洛中洛外 虫の眼 探訪

無形民俗文化財シリーズ 3
吉祥院天満宮の菜種御供
2009年03月15日(Sun)
1. はじめに
 西大路通りを南へ南へと、JR東海道線の高架をくぐり、九条通りを超え、西高瀬川に沿って斜めに南下すると十条の三叉路の交差点に出くわす。ここで京都市街の南北の外郭線西大路通りは終り、東西の外郭線十条通りに繋がっていく。この交差点を南西へ入る道路は御前通りである。北大路通りから始まる御前通りは、一旦九条通りの一筋南の札の辻通りで終わる。ここでジャスコと洛南ショッピングセンターが行く手を阻んでいるのだが、十条通りからまた再開する。
 ここからまた始まった御前通りは、さらに京都
の市外を南へ南へと下り名神高速道路の高架をくぐった所で行き止まりとなって終わる。その先で鴨川と西高瀬川が合流して、桂川に飲み込まれていく。
 十条の交差点で御前通りを南西に入ってすぐ西高瀬川の橋を渡って川に沿って北へ行くと、左手が日本で最初の天満宮「吉祥院天満宮」の境内である。この地(京都市南区吉祥院政所町3)は、菅原道真の曽祖父菅原古人(ふるひと)が桓武天皇から賜った白井の荘(現吉祥院)の中央部で、菅原家の本宅があった所である。道真もここで誕生した。境内には道真のへその緒を埋めたと伝える「胞衣塚(えなつか)」が残っている。

 「吉祥院」と云う名は、遣唐使だった道真の祖父の清公が船で唐へ向かう途中、海上で霊験を得たという吉祥天女を帰国後自ら刻み祀ったことに由来している。唐からの帰途嵐にあって吉祥天に航海の無事を祈ったところ難を逃れたからとも云う。理由はともかく菅原家では清公の帰国以来、吉祥天信仰を伝統としてきた。九世紀の中頃、清公の子是善(これよし)が邸内に仏寺として吉祥院を建立し氏寺とした。
 道真は承輪12(845)年6月25日、吉祥院で生まれた。と言い伝えられているが、京都市内にはここの他に2カ所、道真生誕の地と伝えられている天満宮がある。その一つは、京都御苑の下立売御門を烏丸通りへ出た向側にある菅原院天満宮であり、他の一つは、仏光寺通新町を西に入った菅大臣町にある菅大臣神社である。いずれの境内にも菅公産湯の井戸と称されている井戸が残されている。道真は幾つ体があっても足りなさそうだ。それはともかく、彼は幼少の頃から学才に優れ、8歳で進士、23歳で秀才の試験に合格し、26歳で官吏登用試験の方略試に合格し、叙位任官に預かり、33歳で大学寮の頭である文章博士となった。
 そして政治と学問に大いに才能を発揮し、次々と昇進、ついに右大臣にまで上り詰める。しかし、ライバルの藤原時平の讒言により太宰府(福岡県)の太宰権帥(だざいごんのそち)として延喜元(901)年に左遷の命が発せられ、1月25日に太宰府に旅立った。それで今ではこの日を「左遷の日」と言うこともある。延喜3(903)年2月25日、大宰府において一生を閉じた。
 吉祥院天満宮は、彼の死後31年目の承平4(934)年に、朱雀天皇の勅命で道真の霊を祀り、道真没後最初に創建された天満宮である。

2. 菜種御供
 旧暦の2月25日は、祭神菅公の祥月命日で、このときに行われてきた祭典が菜種御供である。新暦の2月25日は北野天満宮で行われる有名な祭典「梅花祭」であるが、これは明治になって新暦が採用されて、2月25日にはまだ菜種が咲いていないので、その代わりに菅公由来の梅の花を用いるようになり、しだいに「梅花御供」と呼ばれるようになった。今では「梅花祭」で通っている。昨今では、温暖化のためか、バイオテクノロジーのためか知らないが、もう2月に咲いている菜種もあり、神官の冠に菜種の花が添えられている。しかし、もうお供えには使われることはない。この北野天満宮の「菜種御供」は鳥羽天皇の代、天仁2(1109)年2月25日に行われた記録が残っていることから約900年以上の古い歴史を持っている。


「大御供は飯を堆く盛て其上に黄菜花を挿す、故に菜種御供と称す。年によりて菜の花いまだ咲ざる時は、則梅花を挿むなり」(拾遺都名所図絵より)

 本来の2月25日の御供は、祭神菅公を宥(なだめる)と音の通じる菜種の花を供え「菜種御供」と称していた。吉祥院天満宮では、新暦の3月25日に行われると云うので、きっと菜種の花を用いた新饌が見られると思って、その準備の様子を見学させてももらいに、彼岸の終りでまだ肌寒い前日の3月24日わざわざ京都の南のはずれまで出かけていった。

 早めの昼食を済まして、冒頭に述べた経路で吉祥院天満宮に1時前に到着。境内を入った右手のモチノキの大木が元気に迎えてくれた。以前調査に来た時より元気になったように見受けられたので声をかけてみたが、残念ながら樹木は寡黙で何も答えてくれない。本殿の前ではすでに、今月の担当の字である西条の人が数人と神主さんが、神饌を入れて運ぶための衣装箱を一回り大きくした2つの木箱を、本殿から運び出して軽トラックに積んでおられる所であった。とてつもない古いつぎはぎが目立つ箱である。覗くとその中には、神饌を盛りつける三方や皿のたぐいがいっぱい詰まっている。これらの道具一式を、神饌を準備する当番の家に持っていくらしい。私たちもその後について、町内を右に折れたり,左に曲がったりしながら、ゆっくりではあるが車で約10分程かかって当番のお宅に到着。今ではどこをどう回ったのか分からなくなってしまった。帰ってからGoogle Mapでさがしてみると、特にグルグル回ったわけでもなさそうだ。


 ついでに、後ろめたい気持ちはあったが、プライバシーでちょっと問題を起こしている「ストリートビュー」を覗いてみた。こんなに大きなお宅である。
 今年の神饌を準備された当番のお宅は、本来の順番のお宅が急に都合が悪くなられたために、ピンチヒッターで引き受けられたそうで、旦那さんが右往左往されていた。
 この家のある周辺は、今では家が立ちこみ工場や大型商店も進出して、かつての都市近郊の農村風景では全く見られない。しかし、改装された大きな農家の広い軒先の様子から、このあたり一帯に畑が広がり、大農家が散在していたことは想像できなくはない、といった風情である。この辺りは、昨今京野菜のブランドで知れ渡った「九条ネギ」の産地でもあった。昔と今とは品種が違い九条ネギ独特のぬめりのある味わいがなくなった。これは全国に出荷されるため、丈夫で見栄えのする品種に改良されたためだ、というお話を、かつては九条ネギをつくっておられたであろう皆さんから伺った。スーパーで、一見新鮮に見える「刻みネギ」がパックされて売られているのをみて、さもありなんと思った。
 まず当番の農家の軒の深い庭先に2つの箱を運び込んで、道具類が男手によってきれいに洗われ、箱に巻かれていた注連縄が新調される。神饌を準備する一切の作業に女は携わらないことになっている。数人の男衆が、なれない手つきで陶器の皿や三方を洗って拭き、座敷に運ぶ。その場でわらを打ち撚られた注連縄と半紙から裁断された紙垂(しで)が由緒ある2つの木箱に巻き付けられた。
 この準備が終わると、いよいよ神饌の準備が始まった。玄関先に上げてもらってその一部始終を静かに見物した。まず、蒸した米を半球状に素手で固める(1)。その大きさは、大は直径30cm、中は20cm、小は10cmほどので、それぞれ大と中は1つずつ台に載せ、小は13個の白いさらに盛る。それに注連縄を結び(2)金粉が振りまかれる(3)。最後の仕上げに半球状の天辺に花をさす。この花が本来菜種であるべきなのに、どうしてか派手な赤、白、金色の造花だった。その仔細を尋ねても「以前から,こうしてますので」と納得いく答えは返ってこなかった。出来上がったのは、下の写真の様なものである。


 その他、様々な取り合わせ、盛り合わせの神饌が男衆の手で過去の写真を見ながら準備されていった。それらの意味を尋ねても、はっきりした答えはない。要するに昔からそうするようになっているだけで、何故そうするかという意味合いは長い歴史のなかで失われていったのである。かといって、ずっと以前から変化しなかったかというとそうでもなく徐々に変わってきたり、歴史のある時点で突然変化したこともあったであろう。それが伝統と云われるものである。2時間程かかかって神饌が勢揃いした。


                            最後に、これら全部を、先ほど新調された注連縄を巻いた、岡持の親分みたいな箱に納めていく。これが一仕事である。ああでもない、こうでもないとできあがった神饌全部を詰め込んでみるのだが、なかなかうまく納まらない。ようやく箱に詰め込まれた神饌は、明日の朝6時にトラックの荷台に積まれて、天満宮にお供えされる。トラックの荷台で神饌たちは大騒ぎすることだろう。天満宮で蓋を開けて無事着いたかどうか興味のある所だが、朝の6時はちょっと厳しい。結果は想像するに任そう。

3. 島原の銀杏
 4時過ぎに退散し、帰りは咲き始めたサクラを見ながら京都の町中を抜けていく。途中島原の旧住吉神社境内地のイチョウを尋ねた。このイチョウは幹周り4m、樹高22m、そして何よりもその偉容を誇っていた枝張りは、今やゼロに等しいくらい伐りつめられ、異様な姿をさらしている。「市民の誇りの木」に指定され、その冊子の下京区編には、「地域の人びとに守り育てられています」と記されており、現地には、自慢げに真新しい大銀杏説明版まで設置されているのに、なんと云うことだろうか。いったい誰が伐採を指示したのか知りたい。細い道路を挟んだ向側は中央卸売市場である。このコンクリートの高い塀まで枝を延ばしたとて、どんな不都合があると云うのか。腹の底から憤りをおぼえる。
 中央卸売市場の高い塀からは、満開のシダレザクラがなにくわぬ顔で覗いていた。


4. 吉祥院六斎念仏
 国の重要無形民俗文化財に指定されている吉祥院天満宮の六斎念仏は多くの観光案内紹介されているが、その秘めたる歴史について言及しされることはない。ここでそのが概要を記す。
 吉祥院でのはじまりは、平安時代後期に獅子舞を奉納したとか、明智光秀の残党が討たれたことを弔ってとか、諸説があるが、昔は、各字に一組ずつの六斎講があった。すなわち東条、西条、北条、南条、石原、新田、中川原、島の八つの講で、現在はこのうちたった一つ、南条のみが吉祥院六斎念仏を奉納しており、無形文化財に指定されている。南条の字には被差別部落があり、南条の人たちは長らく奉納できなかったが、この地域の部落の地主さんが小作料をまけて、他の講から教えてもらい、ひどい差別を受けながらも、長い年月奉納されてきた。例えば、嘘を教えられたり、吉祥院の舞台に部落のものは登るなと云われたり、罵声を浴びたり、塩をまかれたりしたと云う。また、大正時代の初期には、小学校へ行くにも他の町の子どもは靴に鞄の姿だったが、「部落」の子どもは風呂敷にわら草履で、雨降りの時にはペタペタと音を立てて歩いたことから、学校の先生に「『部落』の子どもは足でも六斎をしている」と言われ、その事が原因で「部落」の子どもたちは学校の窓ガラスを割ったり、登校拒否をしたという事件も起こったと云う。部落には明治15年の年号が入った鉦(一丁鉦)があって、それに17名の名前が刻まれているから、それ以前から行われていたことは確かである。そんななか、近郊農村地域であった吉祥院が1960年代の高度成長期に農地が宅地に変わり、工場、スーパーマーケットの進出で都市化していくにつれ、8組の六斎念仏が次々に姿を消していく。最後に南条の六斎念仏だけが残り、その間に廃絶の危機が何度かあったが、差別を受けた屈辱を思えば、絶対止めるわけにはいかないとの思いで今日まで引き継がれてきた。
 吉祥院の境内で行われる六斎念仏は、毎年春と夏、4月と8月のいずれも25日に奉納される。2008年の春のお祭りに行われた六斎念仏のようすはインターネットで紹介されている。ここをクリックして下さい

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