洛中洛外 虫の眼 探訪

上高野 
祟道神社と蓮花寺
2009年08月02日(Sun)
1 上高野と高野の関係
 最近、ちょっと上高野を散歩する機会を得た。今の住まいは高野である。そこから北東へ一乗寺、修学院、山端をはさんだ向うに上高野はある。途中峠の南部に発する高野川が花園橋で岩倉川を合わせて南に向きを変える谷口扇状地の高台の農耕集落だったところだ。実は、この地がもともとの高野であって、今住んでいる所は高野ではなかった。
 上高野は、古くは愛宕郡出雲郷に属していた。小野氏の進出によって愛宕郡小野郷となり、修学院や八瀬・大原とともに「小野ノ里」とよばれていたという。近世以降、明治維新までは禁裏御領地であって、古い地名を捨てて、愛宕郡高野村と称していた。1889(明治22)年に修学院、一乗寺と合併して修学院村の一字となった。ところが1918(大正7)年に下鴨村や田中村が京都市に編入された折、高野川下流の「高野河原」と呼ばれていた新田村に高野の名が冠せられたため、元の高野は「上高野」と改められたそうだ。「地名の持つ歴史の感覚に鈍感な一役人の思いつきだったとすれば、まさに赦し難いものです。」と上高野の自然と文化を学ぶ同史会の会誌創刊号で岩?英夫が記しておられるが、まさにその通りである。
 それで今住んでいる高野のすぐ上(かみ)が上高野でないわけが分かった。

高野古地図 以上のことを地図上で確認してみた。まず、1710(正徳4)年〜1720(享保6)年頃の京都の状況を表している「京都明細大絵図」の部分を掲げる(別冊太陽「京都古地図散歩」, 平凡社, 1994)。高野の集落名の記載はないが、高野河原に「新田村」と記されている。その上にある稲荷社は赤ノ宮(賀茂波爾)神社境内の権九郎稲荷大明神である。赤ノ宮の名前は稲荷社の鳥居や社殿が朱色に塗られることから生じたものと考えられるが、寛文年間(1661〜73)に高野川の氾濫地を開いて出来た高野河原村の産土神である。門前の鳥居横に高野川開墾来歴碑が八瀬街道に面して建っている。また、古くは、式内社の賀茂波爾社にも比定されており、波爾は埴とも記し、赤土(粘土)を意味する。高野川は古くは埴川といった。

 時代は大きく跳んで、1912(大正元)年発行(1908年測量)の大日本帝國陸地測量部発行の20,000分の1の地形図では、修学院村高野の地名が確認できる。現在の高野のあたりは田中村高野河原となっている。農地はほとんど消えて、鐘淵紡績会社の工場である。先述の花園橋は山橋と記載されているが、これは橋の名前ではなく小字名であろう。ちょっと意味の分からない「嵯峨屋地」(赤色で示した)という地名が記されている。乞うご教示。
map1912

 1932(昭和7)年の50,000分の1の地形図ではたんに高野のママであるが、修学院村はたんに修学院と記載されている。京都市左京区内に編入された結果である。地図上にはまだ「上高野」の記載は見られず、一方、高野河原の地名は消えている。1961(昭和26)年発行の50,000分の1の地形図でも同様である。この地形図で、叡山電気鉄道が記載されており、「やまばな」(山端)の駅名がみえる。これは今の「たからがいけ」(宝ケ池)である。ちなみに、現在の叡山電鉄のうち、叡山線は日本ではじめて水力発電(琵琶湖疎水)により電気を供給した京都電燈株式会社の電鉄部門として、1925(大正14)年に叡山平坦線、出町柳〜八瀬間(5.6km)の営業を開始している。
 ようやく1975(昭和50)年の4色刷の50,000分の1地形図で上高野と高野の地名がそろって記載されているのが確認できた。
「高野」と云う地名は、芭蕉の師、北村季吟の京都案内記「菟藝泥赴(つぎねふ)」に「小野の東の高き地形を高野という」と述べていることから,地形上の地名であると考えられる。しかし、「京都府愛宕郡村志」(1911)では、「高野」は「鷹野」であって,平安変遷都の折に御狩野とされたところであったからだと記している。


コラム インターネット検索の威力
愛宕郡修学院村 竹村俊則の「昭和京都名所書圖絵」洛中編に愛宕郡村志を引いて高野が鷹野であることを記載しているが、近くの京都府の資料館に出向けば、すぐに元資料に当れるが、梅雨時でもあり、わざわざ一行だけのことで出かけるのもおっくうである。でも、信用しないわけではないが、実際に愛宕郡村志を紐解いて確認したい。インターネットで検索すると、こんなもってこいのサイトが見つかった。「明治・大正期刊行図書の資料本文をデジタル画像で閲覧できるサービス 現在の収録数:約14万8千冊」と銘打った国立国会図書館の近代デジタルライブラリーである。しかも、必要なページだけでもPDFファイルとしてダウンロードでき、読みやすく大きく表示させることも自由自在である。右上のコピー写真をクリックしてみて下さい。ダウンロードしたPDFファイルを見ることが出来ます。当該のページのURLは次の通りである。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40009209&VOL_NUM=00000&KOMA=45&ITYPE=0



2 おかいらの森
三宅橋 叡山電車八瀬線の三宅八幡駅。梅雨空のどんよりした空の下、昼前の静けさの中、誰もいないホームに降り立った。以前はここからまっすぐに三宅八幡の参道が続いていたという。ホームの建物の屋根や柱や手すりは朱色にぬられていたようだが、今はすっかり退色していてうら寂しい。写真では赤色がはなやかに出過ぎている。実際はもっとほこりっぽい灰色がかった薄い朱色だ。
三宅八幡駅

お食事処たかの 無人のホームの階段を下り高野川に向かうと、川沿いの国道367号線の手前に旧道の大原道が横切っている。ちょうど昼時だったので、旧道沿いにはきっと食堂でもあるだろうと山端の方に引っ返してみた。思った通り「お食事処たかの」があった。幸いやっていた。地元ではよく知られた店、というかここしか食堂がなくてか、思った以上に繁盛していた。焼き肉定食で腹こしらえして、もと来た道を引っ返す。
 三宅橋の前方の小高い丘上に高野集落の家並みが望まれ、そのまた上にこんもりとしたいわくありそうな樹冠がのぞまれる。これが「おかいらの森」と呼ばれる祟道神社のお旅所である。大正の末頃、ここから多数の布目瓦とともに平安時代初期から中期にかけて作られたものと思われる「小乃」の文字をしるした瓦が出土した。窯は発見されなかったが、同じ文様の瓦が平安宮址から出土してしていたので、ここは「延喜式」に記載されている「小野瓦屋」の址とされている。  2004年2月、(財)京都市埋蔵文化研究所によりこの小丘に瓦窯が存在するか否かを確認する調査が行われ、その結果、ついに、大量の瓦と共に、平安時代中期の瓦窯跡が出土した。この調査により、おかいらの森全体が、すべて積土によって作られた人工の丘であり、積土には大量の瓦、焼土、炭や灰が含まれており、瓦窯の生産によって生み出された産業廃棄物の丘であることが分かった。近くの幡枝にも「栗栖野瓦窯」があり、いずれも平安京造営に際して所用の瓦を焼いていた所である。
おかいらの森

3 十三仏
 今回は、おかいらの森の麓までいかないで、遠くから眺めただけで祟道神社へと急いだ。おかいらの森に行くには、三宅八幡の参道を登り、途中で左に折れるのがよい。森を見ながら川沿いの道を行くと迷子になる。それはともかく、三宅橋を渡り高野川沿いの国道を歩く。これは八瀬を通って大原へいく狭い国道であり、春秋の観光シーズンはいつも渋滞していた。最近、橋を渡って上高野の集落を抜けるあたりまでは、長い工事の末ようやく高野川の上に歩道が整備され、歩きやすくはなったが風情は無くなった。十三仏上高野の南側の集落へ通じる河原人道橋の手前で、国道を渡り北側の歩道を歩くと、ほどなく目につくのが十三仏である。井口酒店のガレージの一角に簡単な屋根囲い中に、先端が三角形に整形された高さ1メートルほどの石があり、その一面に十三仏の座像が彫られている。江戸期を通して十三仏は座像から漸次立像に変化していったといわれているから、結構古いものであろう(庚申懇話会編「日本石仏事典」, 1975)。もう少し詳しい由来を知りたくて、後日、井口酒店が閉店休業の態であったので隣の方にたずねてみた。「この辺は古い街道筋で掘ったらなんぼでも、出ますんや。あれはお隣のもんです」と要領を得なかった。「京都大原石仏巡り」によると、この十三仏は道路拡幅工事の折に掘り出されたものであるという。また京都ではあまり発達しなかった十三仏の珍しい例だそうで、しかも、普通十三諸尊が彫られるが、これは阿弥陀如来が十三体彫ってあり、みな手を膝の上に合わせた特殊な形相の十三仏塔でたいへん珍しいものらしい。
 十三仏というのは、初七日から三十三回忌までの13回の追善供養で、仏事に配当した仏・菩薩のことで、これは追善供養だけではなく、逆修供養(自らの死後の供養)のために建てられたものも多い。ちなみに、十三仏と仏事の配し方は次の通りである。右下から順番に
不動明王(初七日) 釈迦如来(二七日)文珠菩薩(三七日) 
善賢菩薩(四七日) 地蔵菩薩(五七日)弥勒菩薩(六七日) 
薬師如来(七七日) 観音菩薩(百ヶ日)勢至菩薩(一周忌) 
阿弥陀如来(三周忌)阿?如来(七周忌)大日如来(十三周忌)
 虚空蔵菩薩(三三周忌) 

4 祟道神社
祟道神社1 高野川沿いに上って行くとほどなく上高野の集落が切れるが、その少し手前で祟道神社の鬱蒼とした参道が左手に現れる。10数年前に訪れた時は、参道の両側の樹林は落ち葉がうず高く積もり荒れるままにされていたが、今では掃除も行き届き落ち葉の埋まっていた林床は見違えるようになっていた。参道も整備されていて、両側の寄贈者の名をしるした石の柵もま新しい。
祟道天皇 参拝の栞によると、祟道神社は祟道天皇、即ち桓武天皇の実弟早良親王のみを祭神とする神社である。幾多の本に書かれているように、早良親王は、785(延暦4)年に起った藤原種継暗殺事件の首謀者として逮捕され乙訓寺に幽閉後、淡路に流される途中絶食死し、遺骸のまま流された人物である。「京都の歴史1」ではちょっとニュアンスの違う書き方がしてある:「乙訓寺に幽閉されることになり、飲食を通ぜず遂に餓死した。そこで屍を載せて淡路に運び、葬ったという」。ともかく、その祟りを畏れた桓武天皇は、その怨霊を鎮めるため800(延暦19)年に祟道天皇の追号を送り墓を八島陵へ改葬した。八島陵は奈良の北の山辺の道沿いにある圓照寺の参道脇から裏山に入ったところにある。

出雲高野神社
 祟道神社のある地は、若狭街道の交通の要で、都の鬼門にもあたることでもあり、祟道天皇の悪霊が入京するのを阻止するために、貞観年間(859〜877)に創祀されたとされている。古くは旧高野村の産土神で「高野社」とも「高野御霊」とも称していた。この地を最初に支配した出雲氏が奉祀した出雲高野神社の後身ともいわれている。実際境内には末社として出雲高野神社がある。1976年地元の人々によって新たに社殿も建てられ、その名を継いでいる。祭神は玉依姫命である。玉依姫命といえば下鴨神社の祭神でもある。もともと出雲氏がしめていた京都の北部地方を、加茂氏がだんだん占領していったのであるから、同じ祭神玉依姫命を祀っているとは面白い。また、下鴨神社には出雲井於(いずものいのえ)神社があり、出雲氏が祀った井泉の神である。比良木(ひいらぎ)神社ともいい、この周囲にいかなる常緑樹を植えても、すべて柊の如く葉にのこぎりの歯が生じるという。祟道神社石碑祟道神社石碑大意
 それはともかく、かつては出雲族がこの辺り一帯に割拠していたようで、秦氏に追いやられた加茂氏がだんだんこの地に拡がってき、帝都が遷されて特別に尊敬されたようで、出雲の神さんは隅っこに追いやられたが、「他の氏族が崇敬しておった神社をむやみに取り払ってしまうということはしないのがわがいにしえの習俗である」(内藤湖南「「近畿地方における神社」)というわけで、未だにその痕跡をのこしているのである。この辺りの事情は、境内神饌所の傍にある石碑に詳しい。1925(大正14)年当時の区長井口又兵衛門等有志のの人々によって建てられた石碑の表面には、内藤湖南撰文による銘文が漢文で刻まれている。参考のために原文と大意を掲げる.漢文もクリックすれば読める程度に大きくなります。

伊多太神社
 同じく境内末社に伊多太(いたた)神社があり、かっては愛宕郡中の有数の大社であったが、応仁の兵火にかかって衰微し、由緒を明らかにしないが、この地の農耕守護神として創祀されたものと考えられている。境内にあるのは旧地(三宅八幡に到る上高野大明神町)から1908(明治41)年に当地に遷されたものである。「いたいた大明神」とも称し頭痛に霊験あらたかであると古くから信仰されてきた地主神である(竹村俊則「昭和京都名所圖會 洛北」, p.95)。一方「参拝の栞」では、伊多太は「湯立」の訛りで、出雲系同様の神事(湯立儀)であったとする。祭神は五十猛命、新羅系の神である。三宅八幡はもとはこの伊多太神社の境内にあった。それが独立し,北に新しい社殿が出来、参道上となった伊多太神社の方が祟道神社に合祀された。旧地にはかっての鎮座地を示す石碑と鳥居が建っている。

境内略図小野神社
 祟道神社にはもう一つ末社小野神社がある。この神社は、かって歴史の始まる頃、聖徳太子の前後にこの地を支配していた小野氏一族の氏神であった。もともとの鎮座地は川向こうで、明治時代までズンショの森と呼ばれていた所に祠が祀ってあり、それだと云われていた。小野氏の衰微によって早くに鎮座地を失っていたようだ。1971年地元の人たちが新たに社殿を祟道神社境内に再建し、小野の妹子とその子の毛人(えみし)を祭神とし奉祀した。

小野毛人の墓 
 祟道神社の背後の山の中腹に小野毛人の墓がある。ここから、今は国宝となっている鋳銅製の墓誌が出てきたことから一躍有名となった。本物は京都国立博物館にあるが、その模造品(レプリカ)は川向の宝幢寺にありいつでも拝観することが出来る。この墓は、古く1613(慶長18)年に土地の人が柴刈りに行って足下が古墳であることに気付き、石室のから1枚の「位牌」を見つけた。これが小野毛人の墓誌であった。その後、墓誌は元の墓に納められたが、明治年間に盗難にかかったこともあって、大正3年に保存のために取り出され、博物館に保管されることになった。墳上には内藤湖南筆の「小野毛人墓碑」としるした石碑が建っている。
小野毛人墓碑


コラム インターネット検索の威力 その2
 内藤湖南が祟道神社に残した2つの漢文の碑文を読みたいものだと思った。たまたま、境内で出会った国史好きのおじさんの教示で、中央公論社の日本の名著の「内藤湖南」の巻に載っているというような話であったので、見てみたが碑文そのものはない。しかし、その巻にたまたま掲載されていた日本文化史研究(抄)中の「近畿地方における神社」が、祟道神社のことに言及していた。これは講演筆記だからとても読みやすかった。それから彼が碑文に記した内容に関してはおおよそ想像がついた。しかし、漢文で読めるはずはないが、やはり碑文そのものを見てみたい。訳文もあればそれにこしたことはない。
 インターネット検索で所望のサイトは「京都市の情報館」のサイトに深く深く埋め込まれていた。親元は京都市である。その下に京都市歴史資料館があり、その中のフィールド・ミュージアム京都、そのまた中に京都のいしぶみデータベースがある。そして全件一覧の「す」と「お」のリストから「祟道神社碑」「小野毛人朝臣墓」に行き当たる。これには所在地、位置座標、建立年、建立者、寸法、そして目的の碑文、さらに碑文の大意が記載されており、調査日と備考、位置図が掲載されていた。ただし、碑文の大意はリンクが張られていて、「ここをクリック」となっている。
 そしてはたと気がついた。「以前にお世話になったぞ!」と。洛中洛外虫の眼探訪の最初のブログ記事 「寺町頭/鞍馬口から今出川まで」付録3 史蹟石碑・道標のなかでしっかりと引用していた。曰く「京都市内にある史蹟石碑・道標についての詳しい情報は京都市歴史史料館情報提供システム「フィールド・ミュージアム京都」にある。これは、(1)名称 (2)史跡石標・道標の画像 (3)解説(史跡石標のみ) (4)所在地 (5)位置座標(緯度と経度) (6)建立年 (7)建立者 (8)寸法 (9)碑文 (10)碑文の大意 (11)調査年月日 (12)備考 (13)位置図の以上の13項目からなり、まれに見る貴重なデータである。」



高野社例 祭 
 毎年5月5日の祟道神社の例祭は、「拾遺都名所圖絵」にも書かれているように氏子にとってはたいへん畏怖された祭りであった。というのは、上高野一帯の氏子区域を巡礼する神輿は、昔から特に巡行道を定めず、ただ神慮のおもむくまま渡御するを例としたから、時には人家の軒やひさしを破ることもあった。もしこれに逆らえば「みこし」が重くなり、上がらなくなったと云う。しかし、これは神慮によるものではなく、町内で常日頃から好ましく思われていない者や、御神酒の出し惜しみをした家に対する嫌がらせであったというから、氏子たちは固唾をのんで巡礼をみまもっていたことだろう。「拾遺都名所圖絵」では「村民手に汗を握りて神威を恐れ奉るなり」と表現されている。 竹村俊則の「昭和京都名所圖絵」によれば、昭和の時代でも、(旧)京福電鉄の線路上に座り込み電鉄会社を慌てさせたというから笑わせる。残念なことに、近年は至極平穏となって、むしろ疾走する車に配慮しながらおとなしく町内を巡行する。soudo-rengeji
 右の図は、竹村俊則「昭和京都名所圖絵 洛北」(p.93, 駸々堂, 1982年)掲載の祟道神社と次項の蓮華寺の鳥瞰図である。

5 蓮華寺
 祟道神社を後にして、もと来た大原街道を少し戻った所に蓮華寺の参拝者用駐車場がある。この側の細い道を北に入った突き当たりが蓮華寺の山門である。山門の右側に大きな看板が寺の入り口を大きく隠している。もうずいぶん昔から掲げられている看板である。1990年代初めと記憶しているが、京都ホテルの高層化で、京都は景観問題で喧々囂々となった。その折、京都仏教会が加盟8ヶ寺の門前に「12月1日から京都ホテル関連施設宿泊者の入山お断り」の看板を掲げた。その名残りである。仏教会の言い分はインターネット上に残されている。題して「京都の景観保護と将来の町づくりについて」(京都仏教会編)というものである。京都ホテル


コラム インターネット検索の威力 その3
 京都ホテルと京都仏教会の奇妙な戦いが,いつ頃だったかを探っているなかで「日本観光史」という途方もないサイトに出くわした。作成 H. FUK となっているから、一個人の手になるものと思うが、ちょっと覗いただけでその情報収集力に脱帽する代物である。作者名は口にすると「ちょっと、ね〜」と言いたいが。序文に「日本は世界に誇れる観光地をたくさん持っています。業界が一体となって、今以上に外国の方をもてなすシステムを作り上げれば、日本の将来は明るいものとなるでしょう。」とある。
 このトップ画面から「日本観光史:会社編」に飛んで、その業種別リストのシティホテルの中の「京都ホテル」をクリックすると1888年開業の京都ホテルの年表が出てくる。開業当時は常磐ホテルという名前だった。1991年までたどり着くとやっと仏教会との喧嘩の簡単な経過が知れる。本文中の12月1日というのは1991年の12月1日であることが判明した。
 地域別の年表で京都市のページを食って見ると「2013年3月 京都国立博物館百年記念館完成<設計:谷口吉夫>」と、もう将来の予定まで事実として記載されている。


 門をくぐって拝観入り口までの両側に植栽されている草木を愛でながら進む。広々とした台所の土間の奥から奥さんが迎えて下さった。喧噪な観光者は誰もいない。いつもこんな雰囲気で広々とした書院にすわって、池泉廻遊式を兼ねた鑑賞式庭園をゆっくり味わえる寺である。お寺というより別荘、余生を送る庵にふさわしい。それもそのはず、ここは加賀前田藩の家老今枝重直が出家してかまえた草庵に発している。彼は詩仙堂の主石川丈山や狩野探幽らと交遊をむすんで、悠々自適の老後を送った。ただ、ここに一宇の梵刹を建立したいと願っていたが果たさずして1627(嘉永5)年に74歳で没した。その孫の重直が祖父の遺志をついで寺を再興し、その菩提を弔ったのが当寺の起りである。元来、蓮華寺は比叡山の麓にあって仏舎利を相承するための寺院であって天台の古刹であった。それが七条塩小路に移り「麓の道場」と呼ばれる浄土宗の寺となっていたものを、故地に再建したものとなっている。大筋は斯様であるが、もう少し込み入った事情もあったようで、その辺のことは久恒秀治著「京都名園記 中巻」の蓮華寺の章に詳しい。下の庭園平面図はこの著に掲載されている図から作成した。図をクリックすれば詳細を見ることができます。
rengeji-niwa 再興にあたっては、石川丈山、狩野探幽、木下順庵などの文人、黄檗の隠元、木庵の両禅師が協力した。現在宗派は天台であるが、黄檗の気風が漂う寺でもある。作庭者は石川丈山とも、小堀遠州ともいわれているが、あきらかではない。池中には亀鶴島を配し、その他にも多くの石島をを配置し、石橋を架けている。書院に座って正面に見える最も近い岩島は船石となっていて、室町時代の枯山水庭園に見かける風景である。また、亀島には石川丈山篆額、木下順庵撰文の石碑が建っている。祖父重直ための顕影の碑で「朝散大夫内史今枝府君碑」と標されてい。竹村俊則によると、「朝散大夫」は従五位下の雅称、「内記」は藩主に侍して書状をしたためる能筆家、「府」は亡父の敬称とのこと(「昭和京都名所圖絵 洛北」, p.94, 駸々堂, 1982)。
 「蓮華寺の庭は庭としての興味はないといってよいほど平凡である。しかしこの石碑を中心とした岩組と石燈籠には異様な魅力がある」と久恒は喝破している如く、庭自体平凡である故に、書院に座してなにげなく眺めているだけで落ち着いたゆったりとした気分に浸ることが出来るのである。
 右手奥の仏殿の建築様式が黄檗風である。隠元筆の「蓮華寺」の額がかかっている。仏殿正面の左右に立つ、いわゆる「蓮華寺形石燈籠」は、急勾配の笠に板葺きの板文を刻みだした、人の意表をつくその意匠(写真、古図参照)は、茶人が古来、模造し愛玩するものであった。青蓮院霧島の庭の蓮華寺型石燈籠が著名である。
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 なお、京都市右京区の仁和寺の東にも蓮華寺がある。この蓮華寺は1057年藤原康基が広沢池の畔に開創したが、鳴滝音戸山を経て1928年現在地に移転した。境内に安置されている五智如来石像は音戸山から移座したもので丈六の仏像である。毎年土用の丑の日に行われるきゅうり封じは、疫災をきゅうりの中に封じ込める行事。病名などを記した紙をきゅうりに巻き、御祈祷を受けたきゅうりで、悪いところをさすり、土に埋めるか、川に流すと疫災を祓えると伝えられている。

6 終りに
 上高野にはまだまだ見るべきものがある。神社仏閣では、三宅八幡、宝幢寺、御蔭神社、栖賢寺、三明院、竹林寺、瑠璃光院、里堂、準提観音石仏。それに高野川の井堰いろいろ(李ヶ井堰 桜ヶ井堰 五味藤九郎の碑 太田井堰 井出ヶ鼻井堰)、橋いろいろ(西塔橋 上橋 八瀬のつり橋 三宅橋 花園橋 山端橋)、山いろいろ(氷室山 西明寺山 八幡山 比叡山)それに街道や峠などです。電車の駅もたくさんある:宝ヶ池駅 三宅八幡駅 八瀬比叡山口駅 八幡前駅ケーブル八瀬駅。
 近くなので、現地に足を運んで、追々調べてみたいと思っています。

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