷石に刻されている。この碑のある広い一画はサザンカの低い植え込みに縁どられ、そのなかに枝を伸び伸びと360度広げたオガタマノキが育っている。まず主幹から真横に出てから立ち上がっている何本もの支幹がオガタマノキらしい樹形を形作って、同じ植え込みにあるクスノキとその常緑の樹冠を競っている。主幹の周囲2.4m、主幹の大きさでもまだクスノキにひけをとっていない。若々しい端正な青年木である。
 同志社大学のある構内には大きな木が各所にあり、樹木名が記された名札が設置されており、立派な植物園である。烏丸通の正面玄関を入った真正面にあるムクの巨木がまず目につく。幹周り4.3mもある。さらにまっすぐ東へ行った左手のクラーク館の北奥にある茶室のかたわらにエノキの大木があり,これまた幹周り3.5mの立派なもので、いずれも「ムク」と「エノキ」節で書き落としていた。モクレン科の大木としては、ユリノキが構内の同志社中学の東側の道を北に上がった左手に高々とそびえている。幹周2.7m、烏丸通の街路樹として所々に見かけるユリノキに比べて何と伸び伸びしていることか。

下御霊神社のオガタマノキ
 (以下未完)

取りあえずのあとがき
 モクレン科の章の中途で中断しておりますが、暇を見つけて書き継いでいくつもりです。モクレン科の備忘録を付加しておきます。
 この後の続きとして書き留めておきたい木々は、イチョウ、スギ、マツ、イブキ、モミ、ツガ、カヤ、シイ類、カシ類、ムクロジ、センダン、エンジュ、モクゲンジ、ヤナギ、ヤマモモ、キリ、モッコク、カジノキ、イスノキ、トチノキ、花木(サクラ、ウメ、モモ、ツバキ……)などです(2002年4月記)。

備忘録 「モクレン科」
1.日野巌「植物歳時記」法政大学出版局(1978)
オガタマ:p.1
自生地北限:山口県阿武郡奈古付近
群生地:山口県大津郡宇津賀角山日吉神社17本
タイサンポク:p165
夏の季語、春に落葉、「地に燕泰山木の古葉落つ」
北アメリカ原産、明治初(6?,see深津)年渡来。
葉の裏が緑色のものをグランド玉欄という。明治12年に18代大統領グランド将軍夫人が上野公園に手植えしたゆえ。(将軍はローソンヒノキを植えた,see深津)
モクレン科は現在の双子葉植物中で最も古い科、東亜と北米大西洋岸に離隔分布(1895年アーサ・グレイ)

2.「京滋植物風土記」京都新聞社(1974)
コブシp.204
嵐山、丹波、湖北、湖西の山に多い。タムシバは北山に多い。
思子淵が筏乗りの守護神となったことを説明するコブシのさお伝説
コブシのアイヌ語:オマウクシニ(良い香を出す木)、オプニケ(放屍する木)

3.別冊歴史読本「花と樹木ものしり百科」新人物往来社(1995)
ホウノキp.88
日本特産夏の季語
朴歯下駄、ホウノキの木炭は金銀の研磨用、朴葉味噌

4.太陽シリーズ「花の図譜春」平凡社(1987)
モクレン・コブシp.40
三好達治詩 山なみとほく(コプシ)、あわれしる(モクレン)
山村暮鳥詩 ある時(モクレン)

5.太陽シリーズ「花の図譜夏」平凡社(1987)
ホウノキp.61
川上澄生詩
 紅い燐の臓マッチ
 朴の木の白い花の雄しべ
 このマッチを青空にすりつけて
 甘い酸い花の匂を燃やさうか
 風下にあなたの家がある

タイサンポクp.64
厳冬から早春にかけての短い時期だけ落葉を見ないが、あとは一年じゅう、のべつ葉をばらばらと脱ぎかえる(杉本秀太郎)。
三好達治
泰山木の花さきしはそは昨日のごとし

(花筐)

6.深津正、小林義雄「木の名の由来」東京図書(1993)
オガタマp.39
常陸宮家の紋章は菊の周りをオガタマの花で囲んだもの。
被子植物の樹木の中ではもっとも原始的な形質を持つ。雌蕊と雄蕊が多数ある。
ミカドアゲハの幼虫の植葉、高知県に特別天然記念物のミカドアゲハ生息地がある。
タイサンボクp.152
大山木(渡来当初の名
) 泰山木:松崎直枝「趣味の樹木」(1932)
大蓋木:牧野博士「牧野植物随筆」(1947)
紅背木:植木屋仲間
洋玉蘭、荷花玉蘭(漢名、荷はハス:の意)
常盤玉蘭、常盤白蓮、常葉白蓮

 むかし人気の養生といいにけり
 泰山木の花のまひらき
 (岡麓)

ホウノキp.228
万葉集のホホガシワ:カシワは炊葉(かしむは)が転じたもの。ホホはほほむ
(含む)か?
保宝我之婆

7.白洲正子「木」住まいの図書館出版局(1987)
ホウノキp.145
飛騨のホウノキ製の「有道杓子」:ひっつかない、有道は高山の東の山中の村、今は廃村、高山に一人だけ職人さんがいる。

8.足田輝一「樹の文化誌」朝日新聞社(1985)
オガタマp.418
古今集
 みよし野のよし野の滝にうかびいづる
 あわをか玉のきゆとみつらむ
 (紀友則)

古今の三木:相生の松、をがたまの木、めどのけずり花(メドハギに木のけずりかけの造花をつけたもの)
シキミは以前はモクレン科とされていた。今はシキミ科。

9.山田正篤「気になる木」東京化学同人(1994)
ユリノキp.155
別名「ハンテンポク」葉の形から
モクレン科のなかでも原始的な種、5千万年まえ、イギリス、グリーンランドに生育していた。

10.毛藤勤治他「ユリノキという木」アポック社出版局(1989)

11.伊佐義朗「花木への招待」八坂書房(1983)
ホウノキp.126
鷹ケ峰讃州寺 高さ20m 樹皮がなめらか、木目が細密、鎌倉末期に枕に使われた。
「みちのくのくりこま山のほほの木の枕はあれど君が手枕」(夫木集)
縦にも横にも鉋がきく、工作によい。ホウ歯下駄、膳、椀、盆、画板、仏像、木魚 ホウノキの樹皮を製薬では「厚朴」とよんでいる。健胃下痢止めに使う。

12.山と渓谷社編「カラー樹の花2」解説倉田悟、山と渓谷社(1970)
タムシバp.91
熊本県小松神社、平家落人伝説:春のある朝、源氏の白旗とタムシパの花を取り違えて落人は皆自刃して果てた。
コブシP.94
宮沢賢治の童話に現われた「ヒキザクラ」はコブシの方言、その他にタウチザクラ(東北諸県)、タウエザクラ(秋田県の北秋田、鹿角両郡)、タネマキザクラ(岩手、秋田両県、ナワシロザクラ(青森県西津軽郡)、イトザクラ(青森、岩手両県)、イトマキザクラ(岩手県気仙郡)、イモウエバナ(栃木県上都賀郡)
「コブシの花咲いたら麻蒔け」(長野市北郷)
「コブシの花時に味噌煮りゃしくりじない」(長野県上高井郡高山村)
ホウノキp.99
田植え時に飯を盛る葉として朴葉を利用する民俗は各地に見られる。

13.牧野富太郎「植物一日一題」博品社(1998)
コブシとモクレンp.262
(辛夷はコブシにあらず、木蘭はモクレンにあらず)
「古来どの学者でも辛夷をコブシであるとして疑わず涼しい顔をしており、また従来どんな学者でも木蘭をモクレンで候としてスマシこんでいるのは笑わせる。(中略)コブシ(Mangnolia Kobus DC)は日本の特産で、中国にはない落葉喬木である。そして全然漢名はないから。これを辛夷というのは絶対に間違っている。
モクレン(Mangnolia liliflora Desr.)は中国の特産で、辛夷がまさにその名である。落葉喬木で庭園の鑑賞植物である。そしてこれはけっして木蘭ではない。
木蘭(Mangnolia sp.)はこれまた中国の特産で、高さ数仭に達する常緑の大喬木である。そしてもとより和名はない。」

14.安盛博「樹木の天然記念物指定の手引」p.42,牧野出版(1990)他
オガタマ
山口県:日本海岸での自生北限地、17本が群生している。
福岡県:2件3本、3.3m&2.9m、3.lm
静岡県:6.2m
国天:長崎県「小長井のオガタマ」2支幹、7.95mと5.43m,根周り9.0m
:鹿児島県「永利のオガタマ」、幹周7.2m
タイサンボク
福岡県:タイサンポク0.8mとハクモクレン1.3mの癒着木
シデコブシ
国天:愛知県「椛のシデコブシ自生地」
ハクモクレン
群馬県:根周り4m
長崎県:2.5m
コブシ
東京都:根周り2.8m
岐阜県:3.lm
岩手県宮古市:4.7m(see「岩手の名木・巨木」p.108
キタコプシ
八戸市(青森県):4.4m
ホウノキ
榛原町(奈良県):8.6m
新見市(岡山):10.0m(7支幹)
芸北町(広島県):5.1m
村岡町(兵庫県):8.9m(叢生の全周)
シキミ
北房町(岡山県):1.7m

京都のモクレン科の木々
文献名と番号
1「京都の木歴史のなかの巨樹名木」(京都市文化財ブックス第1集1986)京都市文化観光局文化観光部文化財保護編集発行
2「京都市の巨樹名木」京都市景勝地植樹対策委員会編集発行 1〜4、補遺1から4
3「区民の誇りの木」京都市

白峯神社のオガタマ(文献1、2-補遺2)
p.23根周り10.05m(南幹2.42m,北幹2.51m)
p,25(1980)地上0.6mで4.56m(南幹2.35m,北幹2.49m)
竹村俊則「京の名花・名木」p.38淡交社(1996)

新日吉神社のオガタマ(文献2-補遺2)
p.37(1980)胸高幹周1.8m

仙洞御所御田社のオガタマ(文献2-2)
p.69(1975)胸高幹周2.42m、樹齢120年

京大上賀茂試験地内のタムシバ(文献2-4)
p.23(1976)胸高幹周1.37m

林丘寺のハクモクレン(文献2-2)
p.19(1975)胸高幹周1.52m

招善寺のハクモクレン(文献2-補遺4)
p.7(1980)胸高幹周本幹1.8m、南側幹1.03&0.90、北側幹0.60,0.90&1.05m、東側幹1.07m

大悲山のホウノキ(文献2-4)
p,69(1976)胸高幹周2.10m

東山区下河原の往来のオガタマノキ
井上頼寿「改訂京都民俗志」p.151平凡社
「ここを牛王地といい、むかし祇園牛頭天王がはじめて天降った地と伝える、元祇園とも称して、江戸時代祇園の千度詣は、ここと本社の間を千度往復したということである。(中略)江戸時代にはここに寺があり、木の下に石地蔵があったが、根が巻きこみ、地下に埋ってしまったという。」

山崎聖天(観音寺)のハクモクレン
邦光史郎編「京都千年一山紫水明のみやこ四季と風土」、講談社p.43,1984所収今屋敷晶「春の花」「国道171号からも木に綿菓子がついたように見える…、三十余年前の台風で、大木の真中あたりから分かれた枝の一方が折れそうだが、その傷もいまは忘れたように毎年春の訪れを、国道を行きかう人たちにも知らせる。」

光照院のオガタマ2.3m

同志社大学のオガタマ2.4m
「良心の全身に充満したる丈夫の起り来らん事を望んで止まざるなり」新島46歳1889年(明治22年)在東京中に在京の学生横田安止に与えた返書中の一文。新島の遺した名文の一つと言われている。新島裏書簡集(同志社編、岩波文庫青106-1,1988, p.255-p.258)

北野天満宮オガタ2.5m(文献3)

嵯峨天竜寺北造路町の民家のオガタマ2.2m(文献3)

大将軍八神社オガタマ2.2m

下御霊神社のオガタマ(黄心樹)3幹,2m

霊光殿天満宮(新町一条上がる)のオガタマ1.5m

新町一条南西角の路上のオガタマ1.5m

寺町御霊前通り西入る、飯田邸のオガタマ2.1m

この界隈にオガタマ多い、例えぱ寺町通りの和田邸

植物園のタイサンボク

紫明堀川のタイサンポク

宝ヶ池運動公園のタイサンポク

あとがき

 唐突に筆が折られたのは、1999年の2月のことである。このときから、約7ヶ月間続いた地上げやとの闘争が始まった。一段落した後、書きつごうと何度も思い直したが、やれずに10年があっという間にすぎさった。その間、洛中洛外の樹々たちにもいろいろなことが起こっていた。死に絶え、殺されのも多く、今からもう一度現状を見て回るのは、悲しすぎる。大変である。10年前の記録として残すことにして、そのまま手を入れずにここに覆刻することにした。(2009年2月)

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