洛中洛外 虫の眼 探訪

2009年08月29日(Sat)
KKH 右の写真は、四条河原町にたむろするザ・フォーク・クルセダール(フォークル)の当時のメンバーである。10月18日の京都新聞に掲載された。撮影されたのは1968年1月頃とある。甲斐扶佐義の撮った写真の雰囲気がただよっている。右上が若き頃の加藤和彦である。  精神科医になった北山修の追悼文が同誌の19日朝刊に載っていた。自殺報道の記事に、彼のコメントがなかったので、精神科医となった彼の文章を期待して読んだが、平凡であった。曰く「もう一人の加藤和彦があまりに厳しくて、自分でじぶんを追いつめた結果、こういう結末になったのだと私は考える」。その後に「帰って来たヨッパライ」の「(おらは)死んじまった(だ)」を引用するだけで、彼の自殺についての精神分析は何一つなされていなかった。期待したのはそれだったのだが。最後の方に「私に何の相談もしないで…」なんて書いているが、相談できる相手ではなかったのではといいたい。  写真右のチビのはしだのりひこ(本名:端田宣彦)のコメント「彼の心の内の闇を読み損ねたのかもしれない」という方が、率直で暖かみのあることばではなかろうか。  1年で解散したフォークルのメンバーのその後の軌跡を、ネットでググってみた(昨今は、インターネットを使ってグーグルで検索して、情報を手っ取り早く集めることを、こういう風にいうらしい。「ぐぐる」は四段動詞である)。  それらをこぴぺして(これも昨今のネット語のひとつで、コピーして貼付けるすること)、繋ぎ合わせたものは、ここをクリック。
  その結果を通して読むと、「帰って来たヨッパライ」の作詞をし「イムジン河」を世に出した松山猛を含めて、四人四様のその後の人生が浮かび上がってきた。 moguratataki.jpg それを読んで、北山は当時京都一の進学校であった「洛星高校」を、端田宣彦は「チビ」を、松山猛は「イムジン河」を背負って生きてきたのだなあ〜、とかってに思う。加藤の背負ってき、その重さに耐えられなくなった物は何だったのだろうか。  一年限りの条件でフォークルのプロデビューには、平沼らに代わってはしだのりひこが参加したが、北山は身長を揃えるために杉田二郎を3人目に推薦した。しかし、加藤はプロ活動の条件にはしだの加入を主張したという。はしだがモグラたたきよろしく、木魚代わりにノッポの北山を叩いている映像はなにかを象徴している。

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