洛中洛外 虫の眼 探訪

洛中巨樹探訪
東山山麓
2008年05月20日(Tue)
東山三十六峰静かに眠る丑三刻、突如わき起こる剣げきの響き…」の弁士の名調子にのって、一躍東山三十六峰の名が全国に知れ渡って久しい。その南半分の東山丘陵は「ふとんきて寝たる姿」と形容されるように、なだらかな標高の低い山々が連なっています。この山麓、円山を中心に南北せいぜい2、3キロの間に京都の名所、旧跡の半ばがあり、四季を通じて多くの観光客でにぎわっています。この地には京都の街の長い歴史のひだが刻まれています。そして、この土地に深くしっかりと根を下ろし、その歴史をじっと眺めてきた幾多の樹々たちが、幸いにもいくつか残っています。ひっそりと、静かに観光客を見送り、京都の街に生活する人たちに潤いをもたらしています。
 今日は、そのような樹々たちを路地裏や街角に訪ねて見ようと思います。

(写真だけの方は、 ここをクリック。写真にポインタを合わせれば簡単な説明が出てきます。もっといいのはサムネイルをクリックすると大きな写真と説明が前に出現します。藤本壱さんのおかげです)


東山山麓地図コース案内 東山七条界隈は緑の多い起伏に富んだ所です 。まず午前中は、この辺りを散策しましょう詳細地図
 地下の京阪七条駅から地上に出ると、そこは車がひっきりなしに行き交う川端七条の交差点です。東に目を向けると、七条通の突き当たりに東山三十六峰のひとつである阿弥陀ヶ峰が望まれます。これは比叡山から数えて第三十一峰目です。ここから七条通を東に向かって出発。
 間もなく左手に京都国立博物館、右手に三十三間堂がある大和大路の交差点です。大和大路のこの辺りの北方向には、色とりどりのサルスベリが街路樹として植栽されています。また、この交差点で、京都国立博物館の背の高いメタセコイヤ、イチョウ、エノキが聳えているのが左手に見られます。館内の広々とした庭園には、端正に丸く剪定されたシイの大木があります。庭園だけでも入館料が必要なのは残念です。月二回、第2・第4土曜日と敬老の日の無料館覧日が狙い所です。右手の三十三間堂のはるか向うには、ハヤットホテルのエノキが大きく枝を広げているのが目に入ります。

養源院のヤマモモb 京都国立博物館の正面玄関の向側から三十三間堂の裏塀に沿った道を南に入ると、東側に養源院があります。ここでは、拝観料を払わずに玄関前の❶ヤマモモの大木サルスベリの古木、太い根を長くのばして手をつないでいる二本のエノキにお目にかかれます。
 
 
ナツメの古木 養源院を出て南へ、三十三間堂の南大門を潜り門前の塩小路を東へちょっと行ってすぐ右手の細い道に入ると、右手にナツメの古木が枝を、広げています。その根元にはお地蔵さんの祠が鎮座しています。毎年たくさん実がなりますが、神木の実を食べるのは畏れ多いので誰も食べません。さもありなん、固くてまずい!


新熊野神社のクス さらに南へ、突き当たりで左に道なりに進むと車が激しく行き交う東大路通に出ます。これを南に、東海道線の今熊野橋を越えると、突然目の前に❷クスの大木が出現します。新熊野神社の神木です。境内にはナギの木がたくさん植栽されていて、株を無料でいただくことができます。東大路を東に渡って道を覆う樹冠を満喫しましょう。
 
智積院のモミジ 東大路を北へ戻って行くと七条通との交差点にすぐに着きます。そこは智積院の大きな入り口です。2007年から境内整備の大工事がなされ、至る所に❸モミジが植栽されました。本堂の右脇を登って行くと左に智積院の墓地、右手に地蔵山の市営墓地が広がっています。登る途中の階段の側に房状の小さな白い花をつけるイヌサクラがあります。智積院の墓地の東の境には珍しく背が高くそろった桜の木が何本も並んでいます。その先にヒマラヤスギの高木が日陰を作ってくれています。
 
地蔵山墓地のシイ 一方、地蔵山の墓地には何本ものシイの木が繁って高く枝を伸ばしています。5月には黄金色の樹冠を呈します。この辺りの東山も最近シイの木がはびこり、新緑の山並みが黄色い斑点で覆われます。2つの墓地の間の道を抜けると、右手に地蔵山墓地入り口のソメイヨシノの大木が目に入ります。左手へ曲がりくねった道を辿りましょう。この辺りにかつては桜並木で、京都市内ではまれに見るトチノキの大木が聳えていました。ああ、なんていうことか、智積院の領地際だったため、ある日突然伐採の憂き目に遭いました。この先辺りで道がちょっと薄暗くなってくるのは、これから見に行く新日吉神社のスダシイの樹冠のためです。右手は京都女子大学校舎の壁です。坂道を登りきるとすぐ女坂の上に出ます。右手の山の方は豊国廊の参道、阿弥陀ヶ峰への登山口です。それを背にして女坂を降りて行きます。
 
新日吉神社のスダシイa 女坂がカーブするあたりの左手に新日吉神社が隠れています。門前にオガタマの古木あり、青いプラスチック製のひ弱なベンチが置かれています。門をくぐって拝殿の裏に回り込んだ所に保存樹の❹スダシイの大木が控えています。石の玉垣の下は先ほど通ってきた道です。拝殿の左前にはひょろひょろの白松があります。また境内には午砲が置かれていた石の台座が残っています。珍し物ですから,必見のこと。
 
女坂のエノキ 女坂に引っ返して、前方に見えるエノキの大木を見ながら左の歩道をさらに降りて行くと、すぐ右手に自動販売機の列が現れます。ここを右に曲がり、妙法院の裏の壁沿いに北へ進んで行きましょう。旧専売公社病院、現東山武田病院の敷地に入ります。この病院は妙法院の敷地に建っています。でもって、立派な地泉迴遊式の庭園が未だにあります。建物の玄関から入ればその奥がそれで、拝観料(診察料?)なしに自由に散策できます。休みの日も、裏の面会者用入り口から入れてもらえます。
 
大仏殿跡のケヤキb 病院の入り口は東大路通に面しており、歩行者用信号で青信号になるまでしばしいっぷく。向側のホテル東山閣の北側の細い路地を入ります。その奥の突き当たりに何本も❺ケヤキの大木が聳えています。ここが大仏殿跡の緑地公園です。公園内にはかっては5本のケヤキが空高く聳えていたのですが、発掘調査の影響で根を損傷されたためか、3本は枯れたので根元から伐採せざるを得ませんでした。残った3本のうちの一つも樹勢がとみに衰えてきました。
 ここで、石のベンチか、芝生の上でお弁当を拡げて腹ごしらえ。まだ先は長いです。昼からは、円山公園から三条京阪までの道々の巨樹を訪ねます。
 大仏殿跡の緑地公園から、方広寺の境内を抜けて豊国神社の境内に横から入ります。鳥居の前の幅の広い石段の下から正面通が西にまっすぐにのびています。南北には先ほど横断した大和大路が走っています。大和大路を北へ、ジグザグに裏道を通り抜けながら円山公園まで行きましょう。(詳細地図はここ)
 まずとてつもなく幅の広い五条通りを渡って一筋目を右へ、突き当たりの洛東中学校のところで左に曲がって、六波羅密寺の前を過ぎて、松原通につきあたりここを右折、すぐ左手に現れる六道珍皇寺の裏の道へ左折、またすぐ突き当たって八坂通へ右折して、まっすぐ八坂の塔を目指して進みます。東大路を越え、電柱と電線がない石畳の道を登っていきます。八坂の塔の直前、八坂の庚申さん(金剛寺)の前で左にまがって、注意深く右上を見ながら八坂神社の正門の方へ、北に向かいます。途中で石塀小路の入り口を示す看板が目にはいるでしょう、ここを右に入り、道なりに進めば観光客で溢れたねねの道に出ます。ねねの道を人をかき分けて、北へどんどん進んでください。鉾をかたどったコンクリートの建物が見えてきます。突き当たって右に曲がると、すぐに円山公園に向かう道角に着きます。
 これをやり過ごしてもう少し東に行き、何本かあるエノキの古木のそばを通り抜け、野外音楽堂の裏を巡っていくと、イチョウの大木に出くわします。市民の誇りの木に選定されているのに、頭をちょん切られて不格好に枝を伸ばしています。以前は堂々とした立派な木だったのに残念です。これを見てさらに音楽堂の金網にそって回り込むと、先にやり過ごした円山公園へ向かう道に出くわします、右折して東大谷祖廊へ向かう広い道を渡れば、円山公園の入り口に着きます。
 
長楽館の木1 その直前に長楽館が左にあります。ここの玄関の左前にオーストラリア原産のヒロハノナンヨウスギが、正面のヒマヤラスギと背丈を競ってと聳えていました。今年の春建物より高くなっては威厳に関わるとばかり、頭を切断されてしまいました。ついでに多くの枝も伐られました。元の雄姿に戻るのは何年先のことでしょうか。このとげとげの葉ををさわってみてください。
 
円山公園のシダレサクラ ここから出るとすぐ目の前に、シダレサクラの御老体が出迎えてくれます。やっと円山公園に着きます。円山公園のシンボル、毎春多くの花見客に雄姿を見せてきたこの木も押し寄せる人並みと車の排気ガスで寿命を縮めたようです。でも園内にはこれだけではなくエノキやムクノキ、クロガネモチ、モミ、フジ、カクレミノなどの大木、古木がたくさんあります。時間が許せば、ゆっくり起伏に富んだ園内を散策してください。
 
知恩院のムクロジ2 円山公園を北に抜ければ、もうそこは知恩院の境内、日本一の三門の前です。三門から東大路へと下っていく参道をちょっと下りると右手に京都市指天然記念物であるムクロジの巨木が大きく枝を伸ばしています。この側の溝沿いの道に入って、すぐに右折すると山門前の観光バスでゴッタ返している駐車場広場の横に出られます。
 
蓮月茶屋のムク この前の道は、平安神宮に通じる神宮道です。左折してこの道を行きます。知恩院の境内を仕切る背の高い石垣が終わる頃、左手にとてつもなく背の高いムクノキが目に入るでしょう。
 蓮月茶屋の中にちょっと入れてもらって、すぐ左手にその幹と板根を見ることができます。「おこしやす」と声をかけられ、ちょっと気まずい思いをすることになりますが。
 
青蓮院のクス1 さらにまっすぐに坂道を上っていくと、すぐ何本ものクスの樹冠に覆われた頂上に着きます。ここが青蓮院の門前です。高い石垣の上の土手に4本のクスの大木が互いに枝ばりを競い合っています。くねくねした根を露出した根元も見事です。門前にもっとも近い一本は梢の先端に元気がなく残念です。
 
満足稲荷のクロガネモチ 門前の坂道を下っていくと三条通の喧噪に出くわしびっくりします。これを渡って一筋目を左折して、三条通の裏道をどんどん進みます。この道は落ち着いた京都らしい裏道です。途中白川を渡って突き当たりまで行って右折します。すぐの一筋目を今度は左折して、東大路の方向に進みましょう。大通りに出る直前の右手に満足稲荷の裏門が現れます。ここにはイカが10本の足を天高く掲げたような奇妙な形をしたクロガネモチの神木が鎮座しています。京阪沿線「わが心の名木」シリーズの一つに選ばれ名木でもあります。
 
エノキのあわれな姿 寄り道。時間が許すなら、東大路をちょっと北へ、仁王門まで足を伸ばしてください。東大路の一筋東の細道に入ってすぐ左の路地を覗けば、かって、家々の屋根上高く堂々とに枝を張っていたエノキのあわれな姿が見られます。なぜ伐られたか。住民達は口をつぐんで何も教えてくれません。祟りはなくなり「家は退いても木は退かぬ」といった巨木の気概はどこへ行ってしまったのでしょうか。
  
大将軍神社のイチョウ この神社の正門は東大路に開いており、ここから出て南へ三条通を渡って、一筋目の裏道に入ります。両側に古い家々が軒を接している細い道の突き当たりに、大将軍神社のイチョウのが聳えています。東側の門から入った右手の拝殿の中に鎮座する神木です。近づくことは相成りません。境内にはエノキの高木、古木があり、昼なお鬱蒼とした東三条の森の面影があります。
 西門から出て、左手南への道を行き、三条東公園の所でジグザグします。右に折れて、すぐ左に折れて、円光寺という名前の寺の側を通って駐車場を抜け右手へ、またすぐ左へ曲がると、古門前通です。もう一息、この落ち着いた裏道を西へまっすぐに行くと、大和大路の北の部分、この辺りでは名前が変わって縄手通になりますが、三条京阪に通じる道に出ます。右折すれば地下の三条京阪駅の入り口が左手にあります。
済有小学校のムクノキ 一気に行かずに縄手通りに出る前に、済有小学校によりましょう。運がよければ日曜祭日でも校門は南に向かって開いています。奥の運動場の校舎の前にムクノキの古木が見事に枝を広げています。かんかん照りの校庭で、この木陰のありがたいこと。水筒の最後の一滴を飲み干し、しばし休憩してから地下に潜って下さい。さようなら。

沿道一口案内
養源院 淀君の父・浅井長政の菩提を弔うために建立された寺。長政の法号をとって寺名としたもの。本堂、庫裏ともに伏見城の遺構を移築したもので、ヤマモモも秀吉が伏見城内に手植えしたものを、後年移植したと伝えられている。2001年京都市指定の保存樹。向かいにサルスベリの古木もある。

京都国立博物館 旧陳列館は平屋建・煉瓦作りのフレンチ・ルネッサンス様式の洋風建築。館内庭園には石像・石塔が多くあり、シイ、エノキ、メタセコイアの大木も見られる。

今熊野神社 今熊野梛ノ森町にある。後白河法皇が永暦元年(1160)に熊野の神霊を移し、平清盛に社殿を造営せしめた。神木のクスノキは当社創建に際して紀州熊野から移植したと伝える。京都市指定天然記念物。

智積院 真言宗智山派の大本山。桃山時代の障壁画のある寺として知られる。明治以降寺運は衰退したが、近年復興の気運めざましく、境内も整備され、樹木も多くなった。特に岐阜県山中から移植したモミジの大木がある。

新日吉神社 阿弥陀ヶ峰山頂にある豊国廊の参道を覆い隠す位置にある。東大路からの東に向かう参道の坂道を女坂と呼ぶ。近江坂本の日吉神を勧請したもの。神木のスダシイは2003年京都市指定の保存樹であり、本殿の裏に静かにたたずんでいる。境内に白松も見られ、参道にはオガタマの古木が有る。

方広寺大仏殿跡緑地 秀吉が五ヶ年を以て完成させると豪語し、時間短縮のため木造の崑盧舎那仏をつくらしめた。九年を費やして完成した大仏殿は一年後に慶長の大地震であえなく大破した。遺志をついだ秀頼によって再建がもくろまれたが、建設中に大仏腹中より火を発し焼亡した。家康の進めもあって再び工が起こされたが、銅鐘の銘文中の「国家安泰・君臣豊楽」が家康の言いがかりを誘い、開眼供養は中止された。それ以降寺運も次第に衰退し、震災・雷火・失火の憂き目に遭う。最終的には1973年に失火で焼失。跡地の一部に一時期建設省の保養施設平安房が建てられていたが、これも解体され、発掘調査をへて緑地公園となった。敷地内には6本の大ケヤキがあったが、発掘調査の影響で樹勢は衰え、3本は枯れて伐採された。残る3本も衰えが目立つ。このケヤキ群は大仏殿が1798年の落雷で炎上した後に植栽されたものと考えられている。

豊国神社 当社はもと阿弥陀ヶ峰の中腹に創祀された秀吉を祭神とする神社である。徳川氏によって取り払われ300年後の明治11 (1878)年に方広寺大仏殿跡に再興された。国宝の唐門は伏見城の遺構と伝える。境内にはクスノキとイチョウの大木がある。かつてはエノキの大木もあったが残念ながら枯死し、伐採された。

大和大路 豊国神社前の道。北は三条通に始まり、四条通、五条通を越えて南は泉涌寺道に至る。かつての大和街道の一部にあたる。豊国神社の前から博物館、七条通までは道幅が広く、並木として色とりどりのサルスベリが植栽されている。四条通の南には、霊験あらたかな目疾地蔵を本尊とする仲源寺、市中にしては広大な境内を構える臨済宗建仁寺派の総本山建仁寺、開運、七難除けの摩利支天を祀る禅居庵、正月の十日ゑびすでにぎわう恵美須神社など、商店が並ぶ間に、神社仏閣が多く見られる。三条から四条までを特別に縄手通と称す。かつては59軒もの茶屋があった京中随一の繁盛所だったという。この道の北の端に三条京阪がある。

六波羅密寺 空也上人開基の真言宗智山派智積院に属する寺である。口から六体の阿弥陀如来を吐き出し念仏説法をしている空也上人像は教科書でおなじみだ。このあたりの町名は町であるが、昔は町と呼んでいた。寛永年間にいまの名前に改められた。平安末期には平家一門の邸宅がひしめいており六波羅第と称した。鎌倉幕府が六波羅探題を置いた所でもある。今なお地獄極楽を思わせる中世的雰囲気を漂わせている界隈である。

松原通 現在の松原通はその昔は五条通だった。五条通から松原通にかわったのは、秀吉が大仏殿を造営したとき以来である。旧五条通(現松原通)の橋を現五条通(元六条坊門小路)に強行に移設してしまったため、旧の五条橋の架かった方が五条通になり、本来の五条通は近世まで五条松原通と呼ばれるようになった。平成のいまは、五条通が東西幹線となり、松原通は狭い一方通行の道である。東大路を少し西に入ったところに六道珍皇寺があり、この辺りはあの世との交差点六道の辻である。有名な「幽霊子育て飴」を売る店もこの先にある。

八坂通 清水寺へ参る道は幾つもあるが、東大路から八坂通を上り、八坂の塔(法観寺)を周る道もその一つである。石畳の坂道を人力車が行き交う。道の両側の家々の軒先に括り猿がぶら下げられている。日本三庚申の一つ八坂庚申堂(金剛寺)がある。近年電柱も撤去され写真写りも良くなった。

石塀小路 八坂神社の正門は、四条通に開いている朱塗りの楼門ではなく、東大路の一筋東、下河原通に面する南門が正門である。高級京料理旅館や料亭がずらりと並び壮観である。この通りから東に入り、ねねの道に抜ける路地が石塀小路である。ここにはこじんまりしたお茶屋、料理旅館、料亭、スナックなどが40軒近く塀を接す。

高台寺とねねの道 以前この道は高台寺道と呼ばれていたが、1994年に伝統的建物群保存地区で初めて電線の地中化を行い、道を石畳で覆って新たにねねの道と名付けられたものである。いまや一年を通じて京観光のメッカとなっている。高台寺は臨済宗建仁寺派の名刹。北政所高台院湖月尼、すなわち寧子が秀吉の菩提を弔うために創建した寺。徳川氏の手厚い庇護のもとに壮麗な伽藍を有していたが、火災、焼き討ちで、烏有に帰し、創建以来の建物は表門と開山堂、霊屋などわずかである。庭園内と外塀沿いの高所にツブラシイの巨木が何本か残されていたが、駐車場のために隅の一本を残して伐採された。その大きさからして創建当時に植栽されたと推定される。参道にはクスノキもあり、参道の中ではひときわ大きく目立つ。庭園内にはクロガネモチの巨木もあったが、1990年に雪の重さに耐え切れず根元からおれた。樹齢400年の名木であった。

円山公園野外音楽堂 昭和2年に音楽をはじめ各種の文化事業、慰楽事業、集会等の用に供するための施設として設置された。3000席を有す扇型の大規模な野外集会場である。京都の繁華街を練り歩いた市民・学生・労働者らの終着地点でもあったが、年々利用が減っている。扇型の会場のまわりをめぐる金網のフェンス際に、エノキの大木が何本も見られる。東側の奥まった所には、円山公園の最大幹周木のイチョウがある。

長楽館 「明治の煙草王」と呼ばれた村井吉兵衛の別荘・迎賓館として明治42年に竣工した建物で、設計は立教大学学長でもあったアメリカ人宣教師建築家 _J . M . ガーディナー氏による。いまは、レストラン・カフェ・ウエディングホール・レディースホテルとなっている。大和大路五条を下がって出くわす渋谷通りを東に入った所に、煉瓦作りの煙草工場跡がいまだに残っていて、この方は、安宿や事務所に利用されている。ヒロハノナンヨウスギが館正面左隅にある。オーストラリアの暖地海岸に自生し、日本には明治末期に渡来したとされている。ヒマラヤスギも入り口正面にあり、互いに樹高を競っている。

円山公園 本公園は明治19(1886)年開設の市最古の公園で、東山を背に86600平方メートルあり、池泉回遊式庭園を中心に、料亭や茶店、あずまや、藤棚、便所が散在している。元来この地は安養寺の境内であった。境内には正阿弥、左阿弥、重(庭)阿弥、也阿弥、連阿弥、眼(春)阿弥と称する子院(坊)があって林泉の美と眺望に富んでいることから遊興の場所となっていた。維新後、火災などで寺運は衰退、本堂、書院、弁天堂及び料亭の左阿弥を残すのみである。大正2(1913)年に小川治兵衛(植治)によって造園され面目を一新するに至った。園内のほぼ中央に位置するシダレザクラは江戸時代から「祇園枝垂」として知られ、現在の桜は二代目である。昭和2年に実生し、昭和24年に当地に移植した。80年を経過し衰えが目立つ。初代のシダレザクラは,根回り4メートル,高さ12メートル,樹齢200年余で,昭和13年,天然記念物に指定されたが,昭和22年枯死した。サクラの他、エノキ、ムクノキ、モミ、フジ、クロガネモチ、カクレミノなどの大木も多い。

知恩院 円山公園と地続きにあり、浄土宗の総本山。わが國最大の楼門である三門から西へ東大路に出る道沿いに京都市指天然記念物であるムクロジの大木がある。北の黒門から入った駐車場前の斜面には幹周り5mになんなんとするムクノキがある。

蓮月茶屋 幼くして知恩院の寺侍太田垣光古(てるひさ)の養女となった蓮月ゆかりの茶屋。豆腐料理を出す。蓮月は豆腐が大好物だったという。蓮月は幕末の歌人、加茂川で野菜を洗っていたという。「おりたちて朝菜あらへば加茂川のきしのやなぎに鶯のなく」という歌を残している。湯豆腐のあしらいになった京野菜かも。閑話休題。暖簾をくぐった左手に板根を広げたムクノキがある。

青蓮院 知恩院から三条通を渡って平安神宮へ至る道を神宮道という。わずかに傾斜を帯びて東山のふもとをはうこの坂道は、三条通の手前で最も高くなるが、このあたりに天台宗の三門跡寺院の一つ青蓮院がある。土塀沿いの石垣の上の斜面に4本のクスノキの大木が並んでいる。青蓮院が当地に移転した13世紀以降の植栽であろう。多くの画家や作家たちのモデルとなった美しい姿のクスノキである。1998年に京都市の登録天然記念物に指定された。移転当時の境内は知恩院側にのびており、クスノキの並木がもっと南にも続いていたものと思われる。その痕跡が知恩院側に見られる。西側は「楠荘」という名の料亭があったが、いまはマンションに建てかわった。今も2、3本のクスノキが生えているが、かつてはもっと大きく繁っていたと記憶する。

三条北裏通り 正式の通りの名ではないが、三条通の一筋北の東西の筋で、神宮道から東大路までをこのように呼んでおく。堀池町と石泉院町の境を白川が南に流れ、古い京都の町家建築が残っている落ち着いたたたずまいの道である。一筋入っただけで三条通の喧噪さが嘘みたいである。白川を渡る直前で並河靖之と小川治兵衛の旧邸が塀を接して残っている。並河靖之は京七宝の創業者、七代目小川治兵衛こと植治は、無鄰庵、平安神宮、円山公園、京都国立博物館や住友家、徳川慶喜、西園寺公望、山県有朋、稲畑勝太郎、松下幸之助などの邸宅の庭を作庭した人物。並河靖之邸の庭は彼の最初期の造園で貴重である。並河邸は七宝記念館として公開されているが、なぜか、小川邸は荒れるにまかされている。朽ちかけた土蔵が痛ましい。

満足稲荷神社 東大路に面した当社は、秀吉が文禄征韓にあたって稲荷の神に祈ったところ霊験著しかったので伏見城内に祀ったのが起こりである。法皇寺の鎮守社として現在の地に移ったのは元禄年間の1693年である。明治になって法皇寺が南禅寺に移り、神社のみが取り残され現在に至っている。一本の幹が八本に幹分かれする奇形な姿の神木のクロガネモチが東大路に枝を広げている。樹齢400年と伝える。京阪沿線「わが心の名木」シリーズの一つに選ばれ広く紹介された。ちなみに新熊野神社のクスノキ、養源院のヤマモモも「わが心の名木」に選ばれている。北東の奥にフジの古木もある。

大将軍神社 東山三条の交差点を南に渡ってすぐ、西に入る小道がある。この突き当たりにあるのが大将軍神社であるが、なぜか京都を紹介する幾多の本にはあまり紹介されていないが、桓武天皇の平安遷都の始め、王城鎮護の目的で京都の四隅に祀った大将軍の一つであるといわれている古社である。本神社の西側一体は、平安時代末期以来明治維新まで「東三条の森」と呼ばれた気味の悪い場所で、鵺の伝説を生んだ土地である。この境内に京都初の夜学校が、19世紀の終り頃から昭和初頭まで開設されていた。これは竹中庄衛門という人が、被差別部落の子供たちのために、私財を投じて開いたものである。学問よりも家計が優先された当時、子供が集まらず17年間失敗を繰り返し、4回目の試みでようやく実現したという(人権情報誌 あい・ゆ〜 KYOTO, Vol.17, 2004年8月)。本殿の中に神木のイチョウがある。また境内の東三条社の祠の側と西側の荒熊稲荷神社の脇に、エノキの大木がある。

古門前通 知恩院の北西に位置する古門から白川に架かる橋を渡って東大路をこえて、東へまっすぐに伸び、大和大路(縄手通)に至る道。寛永年間の知恩院の拡張工事にあたって設けられた。開通時は新道と称せられていたが、後にすぐ南に新門前通が開通して、古門前通となった。寛文12(1672)年には既に「洛中洛外大図」で「知恩院古門前町」と記されている。もともと職人町で、紙箱屋、指物屋、炭屋、左官屋、鋳掛け屋、悉皆屋、古着屋、畳屋、瓦屋などが並んでいたという。いまは、骨董商、古美術商が目立つ。古い家並みが軒を並べるなかに、二、三軒おきに細い路地があり、その奥にきまって、お地蔵さんの祠がある。花見小路を南にちょっと下ると白川に架かる「なすあり」橋があり、たもとには「なすあり」地蔵がある。

有済小学校 縄手通から古門前通を東に入った北側に明治2年に開校した小学校がある。もと下京二十四番組小学校で、校名の「有済」は儒書の書経君陳篇の「必有忍其乃有済」(必ず忍ぶ有りて、其れすなわち済す有り)から命名された。校庭にはムクノキの大樹が枝を大きく広げている。榎明神の石碑が建つ。かつてはエノキとムクノキの2本が聳えていたようだが、エノキは枯れた。江戸中期という説、明治40年頃という説と、昭和の5,6年という説が入り乱れている。ムクノキは健在で、小学校のシンボルとなっている。校舎も一部をくぼめて改築された。ここは、木曾義仲の愛妾山吹御前の墓と伝えられているが、義経の臣佐藤忠信の馴染みの遊女力士の墓とする本もある。
 余談であるが、京都の町中の小学校の名前にはこったものが多かった。現在は生徒数の減少で小学校・中学校は統廃合され、校名もありきたりのものになったのは惜しまれる。京極、乾隆、翔鸞、正親、待賢、養正、柳池、銅駝、淳風、 弥栄、貞教、明倫、日彰、立誠、郁文、開智、有済、豊園、梅逕。いずれも京都の町中の小学校の校名である。近世からの流れを汲む自治組織である番組、そこから番組小学校が生まれた。開校当時は番号で呼ばれていたが、やがて上に掲げたような独自の名前がつけられた。 ( 2007.年10月 楊柳木記 )

写真集
 写真にポインタ()を当てれば簡単な説明が出てきます。もしゆっくり読みたければここをクリックして下さい。

 大和大路のサルスベリの並木(⏎)
大和大路のサルスベリの並木(⏎)

 ハヤットホテルのエノキ(⏎)
ハヤットホテルのエノキ(⏎)

❶養源院のヤマモモ (⏎)
養源院のヤマモモb

養源院のヤマモモa

養源院のやまももc
(⏎)
 養源院のサルスベリ(⏎)
養源院のサルスベリの古木a

養源院のサルスベリ(⏎)
 ナツメの古木(⏎)
ナツメの古木(⏎)

 ❷新熊野神社のクス(⏎)
新熊野神社のクスc

新熊野神社のクスb

新熊野神社のクス(⏎)



智積院のモミジ(⏎)
(⏎)

 地蔵山墓地のシイ(⏎)
地蔵山墓地のシイ(⏎)
 地蔵山墓地のソメイヨシノ(⏎)
地蔵山墓地のソメイヨシノ

 桜伐る馬鹿(⏎)
桜伐る馬鹿(⏎)

 新日吉神社のスダシイ(⏎)


新日吉神社のスダシイb(⏎)
 新日吉神社のオガタマの古木(⏎)
新日吉神社のオガタマの古木(⏎)

 新日吉神社白松(⏎)
新日吉神社の白松(⏎)


 女坂のエノキ(⏎)
女坂のエノキ(⏎)

 大仏殿跡のケヤキ(⏎)
大仏殿跡のケヤキa

大仏殿跡のケヤキb(⏎)
伐採された三本のケヤキ(⏎)
伐採されたケヤキ
(⏎)

長楽館のヒロハノナンヨウスギ(⏎)
長楽館の木1

長楽館の木2
(⏎)

円山公園の木々達(⏎)
シダレサクラ
円山公園のシダレサクラ

ムクノキ
円山公園のムクノキ1

円山公園のムクノキ2

フ ジ
円山公園のフジ

モ ミ
円山公園のモミ

カクレミノ
円山公園のカクレミノ
(⏎)

知恩院のムクロジ(⏎)
知恩院のムクロジ2
(⏎)

蓮月茶屋のムクノキ(⏎)
蓮月茶屋のムク
(⏎)

青蓮院のクス(⏎)
青蓮院のクス2

青蓮院のクス3
(⏎)

満足稲荷のクロガネモチ(⏎)
満足稲荷のクロガネモチ


あわれなエノキ(⏎)
エノキ伐る馬鹿

あわれなエノキ

かっての勇姿
かってのエノキの勇姿
(⏎)

大将軍神社のイチョウ(⏎)
大将軍神社のイチョウ1

大将軍神社のイチョウ2

大将軍神社のエノキ(⏎)
大将軍神社のエノキ1

大将軍神社のエノキ2
(⏎)

済有小学校のムクノキ(⏎)
済有小学校のムクノキ

済有小学校のムクノキ
(⏎)
写真のトップへ




The End


inserted by FC2 system