覆刻に当って

 <本稿は前世紀の終り、1990年代に書き始め1999年の地上げ騒動で筆を折った虚構の端くれの、その覆刻である。ムク、エノキ、ケヤキ、モチノキ、クスノキと順調に続いて、モクレン科の途中で中断したまま今日に至ってしまった。以下イチョウ、スギ、マツ、イブキ、モミ、ツガ、カヤ、シイ類、カシ類、ムクロジ、センダン、エンジュ、モクゲンジ、ヤナギ、ヤマモモ、キリ、モッコク、カジノキ、イスノキ、トチノキ、花の木(サクラ、ウメ、モモ、ツバキ、…)と洛中洛外の樹木巡りを書き綴る意気込みであった。クスノキの途中までは、みぞろが池自然観察会の機関誌「うきしま通信」に1997年の3月から9回にわたって連載させてもらった。また、ムクとエノキの稿は「電版ブック」というウエッブサイトに上程したが、最近そのサーバーがお釈迦になって消失の憂き目にあった。PC上にあるはずのファイルも行方不明、外付けハードディスクに保存しておいたバックアップファイルも、ハードディスクが壊れて取り出せない。幸い印刷されたものが一部手元にの残っていたので、これをスキャナーにかけて、OCRソフトのe.Typistで覆刻(?)を試みた。そんなに苦労して残すほどのものではないが、老後のボケ防止、暇つぶしにと、まずムクの章から始めたが、いつまで続くやらわからない。
 今回新たに書き加えた部分は、鍵括弧[……]でくくった。また青文字の下線を引いた部分をクリックすると写真が現れるように細工してある。当時の写真で残っているものは少ないが、これもできる限り、スキャンして載せた。ほとんどは、最近取り直した写真となるだろう。これも当該の巨樹が健在であるかぎりではあるが。
 本稿が出始めた頃から今までに遭遇したエピソードも思い出す限り集めて、裏話として別のページにした。

ム ク

 ムクの漢字は木偏に京で「椋」。といっても「京都の木」とか「大きな木」の意味からきたわけではなさそうだ。「椋」の音は「リョウ」で「涼」の三水を木に変えたものであることから、昔は一里塚に植え、往来の旅人がこの木の根元で涼をとったので、「椋」の字が生れた、という説がある。その樹陰を貴んだ作字である。「茂る」、「叢り生える」を意味する「撲」(ハク・ポク)とも書く。ムクという和名は「剥く」からきたと言う説もある。なぜだろう。京都新聞に以前連載されていた「ふるさと名木探訪」の第44回(1989月10月27日)に、亀岡の御霊神社のムクノキ(幹周8.6m!)が紹介されているが、その最後に次のようなことが書いてある。「毎年、この季節になると、福井県から十人ぐらいのグループがムクノキの葉を取りに来るという。松山さんは「どうされるか、理由は聞いたことはないんですが」といって、苔むしたムクノキの巨木を見上ぱた」
 ムクはニレ科の落葉高木で樹形や樹皮などがエノキとよく似ているためムクエノキとも呼ばれることがある。しかし、葉の先端が鋭くとがること、きょ歯が全周にあること、さらに葉表に短毛がありひどくざらつくことが特徴。葉や実を見れば容易に区別できる。ざらついた葉は乾燥してべっこう、象牙などの細工物の最後の仕上げ磨きに用いられる。だから「剥くのき」。平家物語に「播磨守は木賊草か、椋の葉か、人の碕羅を磨く」とある。わざわざ福井から亀岡まで来られる理由は解しかねるが、おそらく福井の人達も何かを磨く仕事に携わっている人達ではなかろうか。井伏鱒二の「村のムクの木」という小品中に瓢箪をムクの葉で磨いた子供のころの思い出話が記されている。暖地性樹木であるにせよ、福井にムクがまったくないわけではない。名田庄村の苅田姫神社にあるムクは県指定の天然記念物で立派なものだ。また小浜の加茂神社には市指定の巨木がある。「ふくいの巨木」(福井県,1992)と「わかさ小浜の文化財」(小浜市教育委員会,1969)の各々に記載されている。また上中の信主神社にも幹周7.7mのムクの老大木がある。
 落葉した冬場のムクとエノキやケヤキを、樹形や樹皮で見分けるのは素人にはなかなか難しい。春の芽吹きはケヤキが一番早くムクが最後のようである。ムクの若木の樹皮は灰白色で縦に走る褐色の筋がある。成木の樹皮は暗褐色で短冊状に逆返ってはげ落ちる。これに対してエキの樹皮は灰黒色、ざらざらしているが縦には裂けない。横に皺がよる。白髪になった浦島太郎が顔の皺を取って投げつけた榎が網野町にあって、皺榎と言われていたという話はこのことをよく物語っている。ケヤキの樹皮は若木では皮目が横に並ぶ。老木になると薄い鱗状にはげ落ちる、とよくいわれるが、木にも個性があって一概には言えない。ケヤキの樹形は竹箒を逆さに立てたような形を呈していることが多い。エノキは割合に低いところから直角に近い角度で枝を横に出してから立ち上がる場合が多いようだ。ムクはよくごつごつした枝張を呈する。しかし、樹形にも個性があり一概にはいえない。ムクの樹形の最もはっきりした特徴は板状の根を形成することであり、この板根で幹を引っぱって支えている、という感を与える。エノキも板根を作るが、板根にも横に繊がよるので区別は容易である。
 俚諺に「椋の実千俵なっても樹は榎」とあるかと思えば、「椋の木の下にて榎の実を拾う」ということもある。「榎の実生らば生れ、木は椋の木」とあるかと思えば、「椋は生っても木は榎」というのもあってややこしい。いずれも、目の前にある事実を無視して、あるいはそれを承知で、自分の意見や思い込みを主張し固執することを言う。ムクの実は熟せば黒紫色、エノキの実は赤褐色に熟すから区別は容易である。いずれも果肉は甘味があり食用にされる。[ムク、エノキ、ケヤキの判別]
 ムクはそんなに太くならない。環境庁が1991年にまとめた自然環境保全基礎調査によると、幹周10m以上のものはない。環境庁の巨樹・巨木林調査要綱によると幹周とは地上から130cmの位置で測定された値である。胸高幹周に相当する。「目通り○○m」という表現の場合は地上から150cmの位置で測定された値と考えてよい。しかし、低いところから支幹が分岐していた場合や、根上りの状態だったり、幹の測定位置に隆起したコブがあったり、傾斜地に生えている場合など、規定通りに測定できかねることが多い。本文中の数字は「おおむねこの程度の大きさである」と考えてほしい。実感される大きさは幹周だけで決まるわけでもなく、樹高、樹冠の広がりなどにも関係する。幹周、樹高、樹冠の広がりの各値に適当な重みをつけて足し合わした数値でもって大きさの指標とすることもある。これをoverall sizeと称しAmerican Forestry Associationの方式は、インチ単位の幹周、フィート単位の高さ、フィート単位の樹冠の広がりの三つを加えた値をAFAポイントとし、これで大きさを評価している。しかし、AFA 950ポイントと言われてもピントこない。大きさを実感するには実見するに越したことはない。 国の天然記念物には三重県の椋本、愛知県の津島、奈良県の二見のムクの3件が指定されている。のムクは俗謡に「椋本の椋と言う字は木篇に京、京は退いても木はのかぬ」とうたわれている。いずれも8mを越すが、環境庁の調査で幹周が一番大きかったのは兵庫県指定の三日月町のムクで9.9mもある。[最近判明した特筆すべきことがある。園部市天引の八幡神社にある幹周り9.1の巨樹は従来ケヤキとされてきたが、実はムクであった。ケヤキならこの程度の巨樹は珍しくないが、ムクなら最大級の部類に入る。詳しくは高橋の「日本の巨樹」のサイトを参照のこと] 京都市内で最大の幹周りを有するものは、この調査結果に記載されているものでは5.02mである。ムクなら、4mを超えるものは大木といえよう。京都市内でもこの程度のムクの大木はいくつか目にすることができる。糺の森、植物園、加茂街道、京都御苑などにある。植栽されたものもあろうが、かつては京都にも街のあちこちに森があったことを偲ばせてくれる生き証人であることも多い。

トクサ「木賊」について

「園部探訪」(小出吉親公i影会1987)より
 若森、南大谷集落地域内は山地が多く、平地は本梅川沿いに開けています。住民の大部分は農業や林業を営んできましたが、産物は米麦、薪炭、木賊、椋の葉等の生産加工が盛んでこの地の特産物でした。中でも木賊は東本梅木賊として、全国に名が知られ、大正、昭和初期にかけても生産加工が盛んで、地域住民のこれにたずさわる人が多く、大きな収入源となっていました。しかし戦争中広い面積を占めていた木賊畑も甘藷畑に変わり、今では木賊畑の姿は皆無になっていますが、若森地区でただ一人、他所から木賊を仕入れ、木賊産業を守っている人があり、貴重な存在となっています。ちなみに木賊加工については、木賊が多年性植物であり湿地に適し密生しますが、これを刃渡り二、三センチの小さな木賊鎌で一本一本より分けて古いものを刈り取っていく、これは手馴れた人に限られていました。こうして刈り取ったものを三、四種類のサイズにより分ける。つぎにわらを使って、三十本程、上下三ヶ所に平面になるよう編み一枚にして仕上げます。
 この編み手として若い娘さんが働き、夫々の生産枚数に応じて日当が支払われました。その腕前によって娘さんの人気にもなっていたようです。こうして編まれたものを大きな釜の中の熱湯に通し、天日に干して緑の色素をぬき、真っ白な製品に仕上げます。乾燥には広い場所が必要で、しかも雨に合わないようにしなければならないなど、手間のかかる作業でありました。製品は研磨用として使われ貴重なものでありましたが、その後サンドペーパーのような人造研磨製品が出てきて、需要がほとんどなくなっています。今は装飾用として使われ、そのままでは生花用としてどうにかその余命を保っているようです。
 椋については南大谷や赤熊(亀岡)地域の屋敷材として今ものこっており、ニレ科の落葉高木で、高さ十八米、葉は長卵型で固くざらざらしています。この葉を乾燥して物を研くのに使いましたが、今は木賊と同様ほとんど使われなくなっています。


樹高の測定

 三角法を応用した携帯用の測高器を、KOBA工房に試作してもらった。最大の特徴は、測定点から木までの距離を測定する必要がない点にある。その代り仰角を木と一直線上にある2地点で測り、この2地点間の距離と2つの仰角から樹高を算出するものである。精度がどの程度出るかはまだ調べていない。検証するために、高さが既知の適当な建物等があれば教えてください。
 この測定法に関して、同志社の創立者新島裏の手になる「斜陽之帰雁」と題された興味深い画がある。この画は新島が密出国し渡米する前に、軍艦教授所で数学を学んでいたときのノート(五十丁のペン書き写本)に描かれていたもので、船中から山の高さを求める数式が書き留められている。船は陸に上がって山に近づけないから、海上の二点で仰角を測定して山の高さを算出する方法が記されている。試作した測高器とまったく同じ三角法の原理を用いているが、下に示したように算出式自体は若干違っている。なお、普通の測樹学の教科書(例えば、大隅眞一編著「森林計測学講義」養賢堂,1987)には測定点から木までの距離を知って樹高を算出する方法しか記されていないが、これでは船中から山の高さを知りたい時には役立たない。同じ数学を応用するにしても、航海術と測樹学の発想の違いが窺えて面白い。新島の算出式
 山の高さ(CD)= d・sin(p)・sin(q)/sin(q-p)
本器の算出式
 山の高さ(CD)=d・tan(p)・tan(q)/{tan(q) - tan(p)}
dはAB間の距離、pとqはA点とB点での仰角である。

洛中洛外のムク

糺の森

 川端今出川の北東角に交番があるが、この傍にかつてはエノキかムクの大木があったと記憶している。四手井綱英編「下鴨神社糺の森」(ナカニシヤ出版,1993年)所収の新木直人氏の記事でこの木が唐崎神社の神木であったことがわかる。その雄姿を物語る貴重な写真が収録されている。先住権からすれば、この大木の側に交番があったといったほうがいいだろう。昔は糺の森はもっと南にも広がっていたのである。その生き証人も、京阪電車の工事で木造の交番が建て替えられた際に伐採され今はない。
 家庭裁判所の一帯も糺の森の一部であったろう。それを偲ばせるムク、エンキ、ケヤキなどニレ科の樹木が、枝を切り詰められて、根の周りを舗装されながらも、精一杯、鮮やかな「緑」を毎年見せてくれる。裁判所の敷地の外、歩道際にあるムクは、幸い剪定をまぬがれて形の良い枝ぶりをみせている。
 最大幹周のムクは、西下乗所の辻にある。生産科学研究所の横から森へ入って行くとチビッコ広場があるが、そこの十字路をこう言うらしい。丁寧にコンクリート製の柵で囲まれ絹飾りをされているが、もう枯れていて幹周5.2mの巨体が、糺の森の晒ものにされている。この辻の南北の路に沿ってムクが多い。糺の森のムクについては、四手井綱英編「下鴨神社糺の森」所収の森本幸裕「糺の森の樹木学」に詳しく紹介されている。生存するムクで最大径のものは河合神社の西南、下鴨本通と御陰通が交わる所にある。1991年の森本氏の計測結果は、直径145cm、単純に幹周りになおすと4.6mになるが、幹周を実測したところ4.1mと以外と小さい。
 糺の森は滅びゆく「ムク王国」といわれているが、このムクだけは今もどんどん成長しているようで、1939年は直径97.1cm、1983年に111.8cmに成り、1991年が145.0cmと報告されている。糺の森でこれほど成長しているムクは珍しいが、最近、主幹の梢が枯れ始めて新芽を出していない。幹断面積の合計では、今でも「糺の森の王様はムクノキ」ではあるが老大木が多く、残念ながらムク王国も末期である。なお、倒木を利用した自然遊園地が糺の森のなかに設けられているが、ここにある一番大きい木はムクで、直径1.5m、長さ10mである。かつては糺の森では一、二を競う巨木であった。

流木の森

 植物園のなかで、一番植物園らしくないところが、半木神社の周辺一帯である。それもそのはず、6ヶ年を費やし1923年に竣工した植物園は、流木神社の森をそのまま園内に取り入れ、周囲に池をめぐらし、まわりの賀茂村(下鴨と上加茂に対してこのあたりは「賀茂」という字名をもっていた)の畑地を公園に変えたものである。当時はエノキやムクの老木が鬱蒼と生い茂っていたという。今でも少しはその趣があり、京都市内でこれだけムクがかたまって見られる所は他にはない。たいへん貴重な植生である。当時すでに老木であったムクは今ではずいぶん歳をとってしまって、元気そうはない。ムクの老木の樹皮がどんなものかを観察するのにはもってこいの場所ではあるが、朽ち果て強風に倒れる日も遠からず来るだろう。そうなれば京都市内にもかつては森があったこと思い出させてくれる生き証人が又一つなくなることになる。いまのうちに十分見ておきたいものである。
 歌枕にもなっている流木とは、西賀茂の浮田の森に鎮座していた社が賀茂川の洪水で流され、この地に漂着したことに由来する。今は「半木」と書いて「なからぎ」と読まれている。なお植物園内で元気なムクもいくつか目にすることはできるが、ケヤキやエノキほど多くはない。ムクをはじめ、エノキ、ケヤキなどのニレ科の樹木は、洪水で裸地になった氾濫原によく育ち、地下水位が高くても耐えるといわれている。賀茂川、高野川や鴨川沿いにムクの大木をよく目にするのはこのためだろう。その様なムクを思いつくままにあげておく。
 幹周りでは市内で一、二を競うムクが上賀茂神社にある。幹周りが4.6mもあるのにどこにも紹介されていない。通常知られているのは、神社境内の東南隅、白壁の土塀のそばの円形の小さな台地上にあるムクである。京都市の調査(京都市景勝地植樹対策委員会「京都市の巨樹名木補遺4」1989年)では3.6mであったが、1997年4月に実測したところ幹周り3.8mに成長していた。塚の脇には日露戦争の勝利を記念して武器を奉納した寺内陸軍大臣の記念碑がまだ残っている。千葉先生の記憶によると、戦前この場所には本物の大砲が据えられていたとのことである(今、2008年9月考えるとこの大砲は午砲であったように思われる)。ここから北へ境内のガレージに入って行くと、かつては左手に枯れ葉や枯れ枝がうず高くつまれたところが目にはいったが、その真ん中に悠然と立っているのが当該のムクである。今ではこの周辺は駐車場として整備され、何か不自然なところに閉じ込められた感がある。先の調査では見落とされていたが老大木である。
 御薗橋から葵橋までの河川敷の斜面や堤防上の加茂街道にもニレ科の高木が何本かみられる。故巽先生の1995年の河畔木の調査(烏丸中理科室自然誌研究「都大路」Nos. 22, 24, 26)によると出雲路橋から北大路橋までの西岸には、エノキが23本、ケヤキが6本、ムクは3本しかない。北大路橋から北山橋の間では、エノキが8本、ケヤキ23本、ムク2本、ニレ1本。さらに上流、北山橋から上賀茂橋の間には、エノキ12本、ケヤキ8本、ムク4本、河川敷が狭くなる上賀茂橋から御薗橋の間には、エノキ5本、ケヤキ3本、ムクのかわりにクヌギが1本あった。ムクは以外と少なく、幹周も小さいようだ。先述した糺の森とは対照的である。
 河原町今出川の鴨川沿いで最大のムクは、北村美術館の庭園内にある幹周4.6mの老ムクである。この美術館は春と秋の短い期間に建物を特別公開しているが、庭に降り立つことが許されないので遠くから眺める以外にない。主幹が朽ちているので、河原からでも遠望することができないが、鴨川の河川敷から金網越しに老ムクの大きな幹を間近に目にすることはできる。ここからさらに南にいくと、公務員の宿泊施設「くに荘」や「鴨川荘」の庭のムクに出会う。
 鴨川沿いに河原町通をずっと下がっていくと、九条を過ぎたあたりでガレージ越しに、このあたりには珍しい樹冠が見える。札の辻という名の通りに出くわす直前の斜めの小道を入ったところに、東九条村のかつての産土神であった宇賀神社がある。このあたりは明治の頃は九条葱の産地の南東端にあったっているが、市街地が伸びてその面影はない。もっと以前は、葭(註)の生えた沼中の小島だったと伝えている。

(註)アシ

「葦」あるいは「藍」とも書き「あし」もしくは「よし」とも訓む。「あし」と「よし」を区別する地方もある。よしは節と節のあいだ空になっていて軽く、あしは茎の中に綿毛状のものがフまっている、と言う。あの人は腹に一物ある人だという場合、あの人はあしだから、と言う、という話が司馬遼太郎の「街道を行く」中の近江散歩のケケスの節にある。ケケスはヨシキリ。ヨシは大阪を代表する植物であり、奇妙なことに大阪府の「花」に指定されている。大阪市の市章である「津漂」はヨシの茂った水路を示す標識にヨシを結わえたことに由来している。

 その当時からのものかどうかわからないが、境内にはムク、ケヤキ、イチョウの大木が残っている。とりわけムクは、見るからに古木の容貌を呈している。実測値は幹周4.3m。1979年の調査結果の3.9mより40cmも太っていた。悪環境にもめげずがんばっているといえよう。京都市景勝地植樹対策委員会「京都市の巨樹名木補遺2」(1980)によると根に悪影響を与えていた社殿を囲む石積みが改修されたとあり喜ばしいことではあるが、いかんせん道路沿いの悪環境は何ともし難い。
 高野川沿いにもかつては多くの樹木が繁っていたと思われるが、今は道路やマンションとガレージに変貌してしまった。ガレージの隅にかろうじて残されたものもあるが、邪鷹者扱いである。川端通りの北の起点である馬橋の西詰めにあるマンションの広い駐車場の金網に沿って3本の高木が見えるが、その内2本がムクである。いずれも最近、頭を見事にちょん切られ、枝もなく樹ともいえない無様な姿で突っ立っている。胸高での幹周は2.7m、他の一本は3.3m。地上3mの所で切られた小さいほうの主幹の年輪を、梯子をかけて勘定して見ると110本もあった。

七 野

 毎月、25日天神さんで賑わう北野天満宮の梅林の中に幹周5mを超えるムクが1本ある。境内を見渡すと何本かムクやエノキがあるのに気付く。例えば人目につきにくい場所であるが、北門の東側にあるムクは幹周3.6mの老木である。さらに今出川通から一条通までの、御前通と下の森通に挟まれた一帯でも、枝を極端に切り詰められた何本かの落葉高木を目にすることができる。かつてはこのあたりまで北野の森がひろがっていたのであろう。森谷によると北野の森は、秦氏の開拓の後平安京建設期に伐採され、貴族の遊猟地となっていた。その後は政府直営の牧場も営まれ、牛や馬が放され活発な乳生産が行われていたそうで、北野社の牛は北野の森のありし日の姿を象徴したものだという(邦光史郎編「京都千年1山紫水明のみやこ四季と風土」講談社1984年に所収)。下の森という通り名にそれが偲ばれる。大正の頃まで竹やぶと沼が広がっていて、この辺りの町家の裏庭の老木の洞には狐が棲んでいたと言う。
 この通りの一つ東、一番町(七本松通仁和寺街道上ル西側)に立本寺という日蓮宗の大きなお寺がある。広大な境内の一部は児童公園になっているが、境内のあちこちにケヤキ、ムク、エノキがめだつ。これらもその名残ではなかろうか。平安京ができても長い間、大内裏の北郊、船岡山麓一帯は広漠たる原野であった。現在の一条通は平安京大内裏のほぼ北端にあたり、それより北を北野とよんだ。さらにその北辺に平野、蓮台野、上野、紫野、萩野(一説に〆野に替える)と呼ばれた人家の少ない野の里が続いていた。また、たびかさなる大火で大内裏の建物もみな焼け失せてしまい、再建されることなく平安末期には、旧地は荒れるにまかされ荒野に帰した。いつのころからか、この地は内野と呼ばれるようになり、さきの六つの野とあわせて七野と称されている。江戸時代には「なのはなや此辺まで大内裏」(召波)と歌われ、吹毛草に「内野蕪菜蓮台野大根」とあり、このあたりは近郊農村が広がっていた。今は、想像をたくましくしてもかつての景観を思い出させてくれるものは何一つない。ただ、昔はこの地一帯がこんな木々で覆われていたことだろう、と思わせてくれるものがいくつかある。
 大内裏にもムクがあったようだ。「大内裏図考証巻6」に「十訓抄日、玄象云々、昔より霊ものにて、内裡焼滅の時も、人の取出ぬ前に、飛出でて、大庭のむくの木のうへにぞ、かかりける」とみえる。「平治物語 上待賢門の軍の事」の段に「大庭の樗の木のもとまで・・」という件があり、その注釈に『京大本の「あうち」を除いて他諸本「椋(むく)」。大内裏図考証によれば、云々」(新日本古典文学大系43保元物語・平治物語・承久記,岩波書店,1992)と記載されている、と元堀川高校の塩谷則子先生から御教示いただいた。それで「大内裏図考証」を繰った次第である。場所は内裏の大庭である。なお平治物語の別本では「大庭のむくの木を、中にたてて、左近の桜、右近の橘を、七八度まで追まはして、くまんとぞもうだりける」とムクの周りでの騎馬戦が活写されている。
 紫野は船岡山の北、大徳寺界隈の地をいうが、平安前期には天皇の狩猟地であった。今は住宅地となって往時の原野の面影はまったくないが、大徳寺の広大な境内や今宮神社をひかえまだ緑が多い。幸い大徳寺の境内に取り込まれて、それも敷地の際であったためか伽藍建設時にも伐採を免れた、と推測されるムクが一本ある。旧大宮通(大徳寺通)の高い白壁越しに鐘楼が見えるが、その傍に聳え立っているのが当該のムクで幹周は何と5.4m。環境庁の自然環境保全基礎調査に記載されている京都府内の最大径のムクは、舞鶴八幡神社のムクで幹周5.26m。これを凌いでいるのに今までどこにも紹介されていないのは不思議である。板根が一つ大きく張っており、そのため幹周り大きめとなっているが、高くて太い主幹を精一杯支えている。たいへん力強い印象を与える立派な、まだ元気な木である。
 蓮台野は、東の鳥辺野、西の仏野とともに京の無常所として知られているが、この地に広大な寺門を構えている上品蓮台寺の塔頭、真言院の裏にある墓地に「頼光塚のムク」と紹介されているエノキがある(竹村俊則「京の名花・名木」, 淡光社, 1996)。高さ30m、目通り幹周3m、墓地という恵まれた環境のもと、空高く四方に枝を精一杯広げている様を目にできるのはムクでなくともうれしい。
  西陣の中心、廬山寺通と智恵光院通の角を北にちょっと入った三筋目を右に折れると櫟谷七野神社に突き当たる。秋里離島の「都名所図絵」に挿画入りで紹介されている由緒ある神社である。この挿絵の中に大きなムクが描かれているがこれは今ではない。しかし本殿西側の石垣沿いにムクとエノキが仲良くならんでおり、樹皮や枝ぶりを見比べるのには便利である。境内の末社白薄明神の背後には立派なモチノキがある。これも一見に値する。

京都御苑

 京都御苑は、京都御所の周辺、東西700m、南北1.2Kmにおよぶ地を築土と石垣で囲み九門を設け、市民が自由に通行でき、憩えるようにした場所である。明治維新まではここには皇族・公家の邸宅や寺院の里坊など、200をこえる家屋が密集していたそうである。大正の御大典を機に建物類はすべて撤去され、芝生や樹木を植えて公苑となった。かつての公家の邸内にあった庭園や鎮守の社はそのまま残されたため、老木大樹も多い。
 蛤御門から入った苑内、京都御所の南西角の玉砂利のなかにあるムクもその一つである。清水谷家に植わっていたものらしく、樹齢300年といわれ高さ30m、幹周りは5mにおよぶ老大木である。その由来は、大正14年に出版された勧修寺経雄著「古都名木記」によると、清水谷家が吉田村から移転した時、吉田神社の屋根に生えていた芽生えを鎮守の神木にするために移植したものという。最近、鳥居形の支柱が施され写真映りが悪くなった。かつての雄姿は「京都園芸」の142号(1956年)の巻頭を飾っている写真で偲ぶしかない。ただ写真の説明には『御所西南榎」とあるが、当該のムクに間違いはない。余命は全うしてほしいが、無理やり樹医の手にかかって生かされたり殺されたりするのはまっぴらだ。自然死をこの木も望んでいることだろう。
 苑内にムクは以外と少ない。エノキはいく本も目にすることができる。 由緒は特にないが、若々しい元気なエノキが、御苑南西の梅林の内に一本ある。幹周4.4m、エノキ特有の板根が発達し始めており、まだまだ大きくなるだろう。人工的であるにせよたいへん恵まれた環境にあってこれからが楽しみである。100年もすれば立派な大木となろうが、人間の寿命ではそれを目にすることはできない。
 御苑東側、梨木神社と接する清和院門を入ったすぐ北側一帯は、まったく自然のままに任された一角となっている。この地に足を踏み入れると、サクサクという音とともに、落ち葉の心地よい感触を味わうことができる。塀際の築土の上に大きく枝を張ったエノキが一本ある。幹周4.6m、あまり人の目に触れることはないが、御苑のエノキの中では大きい部類に属す。周りの自然環境とともに一見の価値がある。
 これと対照的なのが向いの梨木神社境内のエノキである。最近境内の南側は駐車場に変貌し、エノキの根の周りは舗装され惨めな状況を呈している。樹木の木陰につつましく建っていた上田秋成の歌碑は、開け拡げな場所に移され、セメントで無理やり台石にくっつけられている。これが神社商売というものらしい。駐車した車の屋根に落ちる葉っぱに苦情が出て、いずれエノキは伐られる運命にあるのだろうか。伐られた老大木が祟るという話はよく聞くが、実際に祟ったためしはない。そうあればいいと願うばかりである。
 さてムクであるが、御苑の塀際を自転車で一周して2ヵ所で見つけたが、いずれもあまり元気そうには見えない。一つは御苑北東部のグランドの間に、他の一つは南西部、出水広場の内にある小高い所に見出される。両場所とも4本のムクがかたまって生育しているが、最大幹周は3.8mと大木といえるほどではないが、老木の様相を呈している。単木としては、環境庁の京都御苑管理事務所の入口の外にあるのが大きい。幹周り4.1m、まわりに陰をするものがなく精一杯枝を延ばしていて気もちがよい。ただ砂利道で人通りもあり、根周りの環境としては、旧河水谷家のムク同様、理想的とはいえない。南側の丸太町通に面した土塁の上に、石垣を抱き込んだムクがある。幹周4.1mと立派なものであるが、憧起した瘤を着けたその奇体に目を向ける物好きな人はいないようだ。
 その他にも仙洞御所の南側に幹周5mに近い大木が、富小路門の東側に幹周4mのものがある。広い御苑で目立たない存在であるが、近づくとその大きさに驚く。仙洞御所内で、幹周5mに近い大木のムクが3本も報告されているが、一般人が簡単に目にできないのは残念である。1997年に御所内を参観した折りに伐採直後のムクに出くわした。地際の切り株の大きさからして立派な巨木であったことが偲ばれたが、讐備の職員の人にせかされてゆっくり検分できなかったのは残念であった。寺町通と平行して走っている土塀沿いの道から、塀越しにのぞいているほかの太そうな幹のムクを見ることはできる。ただ近づき過ぎないように。讐報が鳴り讐告のテープが流れて恥ずかしい目に会う。

東山山麓

 東山山麓の台地もかつては一面樹々の緑に覆われていたことであろう。円山公園を真ん中に、上は知恩院より下は音楽堂の南あたりまでは真葛ヶ原と呼ばれ葛、薄、茅の繁る原野であった。木陰に床几を並べ、酒食をもてなす水茶屋が設けられるようになったのは江戸時代になってのことである。今も円山公園には落葉高木が散在している。このなかには幹周3m前後のムクが何本も見うけられる。もっとも大きいムクは公園の端にひっそりとたたずんでいる。料亭左阿弥の塀際に沿って知恩院に通じる土道が自動車道に出くわすたもとに、根もあらわに高い石垣を抱える大木があるが、これがムクである。足場の悪い石壇と塀に囲まれた狭い空聞に押し込まれていて、幹周は測定しにくいが優に4mを越えている。人の足に根周りを踏み固められる日々を過ごしている公園内の他のムクに比べれば、周りの環境は良いようだが、理想的とはいえない。ムク本人は人目など気にしていないだろうが、人知れずに朽ちてしまうのは惜しまれる。
 この界隈で一番の大木は知恩院境内、黒門へ通ずる城壁状の石積がある参道の脇の傾斜地中腹にそびえている。1980年の調査ですでに幹周は4.8mとあり、今では5mを越えている。おそらくこのムクは知恩院境内に取り込まれてはいるが、東山山麓往年の植生の残りであろう。斜面とはいえ立地環境はたいへん良く、元気である。ただ斜面を登りきった所が駐車場であるのが気掛かりである。この駐車場にもムクとエノキが散在しているが、根周りに植生はなにもない。
 さらに北、知恩院から青蓮院への観光銀座の道を少し上った所にある湯豆腐店「蓮月茶屋」の門内すぐ左手にもう一本のムクがそびえている。1980年の調査で幹周は4.4m、これもまた山麓植生の生き残りで樹齢800年と推定されている。茶屋の玄関の舗装に囲まれ、幹にテイカカズラの茎にまとわりつかれているが、樹勢は衰えが見えない。地面深く十分に根を張ってから明治維新を迎えたことであろう。大気汚染の進行する時代に、どのくらい持ちこたえられようか心配である。
 1991年の環境庁の資料によると、市内で最大径のムクは法然院にある。このムクもまた、門前の街路と境内を隔てている傾斜地に直立している。ムクが傾斜地を好むわけではなかろう。町中ではそのような地にしか生き残れないことを物語っているのかもしれない。幹周は、1990年の調査では5.02m、1974年の京都市の調査では4.78m、さらに以前1939年の池田氏の調査では4.10mであった。最近の15年で24cm、その前の25年で63cm太ったことになる。明らかに成長速度は落ちているが、土層の深い傾斜地にあるため人や車に根の周りを踏み固められることなく湿潤な立地環境が維持でき、樹勢は良好である。これも又、山麓植生の生き残りである。

聖護院の森

 18世紀の初め、東山天皇の頃の話。天皇の典侍の一人新崇賢門院の夢枕に白狐がたって「御所の辰巳の方角(東南)に森があるから、そこへ祭れ」という。門院はさっそくこの霊夢を天皇に伝え、人を遣わして森の有無を調べさした。はたして深い森が見つかり、勅命により祠を建立。これが御辰稲荷と伝えている。この御辰稲荷の故事は元禄時代の話であるが、井上頼寿氏の「京都民俗志」によると熊野神社付近は聖護院の森といって明治の中頃まで昼なお暗い森であったという。「昭和の初めには紀州熊野から移植したエノキの残りが何本かあった。例えば、南東の角、今は銀行となっている所に二、三本残っていた」という。また、岡本大無氏の「京洛巨木巡礼記」によれば、熊野神社前の料亭「森桝」の傍らにムクの大木があったが、東丸太町通りの拡築であっさりと伐採されたという。
 実際、熊野神社の交差点のあたりにはいくつかその痕跡が認められる。その中で一番目立つのが、熊野神社に接して東大路に面した八橋の老舗のムクである。3年程前に店が改装された折りに、このムクも化粧直しをしてもらって、店の一大看板になっている。お店の人いわく「ムクの実がときどき落ちていますが、木はケヤキです」。柳田国男は「榎実千俵なっても木は槻」(「槻」はケヤキの古称、普通は「檸」と書く)と言うたぐいの俚諺が関東方面にあることを書き残しているが、ムクとケヤキの組み合わせは始めて耳にした。[市民の誇りの木に指定されていて、ムクノキの名札も付けているからムクノキに間違いはない]それはともかくとして、たいへん立派なムクの木である。店内に入ると茶菓の接待があり、床几に腰掛けてゆっくりと幹と根を観察することができる。一本の根は床几の下まで半分地上に現われていて、それから士間の下にもぐっている。全体の容姿を見たければ、お茶室と見紛う厨を拝借すればよい。
 熊野神社の西北すみに接した土塀の中に立派な土蔵があるが、この塀と蔵の狭い空間にエノキの老木がある。丸太町通の南にはケヤキが二本ある。一本は東大路に面したお医者さんの敷地内、南西隅の塀と洋館の間の、これまた狭い所に押し込められている。他の一本は、水道局疎水事務所の駐車場にあり、過度に勇定され醜い姿を晒している。
 熊野神社の東、丸太町通を少し上った北側に先述した御辰稲荷があるが、その隣の錦林小学校には立派なケヤキが三本ある。「学校の名木百選」に名を連ねており、秋ともなれば錦織の如き景観を呈していたであろう聖護院の森を偲ばせるものである。

葛野

 北は太秦安井、南は名神高速道路が桂川を渡る上鳥羽塔の森までの全長6.8㎞の通りは葛野大路と呼ばれる。「大路」などと往古を思わせるような名前にもかかわらず、「カー・ウインドー・ウエイ」といわれるぐらい、自動車関連の店やガソリンスタンドが軒を連ねており、自動車教習所まである。この葛野大路に名を残している「葛野(かどの)」という地名は、大昔は京都盆地全体を示したようだ。8世紀のはじめに最終的に完成したという「古事記」や「日本書記」に収録された国ぼめ歌に「千葉の葛野を見れば百千足る家庭も見ゆ国の秀も見ゆ」と歌われた山背の地である。その中心は、おそらく早くから農耕村落が開けた葛野川=桂川の流域一帯であったろう。
 この川は広河原の奥に源流を持ち、北山に発した多くの渓流を合せ、八幡で宇治川と木津川とに会して淀川となる。この間いろいろな名前で呼ばれる。京北町あたりまでは上桂川である。国土地理院の昔の図版では大堰川と記載されている。日吉町を過ぎて亀岡辺りまでは大堰川、保津から嵐山までは保津川、嵐山から桂の里を流れるとき初めて桂川となる。今の国土地理院の地図にはこのように記載さてれているが、保津峡を抜け嵐山に至るあたりまで大堰川といいならされている。秦氏の大きな根拠地であった葛野川流域は低湿地でたびたび水害を被ったことだろう。「葛野に大堰を造る、天下に於て誰か比検する有らんか」と史書にみえるように、大堰川の名が葛野川に与えられて当然である。とすれば今の国土地理院の大堰川の使い方は解せない。乞う御教示。今は一昔前の田園風景さえ目にすることはできない。神社や桂川堤防にひっそりとたたずむ樹木にその縁(よすが)を偲ぶほかはない。
 嵐山の渡月橋の北詰、観光客のだれもが目をくれようともしないエノキの雄姿を右に見て東へ、しばらく大堰川に沿いそのまま三条街道につながる道をいくと車折神社の先で有栖川を渡る。その先の北側に、伊勢斎王ゆかりの史跡斎宮神社がある。天皇の即位ごとに吉凶を占って選ば(卜定さ)れ、伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王いつきのみや(斎宮)が伊勢神宮に赴く前に一年間潔斎のために篭ったところを野宮という。多くは嵯峨野辺りに営まれた。一方、上賀茂神社に仕えた賀茂斎王の斎院は七野神社の近辺に比定されていて、紫野院とも呼ばれる。いずれも有栖川と呼ばれる川でみそぎ祓をした。紫野の有栖川は船岡山の南から大宮通を南流し、堀川に合流していたが、今は暗渠となっている。
 斎宮神社社殿の右、社務所の前に板根をいっぱいに張ったムクがある。板根が発達しているので幹周りを測定しにくいが、4mは優に越え5mに近い。樹齢は500年といわれている。近年めっきり樹勢が衰え、蘇生術が施された。京都府の「身近な自然環境保全推進事業」の対象となって56万円の助成を得て行われたそうだ。1991年に林野庁が「樹医」制度を創設して以来、多くの樹木医が認定され、あちこちで活躍している様子が報道されるようになった。これによって一般の人に樹木への関心が高まることは、それはそれでいいのだが、寿命が来ている老樹を無理やり生かし続ける愚を踏んでほしくはない。周辺環境の悪化が本当の原因なのに、それを改善せずに手術で一時的に蘇返らせるのは酷である。手術を施して、外見はきれいになったがかえって寿命を縮めた大木も見受けられる。
 周りから舗装道路に攻められ、自動車の排気ガスを四六時中呼吸させられている老ムクがある。松尾小学校のそば、苔寺へ向う四辻に立っている。折れた主幹には隆起が現われ、樹皮はごつごつと荒れほうだいだが、細い枝先にいっぱい葉を付けて生き存えている。地元では「み〜さん」と呼ばれており、樹齢300年。古来から守り神となっているためか、今まで伐採をまぬがれてきたが、周辺環境はいたって悪い。京都園芸第1号(大正13年11月)の雑報として香山益彦氏が「京都府下の大木に就いて」という一文を寄せられているが、その中に「榎4.5m松尾村井戸ノ内」とあるのがこのムクではなかろうか。
 同じ様な環境にあったムクが一本、京阪中書島駅西450mの三叉路に立っていたようだ。1974年に京都新聞社から出版された「京滋植物風土記」に「樹齢数百年の古木で昔から神木とされているため切り手がなく、いまにいたるも健在」と紹介されていたが、今は痕跡もない。一思いに切られたのではなく、徐々に締め殺され、誰に崇ったらいいのか迷っている。
 枯れた後まで丁重に祭られているムクもある。胸高幹周5.9mという大木が松尾神社の客殿入口と茶屋のあいだの狭い空間にでんと構えていた。幹面はコプ状の隆起が多く老樹の相を顕わしていた。客殿も茶屋も後から建ったものであろう。境内には往古の植生が散在しているが、当該のムクは惜しくも1993年の大雨の後で寿命を全うし枯れた。今は社殿の左手に、注連縄で飾られた根株が保存されている。さしもの大木も根株の破片だけでは迫力がない。なお、境内の「お酒の資料館」の西側に幹回り3,5mのムクは健在である。

小学校のムク

 京都市教育委員会は、校庭の樹木を学校のシンポルとして残していこうと、「学校の名木百選」を選定している。全部で104本が選ばれているが、この中にムクが3本はいっている。有済小学校、北野中学校と山科中学校の3本である。
 有済小学校のムクは山吹御前ゆかりの神木としてつとに有名である。三条京阪南口の東向いという土地柄からして、鴨川河岸の植生の残りかもしれない。この根元には、明らかにムクの木であるのに、「榎明神」の三文字を刻んだ石碑が立っている。木曽義仲の愛妾の山吹御前の供養のためエノキとともに植えられたと伝える。エノキは小学校建築のため明治四十年頃に枯れたという。このことは、勧修寺経雄著「古都名木記」にあるが、若松町自治会長入江丑松さんの記憶によれば昭和五、六年に枯れ果てたという(京都新聞「ふるさと名木探訪1」1989年8月15日)。おそらく枯れてから長くかかって朽ち果てたのであろう。ムクの方は、幹の内部が空洞になっているが葉を枝いっぱいに茂らせ、多くの健康優良児を育んでいるようだ。戦時中にこの小学校で学んだ作家の泰恒平氏は、日向で直立不動、堪忍の行を毎朝のように強いられた、と語っている。「堪えて忍べばなすあり」と刻した石碑が校門間近い草むらに埋もれており、「有済」が「なすあり」に由来するとされている。儒書の「書経」に「必ず忍ぶ有りて、其れすなわち済す有り」からとられたものであろう。今では草むらはなく、埴輪やタイム・カプセルなどいろいろな記念物といっしょに、校門から運動場へのアプローチを飾っている。なお、花見小路に架かっている白川の橋の名前も「有済」である。ムクの木陰にいたのは誰だったか。今もたいして変わってはいまい。
 西大路通、北野のパス停前の北野中学校には「双樹」と呼ばれるムクとエノキが仲良く並んでいる。学校がこの地にやってくる以前からあったという。校庭北側のプールとの間にはお土居の跡が保存されていることからして、お土居周辺の植生を偲ばせる。
 お土居跡は何ヶ所かあるが、ムクなどのニレ科の落葉高木が繁茂しているところも多い。逆にお土居があったとは想像もつかないところもある。京都駅の一番ホームは日本一長いホームとして知られているが、このホームはお土居の上に作られたものである(と言われてきたがが、どうもそうではないらしい。土居堀跡に土盛りをして築かれたものであることが、中村武生「御土居物語」で詳しく考証されている)。
 加茂街道の上賀茂橋を過ぎたあたりから堤防の中央に高い並木が続いている。この部分はお土居の北東端にあたり、1935年の賀茂川氾濫の後、護岸工事で堤防を拡張した結果、加茂街道の中央に木々が並ぶことになってしまった。並木を形成している木々は、かつてお土居に繁茂していた木々の末裔ではなかろうか。府立病院の向い、廬山寺の墓地の奥にもお土居跡の石碑がある。河原町通から見える二、三本の落葉高木がこの証である。そのほかにも、北野天満宮の境内となっている紙屋川畔、西大路御池上がる東側、千本通は北大路を越え鷹ヶ峰源光庵まで北上しているが、その途中今宮通を過ぎたあたり、などにお土居の植生が見受けられる。
 山科中学校の校庭の南西隅、山科川の堤防には伐採を免れたムクがある。鴨川と同じように、山科盆地を潤すとともに、氾濫を繰り返してきた山科川、その堤防にやっと根を下ろしたムク、樹齢はいくばくか知れぬがこれからも長生きをして、かつての山科の田園風景を思いおこす縁(よすが)となってほしい。学校のある東野八反畑町には三宮神社が鎮座する杜がある。戦前まで鎮守の杜の周囲は竹薮で占められており、今も残っているケヤキの大木が山科の各所からみられたという。
 校庭内に取り込まれていないか学校のすぐ側にあるムクが京都の南と北の二ヶ所に残されている。地下鉄烏丸線の終点竹田駅の南口を出てすぐ東に、竹田小学校がある。校門に突き当たる南北の小道の両側に2本のムクがあり10メートルもある長い注連縄が張り渡されていて、鳥居のように立っている。それもそのはず、竹田小学校はもと山王権現の跡で、明治11年に廃社され、近くの北向不動院に遷座された。この2本のムクは同社の参道を飾っていたものである。神社は移転したがムクは残り、「丈六会」という地元の保存会にしっかりと守られている。井上頼寿氏の「京都民俗志」にはこのムクは「えんざさんざ」というそうだ。そのわけは、悪疫を防ぐために、正月の薬師の日に村民が早朝から盥風呂に入って、注連縄を編んで両樹の間にかけて「えんざさんざ」とはやすことによる。明治以前には「えんざさんざ」を植えた塚が48もあったという。その唯一の残りとすれば、このムクは植栽されたものである。各々の幹周は4mと2.5m、束側の塚上のムクの根元には、大神祐天大明神、玉姫大明神、有永大明神を祀った祠がある。

 鞍馬街道の貴船口、鞍馬小学校の校庭の西斜面に由緒深いムクの大木があり、交通の激しい街道に迷惑顔に樹冠を伸ばしている。名前を「鬼一法眼の相生椋」という。石寄大明神のムクとも呼ばれている。昔日、この辺りは鬼一法眼の森と呼ばれていたそうで、今は主幹から地上1mあたりで支幹が分かれているように見えるが、実はもともと別株であったものが合体したものだという。よって「相生椋」。京都市景勝地植樹対策委員会「京都市の巨樹名木第1編」によると、1943年の調査では主幹4.11m、支幹2.19m、地上1mでの全体の株周りは6.61mであった。
 鬼一法眼という輩は「義経記」に出てくる無頼の徒である。住んでいたのは一条堀河、一説には陰陽師法師という。鎌倉時代の末の京都の町の最底辺に生き、集団の力で自らの世界を開拓しはじめていた隷属民の親分、洛中洛外に六千人の弟子と称する子分をもっていたという。このあたりまでは史実に近いが、なぜ鞍馬に鬼一法眼縁りの地があるのかの説明には程遠い。時代は下がって江戸時代、「義経記」は謡曲、浄瑠璃、歌舞伎に幾多の主材を提供し、判官贔屓という諺まで生み出したが、その一つに文耕堂、長谷川千四合作の「鬼一法眼三署巻」がある。この浄瑠璃物語の中では、牛若丸に兵法を教えた鞍馬山の大天狗僧正坊は、実は鬼一法眼その人であったということになっている。そのことから、いつのまにかこのムクの許に鬼一法眼が葬られたということになったらしい。ムクの根元には鬼一法眼の古跡を伝える石碑がある。

繁華街のムク

 四条木屋町、いまは廃校となった立誠小学校に突き当たる細い道が高瀬川の西側を走っている。その路地の南の端に、すし屋の建物にへばりついて樹冠を大きく広げているムクがある。京都新聞では高瀬川の船入のエノキと紹介されていても、木はムクである。つい最近まで、根元に祠が祀られて手を合わせている人も見かけたが、今は祠もなくなっている。幹には直径10cm弱の奥深そうな穴があいており、蛇が棲んでいるという。根元はたいへん不潔で、場所が場所だけに、神聖な自然を冒涜する人が絶えないようだ。環境庁でさえ海の汚染に手を貸す時代である。根元が小便で汚れていることを注意してくれたのは、近所の氷屋さんのかわいい娘さんでした。
 五条通を西へ、高倉通まで行ってちょっと下がると自動車の騒音も急にかき消え、閑静な住宅地がまだ町中に残っている。児童公園の緑が右手に見えるあたりは東本願寺の領地で、その一部に東本願寺の社宅(?)が建っており、講堂風の木造の建物が残っている。その奥には最近まで佛眼厚生学校という鍼灸・指圧の学校があったが、この敷地に町中に溶け込んだ2本のムクが樹冠を拡げているのを、佛眼厚生学校の卒業生である小林さんに教えていただいた。
 その他にも町を歩いていたり、自転車で走っていてふと目にするムクを思いつくままに掲げると、西九条、東寺の東(油小路通束寺道の西北角)の稲荷神社御旅所のムク、上京区松屋通出水上ルにある白玉・鵠大妙神を祀る稲荷社のムク。紙屋川は天神さんを過ぎたあたりから天神川と名を変えるが、この川沿いにも緑は多いが、丸太町通を横切る手前、渓家の庭から枝を伸ばしているのもムクである。丸太町通を渡った西側は、かつては空き地で朝市が立っていた。その奥にムクかエノキがあったように記憶している。確かめるために行って見たところ、そこは高層マンションが建設中で、跡形もない。対岸にまだ残っている祠は、木陰の変りにマンションの日陰を被ることになった。
 円山公園の野外音楽堂の向いの祇園女御塚のムク。かつては、ここを耕すものには必ず崇があるといって恐れられていた空き地である。今は崇を恐れるものもないが、祇園の一等地を耕そうという人もなく、忘れられた地でムクは生き残れる、と思っていたところ、最近通りかかって何かの工事が始まったようで、おそらくこのムクも又都会の波に呑み込れる運命にあるのだろう。
 北大路から北へ真直ぐに伸びた大宮通は、新装なった新大宮商店街の賑を見せているが、この一筋西の大徳寺道は、大徳寺の高い石垣に沿って北へ蛇行しながら閑な住宅街を抜けている。大昔の大宮の森を思い起こさせる「林町」という町名に出くわすが、中林町に「人気大明神」と云われた祠と老ムクがある。幹は半円周状の樹皮しか残していないが、立派な樹冠を乗せている。往年の樹幹を復元して幹周を推測すると5mは下らない。背後はガレージではあるが、幸い舗装されていなくて土のままである。祠の前に駐車を戒める看板があるところを見ると、まだ崇敬されていることだろう。思わず「まだまだ、がんばって!」と言いたくなるムク翁である。井上頼寿「京都民俗志」(平凡社1968年)のp.215に大宮頭林町の「人気大明人」の榎として記戟されているのがこのムクのことと思われる。

落ち葉拾い

 本文中に書き込められなかったムクを思いつくまま、順不同に拾っていくと、
千本釈迦堂横の民家のムク、幹周2.5m
宇治許波多神社のムク
吉祥院天満宮のムク、幹周2.5m
枳殻邸のムク(岡本大無「京楽巨木巡礼記」に記載)
上賀茂会館のムク
上賀茂やすらい堂のムク2本(過勇定)
同志社大学今出川学舎正門奥のムク、幹周4.3m
常盤馬塚町京福嵐電沿いのムク、幹周2.9m
花園今宮神社のムク3本
天神通一条下ル東整町、十妙寺のムク(1999年3月8日には伐採)
東大谷参道南側のムク、幹周6.Om
神泉苑北門(押小路通り)横のムク、幹周2.5m
西本願寺駐車場(堀川通り)のムク、幹周3.9m
山越中町のムク、幹周3.8m
斎明神社(嵯峨柳田町)のムク、幹周3.3m
西京極衣手神社のムク、幹周3.7m
桂御所町のアパートの敷地内のムク、幹周3.9m
桂離宮桂垣内のムク、幹周2.2m
川島の三ノ宮神社のムク、幹周5.1m
樫原下の町のムク、幹周3.8m
伏見稲荷御旅所のムク、幹周2.6m
醍醐火防稲荷大明神のムク、幹周3.Om
鹿ヶ谷上宮ノ前町和輪庵のムク、幹周3.5m
御陰橋西詰めのムク、幹周2.8m

補 遺

「うきしま通信」56号(1997年6月)に掲載された石黒真理さんの記事。大正の初め頃の糺の森界隈の様子が窺える貴重な証言である。

椋の木の事

大野弘さんのムクの話を読んでいるうちに、わが家のムクの木の事が書きたくなりました。(巨木でも名木でもありませんが)
下鴨あたりに河原の続きややぶが広がっていた頃の名残りと思われます。亡くなった私の祖母が大正の始めに、18才でお嫁に来た時、鞍馬街道に面しているかやぶきの家でしたが、まだ隣家との境などはあまりはっきりしてなかったようです。南側の今、隣家のあるあたりにお稲荷さんがまつってあり、おまいりに来る人もけっこうあったそうです。そばにムクの木があって現在、庭のはじっこにあるのがそのムクというわけです。
幹の中程のホコラに別に信心深いわけでない祖父が、いつもきつねの人形と盃の様なものを置いていました。
なぜかその人形たちはすぐにひっくり返り、祖父は一所懸命、棒で直していました。
その木は(胸高周り139cm)毎年隣家に枝をブツブツに切られてしまいます。大きなきのこが何種類もはえています。お稲荷さんがあった頃はまだ幼木で、もしかしたら大きな木がそばにあったかもしれません。
ムクは庭に3本あり、一番奥のすみに立っているのが一番大きく(胸高周り185cm)やはり3方の枝はたえず切られ、1方だけに枝を広げて夏の間、庭をすっかりおおっています。
以前この木の西側には松竹の撮影所がありました。
フィルムから発火し、火災がおき、大変だった事があるそうですが、このムクに放水して、延焼をまぬがれた、と聞いています。
春になるといっせいに芽吹き、いっせいに花を落とし、あっという間に緑の枝を伸ばします。実が黒く熟す頃には小鳥たちが大騒ぎをします。紅葉して葉を落とし庭一面にしきつめられる落葉も美しいものです。
庭には植えた覚えのないエノキやナンテンやマンリョウやサンショの他わからない木の芽があれよあれよという間にのびてきます。
小鳥たちのしわざでしょう。
夏の暑い盛り、「ただいま!」と帰ってくると、スッと涼しく感じるのは庭の木のおかげだと思っています。
町を歩いて大きな木に出会うとうれしくなります。のびのびと枝をのばしている木を見ると胸がスッとします。
大野さんの文を参考に、あちこち歩いて、いろいろな木に出会いたいと思います。(石黒真理)

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