洛中洛外 虫の眼 探訪

亀岡西北部の
巨樹と砥石の郷を訪ねて
2008年07月01日(Tue)
 2008年の酷暑の年の8月4日、亀岡の西北、本梅周辺の巨樹を尋ねた。 
 例によって小柳女史が、「朝日新聞に紹介されていた谷性寺の桔梗を見に行こう、そのついでに面白い所があれば…」と誘ってくれたので、周辺の巨樹を「亀岡の名木 〜緑と文化を尋ねて〜」(亀岡市名木古木選定委員会編、1996年、亀岡市)で調べてみた。この界隈には以外と神社と寺が密集しており、名木のたぐいも多く見られる。上述の本では、第5エリア(畑野、本梅、東本梅、宮前町)として20本の名木が記載されている。それを参考に幾つかピックアップしてコースを組んでみた。
(下の地図をクリックすればスライドショーが見られます)
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谷性寺と桔梗 mizkikyo akechi
 まずは、宮前町猪倉の谷性寺(こくせいじ)の桔梗の里を尋ねた。国道9号線を余部の交差点で左折して、佐伯灯籠の奇祭で有名な薭田野佐伯を通過して湯の花温泉郷に入る。郷の出口の交差点を右へ、国道372にのって北上、すぐに宮前町猪倉にはいる。案内の「桔梗の里」の旗に導かれて到着。なぜここに桔梗かと言うと、谷性寺には明智光秀の首塚があり、谷性寺の通称は光秀寺、明智家の家紋は桔梗という訳である。「50,000株の桔梗が咲き誇る」と宣伝されている桔梗の里は、入園料500円。価値なし。谷性寺では特に頼んで本堂に上げてもらって、本尊の不動明王を拝観できた。両脇の阿弥陀如来立像、薬師如来像、釈迦涅槃像、七福人、さらに光秀公尊像などが所狭ましと並んでいる。本堂の入り口には江戸期の仁王像が安置されている。珍しい配置である。歴史好きの奥さんの「平和主義者」光秀公賛美の歴史話を拝聴。これで500円を取り戻した。
篠葉神社のアカガシ akagashi kameoka yamasakura youtokuji
 この寺の背後に篠葉神社がある。延喜年間(903-926)創建、産業神として彦火々出見命(ひこほほでみのみこと 神武天皇の祖父)、山神として大山祇命(おおやまずみのみこと)、野神として野椎命(のずちのみこと)を祀っている。天正年間に戦火で焼失、承応2(1653)年に再建、楽々葉大明神と称されていた。明治3年に篠葉神社と改称現在に至っている。境内はカシ、ヒノキ、スギのうっそうとした杜となっている。名木に記載されているのは東側、井戸の石垣の上に生えているしめ縄で飾られたアカガシである。胸高幹周3m、樹高18m。西へ傾きながら隣のアカガシとしっかりと手(足?)をつないでいる。よく見るとさらに隣の2本とも露出した根が繋がっているのが見える。参道の反対側の石垣の上にもアカガシが何本かある。


大内神社のスギ sugi oouchijinjya yamasakura youtokuji
  国道372をさらに北上、東本梅につく。ここの赤熊の天理教丹陽分教会にムクノキの大木があると記載されていたので府道452の脇道に入って探すが見つからず、帰りに再度探すことにして、大内の集落への道に入る。ほどなく背の高いスギの梢が見え、山沿いの道に入ると目の前にスギの主幹が飛び込んできた。まっすぐに天に向かって延びた主幹の大きさに、Giseleも満足。胸高幹周8m。京北町など山地で見られる北山伏状スギは別にして、里で見られるスギでは京都府下最大のスギである。樹高は36m。1980年の落雷で空洞の幹内部から火を吹き燃えだした。幹の下に孔を開けて上に向かって放水して消し止められた。その孔は、現在はセメントで詰められている。樹勢は旺盛で、枝葉を四方に繁らせている。
 例によって、小柳女史が樹齢を知りたく神社の由緒を尋ねに、すぐ側の家に飛び込まれた。若いご夫婦が愛想よく相手になって下さる。神社にまつわる話は聞けなかったが、これからいく、奥の山の楽音寺への道路事情を尋ねてみた。残念なことに、入山禁止! カゴノキ、コナラ、ドウダンツツジの名木があるはず。事情を伺うと、何年か前、入山者のたばこの不始末で火事になりかけ、それ以来、地元の人以外の入山を禁止しているとのことであった。無住でもあり、地元の人たちで管理されている。歩いて行かれるには留めようがないが、チェーンがしてあるので自動車では無理とのこと。この暑さの中、山道の30分はちょっとしんどい、今回はあきらめることにし帰りかけた。そのとき突然「これ見て下さい」と玄関に飾ってあった大きな板石に注意を向けさせられた。大きな分厚い砥石がでんと飾ってあるではないか。ああうかつだった、ここは「大内」、世界でここしかないと言っていい、天然砥石産地である。この家は、ここで唯一残って採掘、加工されている砥取家「丸尾山蔵砥」の土橋さんのお宅であった。何百万もする超一級の砥石を拝ましてもらい、いろいろお話を伺い、砥石の使い方を教えてもらい、すっかりお邪魔してしまった。ご主人の話を聞いている間に、奥さんは、インターネットで大内神社のことを探してプリントして下さった。何と親切なことか。それによるとこのスギは樹齢千数百年となっている。小柳さんは5,000円を奮発して、ちょっと分厚めの万能砥石(敷巣板)を購入される。ちょっと脱線して京都の砥石についての奇縁を忘れぬうちに記しておく。

京都の砥石 toishiyama togu
 京北町の友達の家に遊びにいくために周山街道をバスで走っているとき、いつも梅ヶ畑あたりで左手の山道の入り口に「大突」と書かれた標識を目にしていた。これが何なのかが分かったのは、「ラパン」という季刊誌の2000年の春号の「京大絵図でたどる天然砥石の鉱脈」という記事に「大突」の地名を見つけたからである。京都のかくれた名品、世界にここしか産出しない名品の天然砥石がとれる山の一つが大突山であったのだ。
 そしてそんなことをすっかり忘れてしまった頃、2007年の後半のいつだったか忘れたが、小柳女史の植物の方言調査に同行して樒原の石原さんのお宅に伺った。ここのお宅が、有名な愛宕山西山麓(京都市右京区宕陰地区)の大平の山の採掘師、石原さんのお宅であった。ここが日本刀の文化を支えてきた源である。ここでとれる砥石がなければ、日本刀はすべてなまくらになってしまうという、ちょっとすごい話を聞いた。一方、奥さんは、村の女性達と村おこしのために「からかわ昆布」という名産を復活させて、物産展等で販売されている。これは山椒の木の内皮を昆布と煮たもので、山椒の実とは、その刺激の強さが違い、口中に広がり長く残っている感覚は何ともいえない。昔、祖父母の時代にはよく家庭で作られていたそうだが、いつの間にか途絶えていた。旦那さんがそれを思い出し、奥さんを先頭に村の女達が復活し、樒原の特産物に仕立てたのである。確かに、松江重頼の俳諧作法書「毛吹草」に、丹波山陰道の名物として、「山椒 同皮」とある。同書には、鞍馬の「山椒皮」も上がっている。京都近郊の山間ではよく作られていた産物であったと思われる。
「諺に砥は王城五里を離れず、帝都に随いて産すというも、空ことにあらずかし。むかし和州春日山の奥より出せし白色の物は刀剣の磨石(あわせと)なりしが、今は掘ることなく其跡のみ残れり。今は城州嵯峨邊、鳴滝、高尾に出す物、天下の上品、尤他に類い鮮し。是山城、丹波の境原山に産して、内曇又浅黄ともいう。又丹波の白谷にも出り。」(日本山海名産名物図絵)と記されている。「原山」とあるのは「樒原」のことか? 古文献に現れる砥石山については、田中清人氏のマニアックなサイトに極めて詳しく調べられた結果が詳述されている。一読の価値有り。それによると、大平と丸尾山の砥石が大昔から一級品として認められていたことがよくわかる。
 「“山城の原の鎧田きてみればかぶとの森に弓掛けの松” こんな古歌が残る。樒原(しきみがはら)はかつては原村だった」(asahi.com my town京都2007年11月6日)。樒を自生する七谷川水源を開拓した場所が樒原の地名の由来と言われているが、昔から地元では「原」と呼んできた愛宕山の山腹の「腹」から来ているという説もある。それはともかく、樒原道は愛宕山の裏参道として丹波、丹後、摂津辺りからやってくる参詣者の往来で古くから賑わっていた。かっては、茶屋、旅籠、酒屋が軒を連ね門前町として樒原は発展してきた。そんな中、元禄年間に鳴滝の御用戸石氏の本間五郎左衛門がここの山で砥石採掘を始め、「原の本山砥石」として全国に知れ渡り、砥石職人が多く移住してきた。明治廃仏毀釈で愛宕参りも衰退し、砥石の需要減少に伴って、いつの間にか静かな山郷へ移っていった。そんな中で、明治時代にもう一山当てられた石原さんの家一軒が、今も砥石の採掘・加工・販売をつづけられている。今の石原砥石工業所の創業は文化13(1816)年である。

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 そして、今回もまた偶然に、上述した東本梅大内の天然砥石に出くわした。亀岡西北の砥石山の歴史はわりと新しく、明治になってから採掘が始まった(古事類苑には「丹波(京都西北部から兵庫県)で大内砥というものが採掘されている」とあるから明治以前から近辺の山で採掘が行われていたと思われる)。坑口は500もあるが、丸尾山は数年前から採掘が始まったという。大内の集落で一時は30軒も砥石を採掘されていたが、今では「砥取家」一軒だけ。採掘・直売を行っておられ、世界中から注文がくるという。いろいろなイベントもやっておられ、頼もしい限りである。山と同じようにまだ若々しい事業家である。

天理教丹陽分教会にムクノキ mukunoki tenrikyou yamasakura youtokuji 
 来た道を引っ返して赤熊の集落に戻る。天理教会の場所をもう一度尋ねる。来たときと同じ場所を教えられ、狐にだまされたような気分で探しにいくと、敷地の奥まった所に教会の建物がが確かに存在していたが、ムクノキ見当たらない。「亀岡の名木」掲載の1995年に撮影された写真では、建物の左手に、屋根を覆うようにムクノキの大木が聳えている。建物は建て替えられたようで、写真のような配置にムクノキは存在していない。がそれと思われる場所に、それとおぼしきツタに巻き付かれた木の幹が地面から生えていた。これである。地表2m付近で枝分かれした幹は地表4, 5mあたりで伐採されたにも拘わらず元気に、細い枝を何本も伸ばしてはいるが、往年の雄姿の面影さえない。しかし近づいて根元を見ると、幹周4.6mの貫禄は十分である。これも一応満足。

永徳寺の山桜 yamasakura youtokuji yamasakura youtokuji 
 国道372を南に来た道を戻り宮前の交差点で右手国道477をとり平松まで行き過ぎて、道案内を請う。山手の道を戻ったところで、再度みちを尋ねた。「えいとくじ」でなく「ようとくじ」だった。さらに山側に曹洞宗永徳寺がひっそりと佇んでいた。階段を登って山門をはいると、境内おくの開け放たれた本堂から御詠歌がけだるく漂ってくる。左手の庭園の塀際に目指す山桜が、竹箒を逆さにしたように、何本もの枝が天に向かって競い合っている。ケヤキのような樹形の山桜である。山門の前にも一本、さらに右手の土塀の外にもう一本町村合併記念に植樹されたソメイヨシノがある。真夏の真っ昼間、こんな山寺に何をしにやってきたのか、御詠歌の練習をされている村の女性達に不審がられた様子で見られてしまった。大黒さんに桜を見に来たと伝えると、わざわざご住職が応対に出てこられて境内の庭を案内していただいた。「桜が咲いたときのは見事です、落花のあとの掃除の大変ですが、でも虫がつきません、鳥がたくさんいるので」と訥々と語って下さった。
 山門に覆いかぶさった山桜は幹周3m、樹高15m、枝張は東西14m、南北23m、事例は不明。当寺の開山は文明2(1470)年という。江戸時代から、開花時に地元の人がしたの広場に御座を敷いて花見をしながら語らう長閑な風景を高い所から眺めてきたことだろう。


出雲神社のスギ sugi izumojinjya sugi izumojinjya
 国道477を南へ向かう。本梅の平松にこれまた曹洞宗の桂林寺に山桜の巨木があるというので、「桂林寺500m→」と書いた道標に従って山側の軽自動車一台通れる道に入るが、行けども行けども見つからず。折よく家の前にいた人に尋ねると、この裏だとおっしゃる。車なら、来た道をほんの少し引っ返すと、家並みの途絶えたあたりに斜めに山へ入る道があるからそこから登れ、とおっしゃるので其の通りに引っ返したが山に入る道が分からず、道標のあった所まで来てしまった。結局今回はあきらめ、次の出雲神社のスギを見に行くことにする。国道477に出て南へ本梅小学校の裏に出雲神社があるはず、小学校の手前にあった郵便局で行き方をたずねるが、出雲神社はここじゃない千歳町だ、と言われる。もちろん亀岡で有名なのは、元出雲神社と呼ばれる格式高い千歳の出雲神社であることは知っている。でも、本梅にも出雲神社と称する神社がある。地元では何と呼んでいるのだろうか。ともかく神社は確かに小学校の裏にあった。小学校沿の狭い道に車を止めて、徒歩で詣る。一番に眼に飛び込んできたのはスギの大木ではなくしめ縄が架かった巨大な岩である。その横に二幹スギが聳えていた。二股のスギと呼ばれていて、東の幹は4.8m、西の幹が4.3m、根元での周囲は6.4mである。実際は木肌の違いからみて、二本が別々に植栽されて成長するに従って合体した「夫婦スギ」であると思われる。樹高36mあり大内の大スギに匹敵する高さを誇っている。鳥居の右側には、同じくらいの大きさのスギの切り株があった。二本そろっていたときはすばらしい景観だったと想像される。それにしてもその横の巨岩は何なのか。しめ縄が巻かれたところから磐座として崇められている神聖な岩であるのだろう。明智光秀の兵火に遭い古文書、記録の類いはすべて焼失したという。出雲神社の名前も忘れられてしまったのだろうか。丹波の神社・亀岡市の神社(十三)には、「昔は境内の磐座の横に出雲大明神といふ祠があり、村長の早田太夫が代々祀つてゐたと伝へる。昭和三年に大改築を行ない、磐座の横から遷座して、現在の社殿・鳥居・石段などを整備した。境内の小山のやうな磐座は、有史以前よりの聖地であつたことを窺はせます」とある。

余部八幡宮のケヤキ keyaki amarube hachimangu yamasakura youtokuji
 まだまだ見残した巨樹は多いが、今回はこれまでとして帰路についた。県道731を湯の花温泉郷の方向に車を向ける。あとは一路国道9号線を老坂を越えて京都へ、と思っていたところ、余部の交差点でふと左手を見ると、真っ白なとてつもなく大きな幹とこんもりとした緑の枝葉が眼に飛び込んだ。少し行き過ぎてしまったがたまたま側にあったファミリーレストラン「ガスト」の駐車場に車をとめ、一人ずつ順番に見に行く。木の先をちょん切られたケヤキの巨木であった。今まで何度もこの余部の交差点は行き来していたのだが、うかつにもこんな喧噪なところにケヤキの大木が残されているとは思いもしなかった。「亀岡の名木」にも記載されていた。根は隆起し幹と一体となってその表面を白い樹皮が覆い隠し、何とも奇妙な樹形を形成している。上部は密集した緑の葉に一面覆われ、天辺をちょん切られて短くなった幹をかくしている。よく見ると、左半分は横に生えている小さなエノキの枝葉に隠されていることがわかる。このケヤキは1991年京都宇治市で行われた「第42回全国植樹祭」のみどりの祭典記念の「京の名木」に指定されたという。どういう経緯で亀岡市のここのケヤキが指定されたのか、何の間違いではなかったかと疑いたくなる。ちなみにこの年の植樹祭のテーマは「緑でうめたい 地球の未来」という歯が浮き立つようなものであった。
 それはともかく、幹周5m、樹高17mの寸足らずの太っちょのケヤキらしくからぬケヤキであるが、何とも味わい深い魅力のある巨樹である。このケヤキがあるところは八幡さんの境内であり、ケヤキの陰に小さなほこらもちゃんとあった。余部八幡宮は今では周りを駐車場に囲まれ狭い敷地内押し込められているが、応神天皇を祭神とする由緒ある神社である。余部町上条、下条に八幡講があり、社の維持・管理と発展に尽くされているという。


見残した巨樹名木達 「亀岡の名木」より
 山内邸のクロマツ(3.0m)、法常寺のイタヤカエデ(3.5m)、ゴヨウマツ(2.3m)、千ヶ畑八幡宮のモミ(4.3m)、森邸のオガタマ(2,9m)、加舎神社のカゴノキ(2.5m)、桂林寺のヤマザクラ(3.4m)、金輪寺のモミ(4.0m)、青野小学校のツクバネガシ(2.1m)、大内共同霊園のヤマザクラ(3.8m)、ヒイラギ(0.9m)、佐々尾神社のスギ(4.9m)、楽音寺カゴノキ(2.6)、コナラ(2.8m)、ドウダンツツジ(1.0m)
文中の幹周、樹高は「亀岡の名木」記載の値を四捨五入して10cm単位で表したものである。

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この地図は地図ソフト「プロアトラス」で有名なアルプスが運営しているALPSLABの虫眼鏡で作成した物である。まだ実験サービスで評価中であるが、実に良くできたソフトである。一度試されることをお進めする。

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