洛中洛外 虫の眼 探訪

洛外散歩
一口(いもあらい)
2011年 9月

1 はじめに
 一口は、間人(たいざ)、鶏冠井(かでい)などの京都府下の三難解地名の一つとして必ず紹介される。「いもあらい」と読む。下の航空写真にあるように、巨椋池干拓地内の農村集落、京都府久世郡久御山町の地名である。前川(巨椋池排水路)と古川に挟まれた細長い地域は、東一口と呼ばれ、昔ながらの漁業集落の面影をよく残している。
 一口はかっては、巨椋池の西岸堤防(大池堤)あたりをさす地名で,現在の東一口・西一口にその遺称地名として残っている。鎌倉時代の史料にすでに地名としてみえ、「芋洗」とも書かれていた。近世はもっぱら「一口」で、読み方は「いもあらい」。用字と読みにまつわる伝承については後述することにし、まず東一口の西口から足を踏み入れてみよう。
 なお、久御山(くみやま)の地名は、1954年10月町村合併促進法によって久世郡の御牧村と佐山村が合併して誕生した新しい地名である。
  
一口航空写真
 上の航空写真は東一口集落近辺を写したものであるが、細長い集落の東は南北に走る国道一号線でとざされている。ここより少し南で京滋バイパスがこの一号線と交差しているが、交差点から少し西に、北へ伸びて東一口の集落に入る一般道がある。ここに「東一口口」ではなく「東いもあらい口」という表示の道路標識がたっているのは傑作だ。

2 東いもあらいを歩く。
 ●京阪淀駅から「のってこバス」に乗って 
のっいぇこバスマーク 震災と福島原発事故に釘付けになっていた3月の最終日に、ちょっと出かけてみた。車のないものにとっては、今もいもあらいの入り口は一つ。駅の高架工事完了間際の京阪淀駅に昼過ぎに降り立った。ここからいもあらい行きの面白いバスが出ている。久御山町コミニティバス「のってこバス」である。実際は京阪宇治交バスと京阪バスで運行されているのだが、毎月最終日曜日は無料となっている。残念ながら3月の最終日であったが、日曜日ではなかった。しかし、150円均一と格安である。東ルートと西ルートがあり、西ルートが京阪淀駅を通っていて、東いもあらいの前川橋までいき、そこでU-ターンして、第二京阪道路沿いの「クロスピアくみやま」という名のまちの駅が終点となっている。朝7時35分の第一便だけは、東いもあらいの集落内に入ってくれないから注意。
 京阪淀駅は新駅建設のため2006年4月より京都方面と大阪方面のホームが分割されており、降り立ったのは大阪方面行きの、すでに高架上にあるホーム、そこからまだ地上にある京都方面のホームに通じている既存の駅舎前まで歩いく。そこを左折して東へ100mほどいった所の右手に淀交番所があり、その斜め向かいが、のってこバスの停留所であった。発車時刻を確かめ、待つ間に、淀城跡公園と與杼(よど)神社をちょっと覗いてみた。そこの春爛漫の風景については、丁度前日に、訪れられたTさんが「京都観光旅行のあれこれ」に書いておられるので、そちらにまかす。

 バスは、宇治川の淀大橋をわたって、商店街を南へ、ほどなく左折し東へ。大藤神社を過ぎた辺りから巨椋池の干拓地に入って行く。坊之池、池ノ上、中島、沖ノ内など、かつての巨椋池の存在を暗示する字名があちこちに残っている。
 坊之池公会堂の交差点を北へ、中島、池ノ上あたりまで集落が続く。それを過ぎるとまた田園風景が広がるが、ほどなく西いもあらいの集落に入る。京滋バイパスが広い幅で、村を南北に分断している。バイパスをくぐり抜けて宇治川の堤防に出る。西いもあらいのバス停をやり過ごし古川をわたって、久御山排水場で降りた。ここが東いもあらい集落の西の出入口である。
 ここから歩いて東いもあらいの集落を縦断して、まちの駅前にあるバスターミナルまで出た。ここから中書島まで、まっすぐ北へ、第2京阪国道をまっしぐら、巨椋池干拓地を突っ切る何ともいい難い郊外自動車道路を走った。中書島に入るのには、ちょっと行き過ぎて大手筋を東に入ってから南下することになった。

のってこバス

 東いもあらいは、旧巨椋池西岸の大堤防(大池堤)上にある街村で、ご覧のように東西方向が約1.2Km、最大幅約100m足らずの細長い所に、216世帯、711人(2010年10月現在、平成22年度版久御山町ミニ統計書より)が住み、多くの人が今では農業を営んでいるが、かつては漁村であった。北側の道路が「ハマ」とよばれた表通りで、巨椋池が干拓されるまでは、漁師達で賑わった船着き場が設置されていた。そもそも、いもあらいは、後鳥羽上皇の時代に公に漁業権を認められたという由緒を持つ漁村で、巨掠池は掛け値無しに豊かな漁場であった。命に満ちあふれた琵琶湖に源を発した宇治川が、宇治橋を越えたあたりから槇島・向島等の島々を抜けて、巨大な遊水池であった巨椋池に直接流れ込んでいた。一網で舟一杯の魚が捕れたといいう言い伝えもまんざら嘘ではなさそうだ。それが、歴史上3度にわたる大土木工事で、漁民は農業との兼業をしいられ、ついに農民になった。
東いもあらい集落

●巨椋池干拓小史
 歩き始める前に、巨椋池が消失する経過を簡単に記しておこう。
秀吉堰堤 京都を押さえた秀吉が、宇治川と巨椋池の大改造に着手したのが、ことのはじまりである。まず槇島堤を築堤して宇治川の流れを、今の木幡、桃山方向へ北に大きく迂回させて、本流が直接巨椋池に流れ込まないようにした。伏見城の眼下に、宇治川が滔々と流れることになる。さらに、太閤堤を池の中に築き、大和街道を引くなど各所に築堤を行い、一つの大きな池を大池と数個の池に分断してしまった(右上概略図、詳細図はここをクリック)。それでもまだ宇治川の一部の流れは池に注ぎ込んでいたから、生態的な変化は急速には進行しなかった。しかし、流入水量の減少は、徐々に流砂を堆積させ、多くの浅瀬をつくり、ゆっくりではあるが、漁獲量が減少し始めた。
 決定的な出来事は明治24年に完成した治水工事。浅瀬化した宇治川は毎年のように氾濫を繰り返しており、これを治める為に観月橋以降の南岸堤防を整備し、納所付近で桂川と合流していた流れを、新水路を掘削して現在の八幡で合流させるという川の付け替えを行ったのである。これにより巨椋池は東一口の僅かな水路の他には宇治川の流れから完全に切り離され、独立した淡水湖となる。
 変化は急速に進んだ。孤立した湖沼内は水位が著しく減少し、周辺から流れ込む生活排水は富栄養化をもたらし、循環を失った水は、枯れた草木や汚染有機物を分解する力を無くし、ヘドロとなって湖底に沈殿する。それが蚊の大量発生を招き、ついにはマラリアの大流行を誘発していくことになる。以前にもまして漁獲高は年々落ち込む。既にこの頃になると漁業だけでは立ちゆかなくなり、農業と兼業の漁師が多数を占めるようになっていく。
 こと此処に至り、害悪ばかりの巨椋池を捨て、干拓によって農地を増やそうという、一見もっともらしい気運が高まり、1931(昭和6)年から干拓事業がスタートし、1941(昭和16)年に巨椋池は完全に姿を消し、20年後に「巨椋池干拓誌」が刊行された。
冠水20日目 干拓事業が完成して12年後の1953(昭和28)年9月、台風による増水で宇治川堤防が決壊し、干拓前の巨椋池とその周辺流域一帯が水に浸かり数ヶ月もの間巨椋池が幻のごとく現れた。干拓田700haと周辺の田畑2,400haが水没し、農作物は壊滅、多数の死傷者を出した。上に「波高し十月十四日(冠水二十日目)」と書かれた当時の写真を載せる。その下は、干拓以前の巨椋池での漁業風景である。かっての巨椋池
 東いもあらいの北にある大池神社には「二十八災」を記録した石碑があり、「往年の巨椋池が姿を現したかのようである」と刻まれている。巨椋池の復活を喜ぶ元漁民の血が騒いだのか、さっそく残っていた舟で、復活した巨椋池へ乗り出す姿も記録されているという。

●東いもあらいの町中を行く
 東いもあらいの西口には、新旧の2つの巨大な揚水施設が有る。東いもあらいの集落を挟んでいる前川と古川に集まった旧巨椋池地域内の水を、懸命に宇治川に排水している(この辺りの新風景は付録1を見てください)。
 そこから東へ「ハマ」通りを歩き始めた。集落は緑に覆われた堤防部、道路が走っている小平坦部、一段高くなった宅地部と多層的な構造になっている。巨椋池があった頃はこの小平坦部は、番小屋や漁具を並べたいた「ハマ」に相当したのではないか。小平坦部と宅地部は3m程の落差となっているが、今では小平坦部にも住宅が建っている(下図)。元来、通りの北側には民家はなく、南側のみの片側式街村であったが、農村に転換してから、北側にも石垣を築いて漸次家が建てられたのである。
断面
間取り 漁村時代は「一戸一棟」で、庭は制限され、母屋のみの奥行き二間(フクミ)、長さ三間(ナガミマ)の平面構成であった。準農業への転換を余儀なくされ、作業場の庭と納屋が必要な農作業には、何とも窮屈な形態である。今では周辺は広い田畑に囲まれ、近くに収穫物や農具を手入れする共同作業場も設けられていて、すっかり「農村」の顔に生まれ変わっている。

 集落を貫く道路は、車一台が通れる程の狭い道幅で、直線に延びるのではなく随所で緩く曲がりながら1kmにわたって続いている。道路の両脇には、殆ど隙間も無く、敷地一杯に家々が建ち並ぶ。今時の家に建て変ったものも多いが、瓦葺きの屋敷や旧家もいくつか目に入る。
 微高地に寄り添う漁村というと、長屋や狭小住宅がひしめき合っているというイメージがあったが、どの家も間口は広く立派な構えで、中には立派な門を構えていたり、白壁塗りの土蔵を持つ屋敷もある。どちらかというと商家が立ち並んだ街並みである。中央部は複数列の家屋が配置され膨れた形になっていて、もう一本の道路が走っている。ただ膨れると言っても提頂部の土地が広がったというよりは両川の外縁の小平坦部が広くなっていて、その緩やかな斜面を宅地にしているわけである。この部分と中央道路とは路地で結ばれている(下の街中点景中の地図参照)。
街中道路

●街中点景
街路2 phot6
phot5 photo3
photo2 photo4
街路1 街路3

●山田賀胤の館
 こんな景観の中で、漁業全盛期の面影をそのまま残しているすごい邸宅がある。山田賀胤邸である。
 山田家は巨椋池の漁業権の総帥として御牧郷13ヵ村をまとめていた大庄屋である。江戸時代後期に建てられた住宅と往時の繁栄ぶりを物語る壮大な長屋門が今も残っている。東西十五間、奥行き二間半。三間の入口には総欅の扉があり、両妻の張り、軒の塗籠め仕上げ、出格子やその小屋根、屋根はすべて「丸に五つ引き」の家紋瓦で葺き、棟の両端の鯱をしつらえている。いずれも雄大、大胆な造りである。屋敷の規模は当時の三分の一程に縮小されているとはいうものの、『書院の間の欄間には網代や鯉の彫刻がほどこされているなど、巨椋池での漁業の繁栄を物語っている』と説明にはあるが、残念ながら長屋門はしっかりと閉ざされていた。

長屋門

●安養寺
安養寺 集落のほぼ中央、山田邸宅の裏にある。山号を紫金山という浄土宗の寺院である。門前に「奉引上観世音尊像弥陀次郎堯円大居士 安養寺」と刻まれた大きな石柱が、山門の軒に接している。本尊の十一面観音菩薩立像は、普段は拝する事ができない秘仏である。
 安養寺では三月の声を聞くと「双盤念仏」の練習が始まる。双盤念仏というのは、双盤という大型の伏鉦を用いて六字の名号「南無阿弥陀仏」をゆるやかな曲調で詠唱する引声念仏である。この双盤念仏は、今では彼岸入の前の土・日に行われるようになった春祭りに奉納される。そのとき、件の本尊十一面観音像が開帳される。かつての開帳日は3月18日で、1192(建久3)年のその日に、次郎が夢告で淀川の神ノ淵からこの観音像を引き上げた日、即ち「観音の縁日」である。
 安養寺を有名にしているのはこの観音像に関わる元漁師の弥陀次郎の話である。安養寺に伝わる「弥陀次郎縁起」に詳しい。「巨椋池ものがたり」に載っていた縁起の現代文を付録2に写しておく。
 弥陀次郎の逸話は、「山州名跡志」、「都名所図絵」などの地誌類や「節用集」の類いにもなどにもみえるという。江戸時代には広く知られていた話であったようだ。例として、「都名所図絵」の五箇庄の西方寺弥陀次郎の旧跡の項にある原文を掲げる。

都名所圖會より西方寺弥陀次郎の旧跡 は五箇庄にあり。本尊阿弥陀仏は金銅の立像なり。其来由を原に、当国淀の東一口といふ所に、悪次郎といふ漁人あり、産業の殺生をつねにして、邪見放逸のものなり。ある時頭陀の僧壹人門戸に立、悪次郎焼鉄をかの僧の額に当て追放す、僧少も怒る色なうして帰りける。次郎怪で跡を慕ふに、西山粟生野光明寺に入て見えず。堂内の釈迦の像を拝するに、額に焼鉄の火印あり。次郎忽懺悔の心を発して、仏道に入。〔是より御鉢の釈といふ、今光明寺にあり〕又ある夜霊夢を蒙りて、淀川に網を入るに紫金の仏像を得たり。〔当寺の本尊是なり〕其後当寺の常照阿闍梨と共に仏道修行し、遂に二人とも同日同刻に往生し侍りぬ。〔世の人に悪次郎を名て弥陀次郎といふ〕

●聖護院大根
 安養寺を過ぎると、すぐに町並みは細くなりあっという間に切れる。その向うに広がるのが巨椋池干拓地の広い田畑と、それを縦横に貫く自動車道路。歩いているのは、村はずれの典型的な大型ショッピングセンターへ行かざるを得ないお年寄りと物好きな観光者だけである。
聖護院大根 東いもあらいの名産品として全国的に有名なのが「聖護院大根」。現在、東いもあらい一帯が主生産地を担っているが、その名が示す通り京都市内の左京区聖護院地区が栽培の中心であった。この大根のもとをたどれば、尾張の国で栽培されていた宮重大根である。現在でも尾張大根とも云われる。江戸時代の文政年間(1818〜1830)に尾張の国から黒谷の金戒光明寺に奉納された2本の大根のなりの果てが、この鼠のような細長いしっぽがついた円形の大根である。聖護院にすむ篤農家田中屋喜兵衛さんが、奉納された立派な細長い宮重大根を、懇意にしていた門主から貰い受け、聖護院の自分の畑に植え採種を続け、毎年、太短いものを選定しては栽培を続けて行くうちに、丸形の固定した品種が育成された。土壌が浅い京都の地によく適したために、京都各地に栽培されるようになった。
 また別の由来として、これより150年ほど前に、中京区新間町東入る、通名「万清」の祖先が、尾張より取り寄せた宮重大根の栽培を始め、京都の土壌で自然淘汰の結果、今日の聖護院大根の形態になったとも伝える。いずれにせよ、尾張大根が祖である。
 明治19年頃がその最盛期で、京都の愛宕郡で生産される大根の7割は聖護院大根であった。その後の市街拡張、疎水工事、博覧会会場などで聖護院一帯が市街化し、鞍馬口村一帯に産地が移った。一時、鞍馬口大根と呼ばれていた時期があった。さらにそこも市街化が進み、京都北部の鷹峯方面に産地が移って行く。
川端切り絵 巨椋池の近くの御牧地区で栽培が盛んとなったのは昭和5年から6年頃にかけてである。現在は、東いもあらいもこの大根の産地の一つであるが、土壌の関係で既成田、即ち干拓以前からあった農地でしか栽培できないという。収穫期の11月下旬、農道に面した洗い場で、漁師の血を引くお百姓さんが、一斉に大根を洗う姿は、東いもあらいの風物詩である。今では、聖護院大根というよりも淀大根として京阪市場に出荷されている。
 巨椋池の干拓地のほとんどは水田だが、従来からの畑では、大根の他にも、唐辛子、胡瓜、茄子など、巨椋池の肥沃な大地はさまざまな野菜を育んでいる。

3 東いもあらい移住
 歩いてきたように東いもあらいは、東西に細長く家並みが続く堤防上の集落である。集落が立地する堤防は大池堤(東堤防)であり、先述したように、1592(文禄元)年豊臣秀吉が伏見に築城するにあたって、この城を中心に水陸両交通路を整備するために、巨椋池を各所で分断する大工事を行った際にできたものである。このことから考えれば当然、現集落の起源は築堤以後と考えられる。
 しかし、一口(いもあらい)の地名は鎌倉時代にすでにみえ「芋洗」とも書かれている。それはしばしば軍記物語に現れ、淀とともに一口は京都南部における攻防備上の重要な拠点であった。例えば、平家物語では、巻四「橋合戦」。巻九「生ずきの沙汰」「宇治川先陣」に『淀・いもあらゐ』とセットになって出てくる。宇治川を渡ろうか、それとも淀・いもあらい方面へ迂回しようか進路を思案したり、そこを固めるというように、戦略上重要な地点であったことが分かる。そのあたりの感じを音声でお楽しみ下さい。
   橋合戦  
生ずきの沙汰  
 宇治川先陣  

太平記「吾妻鏡」には、承久の乱に際して、幕府軍の京都攻めの配置を『芋洗 毛利入道、淀渡 結城左衛門尉並義村』というように記している(1221年、承久3年6月7日の条)。さらに太平記巻15 にも、1336(建武3)年、北畠顕家に身方した宇都宮・紀清両党が京都に入るのに志那浜(現草津市志那中)から芋洗を経たことが記載されている:『(則道場坊の助註記)祐覚に被仰付、湖上の船七百余艘を点じて志那浜より一日が中にぞ被渡ける。爰に宇都宮紀清両党、主の催促に依て五百余騎にて打連たりけるが、宇都宮は将軍方に在と聞へければ、面々に暇を請、色代して志那浜より引分れ、芋洗を廻て、京都へこそ上りけれ。』(右図)
 現代語訳は『後醍醐天皇はすぐに道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく)に命じて、琵琶湖上に船700艘を用意させた。北畠軍団の面々は志那浜(しなのはま:滋賀県草津市)からその船に乗り込んで1日のうちに東坂本へたどり着いた。北畠軍団についてきた宇都宮家と紀清両党(きせいりょうとう)の者たちは、もともと主君・宇都宮公綱(うつのみやきんつな)の援軍催促を受けてここまでやってきたのであった。しかし、「いまや宇都宮公綱は足利側に所属」との情報を得て、各々、軍団脱退の意志表示を行い、志那浜で北畠軍団と袂を分かった。彼らは芋洗(いもあらい:京都府久世郡)の方角から京都にいる主君・宇都宮公綱のもとへ馳せ参じていった』。
 鎌倉時代初期の後深草上皇(1287年〜1290年)のものと考えられる「院宣案」に、芋洗橋の勧進のことが記されている。三条公忠の日記「後愚昧記」の1376(南朝天授2、北朝永和2)年7月19日から20日にかけての条には、蜂起した土民を鎮圧するため山名時義の兵が芋洗橋に打って出たことが書かれているというから、芋洗橋は、勧進よろしく実現していたのだろうが、その位置は、巨椋池のなくなった今となっては知る由もない。
 1315(正和4)年に東大寺領であった兵庫関に悪党が多数乱入し、守護使と合戦をするという事件が起きた。このときの92名の悪党の名前が東大寺文書之五「兵庫関合戦悪行輩交名注文案」というのに記載されている(渡辺浩史「悪党を籠置くことについて」)。その中に「孫太郎イモアライ」「橘次淀」の名がみえる。その他にも巨椋池周辺の村民の名が見える。淀の牛五郎、藤太郎、江口又太、左近次郎、竹王太郎、石王次郎、下津の五郎、鬼次郎、藤内次郎子息、水垂の観音四郎らである。92名のほとんどが比叡山の僧侶である。
 想像をたくましくして、このことを考えると、いもあらいの住民は、中世には半漁半武の水軍集団ではなかったのか。「漁師由緒抜書写」には、鳥羽上皇(1141年〜1156年)の綸旨を得て「東は津軽外の浜、西は櫓櫂の及ぶ所」まで漁業を行うことができる特権を有したという伝承を持っている。また、後鳥羽上皇から、東一口村、小倉村(宇治市)、弾正町、三栖村(弾正町と一緒にされることもある)の4ヶ村にのみこの豊かな水面の漁業権が下賜され、これ以後この4村に属する漁民以外はたとえ沿岸の住民であっても一切の網や竿を入れることは許されなかったともいわれている。
 軍記に地名が現れてくる時期は、源平騒乱と鎌倉幕府の成立の頃であり北面・西面の武士という独自の戦闘部隊を有して幕府と対立した後鳥羽上皇が、近江・大和・河内・摂津の地域から巨椋池沿いを通り都に攻め登ろうとする幕府勢力に対して要衝の位置にある4ヶ村の漁師船団を取り込んで守りを固めようとしたのではないか。事実、先述した承久の乱では、いもあらいに軍勢が配された。
 時代が下がっても、秀吉と云う途方もない人物が出てくるまでは、彼らは一旦ことあれば船を出したのではないか。先述した「兵庫関合戦悪行輩交名注文案」にあるように比叡山の僧侶を舟にせて、東大寺領の兵庫関に乱入し、守護司と合戦するのに手を貸したと見ることはできないだろうか。
 あの山田家の途方もなく頑丈な作りの長屋門は豪族の城館の名残りではないのか……、と歴史好きのかってな想像が広がる。
 さて、いもあらいが、現在の地に移住して東と西に別れてことが、「巨椋池ものがたり」に掲載されている「山城国久世郡御牧郷村名宮寺初記」(玉田神社文書)に見られる:
『往古ハ両一口村淀魚の市二有りし時、三方ハぬまニて一方より入口あり、これに依りひとくち村と記ス、天正十七丑年四月太閤御城を築キたまう前二大池の高キ嶋ぇ立のき、此時より西と東ぇ別れ西一口村、東一口村と申す也(後略)』
 また「山州名跡志」巻十三に、
『弥陀次郎宅、伝云古弥陀次郎ト云フモノ此所ニ住デ漁ヲナス。其地城東今家中士舘ノ地也』
とあるように、淀城の東側でここらあたりは淀魚の市とよばれ、古来から三方を沼(巨椋池)に囲まれ地勢であったのだろう。
 安養寺の項に出てきた「弥陀次郎縁起」のなかにも、『此一口淀魚の市にありしとき』と出ている。安養寺もまた古くは淀魚の市にあったとされ、のち現在地に移転したのである。下に掲げたのは江戸時代の淀城下の古図であるが、虫眼鏡で拡大してみると、堤防上に「西一口村堤」の記載がみられ、その植野説明文にも魚の市がらみで西一口の地名が出ている。
淀城下古地図

 移住説はこのように地誌類、縁起から十分に裏付けられるが、決定的な史料はなく今後の研究が待たれると云う。

4 一口の地名語源と伝承
 一口をなぜイモアライと読むのか、諸説競演の趣がある(付録3参照)。
 まず珍説をいくつかあげると
『一口とは、その池と宇治川とがつながる場所にあり、池の水の流れが芋を樽で洗う時の水の渦の流れに似ているので、「芋洗い」とついた』
『秀吉が宇治川に流した和歌の短冊を、大鯉がひとくちで飲み込んだところだから』
『弘法大師が、洗いものをしている農夫に何を洗っているのか聞いたときの返答が芋だから』
『巨椋池の大小無数の島州が、芋を洗うような景観であったから』
さらに
『一口の字の一は、芋を洗うときに使用する洗棒をあらわし、口は芋を洗う桶を意味する』
というこじつけまである。
 しかし、最後のこじつけを除いて、これらすべては、いずれも一口をなぜイモアライと読むかの回答にはなっていない。なぜそこが一口と名付けられたのか、なぜイモアライというのか、一口とイモアライを切り離して地名語源を述べているに過ぎない。

 もっとも流布している、『三方を塞がれ、一方しか出入り口がない地形だったから一口とついた』というのも同じである。おそらく「一口」はその集落の立地状況を正確に表していたことに間違いはなかろう。しかし問題は、それをなぜイモアライと読ましたかにある。答えはイモアライの中に潜んでいるのだ。
「巨椋池ものがたり」は、この用字と読み方の関係を見事にあぶり出し、一口村は、先に見た「山城国久世郡御牧郷村名宮寺初記」(玉田神社文書)でひとくち村と読ましていることから、「ヒトクチのイモアライ」であり、ヒトクチは村名、「イモアライ」は土地の呼称で「イミハライ」即ち「斎祓い」のこととであるという。
 それでは、この土地がなぜ「斎祓い」の地でなければならないのか。それは村人の生業に深く関係していた。「巨椋池ものがたり」は云う。大池(巨椋池)で生計を営んだ漁師集団の発生と漁師の信仰形態にその謎を解く鍵がある。
 現世で殺生を生業とし、多くの仏に非難され、来世に於いてはもはや救いがない。
観音像『はかなきこの世を過ぐすとて、海山稼ぐとせしほどに、万の仏に疎まれて、後生わが身をいかにせん』(梁塵秘抄巻二)と歌謡が歌うように、漁師は殺生戒の罪業から逃れるために、彼らは来世の往生を安養寺の十一面観音菩薩に托し、わが身を清め、生業の糧となった魚貝類の鎮魂を行った。安養寺で行われるの「羽毛鱗甲魚貝虫」という特別な施餓鬼法要にそれが表れている。
 また、かっては東いもあらいの本当座(巨椋池の漁業権を有していた「座」)では、最年長者が正月の三ヶ日、氏神である玉田神社へ参拝する前に、巨椋池へ飛び込み水行した。おそらく汚穢を洗い清める禊の名残りであろう。
 「イモアライ」は漁師の生業を浄化する「忌み清める」、すなわち「イミハライ」から転訛したものである。古来の神仏混合の民俗から自然と「一口のイミアライ」として知られるようになり、いつの間にか「一口」を「イモアライ」読むようになった。 
 以上が「巨椋池ものがたり」の筆者が到達した地点である。

 
付録1 悲しいこと  [もどる]
 来てみてびっくり、見ず知らずの心ある人のブログにも載っていた前川堤の桜並木の悲しい話です。以下はそのブロウから抜粋しました。

前川堤の桜並木は 京都府自然200選
桜並木
 京都市内の南に位置する久御山町にある東一口(ひがし いもあらい)の桜は「京都の自然200選」に選ばれた場所である。
 毎年、楽しみにして訪れる桜のスポットであった。
 昨年訪れたときも水路の工事が行われていたので、川面が写真に写せないナーと残念に思った事を記憶している。
ところが、今年もまだ工事をしている。長くかかる工事だナーと思いつつ。
伐採された桜 前川堤を歩いて驚いた。樹齢百年(?)もありそうな古木(直径50cmほど)が約20本地上付近から切り取られている。 
 かわいそうなことをしないと工事が出来ないのだろうか? その切り取られた部分の土の近くから新芽が出て、可憐な桜が咲いています。これから何年かかるのでしょうか? 元の樹形まで戻れるのでしょうか? この工事は治水のために必要なものと思いますが、桜のことは充分考えられたのでしょうか? 地元の方にも充分な説明があったのでしょう。皆さんの合意で工事はすすんだのでしょう。忘れていませんか? 桜の意見は聞きましたか? あまりにも勝手すぎるのではないでしょうか? もう取り返しは出来ませんが、これからはどうなって行くのか、来年も桜を見に行きたいと思います。
 なお、ここを訪れたのは、2010年4月4日でした。
[もどる]
 
付録2 弥陀次郎縁起(「巨椋池ものがたり」より)[もどる]
 巨椋池のほとり、淀魚の市に中村兵衛佐禎次という者がいた。この夫婦には子どもがなく、朝夕に子どもが授かるようにと神仏に祈願していた。ある夜金色の僧が現れ、妻に子どもを授けると夢告があり、僧からその証に蓮華を賜ったところで目が覚めた。妻は夢の話を禎次に語ると、禎次は夢中の僧が観音菩薩の化現であることを知った。夫婦は、大いに喜びますます信心を深め、やがて十か月後に男の子が生まれた。その子を次郎と名付け、夫婦は次郎を観音菩薩の申し子として溺愛した。ところが、こうした幸せな生活も長くは続かなかった。次郎が三歳のときに父を、十五歳にして母と死別し、次郎は天涯孤独の身になってしまった。それからの次郎は、朝から晩まで河辺で糸を垂れて魚を釣るか、漁網を曳いて魚を捕って毎日を暮らしていた。そして父母の命日も忘れて殺生を繰り返し、また人のいうことを聞かない荒くれ者であった。その放逸無惨な暮らしぶりから、いつしか人々は悪次郎とあだなした。
 ある日、次郎の家の前に一人の托鉢の僧が訪れ、一銭一米の施しを請うた。次郎は施物をするどころかさんざん悪口をいって僧を追い返してしまった。僧が来た日に限って一匹の魚も捕れず、次郎がいくら追い払っても托鉢の僧は、毎日のように現れ門口に立つのである。腹を立てた次郎は、「今日の施しはこれだ」とばかり、僧の左頬に焼火箸を押しつけた。ところが僧は痛がりもせず、また怒った様子もなく立ち去っていった。不思議に思いその後をつけていくと、僧は淀から水垂(現京都市伏見区)へ川の上を歩くように渡り、さらに北西に進み、粟生の光明寺(現京都府長岡京市)の山内に消えた。次郎は寺に入り院主に托鉢の僧のことを尋ねたが、そのような僧はいないという。ただ堂内の釈迦如来は、結縁のためにときおり、托鉢に出歩かれるという話があるという。そこで中尊釈迦如来像を間近に拝してみると、如来像の左頬に焼火箸をあてられた火傷の跡があり、膿血が流れていた。驚いた次郎は、深く改悛の情を起こし善行を行うようになった。
 その後、次郎は「淀川の神の木の淵にて有縁の善知識に会うべし」との夢告により、淀川神の木の淵(現京都市伏見区淀町付近)へと舟を進めた。時刻は夜の十二時、漆黒の闇につつまれた水面から一筋の光明がほとばしり、さながら日の出のような有り様であった。思わず次郎は、その光に向かって網を投入れると、網の中からまぶしく輝く阿弥陀如来と観音菩薩の像が現れた。時に建久3年(1192)3月18日のことであった。
 以後、殺生をやめ、一層精進を重ね念仏の行者となった次郎を世の人は弥陀次郎と呼ぶようになったという。なお、神の木の淵から出現した阿弥陀如来は、水垂の阿弥陀寺の本尊となり、観音菩薩は今、安養寺に祀られている本尊の十一面観音菩薩である。
 次郎はその後、髪を剃り堯円居士と改め、安養寺を西悦法子(安養寺二世)に譲り、自らは宇治五ヶ庄の西方寺(現宇治市五ヶ庄)に閑居した。そして、貞応元年(1222)10月15日、70余歳にして夢告によって臨終のときを知り、西に向かって端座合掌し往生を遂げたという。

 以上が「弥陀次郎縁起」の概要である。同様の逸話は巨椋池の南岸を取り囲むように、安養寺のほか、宇治の西方寺・淀水垂の阿弥陀寺や長岡京市の粟生光明寺にも縁起とともに伝承されている。
 ただし各縁起は、それぞれの寺の創建と関わって多少の相違がある。例えば、縁起の根本部分である次郎が引き上げたという仏像については、安養寺の「弥陀次郎縁起」によると阿弥陀如来と観音菩薩の二体であつたとする。一方、西方寺の「弥陀次郎本尊縁起」には金銅の一光三尊仏(阿弥陀・観音。勢至の三尊)、阿弥陀寺の「淀水輪山阿弥陀寺本尊縁起」では3尺(90センチメートル)の阿弥陀如来像であつたと記されている。
 さらに阿弥陀寺の縁起には、治承4年(1180) の兵火で焼失した東大寺大仏殿を再建するため、勧進職に補せられた俊乗坊重源(1121〜1206)の求めに応じ、弥陀次郎は家伝の蝉折の笛を売却して、一万銭の金を作り重源に喜捨したとある。さらに、南都の仏教を復興したことで知られる解脱房貞慶(1155〜1213)と弥陀次郎が、十六(現城陽市青谷十六)で出会い相十念(互いに弥陀の尊号を十唱すること)をした話が記述されるなど、善行を行う念仏聖の姿と、阿弥陀如来の化身としての弥陀次郎の姿が写実的に語られている。
 また宇治の西方寺は、弥陀次郎終焉の寺として知られ、近在の人々は寺を通称「弥陀次郎さん」と呼ぶ。この寺に閑居した以後の弥陀次郎は、社会教化をすすめ、五ヶ庄一帯の治水と農地改良に務めたという。現在五ヶ庄地区と木幡地区の境界付近を流れる細流を弥陀次郎川と呼び、弥陀次郎によって改修されたものと伝える。この弥陀次郎川が宇治川に流入する地点の南側、許波多神社の西北の田をかつては弥陀次郎田といったという。
 ともあれ弥陀次郎の逸話は、縁起以外にも『山州名跡志』『都名所図会』などの地誌類や『節用集』などにもみえ、江戸時代には広く知られた話であった。
 ちなみに次郎が発心を起こす契機となり、次郎が拝した生身の釈迦像は、粟生光明寺の釈迦堂に祀られている。左手に鉢を持つことから「御鉢の釈迦」と呼ばれ、もとは光明寺山内の金光院の本尊であつたという。像の左頬には、伝承の起源になったと思われる傷が残っていて、「頬焼の釈迦」として広く信仰されている。
[もどる]
 
付録3 一口の地名解釈 [もどる]
「久御山町史」の第1章 の第2節 地名と伝承には、次のような数々の解釈を記載している。そのまま写す。
 『現在知ることのできる一口の地名に関する伝承を列記すると次のようなものがある。
(一)『山城名勝志』に「一口 古老云昔三方ハ沼ニテ一方ヨリ入口有レ之故二一ロト書卜云り」とあり、三方が沼(巨椋池)であって、入口が一口のみの一カ所であったから一口と書かれたとする。また文政十一年(1828)に記録された「山城国久世郡御牧郷村名官寺初記」(玉田神社文書)の「両一口村名の初」の項にも同様の説を載せている。恐らくこの説は、近世において広く流布していたものであろう。
(二)巨椋池漁師に与えられた特権とその由緒を記す「漁師由緒抜書写」(年欠。山田賀胤家文書)によれば、用明天皇が宇治田原(京都府綴喜郡宇治田原町)へ行幸された時、神楽という所から勢田の下へ流れる一口川に「神楽や一口川に鯉のはる人が恋するはちすはハゆけ」と書いた短冊を流された。これを淀魚の市の漁師が引き上げ、禁裡へ届けたところ、歌に読まれた川名から在所の名を「一口」と賜ったとする。
(三)豊臣秀吉が伏見城で宴を催したとき、和歌を記した短冊を宇治川に流したところ、短冊は一口まで流れついた。すると大鯉が現われ、その短冊を「ひとくち」に飲み込んだので、その地を一口と書くようになったという伝承。
(四)昔、弘法大師が巨椋池のそばを通りかかったとき、一人の農夫が何かを一心に洗っていた。大師は「何を洗っているのか」と尋ねたところ、農夫は「芋である」と答えて「ひとくち」に口に入れたのでこの地名がついたとする伝承。
(五)昔、巨椋池は大小無数の島洲があり、「芋を洗う」ごとくの景観があったので芋洗と呼ぶようになったとする伝承。
(六)明治の初めまで巨椋池で捕獲された鯉は、宮中(石清水八幡宮か?) へ献上していた。この鯉には「一咫鯉一尾」と目録が付けられていたという。咫は親指と中指の間の長さを示し、この目録を見た人が一咫を一口と読み違え、「一口から鯉一尾を献上」となったとする。
このほか、一口の地名解釈について
(一)農民などがはじめて土地を耕すとき、その土地の一部を区画し、その四角に棒を立て土地を神から貰う祭事を行った。これを「地貰い」と呼ぶが、この「地貰い」が「イモアライ」に転化したとする。また一口は、文字ではなく記号であるとして、横棒の一は土地を意味し、口は土地の区域をあらわすものであり、これが後に漢字の口になったとする説がある。
(二)「イモ」が斎・忌に通じることから、それを「洗う」もしくは「祓う」ことの意味に解して、何らかの宗教上に関する潔斎の場所であった可能性もある。
(三)「イモ」が鋳物師に結びつき、一口の地理的な位置からみて、砂鉄に関係する地名であるとの考え方も成り立つ。

「イモアライ」の地名は、全国的に広く分布する。しかし、「一口」と書いて「イモアライ」と読む地名となると、その数は以外と少ない。同字地名として知られるものに、東京都千代田区神田駿河台にある一口坂(淡路坂)と同区九段北三・四丁目境に一口坂(現在は「ひとくち坂」と呼ばれる)があり、港区麻布六本木五・六丁目境にも芋洗坂がある。
 この「イモアライ」の「イモ」のもつ意味は、どうも「芋」ではないようである。「イモ」とは痘痕・疱瘡のことをいった。疱瘡が文献にみえる初出は、『続日本紀』天平七年(735)八月十二日の条に、築紫国(福岡県)大宰府で疱瘡が大流行し、諸国の寺々で金剛般若経を講読させた記事がみえる。同年閏十一月十七日の条には、災変重り、疫癘(大流行の疱瘡)は京師に及び、同年の最後の条に「是歳。年頗不稔。自夏至冬。天下患碗豆瘡 俗曰裳瘡 夭死者多」と記している。
 医療の発達していない昔にあっては、疱瘡は実に恐ろしい病気であり、疱瘡に対する予防は神仏にたよらざるを得なかった。そのため全国いたる所に疱瘡神が祀られていた。その数を列記するいとまはないが、いもあらい地蔵(奈良県橿原市)・疱瘡神社(奈良市横井)・瘡神社(京都府綴喜郡田辺町)・瓦屋寺(滋賀県八日市市)をはじめ、芋観音・瘡薬師・瘡守稲荷・笠森神社などがある。
 さて本町の一口と「イモ(疱瘡)」の関係であるが、前述した東京の神田駿河台の一口坂(淡路坂)の頂上、神田川べりに太田姫稲荷があった。現在は太田姫稲荷神社(千代田区神田駿河台一丁目二番地)と改称されているが、古くは一口稲荷神社と呼ばれていた。この神社の沿革は「太田姫稲荷神社縁起」(年欠・太田姫稲荷神社所蔵)によれば、承和五年(838)の初め、遣唐副使に任ぜられた小野篁は大使の藤原常嗣と争い入唐しなかったため隠岐(島根県)へ流罪になった。篁が伯者国(鳥取県)名和港を出航したとき、海上がおおいに荒れた。篁は衣冠を正し、普門品を唱えると白髪の翁が波上に現われ、汝の流罪はまもなく解かれ都へ再び呼びもどされるであろう。しかし、疱瘡をわずらえば一命はおぼつかない。われは太田姫神である。わが像を常に祀れ、と神託があった。篁は同七年、帰京を許され翁の像を刻み山城国一口の里に神社をつくったという。さらに縁起は続けて、太田道灌の故事を記している。道灌の娘が疱瘡にかかったとき、ある人が山城国一口の里にある一口稲荷神社に祈願すれば病気が平癒するという進言をしたので、早速この神社に祈願したところ疱瘡が治ってしまった。道灌はおおいに喜び江戸城内にこの神社を勧請した。のち、慶長十一年(1606)八月、江戸城大改築にあたり城の鬼門にあたる神田駿河台東側の大坂に移し、この坂を一口坂と呼ぶようになったと記している。
 この縁起に記されているところによれば、一口に稲荷神社があり疱瘡平癒の神社として信仰を集めていたことになる。確かに東一口には豊吉稲荷神社が現存する。しかし、豊吉稲荷神社の沿革については近世の地誌などにその名をみないため不明な点が少なくない。また疱瘡神としての信仰も定かでないが、「縁起」等の存在から一口と太田姫稲荷神社(一口稲荷神社)は何らかの関係があったようにも考えられ、今後の調査研究に待つところが多い。
 一口の地名は難解であるために、用字と読み方の安易なこじつけや語呂合わせ的な解釈が多い。ゆえに一口の字の一は、芋を洗うときに使用する洗棒をあらわし、口は芋を洗う桶を意味するという珍解釈まで生むに至った。 』

 以上の数々の解釈を補って「巨椋池ものがたり」には、さらに次の2つの説を加えている
『(一)一口は古訓を「以毛阿良比」といい、以毛は斎む、阿良比は浄めるという語意である。このことから以毛阿良比とは、霊域を表わすと考えられる。つまり一口とは、神霊の宿る言霊信仰の地名(霊場地名)であるとする説。
(二)一口はイマ(今) ・アラ(新)・ヰ(井)を語源とし、新しく人工の水路(井路)を設けたことによる地名とする。巨椋池付近は、古来から河川の流路が転変した所である。類似地名として、江戸神田川に架かる昌平橋も古くは「大芋洗橋」といい、徳川家康が入府以後に新開削されたことをその理由にあげている。』
[もどる]

inserted by FC2 system