訳者覚え書

 新島裏先生の英文の自伝My Younger Daysはまえがきにある通り先生永眠の5年前明治18年(1885年)8月に執筆されてハーディー夫妻にささげられたものであるが、私の本棚にあったこの小冊子は昭和9年同志社校友会(当時の会長石川芳次郎氏)が再録して発刊したもので、当時私は同志社大学予科3年生で今より63年前のことです。今になって読んで見ると割合にやさしい英文で、あまり辞書にたよらずに読みこなすことが出来たので、老のすさびに翻訳して見た次第です。あまり達意の文章ではないので読みにくいところがあるかもしれないが、通読して頂ければ幸甚に存じます。
平成9年5月 大野源次郎

前書き

 同志社大学の新島総長が1890年に逝去された直後、彼の伝記「新島裏の生涯と手紙」がアーサ・セルバーン・ハーディー教授 (同志社創立者新島裏のアメリカの両親アルフェース・ハーディー氏の子息)によってボストンで発刊された。この小冊子は同書に記載された新島氏自伝の再録である。表題及び脚註[*]は編集者が付記したものである。
同志社校友会 1934年8月 京都

[*]訳書では脚註とはせず、本文中に[註…]の形で挿入した。 ただし、日本語訳では不必要と考え省略したものがある。

目 次

1  出生と名前
2  幼年時代
3  祖母の死
4  家庭教育
5  凧揚げで負傷
6  礼儀作法教育
7  藩上席者の引立
8  ペリー提督の来航
9  藩主板倉侯
10 オランダ語を学ぶ
11 藩主に仕える
12 おそろしいオランダの軍艦
13 汽船で初航海
14 天の父を見つけて
15 考え方を変へて決心する
16 函館渡航計画
17 送別の宴
18 ニコライ神父
19 日本脱出計画
20 命がけのベルリン号乗船
21 上海へ向う
22 憤激にかられて
23 ワイルド・ローバー号に乗船、ボストンヘ
[註] ページは活字の大きさ(大・中・小)によって変わるので省略した。

  私の青少年時代

1 出生と名前

 私は日本のある藩に仕える家に生まれた。その藩の江戸藩邸(1868年から東京と改称)は江戸城の近くにあり、その所領地は上野の国の安中で其処に居城があった。安中は江戸から京都に至る二つの街道の一つに面して広がり、人口は4千人未満で江戸の北方7マイルの処にあった。江戸藩邸はその周囲に藩士の家があり四角形の地域であった。
 私は1843年[註天保14年]1月14日[註旧暦一新暦では2月12日]にその藩邸の一郭で生まれた。4人の姉があったが私は長男であった。封建時代には武士階級は両刀をたずさへるのがそのしるしであり、武士の家では男子のみが相続することができた。それで女子よりも男子が尊ばれた。私の出生は家の大きな喜びであった。男の子が生まれたと聞いて、祖父は「しめた」と叫んだ。又旧暦ではまだ新年の「しめのうち」であったので、しめのうちにしめた!男子が生まれたので、それにちなんで「七五三太」と名づけられた。従って「しめた」は祖父の喜びの叫び声と「しめのうち」と云う二つの意味を有するわけである。即ち私の名前は「新島七五三太」である。勿論私は生まれたばかりでそんなことが分かる筈もなかった。

2 幼年時代

 しかし顧りみれば私は家族の、特に祖父の寵児であった。私は主として祖父のひざの上で育てられた。又祖母にもだかれたこともかすかに思い出される。又母が針仕事で忙しい時には姉達に背負われて外へつれて行かれたこともあった。
 4才の時に弟が生まれた。それは私にとって非常な喜びであった。ほんとうに小さな赤坊であった。少し大きくなれば弟と一緒に独楽を廻したり凧を揚げたりしたらどんなにうれしいことかと思った。5才になったときに私を庇護して下さる氏神さまにお参りをして家族一同が、私を護って下さるようお願いした。それは家族にとってうれしいことであった。父は私に二本の小刀を買ってくれて、腰につけさせた。又立派な絹の着物を作ってくれた。私は両親や祖父母につれられてお寺にお参りに行った。私はお菓子や小さな凧や独楽やその他色々なおもちゃを買ってもらって家に帰ってきた。

3 祖母の死

 祖母がなくなった時、人の死がどんなに悲しいことかと云うことが思い出される。おばあちゃんはやさしい人で年をとってから貧しい人によくほどこしをしていた。祖母は、ほどこしをすることで、来世は極楽浄土に住めるようになるだろうとお坊さんに言はれていた。私はおばあさんの臨終の言葉をよく思い出す。「あ・私は行く、行くのだ」。それは想像するに、慈悲深い仏さんの胸にだかれて幸福な極楽浄土に暮すことをさすのだろう。又お葬式の時に家の中はごった返し、多くの近所の人々が家に来て家族の者におくやみを言ったりしたが、祖父はこれ等の人々に色々なお菓子を出したり、料理や酒をふるまったりした。その時私は6才であった。葬列が出る時私は歩いたり、背負われたりして、葬列について行った。朝早く家を出て、かなり遠い所にある寺に着いた。その寺の墓地にある先祖代々の墓に埋葬された。又本堂では、紫や赤や黒の衣を着た沢山の僧侶が鉦をならしたり木魚をたたいたり、お経をとなえたりして厳粛な勤行が行はれた。
 私が小さかった時、父は色々の神社仏閣に、祭礼など特別な日に私をつれて行って参拝することがよくあった。こんな日には境内には沢山の行商人が店を出して、絵や凧や独楽や色々なおもちゃ、菓子、飴、果物、花や飲物等を売っていた。
 父や祖父は信心深く神仏は熱心に拝礼していたことをこの際忘れずに述べておかねぱならない。特別な日には必ずお寺にお参りに行き、又家の中には色々の神仏が祀られていた。そのうち12程は居間に、又それ以上のものが先祖の位牌と共に客間に、少なくとも6種のものが台所に祀られていた。毎朝お茶とごはんが供えられ夕方には灯明がつけられた。その度毎にうやうやしく拝礼し、家族一同のために祈りをささげた。私が思い出すところによると、家族の長寿と繁栄はこれらの神仏のお陰によるものだと信じているようであった。私は幼く思慮分別がなかったけれども、祖父と父はこの世には又とない善良な人だと思っていた。勿論私もそれにならってこれ等の神仏に何回も礼拝し、知識と技能を習得し将来は立派な武士になれますようにと、子供らしい野心をもっていた。

4 家庭教育

 私の父は習字の先生であったので、特に習字と学間の神様を崇拝した。それで神社に行って息子が習字に上達するようにと祈った。父は私がその跡継となり、教授の手助けをしてくれることを望んでいたことをよく知っていた。私はそんな退屈な仕事につくことは好まなかったが、幼い頃は父が書いてくれたお手本にならって、半日は繰り返し習字することを強制された。
 私が受けた家庭教育について一つのことをお話しようと思う。ある日私はわがままをしてお母さんから言いつけられた用事をことわった。それで母が叱ったので、私は一寸口ごたえをした。すると祖父はそれを聞いて私をつかまえて、一言も言はずにふとんに包みこんで押入にとじこめた。1時間程して私は罰をゆるされた。これは祖父から受けた初めての罰だと思う。一寸した口ごたえに対する罰としては少し重すぎると思って部屋のすみへ行って泣いていた。少したってから祖父は私のいるところに来て、もう泣かないようにやさしくなぐさめてくれた。その時祖父はやさしい愛情をこめた態度で「笹」の話をしてくれた。それは「悪んでは打たぬものなり笹の雪」と云う俳句であった。それから祖父はこの句の意味を次のように説明してくれた。お前はまだ幼い。笹のようにか弱い。雪の重みで笹がまがるように、もしもお前の悪い性質がお前を台なしにしてしまったらどんなに悲しいことだろう。それでおまえを罰したのだが、それは不親切からしたと思うか。その時私はだまってしまったが、祖父の言ったことはよく分った。私を正しくするために親切にしたことだと理解できた。それで私はいたずらをはずかしく思い、祖父が私を罰したのは親切からだと云うことがわかった。このことは私の幼い心に深い感銘を与えた。その后はよし行いをする助けとなった。

5 凧揚げで負傷

 しかし乍ら私は他の子供と同様陽気な、遊ぶことが好きな少年であった。こま廻し、輪ころがし、そして凧揚げが大好きであった。特にそのうちで凧揚げが好きで、凧揚げで外へ出た時は食事の時間も忘れて家に帰らなかったのでお母さんをこまらせた。それでお父さんは凧を買ってくれなかったので、凧を作ることに必要なものをこっそり手に入れて自分でよい凧を作った。自分で作った凧が青空に揚がるのを見た時は言葉に言二.ない程うれしかった。私は又飛んだり走ったりすることが好きであった。左のこめかみの傷あとは、はずかしいことではあるが、不意にころんだ時の傷あとであるが、それがもとで殆ど2ヵ月も家にとじこもることになった。
 そんなことがあったので子供らしい遊びをあきらめて、家の中で習字や勉強することに専念した。そして近所の人から絵画の教えを受けて正規の日本画の遠近のない画法によって鳥・花・木や山を璽.いた。それは私が九才を過ぎた頃であった。

6 礼儀作法教育

 私は跡取り息子であったので、特に母から藩の上席の方々にはうやうやしくお辞儀をするように言われていた。そうすることで上役の方々の引立てによって父よりも高位の武士に取りたてられるかもしれないからである。けれども私は近所の若い者と同様にうやうやしくお辞儀をしたり、おべっかを言ったりすることは、まったく念頭になかった。私の子供らしさがそんなことを嫌った。更に私は内気で少し口べたであった。知らない人と話をする時は、はっきりと物が言えなかった。時には近所の人々とさえ話そうとしなかった。それは母にとっては気がかりであった。母の思いつきか或は父の決断か知らないが、私は礼儀作法の学校へ行かされて、高位の方々と交際する時に深々と頭を下げたり、優雅な立ち居振る舞いや敬語の使い方を学んだのである。私の先生はそのことについての天才的な人であった。先生は色々面白い話をしてくれた。またなるべく多く家に来るように言ってくれた。その当時私はその利益には気付いていなかったが、旧式の礼儀作法を習得するために1年以上もかかったように思う。

7 藩上席者の引立

 幼い時に起った凡てのことは藩邸内の一区劃に於てであった。それは小さい場所であったが、私にとっては小さな世界ではなかった。どんなことが起っても、どんな噂がながれても、子供心には小さな出来事ではなかった。とりわけ殿様は私にとって、こわい存在であった。殿様は悪いことをした家臣をやめさしたり、追放したりすることはされなかった。殿様に一寸引立てられることは家臣にとって幸運なことであると思われた。凡の家臣は事実上藩政を掌握している上役を通して殿様に気にいられることを切に望んだ。幼い時に父は何時も私をある上役の処につれて行ってくれた。後には父につれられずに一人でその上役の処へ行った。それは上役が好きな時に来るように招いてくれたからである。彼は子供がなかったので、ひまな時に私が遊びに来ることを喜こんだ。夕方迄その家に居て彼の膝の上で眠ってしまって、彼に抱かれて家につれて帰られることもあった。私が絵を画くことを始めた頃、その絵を彼に見せた。すると上達が早いのを見てたいへん喜んでくれた。また彼が客を招いた時に家に来て同席するように言ってくれた。私は礼儀作法の学校で礼法、特に宴席に於る献杯や貴紳接待の作法を学んでいたので、かかる場合に大いに役に立った。彼が祖先の墓参や神社参拝に行く時は彼のおともをすることが多かった。彼は私を自分の子供のように可愛がってくれ、私も彼のそばを離れなかった。彼は馬術と弓術にすぐれでいた。その上人格者であり、しばしば殿様に専横な振舞や酒の飲み過ぎについて苦言を呈した。それで殿様はそばに置くことを好まず、国家老に昇任せしめる名目で城下町の安中へ追いやった。彼が江戸を離れて安中へ行く準備をしている時、私は何とも言えない程苦しい思いをした。私は彼を見送りに、父やその他の多くの人々と共に江戸の町はずれに迄行った。最後に別れる時には激しく泣いた。彼は梢々感動したが、男らしく涙をかくして愛情深い感動的な笑みをうかべた。最後の言葉は「さよなら、七五三太よ、お前がもう少し大きくなったら私に会いに安中へ来て下さい」であった。こう言って従者に出発を命じた。彼は駕籠に乗り多くの従者を従えて出立した。私はつかれきって失望して父と共に家に帰った。これは10才までにおこった重大事件の一つであった。またこの時迄に2人の姉が結婚した。

8 ペリー提督の来航

 丁度このころ国内は苦難の状況下にあった。国民は約300年間、徳川幕府の体制下平和になれ親しんでいた。法令は厳重に維持されて来た。施政の役人らは極度に疑惑の目を国民に向け恐ろしい程圧制的であった。国民の希望は完全に抑圧されていた。武士の大部分は刀の使い方を忘れていた。鎧は単なる骨董品として倉の中にしまわれ、こわれて使いものにはならなかった。人々は臆病になり女々しくなまけきっていた。放縦な気風が殆ど国中に蔓延していた。まことに何らかの改革が必要であった。少数の先見の明ある愛国者はこの悲しむべき状況を憂い、正常な改革に対する希望をいだいていた。しかし、それを実現する期待は殆どなかった。丁度このような時(1853年)にペリー提督の指揮する有名なアメリカ艦隊が突然我が海域に出現し、我が国に大きな動揺を与えた。人々はアメリカの大砲の恐ろしい音におびえた。しかし乍ら主だった大名達はアメリカ艦隊に対し戦争をいどむ叫び声をあげ、直ちに我が海域から艦隊を追い払ふよう幕府に迫った。しかし我が方には戦いをするに足りる要塞も軍艦も大砲も又訓練した軍隊もなかった。幕府の上層部は我が海域からアメリカ艦隊を追放する試みは無駄であることを充分にわきまえていた。しかもアメリカ人の来航の目的はまったく平和的なものであることを知って、貿易のために数ヵ所の港を開くことに同意した。アメリカとの通商条約に引続いて、まもなくヨーロッパの数ヶ国とも条約を締結した。しかし幕閣のこの行動は過激な大名達の憤激するところとなった。その責任は凡て幕府におしつけられた。幕府は臆病者とののしられ、南蛮の奴隷と呼ばれた。間もなく愛国心が燃えあがり、九州一四国の大名等が同盟を結び幕府に対して蜂起した。幕府の失政と外国人に対する憎悪をかきたてるために、多数の国許の憤激せる青年武士をくり出した。王政復古と尊王接夷の声が国中に拡大した。それは実に明治維新の出発点であった。幸にして、それが我が海域から外国人を追放するのではなく、外国に対する自由貿易と王政復古につながったのである。

9 藩主板倉侯

 我が国の非常時に関連して我が藩主について少し述べることを忘れてはならない。彼は漢学に通暁し且つ諸大名のうちでも立派な学者としてその名を知られていた。先見の明があり、目標を見定めていた。アメリカ艦隊が我が海域に現われる5、6年前に、離れた邸内で時を過ごしながらも、我が国の軍事制度は改革を要し、又国民はよりよい教育を受けて知識を啓発されなければならないことを充分に見透していた。それで前途有為の若い家臣を選んで幕府によって開設された軍事学校に入校せしめた。又一部の老年者を除き、凡ての家臣に剣術と馬術を鍛練するよう命じた。更に漢学の学校を設立して若い家臣にその学校で学ぶように強制した。彼は若い時から酒好きであり、又お気に入りの臣下や友人に高価な贈物をすることを好んだので、家臣に外国製の武器を以て武装せしめようとした時には、それを賄うだけの資金がなかった。それで仕方なく、領内の農民や商人に追加の税金を課して、オランダから我が国に輸入されたヨーロッパ製の大砲や銃を購入する資金を調達せざるを得なかった。又領内の寺院から釣鐘を供出せしめ、それで多くの野砲や小銃を作ることにした。このような非常な努力によって、家臣達が使用するに足るだけの多数の新式大砲や小銃を装備することができた。殿様の命令を受けて私は11才の時に剣道と馬術の学校に通ひ始めた。しかし私は乗馬も剣術もあまり好きではなかった。馬はよく訓練されていなかったのでよくあばれ、馬に乗ると云うよりも背中にしがみついていると云う始末であった。

10 オランダ語を学ぶ

 14才の時私は武芸の練習をあきらめて、漢学の勉強に専念した。丁度その頃殿様は国許の学者杉田医師を藩邸に招いた。彼はオランダ語に通暁していたので家臣にこの奇妙な外国語を学ぱせることにした。殿様は3人の若い家臣を選んで彼から教えを受けさせた。私はそのうちの一人で最年少であった。殆ど1年間彼からオランダ語を教はった。彼の学識は幕府の知るところとなり、工学と航海術をオランダ人から学ばせるために長崎留学を命じた。彼が去ってから徐々にオランダ語に対する興味がなくなり、一時的にその勉強を延期したその間に私の漢学の知識はかなり進んでいた。その為に特別の引立てによって、殿様から漢学の助教にとりたてられ、漢学に対する興味が益々増大した。そんな時に殿様は重病にかかり逝去された。私は望みを失い悲嘆にくれた。弟君が後継者となり藩主と成った。彼はあらゆる点に於いて前の殿様より劣っていた。彼は家臣達の待遇改善については全く意を用いなかった。藩邸の状況は一変した。新しい殿様は主として飲食に興味を注ぎ、家臣の昇進・降格等の人事は奥向の女達の言葉に従うことが多かった。それで私は勉学に対する希望が消失した。けれども自分の目的達成を怠ったわけではなく、出来るだけ勉強するように努力した。ところが父は私が更に勉学に努めるのが賢明であるかどうか疑い出した。父は私が勉学仲間の無作法や無関心の影響を受けやしないかと懸念しはじめた。それに父はあいかわらず自分のあとを継いで私が習字の先生になる望を捨てなかった。それで私に勉学を止めて習字の教授の助手を努めるようすすめた。しかし私は気がすすまなかった。この時代には父の命令にそむくことは、息子にとって不可能に近かった。それで父の命令には従はなければならなかった。目的達成のための唯一の望みは、私の漢学の先生と安中の国家老から引立ててもらうことであった。私がこんなことを考2,ているうちに、二人の知合は数ヵ月のうちに相次いで死んでしまった。その時私はどんなに悲嘆にくれたことだろう。私はしばしば心のうちで叫んだ。「殿様も、先生もなくなられた。又最後の望を託していた安中の友も私から消え去った。何故に私はこんな不運にあわねばならないのだろうか。誰が私の勉強を続ける手助けをしてくれるのだろうか。この先私の運命はどうなるのだろうか」と。私はこの世で殆ど一人ぼっちになり、助けてくれる者は誰もいなかった。

11 藩主に仕える

 私は15才になった時に藩主に仕えることになり、いつも藩邸の玄関わきの小さな控の間に坐っていなければならなかった。此処には常時6人以上の人達が詰めていた。私たちの仕事は玄関を監視して、殿様が出入される時は一同畳の上に並んで坐り、殿様に頭を深く下げるのである。その他に藩主のために記録をとることである。しかし常日頃は、お互いに雑談をしたり、お茶を飲んで笑ったり、しゃべったりして時間を過ごしたのである。私は仲間とお付合をするのは堪えがたい思いがした。しかし、それをのがれることはできなかった。その上此処で勉強することは仲間達に妨げられた。17才になった春に殿様は幕府の命によって大阪へ行かれることになった。かの秀吉によって建てられた大阪城を警備する任務を命じられたからである。秀吉は約300年前に日本全土を制覇して統治した人である。勿論藩主は多くの家臣を随行せしめた。私の父もそのうちの1人で、父は祐筆として藩主に随行した。そのため父の学校は私にまかされ、父の不在中は江戸藩邸の祐筆をも努めるように殿様から命ぜられた。父が不在中、家と藩邸との二重の仕事で繁忙をきわめたが、なおヨーロッパ諸国を知りたいと云う新しい希望をいだきそれに抗しきれなかった。オランダ語は当時我々が習得しうる唯一のヨーロッパの言葉であった。私の家から1マイルも離れていない処にオランダ語のよい先生を見つけた。いろいろの仕事でつかれていたが、ひまがある時は何時も其処へ行った。私は新しい勉強に興味があったので藩主と父の両方から厳命されていた仕事をなまけ始めた。私は詰所に居なければならなかったのに、しばしばぬけ出した。わざとそうしたのである。と云うのは、藩主の命令にそむくことによって、その職を解かれることを望んだからである。しかし私に代わる者がいなかったので、職は解かれなかった。このため藩主の留守中藩邸を預かっている上役に色々不便をかけた。色々書く仕事がたまっていたのに私が居なかったので、しばしば私は叱られた。しかし私は気にしなかった。上役に直ちにその職からはずしてくれとたのんだ。彼は自分で監督できないので祖父を呼んで叱った。それで祖父は私の勉強に口出しをするようになったけれども、私は頑固に今迄通り勉強を続けた。父が帰って来て私は放免された。しかし殿様に仕えることは免れることはできなかった。
 その頃国内はおそるべき混乱状態にあった。毎日暗殺や流血事件が各所に起っていた。こんな状況におそれをなし、臆病な藩主は家臣から若い藩士を選んで彼の護衛を担当せしめた。不幸にして私もその1人に選ばれた。彼が外出する度に、随行しなければならなかった。私が18才になった早春に殿様に随行して安中迄行った。もちろん殿様は駕籠で行ったが護衛の者は徒歩で随行した。こんな護衛の仕事を強制されることに我慢できなかった。安中から帰った時には、藩主に仕えることがまったくいやになっていた。私はしばしば家に逃げて帰ろうと計画したが実行にうつすほど大胆になれなかった。私は家のことを思って両親や祖父の顔をつぶして大きな悲しみを与えることをおそれた。私は苦境に立ち乍らも将来について悲観しなかった。藩のある上役の方から引立てを得ることを企図していたからである。彼のお陰で私は少しだけ藩主の仕事をまぬがれることが出来た。勉強する時間ができて、どんなにうれしかったことか。

12 恐ろしいオランダの軍艦

 その頃私は物理学と天文学の簡単な論文を読みこなすに十分なオランダ語を習得していた。しかし数学の知識が全くなかったので論文にのっている簡単な計算が理解できなかった。それで江戸に設立されたばかりの幕府の海軍の学校に入って算術を基本から学ぶことにした。当時その学校が有能な数学の先生がいる日本に於ける唯一の学校であると信じていた。その学校で、私は先生から外国の蒸気船の話を聞く機会があったので、一度そのような汽船を見たいと思った。ある日、たまたま江戸湾岸を歩いた時に、碇泊しているオランダの軍艦を見た。それは実に堂々とした恐ろしいものに思えた。堂々たる海の女王のそばにならんでいるみすぼらしい不釣合な帆掛け船とくらべてみた時、こんな軍艦を造った外国人は日本人とくらべてはるかに賢明で優秀な人であるに違いないと確信した。それは我が国の改革と革新を促したいとする私の野心をかきたてる強力な教訓のように思われた。先ず第一になすべきことは海軍力の形成と外国貿易を促進するために外国型の船舶の建造であると思った。この新しい考え方ば航海術の研究をするように私をうながした。
 2年間の懸命な勉強によって私は算術1代数・幾何学を習得し又航海術の理論の基本を習得するに至った。しかし私の勉学は悲しいことに突然重い麻疹にかかって中断された。病気は重く全く私を弱らせた。殆ど3ヵ月学校を休まねばならなかった。私は病床にある時にオランダ語の本で代数の勉強をはじめた。外出できるほど回復して来る迄にその勉強を完了した。しかしこの一寸した利得は大損害をもたらした。眼が弱くなり頭痛がしたり不眠症になるなど次々と苦しんだ。当分の間勉強を中止しなければならなかった。

13 汽船で初航海

 同じ年の冬、私は岡山のすぐ先の玉島へ初めて汽船に乗って航海する機会があった。そのスクーナー船は我が藩主の近親にあたる松山侯[註岡山の高梁の人]の所有するものであったので、無償で乗船させて下さった。江戸へ帰るのに3ヵ月以上もかかった。私は非常にうれしかった。天地は四角形をしているものだと思って子供時代を過ごした藩邸から、はるか離れて生活することで大いに見聞を広げた。さまざまな人々と交わり色々な所を見るのは初めての経験であった。明らかにその航海によって私の心の視野はずいぶん広がった。私は大阪を訪れて初めて牛肉を味う機会があった。新しい自由な思想にかられて、我が藩の勤めからのがれて幕府と関係をもつことを考えた。そのことを得るには航海士として幕府によって雇用されねばならなかった。しかし乍ら私が幕府の海軍に勤めている人々の生活態度を見た時、その計画は間もなく私の頭から消えてしまった。彼等の粗野な放縦な生活ぶりを見て驚いた。彼等と付合いたくなかった。それで藩主からのがれることもできなかったが、自由を獲得したいと云う強い希望が動機となって藩の勤めを無視して、藩主の命に従わなかった。私が銃をもって藩の兵になることを強制された時、私は決然としてその命令を拒否した。

14 天の父を見つけて

 戦雲が国に厚くたれこめた。蜂起した勤王党にたいして、我が藩主は不幸な将軍のため立ちあがらなければならなかった。私は勤王党に同情を禁じ得ず、しばしばそれに加わりたいと思った。しかし、私を両親と祖父に結びつけているやさしい糸は、又私を藩主に結びつけていた。これは私にとってもう一つのきびしい試練であった。極度に神経質になり、いらいらした。この窮境から私を救ってくれ、又なぐさめてくれる友人がなかったら全く破滅してしまったかもしれない。その友は私と一緒にオランダ語を勉強するために家に招いてくれた。彼は私より一段と学問にすぐれていたので大いに助けられた。彼は沢山の本を貸してくれ、その中にロビンソン・クルーソーの邦訳があった。それを読んで外国に行きたいと云う希望が起こった。面白かったので祖父にそれを見せて読むようにすすめた。祖父はそれを読んでからおごそかに警告して言った。「若い者はこんな本を読んでは,駄目だ。この本はお前を悪いほうに導くかもしれないと思う」と。その頃私は藩主の許しを得て私塾へ通った。藩主の用事のない時はしばしば其処に居た。しばらくしてその友人は数々の漢文の書物を貸してくれた。その中には北支駐在の宜教師ブリックマン牧師の合衆国の歴史地理の書や、中国駐在のイギリス人宣教師の簡単な世界史の本があった。又、ウィリアムソン博士の小雑誌もあった。しかし最も私の興味をひいたものは、上海と香港で出版された少数のキリスト教の書物であった。私は注意して綿密にそれ等の本を読んだ。私は一寸懐疑的であったが、他方に於て敬虔なおののきに打たれた。私は前に学んだオランダ語の書物で創造主の名前は知っていた。しかし、漢文で書かれた簡単な聖書の歴史の本で神による宇宙創造の簡単な話を読んだ時程心を打たれたことはなかった。我々の住んでいるこの世界は単なる偶然にではなく、見えざる手によって創造されたことを私は発見した。同じこの歴史書で、もう一つの彼の名は「天の父」であることを知り、一層の敬慶の念を禁じ得なかった。と云うのは単なる世界の創造者以上のものであると思ったからである。過去20年の間ぼんやりとしか認識し得なかった神に対する私の心眼が開けたのは、これ等の書物に負うところが大である。

15 考え方を変えて決心する

 当時外国の宣教師に会うことができずそれで多くの点についって説明を受けることもならなかった。福音が自由に教えられている地に、神の言葉を伝える先生達がいる国に、すぐにでも行きたいと思った。神が天の父であると認識していたので最早や両親から離れられないわけはないと思った。親子関係についての孔子の教えは、あまりにも狭溢であり、間違っていると思った。そして「私は両親の子ではなく神の子である」という考えに達した。私を強く父の家に結びつけている絆はこの時にたち切られた。その時我が道を進むべきであると思った。私は現世の両親よりも天の父に仕えるべきである。この新しい考え方が我が藩主を見捨て、一時的ではあるが我が家と我が国から去らんとする勇気を私に与えてくれた。

16 函館渡航計画

 ある日の朝、私が江戸の街すじを歩いていた時、玉島への航海の時に知合った友人に偶然出合った。彼の言うところによると松山藩主の帆船がここ3日のうちに江戸を出帆して函館へ向うとのことであった。私がなお航海に興味を持っていることを彼は知っていたので、それに乗って函館へ行くかどうかとたずねた。多分それは彼にとっては単なる儀礼的な質問であったかもしれないが、私にとっては興味深い質問であった。この質問にはっきり答えないで、二人は別れた。しかし間もなくして、この機会をのがさずに函館に行って、そこから外国へ逃亡を企てようと云う考へが稲妻のように頭にひらめいた。その時問題は、どのようにしてこの機会を利用するかと云うことであった。我が藩主は遠い函館迄私を行かせる許可を与えないことはよく分っていた。その時思いついた目的達成の最も可能な方法は、藩主か両親に話をする前に、船舶の所有者である松山侯の引立てを得ることである。それで家に帰らずに、松山侯の信任の厚い家臣の方を訪問して、その船に乗って函館へ行くことができるようその方から松山侯にお願いをしてもらうことにした。その方を前から知っていたので、こころよく面会して下さった。松山侯は私の願を喜んで受け入れて下さって、使者を我が藩主に送って私を藩主の務めからはずしてくれるようにたのんで下さった。使者はただちに我が藩主から承諾の返事をもらってくるよう指示された。我が藩主は松山侯の特別なたのみを拒絶する筈はなく、使者に直ちに承諾の返事を与えた。万事にうまく解決したので誰も私の函館行きを妨げることはできなかった。

17 送別の宴

 この知らせが届いた時、父は困惑した。私が出て行くことを父は全く好まなかったが、藩主の命令を変えることはできなかった。その知らせは近所の人々や知合の者達を驚かせた。準備にてまどっているひまはなかった。母や姉達に懸命に手伝ってもらって、直ちに出発の準備をととのえた。出発することがきまった2日後に祖父は盛大な送別会を開いて、私と別れを告げるため近所の人々や友人達を招いてくれた。客間で各人の前にお膳を並べて円陣を作って別れの宴を一同が始める前に、二度とあえない別れの席で行はれる厳粛な別れの方式にならって水盃を取り交わした。それは私のような未熟者の心にはどんなにつらいことだったろう。出席している者は皆んな泣いた。そして私と祖父の他は誰も顔をあげなかった。祖父はたくみに涙をかくして、ことのほか愉快そうにしていた。そして私も堂々としていた。宴が終った時に祖父は私に言った。「お前の将来は花ざかりの山の上で喜びをさがすようなものだ。おそれずに自分の道を進んで行くのだ」と。彼の口から出た予期せざる別れの言葉は、男らしく家を出て行く私に勇気を与えてくれた。そして広大な世界を見る迄は再び帰ることのないなつかしい家に別れを告げた
。  弟は江戸の街すじをかなり遠い所までついて来てくれた。弟に話しかけようとしてふりむいた時に彼は悲しくて目から涙を流していた。その時私は弟に言った。「なぜ泣くのだ。女の子のようだ。此処から家に帰った方がよい」と。そして勉強にはげむようにと、別れの教訓を与えて家にかえした。(これが弟を見る最后となった。彼は私が家に帰る3年前の1872年に死んだからである。)

18 ニコライ神父

 翌早朝江戸港を出帆した。大都市を水平線のかなたに残し遠くの方に雲におおわれた富士山が見えかくれした。藩主の商品を函館へ輸送する間、各所に寄港した。函館港の入口で強い潮風を受けて暗礁に乗りあげるところであったが幸いに岸から親切に助けられて、曳船の援助により海難を脱することができた。それは1864年の早春[註 元治元年3月11日、21才の時]で、江戸を出て1ヶ月程で無事函館に到着した。此処で私は誰か外国人に近づいて、その世話で国外へ脱出する計画であった。ある友人の紹介によってロシァ人のニコライ神父に会った。そして彼の日本語の教師となり、その世話で目的が達成できるかもしれないと思った。
 遠く離れた異郷にあって、私はたいへん注意深く周囲を観察した。私を最も驚かせたものは人々の堕落せる状態であった。その時考えたことはどんなに物質文明が進歩しても道徳がこんな悲しむべき状態であれば無益であると云うことだった。私の外国訪問の願望はこれによって一層強められた。

19 日本脱出計画

 約1ヶ月ロシア神父の家で過ごしてから、徐々に私の計画を彼にうちあけて、その実行について彼の助力をお願いした。私は彼に日本の最も必要とするものは道徳革命であり、私の信じるところではそれはキリスト教によって実行されねばならないと話した。彼は私の言ったことを非常に喜んだが、彼に打ち明けた計画に対しては反対であると警告した。彼は私に、自分の家に滞在しなさい、英語と聖書を喜んで教えてあげるからと語った。彼の警告に失望して魍畳墨にだれか知合がいないかとさがした。其処で私が見つけた最初の友人はイギリス商館に勤めている日本人の番頭[註福士宇之吉氏]で、彼は少しの間面接しただけで異常なほどの関心を私に示してくれた。私は彼をことのほか好きになり、しばしば彼の事務所を訪れて、彼のよしみを受けるようにお願いした。彼は仕事がひまな時は何時でも歓迎してくれ、更に、英語を教えてくれた。彼と数回面談した後に懸案の計画を打うちあけた。彼は大いに喜んで聞いてくれた。そしてこのことを心にとめておくと約束してくれた。私は普通の市民の服装をした。函館の街を歩く時は人目につかないように振舞った。武士のしるしである刀をはずした。髪も短く刈った。彼と信頼のこもった会話をかわすようになってから1週間もたたないうちに、彼はすぐにでも我国からぬけ出すことができるかもしれないと言った。あるアメリカ人の船長が遠い中国迄私をつれて行くことに同意してくれたからである。彼によれぱ、中国迄行けば其処からアメリカ合衆国へ行くよい機会があるかもしれないと云うのであった。海の彼方の知らざる国で何かを求めるよい機会が巡って来たことを知らされた時、私はどんなにうれしかったことか。
 丁度その時ニコライ神父は夏休で家に居なかった。家はすべて私にまかされていた。そこに2ヶ月近く滞在していたので数人の知合いができた。その知合いのなかに地元の役所の高官もいたが、そのうちで私自身の計画をうちあけた者はごく少数であった。私がアメリカの船に乗船する準備がととのった時に、私は家に呼び戻されたかのように振舞った。と云うのは突然私が函館から消えたことが、外国船に乗ったのではないかとの疑惑を役人に起こさせ、政府の船が私を追跡するために仕立てられるのでないかと云う懸念があったからである。この時代は政府の許可なくして国外に逃亡を企てる者は、もし逮捕されれば死刑に処せられた。
 少し時間の余裕ができたので、ロシアの写真屋にたのんで写真をとってもらった。それは私のお別れの挨拶の手紙とともに両親に送るためであった。私はアメリカが見える頃になって、はるか離れた国へ出発した通知を家族に出した。[註手紙を託された友人も、また両親も政府によって厳罰に処せられると云うことで、この手紙は配達されなかった、父が本人からそのことを聞いたのは3年後のことである]
 その日本人の友人が、翌朝上海に出航予定のアメリカ船に私をつれて行くことになっていた。約束の時間に、外国租界に訪ねて行くと、彼は其処で待っていて暖かく迎えてくれた。

20 命がけのベルリン号乗船

 彼は深夜の冒険に出かける前に温かいレモネードをつくって飲ませてくれた。そして運命をとしての危険にあまり神経質にならないようにと注意してくれた。しかし私の記憶しているところでは、私は全く神経をつかっていなかったと思う。私は現地に着く前に遠くで犬のなき声を聞いた。下駄の音が犬の注意を引いたのではないかと思って、どの位遠くに、どの方向にほえている犬がいるかをさがすためにその場で下駄をぬいだ。私がその友人に何処で下駄をぬいだかを告げたら、彼は裸足で走って行って下駄を私の所へ持ち返ってくれた。それから我々は小さなボートがおいてある波止場ヘー緒に下りて行った。波止場に立っている時に誰かが来る音がした。それでボートに乗り込み、あたかも荷物の一つであるかのような恰好をして、私は舟底に寝ころんだ。それは警備員であることが分った。彼は我々二人を捕える機会があった。しかし彼は明らかに臆病者で、我々をさぐるために敢えて近づいて来なかった。彼は唯私の友達がボートの綱をはずすのを見ただけである。警備員は震える声で「此処に誰か居るのか」とたずねた。「私だけだ」と友人は静かに答え右そして更に「アメリカ船の船長にたのまれて、明日迄のばすことのできない仕事をしているところだ」と彼に言った。私の友人はその警備員をよく知っていたので、静かな自信のある語り口で簡単に説明しただけで、深夜にもかかわらず波止場から彼を追い出すことができた。我々が漕ぎ出して行くと、海岸にたくさんの光が輝くのを見た。人々は神社のお祭を祝っていた。アメリカ船は海岸からかなり離れていたのでそれに到着するにはかなりの努力を要した。船長は我々を待っていてくれた。我々はおくれずにベルリン号に乗船した。私とあたたかい握手をかわして別れを告げて、我が友は一人で海岸へ漕ぎ去った。そして私は船の物置小屋につれて行かれて錠を掛けられた。私はすぐに眠りに入った。すばらしい夜を砥翌朝頭上の船員達の活発な足音で目をさました。私は日本人が船室で船長と話している声を聞いた。税関の役員が出帆する前に検査をしているところであった。部屋が施錠されていたから、私は起きても意味はなかった。船長が呼びにくる迄静かに待っていた。
 その時一瞬にして過去の出来ごとが凡て思い出された。最も私を悩ませたものは、両親拉に祖父に対する肉親の愛情であって、心痛の念を禁じ得なかった。しかし乍ら後戻りするには遅すぎた。そしてこれ迄の成功を喜んだのである。経験のない者が、難関を乗り越え、新しい生活にふみ出し、おさえることの出来ない食欲をみたすために何ものかを求めて無限の大海に船出することは、決して小さな企てではなかったのである。

21 上海に向う

 私を勇気づけたものは見えざる手が必ず私を導いてくれると云う考え方であった。私は又新しい冒険に命をかける心構えであった。そして心のうちで次のよう言った。「もし私の試みが失敗したならば我が国にとっては少なからざる損失であるかもしれない。しかし萬一私が未知の国への長き逃亡生活を終へ無事帰国することが許されるならば我が愛する国に何らかの貢献をもたらすことになるかもしれない」と。
 昼頃船長はドアを開いてくれて、甲板へ私を呼び出した。その時までに船は港をはるかに離れて、美しい函館の町は水平線の彼方に沈んでいた。われわれの船は海岸線沿いに航行した。そして12日間は青い山脈が多少とも視界にあった。船が山なみ豊かな島から離れて、広い水平線の彼方に出た時に私は帆柱によじ登ってはるか彼方の故国に最後のわかれをつげた。その時私はやや神経質になっていたが、未来に対する希望が新しい勇気を与えてくれた。私は故国を振りかえらずに、中国に向って望みをかけることにした。山のある島が見えなくなってから3日後に、曳船に引かれて上海に到着した。

22 憤激にかられて

 ここで私は航海中の一つの経験を述べてみたい。私は船賃が払えなかったので、その代わりに船中で働くことを船長に約束していた。船室で働き始めたが、残念なことには、私は一言も英語が話せなかった。親切にも船長は船室の中にある物の名前を教えてくれた。正式の実物に則したレッスンであった。彼は物を一つ一つ指さして、私がつかむ物の名前を教えてくれた。船に一人の英米人らしい客がいた。彼も又英語を教えてくれた。彼は時には親切にしてくれたが、時には乱暴な振舞をした。ある時、彼が命じたことが、私には分からなかったのでなぐられた。それで私はかっとなって、復讐しようと思って日本刀をとりに自分の部屋にかけおりた。日本刀を持ってまさに部屋を出ようとした時に、一瞬ある考えが頭にひらめいた。それは私がそんな行動をとる前に、慎重に考慮すべきであると云うことであった。ベットに寝ころんで、心の中でこうつぶやいた。
 「これはほんの些細なことだ。今後多分もっと苦しい試練に会うかもしれない。もし今私がこれに耐へ得なかったら、今後どうしてさらに重大な試練を乗り切ることが期待できようか」と。私は自分の短慮を恥じ、どんなことがあっても刀に訴えてはならないと決心した。
 中国へ行く航海中にもう一つの事件が起こった。私は皿を洗っている時に、不注意にもスプーンを海中に落してしまった。中国人の給仕は、「船長はお前をなぐるだろう」と言って私をおどかした。私はそれは高価な銀のスプーンだと思った。あるだけの日本のお金をとりだして、船室へ行き身振り手振りで船長に告白して、なくしたスプーンの代金としてこの金をとってくれるようにたのんだ。ところが驚いたことには、彼は笑いながらお金を受取ることをことわった。
 ここで船を失うかもしれない危険をおかして親切にも私を中国へつれて行ってくれた船長の名前を述べなければならない。即ち彼はマサチューセッツ、サレムの市民ウィリアム・T・サボリ船長である。上海でマサチューセッツ、キャッサム出身のホーラス・S・ティラー船長の別の船、ワイルド・ローバー号に私は乗り替えた。サボリ船長は同じ船で日本へ引きかへさねばならなかった。彼はホーラス船長に私の世話をするように頼んでくれた。

23 ワイルド・ローバー号に乗船
  ボストンヘ

 数日後私はワイルド・ローバー号に行って、船長に私の刀を進呈してアメリカ合衆国へ私をつれて行ってくれるようお願いし、そうして頂ければ船賃の代わりに無償で働くことを約束した。それで私は船室で働きはじめた。船長は私を日本の名前で呼ぶことができなかったので、ジョー(Joe)という新しい名前をつけてくれた。それで私のアメリカの両親は私をジョゼフ(Joseph)と呼んだ。その船は9月の初旬迄上海に碇泊した。材木を積むために福州に向って出帆し、再度上海に帰港した。それから香港に向い其処から西貢(サイゴン)へ向った。西貢で米の荷を積込んでまた香港へ向った。そこで私は漢訳の新約聖書を一冊買うことにしようと思ったが、日本のお金が通用しないことが分かった。それで船長に私の小刀を8弗で買ってくれるようにたのんだ。船長はお金を支払ってくれた上に、町を見物するために中国人のスチュワードと一緒に上陸する許可を与えてくれた。私は中国の書店で新約聖書を一冊買う機会を得た。間もなく船は荷物をおろしてから帰路に麻の荷物を積込むためマニラに向って航行した。我々がマニラ港をまさに出港しようとしていた時に1隻のイギリスの船がマニラ港の入り口でアメリカ船を待って碇泊しているとの情報を入手した。その時アメリカ合衆国に於て南北戦争が終っていたことを知らなかったので、イギリス船が何か危害を加えるかもしれないと懸念した。船長は望遠鏡を持って甲板で忙しそうにしていた。又船員達は防禦に使用する火薬や弾丸をとり出しに武器庫へ急いで降りて行ったりしていた。しかし乍ら我々はあやしい船のそばをなんなくすりぬけた。それは1865年[註 慶応元年]の4月初旬であった。マニラを出てボストンヘ着いたのはその時から4ヶ月後であった。充分な食料や水を持っていたので、途中何処へも寄港しなかった。 航海中の私の仕事は食事の時に船長の給仕をすることや、船長室の整理整頓をすること等であった。船長の仕事がない時は、しばしば私は絹をひっぱった。航海中最もうれしかったことは毎日船長とともに船の位置を計算することであった。船長は大変私に親切で、まるで自分の兄弟の一人であるかのように付合ってくれた。彼は決して私に荒い言葉使いをしなかった。船中の者は皆んな私と楽しく交際してくれた。私はしばしば前甲板へ行って船員達を見ようと思ったがそれは許されなかった。船長は船員達から離れているようにと注意した。航海中は1、2度の荒れ模様に出会ったが、概して好天と順風にめぐまれた。丁度喜望峰を出た時に我々は竜巻を見た。それは今迄見たこともないすばらしい景色であった。それからは貿易風に乗って毎日時速13マイル位で航行した。船がコッド岬に近づいた時に一漁師から南北戦争が終ってリンカーン大統領が刺殺されたことを聞いた。船はゆっくりとボストンの港に入り、近くに金色に輝いた丸い屋根のある美しい繁華な町並みが見えた時、船長は船員に投錨を命じた。投錨されると船中の全員は航海が無事に終ったことを喜び合った。
 しかし私にとってはそれは単なる喜びではなかった。と云うのはこの航海の終りが幸福な運命の始まりであることが後で分ったからである。親切な船長によって、この船の所有者とその夫人[註 アルフェース・ハーディー夫妻]に紹介された。ご夫妻は直ちにアメリカに於ける私の養父母になって頂いた。ご夫妻のたゆまざるご配慮、賢明なるご指導、及び不断の祈りのお陰で、青少年時代、家で漠然としてではあるが何度も描いた夢が実現できた。

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