洛中洛外 虫の眼 探訪

洛中洛外 きわめぐり 
暗渠 太田川を歩く
2010年02月25日(Thu)
太田川1  出町柳の賀茂川と高野川の合流点より、ちょっと高野川沿いに上った左岸に、ぽっかりと穴があいた暗渠の出口がある(右の写真)。水の流れはなく、窪んだ所が少々湿っている程度である。「危険、入るな」のマークの上に右から左へ「太田川」と彫り込められている。どこから流れてくる川なのだろう。
 高野川の上流の高野あたりで、高野川の川端から東へ詩仙堂の方へ向かう街道は曼殊院道と呼ばれている。東へ歩くと、大原街道、東大路をわたり、一乗寺の商店街の真ん中あたりで、叡山電車の踏切にでくわす。そこからさらに上って、白川通のちょっと手前でやっと太田川に出くわす。うっかりすると見過ごしてしまいそうな橋が道路に埋まっている。
太田川2 このあたりで南北に流れる太田川は、3面コンクリートで固められているが暗渠ではなく、水量も結構多い。「一乗寺橋」の名称も橋桁に刻まれている。ここから川筋を辿っていけば出町の暗渠の出口にたどり着けるのだろうか。どの辺りから暗渠になっているのだろうか、川の水はどこへ消えてしまうのか。
太田川3 ものの本によれば、川の名がついてはいるが、太田川自体は高野川から取水する農業用水路で、服部山から発する小川や一乗寺川などの自然河川の水を合わせながら水量を増し、途中、修学院で、高野川に落ちる音羽川と交叉して、さらに南へ流れる。その地点以北を「第一太田川」、以南を「第二太田川」と呼ぶことがある。かつては出町柳で鴨川に注いでいたが、現在は末流が暗渠化され、全ての水が疏水分線に落ちる形になっている(「一乗寺周辺の疏水分線」より)。太田川流域地図を上に示す。

 こう簡単に書いてしまえば、今ではどうってことはないどぶ川であるが、出町柳まで暗渠となった川筋を探って行くと色々面白い事に出くわした。

一乗寺橋より大原田橋まで
Yokochin hashi どこで太田川が暗渠になるのか、南へ川沿いに歩き始めた。ものの100mも行かないうちに川は直角に西へ曲がっている。この屈折点は「横沈橋」という奇妙な名前がついている。ここで太田川は、東の詩仙堂の裏山から発した小河川と合流して西へ流路をかえる。合流地点の三角形状一郭は、鯉の飼育場となっているのか、いたのかしらないが、辻児童公園と接して貯留池となっている。錦鯉の姿が1、2匹見え隠れしていた。
 流れに沿って西に曲がる。川はほどなく里の前橋をくぐり、修学院中学校の前を流れて行く。対岸の北側は住宅がひしめき合って、各家の前は橋となっているから、ほとんど暗渠である。もうひとつの里の前橋をくぐって、すぐ叡山電車と交叉し、直角に南へ折れる。
大原田交差点 ここから川筋は、叡山電車の軌道とほぼ並行しているが、軌道がやや斜め西に向いているので、いずれはぶつかる筈である。200m程行った所であんのじょうぶつかった。ここで太田川は、電車の軌道だけでなく南東から北東へ向かう琵琶湖疎水の分線とも交叉する。
 さらに、東西に走る北大路通と南北に走る高原通の2つの大通りとも交叉するという、誠に複雑な交差点である。大原田交差点の地図を左上に示す。
 疎水に架かる橋を大原田橋という。これは太田川に架かる橋でもあるのだろうが、 この手前で太田川は、道路下を暗渠で潜り、水は疎水分線に全量落ちる仕組みになっている。
 暗渠となった川筋は,どこをどう通って出町柳の出口に通じているのだろうか。これからそれを追跡する。

大原田交差点の現地観察
sosui exit まず、疎水を越えてどの方向に進めばいいかを知りたかった。太田川の水が暗渠に吸い込まれている所と、その水が疎水に落ちている所に、ちょっとしたヒントがあった。
 疎水の縁には、暗渠の出口が3つ並んでいる。北に向かって西側から、一番左が一番大きく、右の2つはその半分の大きさである。水は中央の出口からだけ落ちている。
ankyo-in 一方、太田川が暗渠となる所は、水が2つの方向に吸い込まれる構造になっている。北に向かって左側に斜めに開いた大きな口は、本流のオーバーフローを受ける構造となっている。水量が少なかったので大きい方の水路には水はオーバーフローしていなかった。本流はまっすぐ南に流れている。ここに木の枝を放り込んで、急いで疎水の方の出口まで走る。交通が激しいので、道路を横断するのにちょっとイライラしたが、渡って待つこと数分、あきらめかけた頃に木の枝が中央の出口から流れ出て来た。
 大きい方の暗渠の疎水出口は、太田川のオーバーフローの入口と同じくらいの大きさであるから、これと通じているにちがいない。方向も一致している。確認するには大雨の日をまって、出かけて行くことだが、まだそのチャンスに恵まれていない。
 疎水の一番右側の小さい出口はどこから通じているのだろうか。交差点を渡ってひっかえして、線路と太田川が出会う付近を探索すると、真東から流れ落ちてくる小さな水路が、線路脇で暗渠となっていた。水は流れていない。これも大雨の日を待たねば何ともいえないが、この水もまた疎水分線に落ちる仕組みとなっているのだろ。
 以上のことから、想像をたくましくすると、この暗渠となっている地点で太田川は2つに分岐し、線路を挟んで東と西に分かれて南下していたのではなかろうか。一つは、今水が流れていない大きい方の水路が疎水を渡って南南西へ流れ、もうひとつの現在、疎水へ水を落としている水路は、疎水へ向かわずそのまま、しばらく線路の下を通って南下しているのではないだろうか。実際、太田川が暗渠になる所では川の水は南方向に流れている。仕切り弁これが、今では交差点のまん中辺りで右に曲げられ疎水に入っているようだが、本来の水路はそのまま南下して線路に当り、しばらくの間は線路下を流れていたのではないか。交差点付近の道路表面を子細に見ると、あった! 「仕切弁」とかいたマンホールの蓋を見つけた。
スケッチ 大原田交差点 左の図は以上のことをスケッチ風に描いた大原田交差点の水路図である。この図の灰色の部分が、大原田交差点付近で太田川が暗渠となっている部分である。

  以下本文中に記載されている地図類は、その地図名をクリックすれば、一括して別のウインドウに表示させることができます。ちなみに左の地図は、上に記した名前「大原田交差点の水路図」をクリックすると、拡大図が別ウインドウに現れる。同時に、本文中に出てくるすべての地図が読み込まれ、スクロールすればすべて見られので、このウインドウを開けたままにして、適宜利用してください。

古い地図上でかつての川筋を探す
 大雨の日を待つ間、京都府立資料館に出かけて、古い都市計画地図を渉猟してみた。
 1922(大正11)年の京都市の都市計画地図(縮尺3,000分の1)には、疎水分線は存在しているが、叡山電車はまだ敷設されておらず、疎水と太田川が交わる北側の一郭には工場の、おそらく染色会社の工場の建物が大きい範囲を占めている。他は一面田圃である。その中に細い用水路が縦横に張り巡らされおり、それに水を供給していたのが太田川であり、分岐した2つの水路が疎水の上を南西方向と南方向に横切っている。
 1929(昭和4)年の都市計画地図では、叡山電車が存在し、北大路通の延長と高原通の計画が点線で書き込まれている。工場の建物が幾つか現れている。しかし、依然として田圃がほとんどであり、太田川は、当該の交差点以南でもまだ暗渠とはなっていない。以前と同様に、疎水の上を南西方向に横切る水路と、叡山電車の線路の下を潜って南方向に流れる2つの水路が記載されていた。
 1953(昭和28)年となると、すっかり様変わりする。北大路通が西から大原田交差点まで延び、高原通は曼殊院道以南が完成している。高原通より西側は区画整理がなされているが、東は以前同様に田圃の畦と用水路が縦横に走っている。この地域全体が市街化するのは、白川通が完成し、区画整理事業が行われた昭和30年以降であるが、それに先立って、太田川の2つの川筋は、大原田交差点以南で、両方とも暗渠となっていた。但し、ずっと南の御蔭通以南は暗渠とはならずにオープンチャンネルで、現在京都大学が所有している清風荘の北側の道路沿いに、出町柳の方向へ流れている。まだこの時点では清風荘の庭園の池は太田川から取水していた。昭和30年頃に暗渠になり、池には井戸水をポンプアップして取水するようになったと云う(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告, 2008-23「名勝清風荘庭園」, 財団法人京都市埋蔵文化財研究所, 2009)。

1922年都市計画地図 1922年の都市計画地図の大原田交差点付近を2004年刊行のゼンリン住宅地図にかぶせてみた。茶色で描かれている部分が1922年の都市計画地図である。その結果、南西に流れる西側の分水路は、現在の高野中学校のグランドに沿って斜めに走っている道路の北端に繋がっていることがわかった。この一郭の町名は「古川町」である。大原田交差点で分岐したもう一本の水路は、叡山電車の軌道に沿って南南西に流れ、250m先で少し左に曲がって南下する。この屈折点も南北に走る道路の北端である。あとは、古地図を見ながら、現在でも東西南北にまっすぐに付いていない道路を選んで、道なりになぞって行けば、出町柳付近に出られそうである。所々、区画整理で曲がりくねった道がなくなって、民家やマンションや公共施設の上に線を引かなければならないが、すぐに消えた道が現れる。
old Otariver こんな風にして太田川の元々の川筋を現在の住宅地図上でなぞった昔の川筋を、インターネット上のGoogleマップに書き込んだ。この地図は伸縮自在で、拡大して細部を見たり、縮小して全体を眺めたりでき、移動もスムーズ、さらに背景の地図を航空写真に切り替えることもできる優れものである。川筋を書き込んだこの電子地図を「マイマップ」として名前をつけて保存でき、公開さえできる、即ちブログやホームページに思うように埋め込むことができる。その地図がここをクリックすれば現れ、川筋の細部がみられる。

 これでなにがわかったのか。箇条書きにする。
大原田交差点で東西2つに分岐した太田川は、
1)一乗寺道(註)が西の水路跡である。
2)東の水路は、田中神社の北東の児童公園の南西角で分岐して御蔭通で再び合流する。
3)東の水路は、東大路通を横切りすぐに南下する。鞠小路と東大路の間の狭い道がこの水路跡である。
3)東の水路は、百万遍で西に折れる。百万遍と出町柳を斜めに繋ぐ道に沿って水路が走っていた。
4)東西2つの水路は賀茂女子学生会館の前で合流し、その先の交差点で左折して、現在の今出川通を越えて、南西方向に折れてそのまま鴨川に注いでいた。

註:一乗寺道と洛北友禅
somekojo 上記の1)の一乗寺道は、京都市建設局道路明示課の台帳では一乗寺下り松から始まり、上の4)に書いた賀茂女子学生会館で終わる道である。高野中学校のグランドに沿って斜めに走っている道路が一乗寺道であると答える人は皆無であろう。大原田の交差点を中心とした一乗寺道周辺には、染工場が密集していた。これはかって太田川の水量が豊かで水質がよかっためである。その魁は1919(大正8)年に井上正太郎が建設した染工場である。以来数十を越える染関連工場が川筋にそって蛆集していたが、それも1960年代の中頃までで、今は広い工場跡の土地は、大方マンションとガレージに替わってしまった。しかし、今回、太田川の川筋を調べるにあたって参考にした住宅地図には、今でも数多くの染工場名が記載されている。驚いたことに、全部で30ヶ所の染め関連工場を拾い出せた。それをもとに、他の資料から見つけたものもあわせてGoogleマップ上にプロットして、上のような太田川沿いの染工場分布地図を作ってみた。地図上をクリックすれば自由に拡大・移動できるGoogleマップが現れ、青色のマークあるいは をクリックすれば会社名がわかる。
 しかし、実は、地図上に記載されている染工場がすべて現在稼働しているわけではない。北東から斜めに走る一乗寺道が東大路通と交差する手前の所に「京都洛北友禅協同組合」の事務所があるが、この組合の沿革史によると、
『昭和40年代に入り、高度経済成長の歪みが噴出し、加えてオイルショック等、繊維不況の嵐にさらされ組合事業も縮小・撤退し、組合員も廃業・転業を余儀なくされ、組合員数も大幅に減少しました。残る組合員の約半数は、洛北高野地区の立地条件を生かし、マンション・アパートなど不動産リース業へ転換しました。
 こうした現状から平成12年、実態に則した定款に変更し、染色部・不動産部の二業種構成とし、名称も京都広巾友禅染色不動産リース協同組合に変更致しましたが、平成20年、組合創立50周年を迎え組合設立の原点に戻り、京都洛北友禅協同組合に再度名称変更致しました。』(下線は筆者)
と記載されている。大半の工場は染工場ではなく、マンション・アパート・駐車場などの不動産リース業を営んでいる会社の建物に過ぎない(図中のmark1印が不動産部所属の組合員を示す)。羊頭狗肉のというのではなく、会社名をそのままにしている所に、京都の伝統産業の「面白さ」というかその特異性を感じるのは筆者だけだろうか。

次に、出口付近の変遷について
5)1922年の都市計画地図では、まだ今出川通は鴨川の東に延びていない。当然賀茂大橋も架かっていない。此の辺りで鴨川の西へ行くには、3)で記した斜めの道をまっすぐに西へ行った先にある河合橋を渡る。この百万遍からくる斜めの道を途中で南西に折れた川筋は、法性寺の墓地裏に沿って鴨川にはいる。その直前に水車小屋があり、水路は分岐して水の出口は2ヶ所ある。この2つを南出口と呼ぶ。さらに、もうひとつ、水車小屋の裏を北へ流れる水路が分岐している。この水路は法住寺にそって、北隣の正定寺まで延びてから暗渠となって、鴨川に入っている。これを北出口と呼ぶ。
6)1929年の都市計画地図では、今出川通の延長が計画されており、水車小屋は記載されているものの、上述の3つの水路の記載は消え、すべて暗渠となったものと思われる。暗渠となるのは、今出川通の計画路線と交差する地点から北へ150mほど行った所からである。
7)戦後の1963年の都市計画地図では、今出川通が完成して市電が走っている。5)で記した北出口から真東へ、正定寺の墓地を渡る点線が記載されているが、これが暗渠となった水路を示しているのではないだろうか。その先は、今出川通と交差する直前の旧水路跡に当る。この点線は、1929年の地図には記載されていないが、周辺の変わり様からして、既にこの暗渠は存在していたのではなかろうか。

Otariver exits 以上の出口について分かったことをまとめた出口変遷図を右に掲げる。図中の赤い○で示した常林寺と正定寺の境目辺の暗渠の北出口が、冒頭に記した「太田川」と右から左に刻まれている暗渠の出口と思いたいのだが、どう考えてもそれではない。南により過ぎている。現在の出口は、川端通に隣り合って並んでいる長徳寺・常林寺・正定寺の3カ寺の一番北の長徳寺の東辺り、しかも北東に向かって取り付いている。最南端の正定寺の境内に描かれている北出口の暗渠とはべつものである。
souyh exit 結局、暗渠の出口は3つあることになる。今出川通より南にある南出口(図では青○で示した)は現存する。右の写真のように、結構大きい立派な出口である。
 なおGoogle マップの航空写真上にこの3ヶ所の出口の位置をマークしたので鳥瞰されたい(ここをクリック)。

川筋の町名について
7)高野中学校のグランド裏の用水路跡に沿った地域の町名が「古川町」であるのを始めとして、用水路周辺には、それに因んだ町名が何カ所か残っている。北から拾って行くと、「(上)古川町」「河原田町」「一乗寺・樋ノ口町」「東(西)水干町」「(上、西、南)大久保町」「田中・(東、西)樋ノ口町」「大堰町」などである。
 但し、「古川町」に関しては、太田川が流れていた頃から古川町であることが1922年の都市計画地図で確認できるから、これはおそらく、もっと古く、高野川、もしくはその支流がこのあたりを流れていたことを示唆するものである。「水干町」も同じ類いであろうか。

江戸時代の太田川
1)太田の井堰と詩仙堂の石川丈山  太田井堰ではなく「丈山井堰」
 太田川の用水は、1600年代の中頃、一乗寺村の高野川の取水点が、山端橋付近の高野川右岸につくられていた松ヶ崎村の取水点の井出鼻井堰より下流にあったため、より上流の三宅橋下流に井堰を造ってそこから取水したものである。「太田」は造った人の名前である。Ota Iseki今でもいくつか残っている高野川の井堰のなかでも最大規模のもので、木枠に巨石を畳み込んだ堅牢なものであったが、1923年と1935年の洪水で流出した。その後高野川改修に伴って、三宅橋上流100mの左岸にコンクリートでできた取水口が設けられ現在に至っている。
 太田井堰が造られた経緯に関しては、面白い話がある。一乗寺に詩仙堂を造って隠棲した石川丈山は、最初は松ヶ崎の狐坂の辺に山荘を造るつもりでいたが、この噂を聞いた松ヶ崎の村人が、幕府の元高官が来るのを煩わしがり、大急ぎで狐坂の横に墓石を幾つも運んで俄造りの墓地を造成し、嫌がらせをした。その結果、丈山は他の土地を探して一乗寺の山手に詩仙堂を営んだのである。それで松ヶ崎村のことを快く思っていなかった丈山が、一乗寺村と松ヶ崎村の水争いに際して、松ヶ崎の井出鼻井堰よりもずっと上流に一乗寺村の井堰を造らせたと伝える。この工事を行った人の名前をとって、太田井堰としたのだが、本来は「丈山井堰」というべきものである。 

2)京都明細大絵図に見る太田川  違っていた東の川筋
kyouto_ezu 京都歴史資料館に、江戸幕府の京都大工頭中井家で作成された絵図の写しがある。大きさは南北300cm、東西198cm、市街部分は約5000分の1の縮尺で描かれている。禁裏、公家町の形状や、武家の名前などからして、1714(正徳4)年から1721(享保6)年の7年間の状況を表していると考えられている。鴨川以東、御土居の外はスケッチ風に描かれていて正確とはいいがたいが、洛外の村々の名前や、用水路の存在は確認できる。太田川の流路もそれとわかる。右に掲げたのは、別冊太陽86「京都古地図散歩」(平凡社, 1994年刊)に見開きページで掲載されていた京都明細大絵図の部分図である。この絵図中でも、太田川は2本の川筋として確認できる。西側の一本は上で復元した西の川筋と一致しているが、田中神社で始まっている東側の川筋は、百万遍から西に折れずに南西に延び鴨川に入る直前で合流している。
 実は。この川筋の跡は今も残っている。1920年代の川筋は百万遍で西に直角に曲がっていたが、この屈折点の南をよく見ると、まっすぐに細い道が民家の間を抜けている。この道は、今出川通りを越えてから南西方向に曲がって、そのまま鴨川の南出口方向に向う曲がりくねった道である。川端通りの直前で、もう一方の川筋の道と合流する。この細道はまさに江戸期の流路をなぞっているのである。
Kamogawa-suji ezu bis この絵図では2つの川筋は合流しているように描かれているが、1700前後(元禄年間)の鴨川の治水工事の様子を描いた鴨川筋絵図は、その辺りの様子が精確に描かれている。それを見ると、2つの水路は合流するのではなく交差して別々に鴨川に注いでいる。「此所伏コシ」と注釈が書き込まれている。東から来た水路は鴨川の石垣沿いに北へ流路が設けられており、ちょうど、正定寺と常林寺の境目の所に放流口がある。いっぽう北東から来た水路はそのまま鴨川に入っている。河口に「砂川」という名称が書かれており、左岸の一郭が砂川村となっている
 以上絵図上での観察は、1900年代の都市計画図の記載と矛盾はなく、江戸時代に太田川が鴨川にどのような経路で注いでいたかが明らかになった。

 それに付けても、現在加茂川と高野川の合流地点より少し北の高野川左岸にある出口は、いったいどこに繋がっているのだろうか。一度、雨が絶対降らないと確信できる時、それでもなにが起るかわからないことを覚悟して、危険を冒して暗渠を遡って行くのが、答えを得る早道かも知れない。

3)名所圖會に見る太田川(砂川)もうひとつの川筋の発見
Sunagawa bis 1787(天明7)年に刊行された秋里籬島編・竹原春朝斎信繁画「拾遺都名所図会」中に2カ所、太田川が現れている。その一つは砂川・柳ヶ辻の図中に法性寺の南を流れて鴨川に注いでいる太田川が、京都明細大絵図と同様に「砂川」として描かれている。
Sunagawa hoshina-tera もう一カ所、干菜寺・青龍寺・武蔵寺の図中の右下、青龍寺と武蔵寺の前を流れる小川が描かれている。図の左へ行けば柳ヶ辻(現出町柳駅)で、右下は百万遍と一乗寺との分かれ道となっているが、川は一乗寺方面から流れてくる二本の川筋が、武蔵寺門前で合流して、左下方向に流れていく。 今では青龍寺、武蔵寺ともに存在しないので、もうひとつ位置関係が明瞭ではないが、現存する干菜寺(光福寺)の場所を手がかりに考えてみた。図絵に描かれている一乗寺と百万遍の分かれ道の辻は、現在でいえば、北側に三角形の土地に何も立たずに残されている場所である。この向に賀茂女子学生会館が立っている。ezu kawasujiこの四つ辻近辺の現在の地図上に青龍寺・武蔵寺を推定して書き込み、名所絵図の川筋を青色の線で書き込んでみた。
 図絵では百万遍方向からくる水路は描かれていない。この事実は、京都明細大絵図通りである。即ち、2)出述べたように、かっつて、太田川の東の支流は、百万遍から出町柳へ斜めに通じている道にそって流れていたのではなく、百万遍からまっすぐに南下していたのである。さらに、西の川筋のさらに西にもう一本の川筋があったらしいことが、図絵のからわかった。この川筋がどこから来たかは、現在の地図からは探り得ないが、おそらく本来の西の川筋のちょっとした分流に過ぎなかったものと思われる。

 地図上でちょっと先を急ぎ過ぎたようである。古い都市計画地図を今の住宅地図上に重ね合わせて、暗渠の上を大原田交差点から出町柳まで、写真機を片手にぶらぶら歩いてみよう。

暗渠 太田川の風景
Ryozanpaku
 写真は、江戸時代に百万遍付近を流れていた太田川の川筋の跡である(この付近の他の写真はこちらへ)。右側の民家は旨い魚で名をしられた橋本憲一さんの「梁山泊」である。話もうまい。一読をお薦めします。この上流は今出川通りを横断している。その南東角にシェル石油百万遍サービスステーション西村石油がある。老舗の炭屋さんが経営するガソリンスタンドで、高倉健のドデカイ写真が看板である。ここの社長のおっちゃんは、東映に顔が利く人物で、何かの折りに東映の俳優を呼びたいなら、おっちゃんを通せばすんなりと行くらし。但しお金はかかる。
 下流は梁山泊から右に折れて鞠小路を横断して西に向かう。この南西角には、日本でただ一軒のコンペン(イ)トウの専門店「緑寿庵清水」がある。東大路通りを巡行している京都市バスが百万遍辺りにくると、必ず、この店の宣伝がアナウンスされるが、ここで下車してもちょっと見つけ難い場所にある。知る人は知る店で、いつも賑わっている。
 先月号に続いて今月は、こんな暗渠太田川の昔の川筋を歩いたときに目にする風景を「暗渠太田川の風景」と題して地図と写真にまとめたものを、別ページに掲げる。
 「暗渠太田川の風景」へ

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