洛中洛外 虫の眼 探訪

洛中洛外 きわめぐり
墓場・化芥所・御仕置き場
2010年01月25日(Mon)
金戒光明寺(黒谷)派 竹林寺住職の話
gyuukonnhi 西刑場址と考えられている墓地を管理している円町の北、西大路下立売通(西ノ京中保町)にある金戒光明寺(黒谷)派の竹林寺を訪ねた。先月号で宿題にした「牛魂碑」の謂れを知りたかったのであるが、このことに関して住職は何もご存知でなかったが、境外墓地の由緒来歴について詳しいお話を聞くことができた。
 「牛魂碑」に関しては、『先々代の住職なら知っておられたろうが……。う〜ん』と頭をかしげられるだけであった。碑建立の日付が1926(大正15)年で、『その後供養の法事は長く続かなかったようで、建てっぱなしの碑で…』とおっしゃってから、『そもそもあの墓地は…』という話になった。要約すれば次のような事情でここの竹林寺が境外墓地として管理することになったという。
 元々この紙屋川沿いの墓地は、竹やぶの中にあった朱雀野村の共同墓地で、村が京都市に編入されたおり管理を依頼された。渋々であったが、同じ町内の、妙心寺道を隔てた北東隣の「西の弘誓寺」(もう1カ寺、下立売七本松東入ル長門町に「東の弘誓寺」がある)と半分ずつ、北側を弘誓寺、南側を竹林寺が管理することになった。当初は、火葬を嫌う人があって、竹林寺では土葬を例外的に認めていた。埋葬後4、5年してから骨を拾って、跡地を返してくれる人もいたが、そのまま居座られる人もいた。また、宗教の違う、天理教や神道の人も古くからの習慣でここに埋葬されたので、今でもいくつかそのような墓も残っている。そのような墓に対しては印だけであるが、管理料を頂いている。
「中村武生さんとあるく洛中洛外」(京都新聞, 12月11日) この墓地は、京都新聞に書いてあったように幕府の西刑場の址ではない。それはもう少し東(ママ)の方、セレマがある辺りではないか。以前は、京都市の建てた石碑があった。住職は『京都新聞の記者から取材はなかった。もう少しよう調べてから書いたらええのに。墓地の写真がデカデカと出たんで、こっちは当惑している。黒谷さんに来ている記者はもうちょっとしっかりしてはる。今度、そちらで会った時に、注意しようと思っています』と不満げであった。
 以上が住職の話の概要であるが、確かに墓地の北側にセレマ関連の施設が建っている。

墓地は御仕置き場ではなかった
 我が自慢のお地蔵さんのスクラップブックに、2005年4月15日付けの京都新聞の夕刊に載った「カッパが語る京の水」という連載記事のNo.40を切り抜いて貼ってあった。この記事中に、京都府立総合資料館所蔵の安政2年の絵図「西京邑田畑惣絵図」に西の刑場が、その規模とともに描かれていると書いてあった。(註) さっそく京都府立総合資料館を訪れた。当該の地図は研究目的に限って閲覧可能というもので複写禁止。Oshiokiba map単なる好奇心でちょっと拝見したいだけであったが、適当な研究題目を閲覧申請用紙の該当部分に書いて書庫から出してもらった。出てきた絵図は幅1mほど、長さ3,4mもある大きな代物であった。はたして、該当場所付近の一郭に「御仕置き場」と記載されていた。この一郭は東側を斜め南西方向に流れる紙屋川に限られた台形の地である。南北の底辺が「十六間」東西の短辺が「五間」map nishikeijoであることもの記載されていた。その区域の西南一帯は、「荒れ地」と記載されており、この部分の南の一郭が、現在、竹林寺の境外墓地がある所にあたる(右上の写真)。これと現在の住宅地図を重ねたのがその下の図である、住職のおっしゃったように、刑場址は墓地より北、セレマの結婚式場玉姫殿(!)が建っている区域にかかっている。
 上の古絵図でもうひとつの発見があった。右下の紙屋川沿いに御土居の外堀が記載されているが、その中に「牛上堀池」と記載されている。これが何を意味するのか不明であるが、冒頭に述べた「牛魂碑」となにか関係があるのでは、と期待がふくらんだ。時代的にはずいぶん離れてはいるが……。乞ご教示。

『化芥所』登場
 「1864(元治元)年禁門の変で起きた火災が六角獄舎に迫った時、幕府は入牢者の破獄を恐れて、平野国臣をはじめ33名の志士を斬首にし、その遺骸を西の仕置き場に埋めた。志士の遺骨が、1877(明治10)年、既に化芥所となっていた敷地から発掘され、竹林寺に改葬された」とこんな記述を、「写真で見る幕末の京都」という本で見つけた。
(註 通常、罪人は市中を引き回されたあと刑場で首をはねられた。西の刑場で処刑された罪人が引き回されたコースを描いた地図を参考のために作成した。ここをクリックして見られます)

 『化芥所』って何? 幸いもう少し詳しい具体的なことが、「幕末史蹟研究会」のサイトに載っていた。曰く
『粟田口とともに江戸時代京都の処刑場であった西刑場は明治8年以降はゴミ処理と廃品回収の施設になった。
 獄中で処刑された遺骸は、お土居西の仕置場(西大路二条上ルの竹林寺墓地辺)に移された。そして獄吏によって、密かに、氏名の明らかな身分ある13体には、瓦片に氏名を朱書して付け、長い穴を掘って順次並べて埋葬し、身分氏名の分らぬものは、大穴の中へ一つに合せて埋めた。明治8年5月、京都府は含 ママ密局の附属施設として化芥所(ゴミ処理場)を設置した。
 この西の刑場跡の化芥所の片隅の椋の木の下に、やや隆起した地面があった。そこは、元治元年に六角牢で処刑された志士の遺骸を埋めた場所だという噂があった。当時の主任吉井義之氏が掘り返してみると、果して平野国臣の名を記した瓦片とともに、多くの骨が出てきた。明治10年2月のことであった。早速霊山招魂社に報告したが、彼地では、遺骨を受入れることはできないというので、吉井氏は、義援金を集めて埋まっていた骨を掘り出して、当時無住であった竹林寺をママ埋骨し、地上に刑場跡にあった石の地蔵尊像を安置し、傍に殉難志士の木標を建てて、数人の手で改葬の法要を行った。』(新人物往来社刊行の石田 孝喜著「幕末京都史跡大事典」にはもう少し詳しくは書かれているが大筋は同じである)。
 これで、『化芥所』が何であるかがわかって、はっと気付いた。山崎達雄著「洛中塵捨場今昔」の第5章 化芥所 ─ごみ再資源化の試み─で化芥所について読んでいたのである。カガイショあるいはケガイショと訓んでいる化芥所は、日本ではじめてごみの定期的収集と再資源化が行われた授産施設である。その詳しいことは同書に譲るとして、問題は化芥所の設置された年月と場所である。京都府は1875(明治8)年3月に「化芥所塵芥分析規則」を定め、舎密局の下に化芥所を設けた。Kegaisho場所は「下京第十五區南園小路併下京第拾七區五條堀川」の2カ所とある(京都府百年の資料 社会編 p.406)。南園小路というのは、東山四条、即ち祇園石壇下西入る南側にある弥栄中学校の裏の小路のことである。上の写真は、點灯局と同居していた南園小路の化芥所の写真である(京都府立資料館 京都北山アーカイブス 旧一号書庫写真資料 No.10)。「洛中塵捨場今昔」によれば、ここは長くは続かなかったようで、化芥所の中心は五條堀川にあった。当時、堀川の右岸一帯は本圀寺の広い境内であったから、堀川の左岸沿いにあったのではなかろうか。「洛中塵捨場今昔」には、典拠が標されていないが、その後化芥所は1879(明治12)年に葛野郡西京村に移転し、さらに紀伊郡東九条村に再移転したとある。これを信用するなら、西の仕置き場に化芥所があったとしても1879(明治12)年以降であり、平野国臣らの骨が出てきた1877(明治10)年には、ここは化芥所にはまだなっていなかった筈である。幕末史蹟研究会のいう「西刑場は明治8年以降はゴミ処理と廃品回収の施設になった。」というのは誤りである。

西京村に何時、何処に化芥所があったのだろうか
 幕末史蹟研究会の記述に出てくる化芥所の当時の主任吉井義之氏というのは、幕末の尊攘派志士で、1863(文久4)年に京都に潜入、翌年池田屋騒動にあい長州藩邸へ逃げ込む。同年7月の禁門の変で負傷し、一時郷里但馬国に帰ったが、維新後は山陰道鎮撫総督に従軍し、のち北越戦争に参戦して凱旋。1870(明治3)年から京都府に仕えた人物であったそうだから、化芥所の主任を仰せつかり、六角牢で処刑された志士の遺骸を埋めた場所だという噂があった刑場址を掘り返した人物であったとしても不思議はない。但し、「洛中塵捨場今昔」の記述を採るなら、遺骨を掘り出した所にまだ化芥所であったとはいえない。
 残念ながら、この刑場跡に化芥所が移ったということをはっきりと書いてある資料は見出せていない。「洛中塵捨場今昔」も西京村というだけである。同書にはもう一つ、場所を同定する手がかりを与えてくれる図が掲載されている。田中吉太郎家文書から作成された「化芥所建築絵図」である。Kwgaisho shikichiそれによると化芥所敷地は東側が斜に限られている台形状の土地916坪で、南北32間、南側の短辺が東西26間、北側の長辺が31間となっている。この南側の真ん中に東西4間、南北5間半の矩形部分が切り取られていて、そこには「墓地」と記載されている。この敷地を安政2年の絵図「西京邑田畑惣絵図」上に重ねると、右図のように、御仕置き場を取り込み、紙屋川右岸を境とする一区画となる。空色の部分が墓地と書かれた所である。斯様にして、建築絵図には何処の化芥所であるかを記していないが、敷地の形状と墓地に接している点から、移転後の西京村の化芥所の可能性が大である。
TwomapsCF 西京村の化芥所が、この西の刑場跡にあったであろうと思える傍証がもう一つある。1889年測量の京都20,000分の1の地形図に、刑場跡の位置に、名称の記載はないが、建物が一戸描かれている。ところが20年後の1902年に測量された地図では、この建物はなく、その建物があった下辺りに墓地の記号bochi kigouが認められるではないか(右図参照)。
 化芥所は1982年に、運営に携わっていた京都府職員の広野孫三郎に貸し出され、「化芥所塵芥分析規則」は廃止となった。実質上は、多くの他の明治の勧業施設と同様に民間への払い下げであったが、化芥所はその後も継続運営され、溝浚えの汚泥やお産後の胞衣産汚物の処理まで引き受ける民間の廃棄物処理業の施設として、何年かは存在していたものと考えられる。1888 (明治21)年に京都市が発足し、1890(明治23)年、ごみ採取や溝渠汚泥処理などに関するの事務が上京区と下京区の区長の執行事務となってから、民間のごみ処理はしだいに衰退して行ったようであるが、化芥所の操業は1904(明治37)年ころまで追うことができる(「洛中塵捨場今昔」p.92〜p.117 )。
 西ノ京村は1889年、壬生村、聚楽廻と合併し朱雀野村となり、1918年に京都市に編入され京都市下京区西ノ京となった(市町村の変遷 26 京都市[山城] B 葛野郡)。上の1909年測量の地形図はちょうどこの前後の様子を示したもので、既に化芥所の建物は撤去され、南側の空き地に墓地が広がり始めている。竹林寺の住職の『朱雀野村が京都市下京区に編入されにあたって、境外墓地として、西の弘誓寺さんと半分づつ管理することを引き受けた』という話と矛盾しない。

結 論「御土居-紙屋川交差点きわ」の履歴書
 1. 御土居と紙屋川が交叉する一帯は、江戸時代は、その北東部が
   西の刑場(御仕置き場)、南西部は空き地であった。
 2. 刑場址から1877年、平野国臣らの名を記した瓦片とともに、多
   くの遺骨が発掘された。
 3. 刑場址に、1879年、化芥所が移転。刑場跡に接した南側は、
   村の死体埋葬地、共同墓地として利用されていた。
 4. 1900年前後に化芥所の建物が撤去され、南側は墓地としての体
   裁が整い、1918年竹林寺と弘誓寺が管理する境外墓地となっ
   た。
 5. 化芥所の建物が撤去され、刑場跡が市街化し始めたのが何時か
   らか未調査であるが、現在では、セレマの結婚式場玉姫殿の敷
   地の一部となっている。
 
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