洛中洛外 虫の眼 探訪

旗振り山に登る
2010年08月25日(Wed)
1. 京都・大津ルート
 
   小関山   二石山   向谷山
   阿武山   千里山   堂 島   
   見通しは? 平面図と断面図を見る
      1堂島〜千里山  2千里山〜阿武山
      3阿武山〜向谷山 4向谷山〜二石山
      5二石山〜小関山

   参考図/京都・大津ルートの全体図
 

きっかけ 
 今年のお正月、童心に帰って何十年ぶりかで「坊主めくり」をやりました。台付きが出て場の札を全部かっさらえたのはいいけれど、続いて坊主を引き当て丸裸になる、と云う場面もしばしば出現し、けっこう盛り上がりました。なかには坊主らしからぬ「蝉丸」をめくって、獲得した札を放出させられ怪訝な顔をする子供もいました。それもそのはず、蝉丸は、百人一首の「これやこの 行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関」(註1)でよく知られた人物ですが、「坊主」とは言い難い容姿で描かれています。盲目の琵琶法師だったという説や、単に乞食であったという伝承もあります。普通の坊主とはちと違ったようです。
 それはさておき、本題は、蝉丸をはじめ、清少納言、紀貫之、藤原高遠、後鳥羽院など多くの歌人に詠まれてきた「逢坂の関」が設けられていた山の話ですが、今では国土地理院の二万五千分の一の地形図にさえ「逢坂山」の記載はありません。「逢坂山トンネル」と云うのがあって、その辺り一帯を「逢坂山」といいならしているようです(註2)。
 ここからがいよいよ本題なんです。七日正月に、友人宅で食事をした折、ある人が、「近辺の低い山を歩いているんですが、最近逢坂山へ登ったら、相場山と書いてありましが、これはね、きっと」と言ったとき、はっと気がつきました。「大阪の米相場 旗振り速報」と云う見出しの古い新聞記事を以前に読んだことをかすかに思い出しました。幸い家にその切り抜きが残っていました。「お住まいの近くに、旗振り山、旗山、相場山といった名の山がないだろうか。そこにはかつて米相場を伝える中継所があった可能性が高い。」と書き始められている柴田昭彦氏の記事がそれです(日本経済新聞2004年2月17日付け文化欄)。記事中の地図には「小関山」というのが大津の南西近くに記されています。位置からして逢坂山辺りです。それで早速登ってみました。

註1:「後撰集」では「これやこの 行くも帰るも別れつつ 知るも知らぬも相坂の関」となっている。
註2:この山に関が設けられる以前にも「けの山」として万葉集にも詠まれています
『万葉集』巻六1017 大伴坂上郎女の歌
夏四月、大伴坂上郎女、賀茂神社を拝(おろが)み奉(まつ)りし時に、すなはち相坂山(あふさかやま)を越え、近江の海(み)を望み見て、晩頭(ゆふぐれ)に還(かへ)り来たりて作る歌一首
木綿畳(ゆふだたみ)手向けの山を今日(けふ)越えていづれの野辺に廬(いほり)せむ我
目次に戻る

小関山(相場山, 逢坂山) 目次に戻る
 京阪電車京津線の上栄駅から登りはじめて、枯れ落ち葉が深く積もった歩きやすい尾根道を辿っていくと、写真のような道標がある所に簡単に着けました。そこから北へ200mばかり行った所で視界がぱっと開け、琵琶湖を一望できる頂上に出ました。国土地理院が敷設した神出の三角点もありました。標高325.0m。付近にこれより高い峰はありません。なるほどここからなら旗を振って大津の米取引所に米相場を伝えることは容易だと、納得できました。帰りは来た道を引っ返さないで、まっすぐ南へ逢坂の関があった大谷へ降りていきました。ここには蝉丸神社もあります。

小関山からの眺め


 これが間違い「往きはよいよい、帰りは怖い」のくちで、関西電力の高圧線の鉄塔が林立する急な斜面を這いつくばりながら下っていきました。だんだんと踏み跡らしきものもなくなり、たどり着いた所には背の高い金網が張り巡らされていて、そこから出られません。出られたとしてもその向こうには、名神高速道路の壁が控えていて、絶えることのない車の走行音が響きわたっていました。金網をよじ上るか、隙間を力ずくで拡げて頭一つ通れる穴を作ろうか、でも金網の外へ脱出できたとしても、どうして名神高速道路を横断できるか、急斜面を這い登って道なき道を引っ返そうか、ここは思案のしどころでした。金網の向うの名神高速道路の壁に目を凝らして見ていると、草に半分隠れた壁穴がありました。この穴の向うに何があるか知らないけれど金網突破の方針が決まりました。穴を抜けて名神の向こう側に出てびっくり。そこは京津線の鉄路、その向うが国道一号線、その向うが山の絶壁。逢坂の関が設けられていた所がどんな地形であったのかが、身を以てわかりました。後で見ると大谷の駅よりちょっと京都側、追分の駅との中間あたりに降りてきたようです。後は国道一号線の狭い歩道を今しがた滑り降りてきた山を左手に眺めながら大谷の駅まで行って、蝉丸神社に詣って帰りました。
 後日、逢坂山が相場山だと教えてくれた友達に、「大谷に出るまともな道を教えてください」と往復はがきで問い合わせたところ、「拝復、実は僕も三角点から戻って、鉄塔沿いに歩いたらひどいことになりました。どうにか藤尾の市民センターの裏にでました(つまり大谷は越して追分駅の近くです)が、そこには『危険につき絶対登ることならぬ』という看板が…」という返事をもらいました。彼は、私と違ったコースを辿ったようですが、同じひどいめにあって下山したようです。そんなことなったとは言ってくれなかった彼が悪いのか、聞かなかった私が悪いのか、ともかく、二人とも無事に帰還できて幸いでした。
小関山地図


旗振り山
 この隘路の上空を横断して旗振り通信が十八世紀半ばころからあったそうです。今は高圧線が同じ所を横断して、若狭から大阪へ鉄塔を伝って電気が送られています。旗ふりでは大阪堂島の米相場の情報が、瞬時といわなくても極めて短時間のうちに大津に伝えられていました。先ほどの小関山(逢坂山、相場山)へは、伏見の稲荷山の東側にある二石山から中継されていました。二石山で振られた旗を小関山で望遠鏡を使って読み取りすぐに大津の取引所へ旗をふって伝えていたのです。単純明快な通信方法は、「俳諧職人尽」(天保十三年, 1842)にある「左の方へ六度 右へ七度 前へ八度 後へ九度 振る時は 米一石に付 銀六拾七匁八分九厘と知ると也」というものです。もっと単純に「今日の旗は黄色だから三円高だ」というのもあったそうです。信号の開始符号、誤り訂正符号、間違いを防ぐ合い印、相方が間違って先へ通信したときの訂正勧告符号なども取り決めてあったそうです。旗の振り方は、他人に盗見されてもいいように、いろいろ工夫されていたようです。例えば、臺付きあるいは玉入れと称して、実際の相場とは加減して通信することで盗用を防いだといいます。五日には十銭を加算、六日には七銭を減算すると行った取り決めを前もって知らせておくというやり方です。加減値も毎月変えるという念の入れようでした。こんな取り決めを細かく見ていくと、現代のインターネット通信のプロトコールの複雑なことが、頭に浮かびます。通信経路もいろいろあり、相互にネットワークが張り巡らされていました。会社ごとに競争もあったようです。こうなると、まさに現代のネットワーク間をつないだインターネット通信そのものです。それが全国的な規模、西は大阪から瀬戸内海沿いに博多まで、東は名古屋を越え、箱根を飛脚で仲立ちして、江戸まで。その間に各地の中継点から分岐したネットワークが幾つもありました。通信に要した時間は現代とは比べ物になりませんが、それでも電話が出来た明治の中頃では、旗振り通信の方がずっと早かったようで、例えば、堂島から京都まで4分、神戸まで7分、桑名まで10分、岡山まで15分で伝わったと言います。昭和56年に大阪と岡山の間で27地点を中継する再現実験が行われましたが、そのときは2時間20分もかかりました。その時同時に打たれた電報は20分で届きましたが、明治時代の旗振り通信はそれより5分もはやかったとはおどろきます。現代の視界の悪さを差し引いても、当時の職業的旗振り師の力量には脱帽です。旗振り通信の詳細については、先述の柴田昭彦氏が最近まとめられた力作「旗振り山」(ナカニシヤ出版, 2006年)にゆずります。旗振り山に関する完璧なガイドブックとなっています。ちなみに、私が訪れた小関山のコースガイドには、「山頂から南へ縦走することもできるが、枝道が多く、地形図を読める人にしかおすすめできない」と明記されています。
目次に戻る

二石山(二谷山)  目次に戻る
 小関山へ相場を伝達した一つ前の山である二石山へも登ってみました。柴田氏の本に紹介されているコースを丁寧に辿ってみました。東福寺の北門から日吉高校の南沿いに東山に入って行くと、本に書かれている五社大明神が左手にありますが、道沿いからは奥まっていて見逃しやすいので注意が必要です。五社大明神入り口の大木はクスノキでした。ここから少し先で右折して三ノ橋川に架かる橋を渡ります。柴田氏の本では、2000年4月時点で、板橋となっていますが、今では架け替えられてコンクリートの橋になっていました。コースガイドに従って、三ノ橋川の左岸に沿って東山の山中に入っていきました。途中稲荷山へ向かう上り道から東にそれて滑りやすい細い道を登っていくと、宮内庁敷地境界に張り巡らされた金網が現れました。この辺りの北側一帯は泉涌寺の御陵が幾つもあります。またも金網、不吉な予感! 不安に駆られながらもこの金網に沿って登りながら、はっと思い出しました。数年前この辺りを友達とハイキングをしたことを。その時は、泉涌寺から登ってきたので金網の中にいました。幸いペンチを持っていたので、金網を切り裂き、人一人出られる穴をあけて脱出しました。ほどなく石塚のある鞍部に出て、川もなくなります。その先の右側は竹林が始まり、一本の太い竹に「三角点」と書いてあり、矢印が右の尾根道をさしていました。けっこうアップダウンを繰り返しながら到着した地点は、目的の西野山の三角点(239.3m)でした。ここが二石山(二谷山とも書く)であるという考証は「旗振り山」に詳しく書かれています。今は樹木が茂り見晴らしはよくありませんが、落葉した樹々の間から山科盆地が展望でき、その先に小関山を望めたことは十分に想像できました。この山へ通信した大阪方面の中継地は島本町大沢にある向谷山だそうです。今でも無線中継所があります。この山もまた、そうとは知らずに、去年の秋にスギの大木を見に行ったその山です。またあらためていってみようと思っています。帰りは、小関山で懲りたので来た道を引っ返しました。(2008年1月26日記)


二石山地図


 
見通しは?目次に戻る
 小関山と二石山とは直線距離にして約6.5km離れています。その間に山科盆地があるだけです。実際に地図上でこのことを確認してみたのが、下の2つの図です。断面図から明らかに小関山と二石山が互いに見通せることがわかります。この2つの山の選定は見事という他はありません。
 見通し1

断面1

 山科盆地に高層住宅が林立する今でも、山頂の樹木を伐採すれば、2つの山は十分に見通せる位置関係と高さを持っています。小関山は大津に直接相場を知らせるだけでなく、長浜と桑名への通信の中継点となっていたようです。一方、二石山は向谷山からの通信を受けていましたが、これを足下の伏見に伝えたのではなく、伏見は天王山から情報を得ていたそうです。「燈台もと暗し」ということだったのでしょう。
目次に戻る

向谷山 目次に戻る
 伏見稲荷の東にある二石山へ堂島の米相場を中継したのは、そこから直線距離で15kmも離れた大阪府島本町の北、京都府との境の大沢にある向谷山です。距離も距離だけれども、地形的にもここで振られた旗を見通せるとは想像できませんでしたが、実際に地形図を拡げてみると、向日市、桂川と鴨川の合流点、伏見の町を越えた向うに二石山はあります。その間に視界を遮るものはありません。二石山から見てこの山は向谷山であるわけです。その反対側に小関山があります。向谷山、二石山、小関山はほぼ一直線状に並んでいます。向谷山からは、京都七条の米商会所にも通信され、また小塩山を中継して亀岡方面への通信も行われていたといいます。
 冬のどんよりとした雪空の日に、向谷山に出かけました。阪急高槻駅から高槻市営バスの川久保行きに乗って、終点から水無瀬川の上流に沿って大沢の集落まで歩いていきました。この道は舗装された自動車道で、「伏見柳谷高槻線」と名付けられています。現代でも伏見と通じているという意識があるのに驚きました。高槻の北は寒いと聞いていましたが、途中から道の両側に前日に降った雪が未だに残っていました。30分ほどで集落の入り口に着きました。左手のポンポン山へ登る道をやり過ごし、小さな集落を抜けると左手に早尾神社が現れます。このちょっと先の南側右手に大阪府の天然記念物となっている大沢のスギの案内板が立っていて、山へ登っていく細い地道があります。板橋を渡って5分も行けば木の柵に周りを大きく囲まれたスギの巨木に出くわします。

大沢のスギ

根元には「馬」とかいた絵馬を結び付けた榊の木が突き刺されています。地元の人の話では、これは四方講といって、神社を中心に周りの四方の神木の根元に、お祓いをした絵馬をぶら下げた榊を立てるそうです。昔は男山八幡宮から巫女さんを呼んで、当番の家に一泊泊まりで湯立て神楽を舞ってもらって、お祓いをしたそうですが、今では、水無瀬の若山神社の神主さんにお祓いだけお願しているそうです。雪が深いと、根元まで行かずに入り口の所にさしておくこともあるそうです。他の三つの神木(山の神?)は、早尾神社の東の山中の天狗スギ。地元の人の話ではもう伐ってしまったということでしたが、早尾神社の前にあった道標には記載されていました。時間がなくて探しには行きませんでした。ポンポン山への林道をちょっと入った脇のケヤキ。道沿いにある「彩」という地元そば屋さんの先にあるそうですが、見つけませんでした。ちょっと大きなケヤキがあったことにはあったのですが。最後の西の一本が、民家の裏山にあるケヤキだそうです。来た途中に見かけた背の高いケヤキがそれだったかもしれませんが、確認できませんでした。今日は、旗振り山が目的なので巨木には深入りしないことにしました。
 この大阪府の天然記念物の大スギのある所から山に登っていけば山頂の三角点に着くはずですが、踏みならされた道がなさそうです。村の人にこの山の上で旗振りが行われていたかどうか尋ねたのですが、木の上に旗が立っていたのは知っているが、それは上空を飛ぶ飛行機のための目印だった、という答えでした。「神戸の震災のときはすごかったよ、ひっきりなしに物資をぶら下げた自衛隊の飛行機が飛んでいった」と聞かされた、「ああ、大久保に自衛隊の駐屯地があるなあ」とその時は何となく納得したのですが、飛行場があるわけでもないのでおかしな話です。名古屋の小牧辺りから飛んできたのかもしれません。それともヘリコプターだったのかもしれません。
 それはさておき、国土地理院の三角点の記によれば、山頂にはKDDIの無線中継所があり、立派な管理道路が付いているはずです。雪もあることだし冒険はやめもと来た道に戻って、もうちょっと先にあるはずの管理道路の登り口を探すことにしました。案の定、「通行止」と赤く大きく書かれた太い鉄のゲートがすぐに現れました。これを乗り越え、巾2.5mもあるコンクリート舗装の立派な道路をルンルン気分で登っていきました。道路の両脇には雪が残っていましたが、最後の急坂も滑らず20分ほどで山頂に到達。無線中継塔の建物の裏側に478.3mの三角点がありました。見晴らしは如何と右手、東の方を見ると枯れたすすきの向うに淀川を挟んで高槻と枚方の町、その向うになだらかな南山城の山並みが望まれました。このどこかに枚方市と京田辺市の境にある2つの旗振り山、千鉾山と交野の旗振り山があるはずです。ここと通信したとは伝えられていませんが、地形から見てその可能性は否定できません。伏見稲荷の東の二石山を見通せるはずの北東方向は、植林された樹木で視界が遮られていました。地形図を見るかぎり、長岡京市、向日市から伏見にかけて視界を遮る山はなく、桂川と宇治川の低地が横たわっているだけです。15kmも離れていても望遠鏡を使えばお互いに旗を振って通信できたことでしょう。
向谷山からの眺め

 こんな所へ、冬の寒い日に登ってくる馬鹿者はいないとばかり思っていたのに、二人の人を見かけました。私の前と後ろに無線中継所まで登ってきた男性がいました。お互いに、何をしに来てはるのか不思議に思いながらも、声もかけずにやり過ごしました。後は、15時42分のバスの時刻が迫っていたので、元来た自動車道をバス停まで3kmの道程を一気に駆け下りました。これに乗り遅れると、1時間も寒空の中、人通りのないわびしいバス停で待つはめになります。急いだおかげで15分早く着いたので、急な階段を上って、川久保の村社諏訪神社にお詣りしました。境内にはケヤキの古木がありました。川久保という地名は「川が流れ地勢が窪んでいることから、かっては久保が原と呼ばれたが、後に川久保と称されるようになった」と高槻市教育委員会が立てた説明板にありました。地形からして寒そうな所です。歩いた水無瀬川沿の道の両側は府営林になっていてほとんどが植林されている山ですが、以外とケヤキあちこちに見かけられました。ニレ科のよく似た高木であるムク、エノキ、ケヤキの中でケヤキが一番寒冷な気候に適していることの証でしょうか。(2008年1月31日記)
向谷山地図

 
見通しは?目次に戻る
 向谷山と二石山間の直線距離は15kmもありますが、その間には、桂川が流れ、旧巨椋池があった低地が広がっており、向谷山から二石山を見下ろせることは、断面図から明らかです。二石山からは、稲荷山に隠れて見渡せないかと思ったのですが、その心配もなさそうです。断面図ではその片鱗も見えません。

小関山/向谷山地図

断面図2

目次に戻る

阿武山 目次に戻る
 向谷山へ堂島の米相場を中継したのは、茨木市と高槻市の境にある阿武山の山頂であったようです。そこには四畳半ほどの石敷があったといいます。また、この付近の「ヤスンバ」という場所には藁葺き小屋が建てられ、「はたふりさん」が,大阪の相場を京都方面に知らせていたという話も残っています。阿武山の別名は「美人山」で、昔はミヤマツツジが全山に咲き乱れ見事な景観であったとも記されていて、武士自然歩道の道筋であるというので手頃な散歩と思って出かけてみました。
 阪急高槻駅から萩谷行バスで関電北大阪変電所まで行き下車。何ともすごい所です。高圧電線が四方八方から集まって大きなうなり音をたてています。近くには関西大学の学舎もあるのですが、こんな所で大丈夫なのかい、音もさることながら、若者にとって電磁波公害は大丈夫なのか、といいたくなる環境です。案内板にしたがって、変電所の分厚いコンクリート壁に背を向け、武士自然歩道に入りました。ハイキング道というより工事用道路といったほうがよい、風情のない荒い土道を登って行くと、20分ほどしてようやく里山らしい足に心地よい踏み道になりましたが、それはほんの一瞬、もう山頂に着きました。そこが標高281.1mの三等三角点のある山頂でした。
 近所の人が、反対側から毎朝の運動がてら登ってこられるのに出会います。眼下には、大阪の郊外の住宅がびっしりとひしめいた景色が広がっています。阿武山からの眺め
お弁当をひろげるほど見晴らしがいい場所でもなく、時間もお昼前、少し下れば「貴人の墓」と呼ばれる阿武山古墳があるというので、三角点の写真だけ撮ってすぐ下山することにしました。枝道の多い山道を下って10分ほどで「貴人の墓」と呼ばれる埋め戻された古墳が現れました。
 この阿武山古墳の被葬者は藤原鎌足だという説もあり、「貴人の墓」と言い伝えられてきたのだから高貴な人物であったことでしょう。1934年に京都大学の地震観測施設の建設中、土を掘り下げていて瓦や巨石につきあたったことからこの古墳が偶然に発見されたということです。しかし、発掘に関しては、トラブルがあったそうです。旗振り山からはちょっとそれますが、発掘から埋め戻しまでの経緯をみてみます。
 ウィキペディアの阿武山古墳の項によれば、京都大学理学部・地震観測所が、観測所敷地内の「貴人の墓」発掘の主導権を握っていのですが、考古学の知識に乏しく遺跡に対する扱いが手荒かったそうです(さもありなん)。最初に相談されただけで以後立ち入り調査をさせてもらえない京都大学考古学研究室と、遺跡を管轄する立場である大阪府は、遺跡の発掘の今後の方向に関して地震観測所と対立していました。その間、見物人の増加や遺物の急速な劣化を憂慮する声もあがっていたそうです。大阪府庁で文部省や宮内省なども出席して行われた関係者会議で、被葬者がきわめて高位の人物であることは間違いなく、皇室につながる可能性もあるため、これ以上の調査は冒涜であるとの意見さえ出て、こうしてついに「貴人の墓」は埋め戻されることになったのです。その前に地震観測所が遺骨などをエックス線撮影したのですが、内務省の派遣した憲兵隊が、見物人から被葬者の尊厳を守るため派遣されており、遺跡に対する学術調査にも圧力をか、調査不十分なまま埋め戻されました。何という時代だったのでしょうか。もっとも戦後60 年以上たった現在でも、宮内庁関連の古墳の発掘調査はままならないのですから、当時としてはあたりまえのことだったのでしょう。
 1982年、埋め戻す前のエックス線写真の原板が地震観測所から見つかり、1987年分析の結果、被葬者は腰椎などを骨折する大けがをし、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したことが判明しています。また埋葬者は藤原鎌足という説が有力ですが、時代的に矛盾する発掘品もあり、まだ誰の墓か確定していません。眼下には、こんもりとした緑の丘が望まれ、鎌足公古廟、継体天皇陵、今城古墳、石川年足墓など遺蹟が散在しています。その周囲にはビルや住宅がぎっしりとひしめきあい、古代の景観を偲ぶことはできません。
 「貴人の墓」の周辺は整備され、説明板も建ち、周りにはベンチもしつらえられていて、憩える場所です(写真)。ここでサンドイッチをホホバっている短い間に、目の前を何人ものハイカーやご近所の中高年者が行き交っていました。貴人の墓
食後は、自然歩道をこのまま真っ直ぐに進んで茨木市桑原に出ました。途中の山道の周りは金網がずっと張ってありました。またまた金網ですが、今度の金網は、大阪学院大学が買い占めた土地を巡らしたもので「立ち入りお断り」の看板があります。金網の穴所々穴があいているのですが、これはイノシシが出入りするために、彼らがこじ開けたものだそうです。ペンチもないイノシシにとっては迷惑千万な人間の仕業です。また、「山芋盗掘者に告ぐ!!」という茨木警察署と安威生産森林組合連名の看板もありました。イノシシは字が読めるのでしょうか。
 閑話休題。そうこうするうちに、突然「阿武山稲荷」の背の高いまっ赤な鳥居が現れました。鳥居の向うには茨木の市街地が広がっています。鳥居を抜け階段になった歩きやすい道をどんどん下って行くと、桑原はしの高層マンションこれまた突然、マンション思われる高層ビルが目前に現れました。その先には名神高速道路が安威川を横切っています。安威川に沿った道路の両方向をダンプカーが、ひっきりなしに上流と下流方向に向かって疾走しています。周りには生活のにおいが何もない荒野です。こんな所に住めたものではないのに、高層マンションだけが建っていると言った風情です。幸い、バスが通っていましたが、小一時間ばかり排気ガスを吸わされながら待たねばなりませんでした。
 こんな風景に出くわすと、だんだん堂島に近づいて来たことが実感されました。堂島までにもうひとつ千里山が残っています。ここが最初の旗振り山です。阿武山の山頂から眼下に目にした住宅地の中に、旗が振れる山があるとは想像もできません。
目次に戻る

吹田千里山(桃山、五里山) 目次に戻る
 この旗振り山は北大阪急行の緑地公園駅東方500メートルにあると記されています。緑地公園の千里中央よりの駅が「桃山台」、近くに住んでいる友人の住所が「東泉丘」。地名からして、この辺りは大阪万博を契機に開発された丘陵地の高級住宅地でしょうか。宅地開発で旗振り山は削られその痕跡があるとも思えません。実際、今は廃止された三角点「三本松 �」(標高83.5m)は、その最高点を削られて、今では79mになってしまっているそうです。この辺り一帯は河田山といわれ、かつては桃畑が広がり、明治時代には花見客でたいへんにぎわっていました。三本松辺りが絶好の眺望の地だったそうです。旧三角点のあった所は、今では柿畑で、私有地で立ち入ることはできないと書いてありましたが、とにかく行くだけ行ってみようと春先の午後出かけました。
 
堂島の石碑彫刻 その前に、どうせ淀屋橋から地下鉄御堂筋線に乗ることになるから、ついでに堂島の米市場跡記念碑を見に行きました。堂島川(旧淀川)右岸沿いに大江橋北西詰めからちょっと西へ行った高速道路直下の公園とおぼしき一隅にその記念碑はありました。石碑の上に、米相場の騒々しさ、激しさを微塵も想像できない彫像があります。裸の子供が二人、米の実った稲穂に戯れている像です。米取引を象徴する訳でもなく、芸術作品としても三流。彫刻家横江嘉純氏の1953年の作品で、2年後にこの記念碑のために寄贈されたものだそうです。石碑には、「世界各地における、組織化された、商品・証券・金融先物取引の、先駆をなすものであり、先物取り引発祥の地とされている」と、誇らしげに記されています。昨今の金融先物取引の負の側面は、微塵も考えられていなかったことでしょう。目次に戻る

千里山の梅の木 大阪市営地下鉄御堂筋線で緑地公園まで直行。起伏の多い住宅地内の道を巡って、それとおぼしき空き地につきました。周囲は金網で囲ってあり、中には入れません。金網の周りも家とマンションが立て込んでおり中を見通すことはできません。一カ所、住宅の間に道がついており、その奥に金属の扉がしつらえてありましたが、施錠されており入場できません。正面にちょっと小高い場所があり、梅の木が植わってあります。周囲にも何本か梅の木があり、ちょうど花時で、いい香りを放っていました。この空き地(住宅になっていない土地)は柿林でなく梅林でした。
 この旗振り山の真北に、堂島から直接通信を受けていたもうひとつの旗振り山、石堂ヶ岡があります。標高は680.5mで、現在はゴルフ場のなかにあり無断立ち入り禁止です。クラブハウスの前に「米相場京え(ママ)知らすに旗振りし ここが昔の相場たて山」と大書された石碑が建っているということです。小塩山は京都西山中の名峰、標高642mで、ここでは向谷山からも信号を受けていたそうです。また送り先は、京都七条にだけでなく、京都盆地の向側の比叡山、反対側の亀岡にも通信していました。比叡山から大津へのルートがあったようです。大津の米商会所は先述した小関山と比叡山の両方から相場情報を得ていたことになります。
 このように堂島から京都、大津方面への通信ルートは、けっこう複雑で、堂島からは、交野、京田辺を通って天王山経由で伏見へも情報が送られていました。二石山が稲荷山の背後にあるため伏見に伝えられなかったようです。伏見の米商会所はずっと遠い天王山から情報を得たのです。次回はこのルート場にある交野の旗振り山と京田辺の千鉾山に登った時のことを書きます。後は、石堂ヶ岡、小塩山、天王山と比叡山が残っています。比叡山は置くとしても、後の三カ所はぜひ訪れたいと思います。

 
地図上での見通しの検証 目次に戻る

1. 阿武山と向谷山間 目次に戻る
 間に2つのピークを挟んでいますが、向谷山の標高が500m 近くあるため、お天気がよければ見通しは十分だったことでしょう。阿武山向谷山見通し
目次に戻る
 
2.千里山と阿武山間 目次に戻る
千里山の向こうは、溜め池の多いなだらかな丘陵地帯、阿武山からの見晴らしはすばらしかったことでしょう。今は……。
千里山阿武山断面図
千里山阿武山地図
目次に戻る
 
3.堂島と千里山間 目次に戻る
 千里山は淀川の河岸段丘上と考えられます。いい眺めです。
堂島千里山断面

堂島千里山地図

目次に戻る

参考図 京都・大津ルート全体図 目次に戻る
柴田昭彦「旗振り山」p165の図より作成しました。
京都大津ルート全体図

目次に戻る



inserted by FC2 system