洛中洛外 虫の眼 探訪

巨樹探訪
素桜神社の神代桜
2009年06月28日(Sun)
はるばる長野まで
 京の桜も一段落した4月の下旬、久しぶりに遠出して桜の巨樹を訪ねた。所在地は「ながの観光コンベンションビューロー」によると長野市芋井泉平。長野市から戸隠方向にバスで小半時、バスを降りてからさらに徒歩で小半時、九十九折の坂道を登ったリンゴ畑のなかに目指す桜の巨樹があった。
 長野市と芋井と泉平の関係は結構ややこしい。沿革を紐解くと、上水内郡の芋井村が1954年に長野市に編入(第一次昭和の大合併)、それで長野市芋井。芋井村は、ずっと以前の1889年に、上水内郡の入山村、広瀬村、上ヶ屋村、泉平村、桜村、鑢(たたら)村、富田村が合併し発足している。それで正式には長野市泉平素桜513なのだが、泉平村は一旦1876年周辺の桜村、鑢村、新安村、荒安村と合併し富田村になったが、1882年に富田村から泉平村、桜村、鑢村だけが独立した。現在は泉平、桜、鑢と富田が地名として残っている。芋井の地名は消えたが、長野市の地区名や小中学校の名前に今も使われている。

(クリック一発、地図拡大)

 満開のタイミングとお天気の具合を天秤にかけて、連休前の4月20日に京都を出発、長野市内に一泊して翌朝現地に行く計画を立てた。お天気もぎりぎり持ちそうだった。ところが長野に近づくに連れて、お天気の方が怪しくなってくるではないか。そこで、車中で急遽予定を変更、14時53分に長野駅に着いたその足で、桜に向かうことにした。幸い、長野駅からのバスの便も15時33分にあり、時間的には桜まで行けそうである。問題は帰りのバスの便であるが、長野駅行き最終が18時10分と、ネットで調べた川中島バスの時刻表にあったので一安心。
 長野駅に着いてすぐコインロッカーに荷物を放り込んで、長野駅善光寺口7番乗り場、駅から見て左前方、大通りを渡ったビルの一階前のバス停に向かう。この場所も川中島バスのホームページに画像付きで掲載されていたので簡単にたどり着けた。こんな親切きわまりないホームページでの案内は見たことがない。


 16時ちょっと前に「坂額」という面白い名前のバス停で下車、ここから徒歩で桜まで向かうのであるが、いったいどのくらい時間がかかるのか、道の様子が皆目分からないので、帰りのバスに間に合うように行って帰ってこられるのかと、少々心配しながらの出発であった。お天気の方はどうにか持ちそうである。人っこ一人も通らない、けっこう道幅のある舗装道路をテクテク登り始めた。周りは、一面リンゴ畑で、花盛りなら見事であったろうが、まだ芽も出ていない。低く横に伸びた枝の上面が白く塗られている。くねくね道を歩いていてようやく出くわしたお百姓さんに尋ねて見ると、日射を防いで、日焼けしないように白くペンキを塗っているのだという答えが返ってきた。


 ヘアーピンカーブを曲がるごとに、歩いていても高度がぐんぐんあがってきた。ともかく出来るだけ早く桜のもとに着こうと、汗ばむ思いで足をはやめる。この上りでは30 分はかかるであろうと踏んでいたのだが、20分程して前方左手、道路の壁面の上に何やら人家らしきものが目に入った。近づくと急な階段があって、その上の一面わらを敷き詰めた台地上に目指す桜の巨樹がデンと控えていた。「素桜神社の神代桜」とあったので、神社の境内にあるものとばかり思っていて、まずは神社の鳥居でも目に入ると考えていたのが、いきなり桜である。

ようやくお目にかかれて
 見物人は誰もいない、まさに満開、それもピークである。が見頃というわけにはいかない。もう少しつぼみも混じっている方が赤みを帯びてきれいだろうと想像しながら周囲を何度も回ってみた。西の前方、遥か向うにはアルプスの峰々が望まれる。視野を遮るものはない、桜の全景を写真に収める絶好の背景である。しかし、いざカメラを構えて山なみを入れようとすると、どうしても右端に移動式の便所が写し込まれてしまう構図になる。山なみを半分削るか、便所をいれるかの選択に迫られる。その結果が下の2枚の写真である。
 
                        (それぞれの写真をクリックすれば大きくなります)

 胸高での公称幹周りは、11.3mである。現地に掲げてあった文部省の古い看板には次のように書いてあった。
「神代桜(別称素桜) 此ノ桜樹周囲11.3メートル 地上1.5メートルヨリ三大主幹ニ別レ 東西30メートル南北36メートル余ニ及ブ枝翼ヲ張り開花ノ季節ニハ盛観ヲ呈ス 樹種ハ東彼岸(江戸彼岸)ト云フ 樹齢二千年ニ達センカ 本県下他ニ比類ナキ楼樹ナリ」


 写真にあるように幹周り11.3mというのは、ちょうど枝分かれしたあたりの幹周りであり、測りようによっては、とてつもない大きさになる。下表の通り旧環境庁(現環境省)の1998年と2000年に行われた巨樹巨木調査結果でも11.3mとなっているが、実見したものにとっては、此の数値を鵜呑みに出来ない面が少々あると感じる。

 その点では、1936年刊行の三好學著「日本巨樹名木圖説」の記述はまとを得ている。曰く
「神代櫻ハ祠前ノ石壇ニ接シテ立チ, 其表側(西南面)ノ土際ハ裏側(西南面ママ)ノ土際ヨリモ約70cm低シ。高地面ノ土際ノ周圍約8,8m, ソレヨリ約77cm上ニテ三大支幹ニ分ル。該部ノ幹圍約9,8mナリ。三大支幹ノ内中央ノモノ最モ太ク, 周圍約5,9mナリ」


素桜の素性
 桜の周りには、文部省の古い立て札の他にも長野市教育委員会の真新しい立て札と謡曲史跡保存会の『謡曲「素桜と神代桜』の解説版が階段の下にあった。神代桜の樹齢は1,200年とつたえられており、謡曲「素桜」が1898年に観世宗家によってこの老桜の伝説から作られたという。教育委員会の解説では、その昔、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、杖を水辺に挿したものが根付いたと伝承され、「神代桜」とも「素桜」とも呼ばれているとある。素桜の名は素戔嗚尊の「素」からきたものであろう。素桜が神社名になっており、もともとはこのサクラの木を「神」として農民が祀っていたのが神社となったと思われる。謡曲の「素桜」ではサクラのご神体は八坂刀売命(やさかとめのみこと)」と云う女神が出てくる。サクラを見物にきた男に、里女が「この桜は昔、神が植えたもので神代桜と呼ばれ、たぐい少ない木なので素桜とも言う。御神体は八坂刀売命です」と教える。そして、男がサクラの下でまどろんでいるときに花の精となって現れ舞い、明け方に春霞とともに消え行く、というストーリである。この謡曲のあらすじも含めて素桜にまつわる周辺の歴史が、謡曲史跡保存会長野支部の清水昭次郎さんの記事が謡曲史跡研究会のホームページに掲載されているのを帰ってから見つけた。周辺の史跡の解説もあり出発前に知っていたらと後悔される。
 別の伝承で素戔嗚尊が絡んでいるのは、この辺りが鑪(たたら)と関係の深い土地であったからではないだろうか。以前出雲の巨樹巡りをしたとき、船通山でその地を荒らしていた八岐大蛇を退治したのが素戔嗚尊であり、ここも古代の製鉄の地で、今でいう公害で山が荒れていたのを戒める話が残っていることを知った。ここ芋井地区一帯も古代はそのような土地ではなかったのか。実際「鑪」という集落があり、聖なる山として飯縄山がある。「荒安」なる地名もある。桜は鉄倉を意味するというからおもしろい。このようなこの地にまつわるロマンを綴った「信濃の鉄ものがたり」(滝沢きわこ)なるサイトを帰ってから見つけた。二三日かけて歩いてみたくなる土地であり、前もって調べておくべきだとだと、これも例によって、後悔先にたたず。

全国的に有名でない桜?
 雲行きもあやしくなったので、最終一つ前の17時のバスに乗って戻ることにした。バスまで20分とみて、16時40分に立ち去ることにする。滞留時間はたったの20分。このために遠路はるばる7時間以上かけてやって来たのに、と考えるとばかばかしくもなり、お金も1本の桜にウン万円ついた。
出発間際のひととき、ほん側の家のご主人と話すことが出来た。かれが、毎日の開花状態を長野観光協会に報告しておられ、今日がまさに満開であること間違いないと太鼓判を押していただいた。昨日の日曜日はそれはそれは賑わったということである。地元農協がやっているバスツアーもあった。よそ者の私たちが、京都からわざわざ見に来たと知って、「どこでこのサクラのことを知ったのか」と怪訝な顔をされる。「巨樹を紹介した本に載っていた」というと、「何という本ですか」とこれまたそんなはずはないと怪訝な顔をなさる。このサクラが本にまで載っているのを知らないはずはない、と言いたげであった。長野市内にもどって、夕食に入ったレストランでも同じような対応を受けた。「ヘ〜、信じられないな、全国的に知られているなんて。ぼくらは小学校の頃、遠足でよく行ったものです。」とレストランの若いシェフ兼支配人兼ウエーターが言っていた。

神代桜の集い
 帰ってから、知ったことであるが、「神代桜の集い」と云うのが毎年開かれている。信濃毎日新聞社新聞の4月21日の朝刊に次のような記事が出ていた。
 『長野市芋井小学校の全校児童33人が20日午前、近くの素桜(すざくら)神社にある古木の神代桜を訪れ、スケッチなどを楽しむ「神代桜の集い」を開いた。神代桜は樹齢約1200年とされるエドヒガンザクラで、国の天然記念物。ふるさとの誇りとして親しみをと毎年開いている行事だ。 神代桜は高さ約20メートル、幹の周囲が10メートル以上。ことしは開花が早く、下の方の枝は17日に満開になったため、集いも例年より10日ほど早く開いた。桜を前にした児童は「どこから描こう」「細かい枝が重なって難しい」と観察しながら画用紙に写し取っていた。 画用紙いっぱいに桜の木と笑っている友達を描いた1年生の山口雪美さん(6)は「枝をたくさん描けて楽しかった」。家族で桜を見に来るという6年生の小松香月さん(11)は「桜は芋井の宝物です」と話していた。 集いには、神代桜保存会長の八田鶴雄さん(81)も招き、6年生が桜にまつわる民話劇を披露。八田さんによると「古木の桜は長持ちする」といい、これから1週間ほどは楽しめそうだ。』
 この集いについてもっと詳しいことが芋井小学校のホームページの中に掲載されている。必読!
 それによると、この集いは、1989年の春から始まり、1999年に10周年を迎え、1年生から6年生までが描いた神代桜の絵や作文、保存会長さんのお話などを載せた記念の冊子が作成されている。ということは、20年以上もつづいている伝統ある行事である。先述のレストランのチェフもいつ時かの集いに参加していたと考えてもおかしくない。彼が遠足といっていたのは、この集いのことだったのかも知れない。
 このような地元の人たちの、いつまでも長生きしてほしいというの熱意で、樹勢がが衰えてきた桜の甦生処置が1992年に行われ、その努力が見事に実って今では樹冠いっぱいに花をつけるようになった。その間の経緯を先述した謡曲史跡保存会長野支部の清水さんの記事から引くと、
『この桜にも危機はあった。十数年前、枝の枯死や根元周辺の腐敗がすすみ、樹勢の衰えが目立ってきた。そこで地元の人たちが神代ザクラ保存会(八田鶴雄会長)を結成して保護に乗り出した。が、本格的な蘇生には多額な費用と時間が必要なことが分かり、保存会の力だけではどうしようもなかった。とはいえ、桜の衰えは放置できない。そんな折、窮状をみかねた松本市の住宅建設会社が援助の手を差し伸べてきた。五百万円を寄付し、それを基金にして文化庁から派遣された樹木医によって約一年間、大掛かりな外科的な蘇生手術が施された。平成四年、老樹は見事によみがえりの後、毎年の開花期には、再び可憐な花を大空いっぱいに咲かせている。』

牛に引かれて善光寺参り
 今年は七年に一度の善光寺御開帳の年に当っていて、丁度その期間(4月5日〜5月31日)に出くわした。せっかくだから、市内に一泊して翌朝は、善光寺にお詣りした。早朝から結構な賑わいであったが、京都の清水界隈の比ではない。


 善光寺本堂に安置されている御本尊一光三尊阿弥陀如来は654年以来の秘仏で、鎌倉時代にこの御本尊の身代わりとして前立本尊が造られ、これを七年に一度拝するわけである。一つの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に姿勢菩薩が並ぶ善光寺独特の一光三尊である。中央の阿弥陀如来の右手から白い縄が伸びており、本堂前の回向柱に結ばれている。その回向柱に触れて前立本尊にとありがたい結縁を結ぼうと,その前に長蛇の列が朝早くから出来ていた。境内の緒堂を見学して戻ってきた昼前には、その長蛇の列が何重にもなっていた。回向柱に触れ阿弥陀さんと結縁を結ぶのに、いったいどれくらい待ち続けねばならないのだろうと考えながら山門を後にした。
 仲見世で、せっかく信州くんだりまで来たのだからと、蕎を食べに瀟酒な店に入った。ちょうど昼時でちょっと待たされたが、出てきたざるそばを食してびっくり。長く繋がっていない上に太さもいろいろ、バラバラである。食感も腰がなくもうひとつであった。
   もうひとつびっくりしたのは、信州産の干し杏のおいしいのを以前に頂いたことがあったので、土産物屋で求めてみたら、どこかアフリカの国製。売り子さんに「信州産のは?」と尋ねてみても埒が開かず、店長さんが出てきて、「沢山出来ないので、特別なパックなら」と出してくれたのを買ってみた。味の方もは以前頂いたものほどびっくりしない程度のものであった。
 長野市内のリンゴの並木は山中とは違ってもう満開であった。汽車が長野市内を出る頃に、ポツ、ポツときたかと思うと、すぐにシトシト雨にかわった。予定を早めて前日に桜まで行ったのは正解であった。

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