洛中洛外 虫の眼 探訪

洛外散歩
太子道を歩く
2009年12月27日(Sun)
 まず、下の1889年陸地測量部発行の京都の地形図を見てください。
地形図1/20000京都 とりあえず上の地図をクリックしてください。Zoomfierが動きます。現れた地図上でポインタをドラッグすれば好きな位置へ移動できます。『』印をクリックするか、地図上の一点にポインタをあててクリックすればポインタの位置を中心にして一段づつ拡大されます。大きくなり過ぎたら『ー』印をクリックすればもとの大きさになります。拡大縮小のマーク『+』と『ー』は下の方にあります。古い地図を見ながら100年以上前の京都に思いを巡らすのも一興です。

 黒く塗りつぶされた部分が当時の京都市街である。二条城から北にも市街地が広がっているが、西は田圃である。北の市街地を限る辺りを詳細に見ると竹が繁茂した御土居が南北に走っている。御土居に沿って南へ目をやると、東西から南北に直角に屈折したところで紙屋川をわたりさらに南下している。この御土居の屈折点の直下で東西に走る一本の道に出くわす。ここは「嵯峨道六間の切り開き」といわれていた洛中洛外の出入り口である(二条下嵯峨口ともいわれていた)。

太子道

新二条通り
(地図上をクリックすれば細部が見られます)

 この東西に延びている道は田圃の中の畦道ではない。れっきとした古くからの街道で、幅も六間というから大街道であった。緩やかな曲線を描きながら東西に延びている。御土居の開きから洛中へは出世稲荷に突き当たって終わっている。洛外へは、一旦安井村で南に折れてから、再度西に向かって延び、太秦村で広隆寺に至るもう一本のもっと大きい道、三条通と合流してする。この道がいつ頃から太子道と呼ばれるようになったのかは分からないが、広隆寺は聖徳太子のゆかりで建立された大寺で、古くから京都の人々の参詣道として利用されてきた街道である。それは近世以降、薬師信仰にかわって太子信仰が盛んとなってからである。京都人は広隆寺を俗に「太秦の太子さん」と呼び、門前の電車の停留所も「太子前」であった。
oigomom_oji 古くは平安京の大炊御門大路に当たる。この道の呼び方は複雑である。現在旧二条通と呼び習わされてもいるが、それはひとつ南側に新二条通が通っているからであろう。しかし、この新二条通も太子道と呼ぶからややこしい。西大路にあるバス停もこの交差点にある。1889年の太子道の地図の下に1938年に作成された京都の都市計画道路地図の太子道の周辺部を掲げておく。現在の道路と比較すると面白い(図をクリックして拡大)。
 『太子道』の講釈はこれくらいにして、今日は出世稲荷から広隆寺まで全長 3.4 キロを歩いてみよう。

Yamato no kaido付けたし:『太子道』と呼ばれる街道は他にもある。法隆寺と飛鳥地方を結んだ「筋違道」。狭義ではこの道を指す (法隆寺街道)。難波・四天王寺と飛鳥地方を河内飛鳥経由で結んだ「丹比道」 (竹内街道)、難波・四天王寺と法隆寺を結んだ「渋川道」「龍田道」(竜田越奈良街道)も太子道と言い習わされている。

出世稲荷 
 千本通を南下する京都市バス206系統の「出世稲荷」で下車。目の前の大きい石の鳥居の奥に本殿がみえる。鳥居の左手にはエノキの古木が聳えているが、千本通の喧噪のなかで、何となく寂れた感じがする神社である。しかし、かつては、造営後8年で徹底的に破殷された秀吉の聚楽第の中にあった由緒ある神社で、秀吉の出世にあやかって後陽成天皇が「出世稲荷」という称号を与えたとされている。秀吉にまつわる神社には、世俗的な名前のものが多い。伏見城築城に際して移転させられた伏見区鷹司町の金札社、東山三条上ルにある満足稲荷など。秀吉と直接関係はないが、このような一見世俗的な名を冠した神社としては、北区平野の立派なお金を祀る御金神社、などを思いつく。
 出世稲荷は、江戸時代中期には隆盛を極め、鳥居の数も329本に達したとか。今は数本が大鳥居の後ろに連なっているだけであるが、出世稲荷 土鈴今なお庶民の信仰は篤い。特に節分には、神楽殿で神楽が舞われたり、護摩が焚かれたりして、厄除けのヒイラギにそえる出世祈願の土鈴を求める人で狭い境内はごった返すという。現在の地(千本通竹屋町下ル聚楽町)へは1663(寛文3)年に移った。
 拾遺都名所図絵に「近世霊験昌んなりとてつねに詣人多し、此邊の公厮(やくやしき)に稲荷社所々にあり、繁によってこゝに略す」と記されている。確かにこの辺りには今も稲荷社が多い。気付くままに挙げると、まず、地元の人に「貧乏稲荷」といわれている、「大宮姫命稲荷神社」が出生稲荷の北東100mの地にある。鉄の支えが痛ましい御神木は枯れてから久しい。開けっぴろげの狭い境内の隅にもう一つ「光春稲荷大明神」の石が置かれている。
 さらに北東200mにある二条児童公園内の北の道路際、NHK京都放送局の向に名無しの稲荷の立派な祠がある。ここは鵺池の側で、鵺、玉姫、朝日大明神を祀っている。相対してお地蔵さんを祀った祠もあり、その後ろには「主一大明神」と刻まれた小さな石がある。よっぽど念入りに探索しないと見過ごしてしまう程の小さい石である。
 このあたりは今は明け放たれた児童公園の一郭ではあるが、平安京のころはが出没する気味の悪い湿地帯であった。江戸時代になると京都所司代がおかれ、鵺池は官舎の庭の池となっていた。丹波篠山藩主松平紀伊守が京都所司代に帰任した折、家臣の太田毎資もまた主君に従い京都に来たが、彼は鵺を退治した源頼政の末裔だった関係でこの池の伝承を伝える石碑を建てた。明治になってこの地が京都監獄になったが、その監獄も1927(昭和12)年に山科に移転し、児童公園となった。2005年には再整備され二条公園となった。それでも元禄時代の石碑は残り、平安時代の伝承も受け継がれた。元の碑は風雨にさらされ摩耗して読めなくなっている。ところが、元看守長青山咸懐氏が,在職時に原文を写していた。地元の有志によって、かすかに残る碑文の跡と青山氏が写した碑文が突き合わされて碑文の内容がはじめて明らかとなった。そこで有志が相談し,もとの碑とは別に新しい碑を建てて碑文を刻み,新しい碑を建立した、この碑文復元は1936(昭和11)年のことである。
 さらに足を丸太町通の北へのばすと、今では京町家ともてはやされている長屋がいくつか残っている界隈に足を入れることになる。京都新聞の12月15日の記事によると、そんな長屋が女子学生向け賃貸住宅に生まれ変わるという。名付けて「レディース町家」。十軒長屋の改修費が1億円、家賃は6万円、一軒に数人住まわすというから一軒でうん10万円、10軒で…と想定されている。3年でもとがとれる計算である。内覧会の前日偶然その長屋に出くわして写真を撮った。そうかと思うと、千本出水東入る北側の西神明町にそんな町家をぶっ壊して建てた高層マンションがあるが、狭い出水通から、セットバックを余儀なくされてできたマンションの正面玄関にイチョウの大木が聳えている、その根元に小さな稲荷の祠が祀ってある。名は知れない。さらに東へ一筋目の角を北へ曲がると右手に3階建のワンルームマンションの看板が目に入るが、道路に面したところに、このマンションの経営者の家であろうと思われる「くみひも」の円山と書かれた邸宅があり、その庭先にあるちょっと大きめの稲荷の祠が、否応無しに目に入る。探せばまだまだ出てくるだろうが、余り東や北に行くと、今日の目的の太子道から遠ざかるので、このぐらいにしておく。話を出世稲荷にもどそう。
 本殿にある陶製の神像は六代目清水六兵衛の作、天井の登り龍は堂本印象の筆になるというので、期待したが扉がしまっていて見ることはできなかった。金色の地に「出世社」と書いた古色然とした扁額を拝んであきらめた。もちろん御利益は開運出世。その他にも金銀財宝の福まで十種類の神徳を授かれる。
 本殿の左手には三つの社を一つの覆い屋で覆った三石社がある。これが三つの石をそれぞれの社の神体とした「壽石社」「福石社」「禄石社」である。昔日には博徒、相場師が中央の壽石社を勝ち石、右の福石社を取り石、左の禄石社を打ち出し石と呼んで、たいへん信仰していた。その北隣は豊臣秀吉と北の政所を祀る小さいながらも立派な?ふきの豊の社である。この両側に一対の、これまたちょっと小さめの石像狛犬がおかれている。この狛犬は、江戸の町火消し、侠客として知られる新門辰五郎の寄進である。新門辰五郎と京都との関係ができたのは、一橋慶喜が年1862(文久2)年12月の京上洛に際し、1864(元治元)年に禁裏御守衛総督に任ぜられたことによる。このときに辰五郎は、子分衆200人余を率いて上洛した。 京に着くや、河原町二条下ルの辺りに宿をとり、上洛中慶喜の身辺警護や二条城の防火・警固にあたったという。この頃、北野天満宮にも常夜燈を寄進している。
 さらに北の隅には水天宮があり、社頭には、右の柱に「天明六年丙午年五月吉日」左の柱に「久留島信濃守越智通祐 敬白」と刻まれた石の鳥居がある。天明六年といえば1786年、団栗焼けといわれた天明の京都大火があった2年前、相当古い鳥居であり、水天宮のおかげで類焼を免れたのかなあ、と一人で関心していた。ちなみに、すぐ背後にあった二条城の本丸は炎上した。久留島通祐は村上水軍の末裔である。27歳で久留島家六代目を継ぎ、48歳で伏見奉行になった人物。「夕やけ小やけ」の作詞者である児童文学者、口演童話家の久留島武彦の先祖である。武彦翁本人の肉声をデジタル化した音声が配信されている。「久留島武彦翁口演童話」と云うサイトである。昔の録音で音質は良くないが、とても面白い語り口を聞けるので是非聞いてみてください。80歳になっても全国を行脚して子供たちに口演されていたその独特の語り口のさわりはここにあります。 (音量注意)

 先に進もう。右に回り込んだ拝殿裏にも石鳥居がある。ということはこの神社の背後の裏道からも境内にお参りでき、出ることもできる。この裏の鳥居の北の柱には尾上松之助と牧野省三の寄進名が刻まれている。南側の柱には「日本活動寫眞株式會社關西撮影所」とあった。千本座という芝居小屋を母と一緒に経営していた牧野省三が、横田永之助に「たのむ、任せた」「よろし、引き受けた」とおおざっぱな話で、二条城の西南櫓の下に活動写真の撮影所ができたが、1年後の1912年に北野天満宮近くの法華堂に場所を移して、日活(日本活動寫眞株式會社)の関西撮影所となった。1918(大正7)年、前年の台風の被害などにより、法華堂の撮影所は閉鎖し、関西撮影所は北区大将軍一条町に移転し大将軍撮影所と名を変えた。鳥居の建立はおそらくこの1912年から1918年の頃であったろう。
 拝殿の後ろをぐるっとまわって社務所の前に出る。十種(とくさ)の御神徳を掲げた看板が出ており、社務所の窓口ではかわいい土鈴が売られていた。2つ組になって600円。千本通に向かって右手に自転車置き場と化しているそれほど大きくない絵馬堂がある。覗いてみると秀吉の座像を描いた絵馬が目に入る。「昭和10年8月 芳光謹冩」の添え書きがある。幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師歌川芳瀧(1841〜99)の弟子(弟)で佐々木(笹木)芳光と云うのがいるが、1909(明治42)年42 歳で没というから。ちょっと時代が違うようだ。
 やっとのことで狭い境内を一回りして、見落としたものはないかと振り返りながら千本通のバス停に出た。1931(昭和6)年,京都市が周辺市町村を大合併した時,この地点は市域の中心となり、その記念碑が境内に立てられたが、現在では中心もずっと北の方へ移り,記念碑もいつの間にかなくなったという。向いの右手にこれから目指す太子道の頭がのぞいている。信号をわたっていよいよ出発。

千本通から西大路まで
 嵯峨野線の高架 千本通から5、60メートルもいくとJR山陰線の高架に出くわす。郊外の町外れといった風情である。一昔前までは山陰線の鉄路が田圃の中を横切っていた広々とした田園風景が西の方に広がっていたのではと想像をたくましくした。山陰本線(嵯峨野線)は、当初、1893(明治26年)に設立された民営鉄道の京都鉄道が舞鶴までの鉄道敷設を目指して、まず二条 - 嵯峨間を1897年に開通させたのに始まる。2年後の1899年に、早くも二条 - 園部間が開通している。これが1988年から使用されている愛称「嵯峨野線」といわれるものの始まりである。この山陰本線の市内区間では1989年の嵯峨駅(現在の嵯峨嵐山) - 馬堀駅間の複線化とそれに伴うトンネル経由の新線への切り替え、1990年の京都駅 - 園部駅間の電化、1996年の二条駅 - 花園駅間の高架化が順次完成した。また1989年に太秦駅、2000年に円町駅が新設され、来年の3月には京都駅 - 園部駅間の複線化が、市中の5キロ、丹波口 - 二条と花園 - 嵯峨嵐山間を残して開通するという。これにともない沿線の都市開発(破壊?)も進んだ。幸か不幸か、太子道を南北に横切った高架は丸太町まで北上してから西に曲がっているため、これからの行く街道は、一昔前の商店街の雰囲気を色濃く残している。高架に沿って南側は二条自動車教習所、北側は民家が続いている。高架下の東北の空き地には、昔日の名残りであろうか、お地蔵さんの祠に、古家が張り付いたエノキの大木が影を落としている。

 西大路までの商店街 ここ六軒町通から西大路まで1キロ弱の間は昔のママの店構えの個人商店が軒を並べている。とはいえ、開店休業状態の店も何軒か見受けられ寂しい限りである。七本松通辺りで道はすこし北へ回り込み、右手に朱六小、即ち朱雀第六小学校があらわれる。昭和の初めまではこの地には、日新電機の工場があった。門前にはもちろん文房具店がある。朱雀元学区は第八まである。第五学区内にだけ小学校はない。そのわけは、戦後朱雀第五小学校が新制中学校に格上げされたためである。同学区の子供たちは朱雀第一,朱雀第四,朱雀第六,朱雀第七の各小学校に分割されて通学することになった。なお、「朱雀」は京都市告示では「しゅじゃく」とされているが、現代の小学校名などで用いられる読みは「すざく」である。わがマックの漢字変換「ことえり」でも「すざく」なら朱雀であるが、「しゅじゃく」と打てば「主弱か?」と問うてくる。
地蔵の祠 小学校の門前につきものの文房具店の一軒おいて隣は、京菓子「鼓月」の本店である。次に出くわす三叉路が下ノ森通(相合図子通)との屈折点である。( )内に記した相合図子通という旧名は、今では地元の人だけしか使わない。図子というわりに結構長い道で北は一条通りから始まり、南は山陰線を越えて三条通りまで延びている、町中の生活のにおいがする道である。角に「中谷毛糸店」があり、かわいい羊が描かれた看板が目についた。向の角には石を積み上げた台座に?葺き風の屋根を冠した、色とりどりのタイルを張った地蔵の祠がある。さらに一筋向うの右手の路地の角には「はやし」酒店のすばらしい看板絵を目にすることができる。江戸時代の酒造りの様子を描いた大作である。これは見逃すわけにいかない。
 御前通を渡りさらに進むと、南側に1887年に創業された、ガソリン計量機の老舗メーカ「富永製作所」の工場が、次の天神通まで占領している。北側には同社の技術部がありその玄関の傍にちょっと大きめの稲荷の祠が祀ってある。扁額の一つに「正一位出世稲荷大明神」とあったのに驚かされた。おそらく本家の出世稲荷を勧請したのだろう。
 しばらくいくと前方に面白い形の煙突が目に入る。何屋さんかなあ、と下を見ると豆腐屋であった。その手前の天神通を越えた一筋目の角の畳屋さんの壁に平町南部町内会のしっかりした案内地図が掲示されている。現在地の一つ先の南北の道は「大原街道」となっているのに驚く。どのような道筋でここから大原へ行けるのだろうか。地図には「西土居通」となっている。この命名はうなずける。昔この西側を御土居が南北に走っていた。近世からはこのあたりが、京の西の極でありここを抜けると洛外であった。その一つ先が今の京都の西の幹線道路、西大路である。この西大路が京都市街の外郭線として完成したのは1943(昭和18)年のことである。筆者と同齢であるから驚く。平安中期以降から都市的景観を失って田園化して、御土居が築かれた近世以降では洛外の農村であった。このあたりが都市化し始めた頃の五軒長屋が西土居通の交差点に残っていた。玄関前の車1台が駐車できるくらいのわずかな空間は、奇跡的に未だに駐車スペースと化さず、緑でいっぱいである。その向には上合町地蔵尊の祠が電気やさんの玄関先の塀にへばりついている、というか、塀と一体になっているほどうすい祠である。スペースがなくてもこれまでして町内のお地蔵さんは守られるのである。

 江戸時代の刑場跡西大路太子道界隈地図 太子道と西大路の交差点で紙屋川が斜めに交叉する。紙屋川は、暗渠となって、目と鼻の先の二条通の交差点をくぐる。
 このあたり一帯は江戸時代の刑場であったそうだが、西大路通りの喧噪のなか、一見その痕跡すらない。京都新聞に「中村武生さんとあるく洛中洛外」と云う記事が連載されているが、12月11日の中京?で、交差点の北東部、西大路と紙屋川とに挟まれた三角形の広くもない一郭が墓地となっていて、ここが死刑執行跡だという。複数の江戸時代の絵図に「断罪場」「御仕置場」と記されているそうだ。1754(宝暦4)年閏2月7日、この墓地辺りにあった西土手お仕置場で,嘉右衛門(俗称 屈嘉)という38歳の男が処刑された。 首をはねられた死体は大八車で六角獄舎へ運ばれ、山脇東洋らは「屠者をしてこれを解かしめ」『臓志』より)た。これが日本で最初の人体解剖である。東洋の山脇社中の医者たちは,京極の誓願寺に「解剖記念碑」を建て男性10人、女性4人の献体それぞれの戒名を刻み手厚く葬っている。屈嘉は利剣夢覚信士。林太郎の小説『江戸解剖始記 小説 山脇東洋』(なのはな出版, 1997年)には、次のように叙述されている。「眼の前に首のない屍体があった。山脇東洋『臓志』よりこの日、六角獄舎から引き出され、市中引き回しのうえ、西土手の刑場で斬首された五人のうちの一人であった。処刑された五人のうち、飛脚の伝次郎、松屋平兵衛、一条の源七、そしてもう一人の四人は、定法にしたがって首のない遺体を罪人穴に投げ込まれたが、屈嘉と呼ばれたこの男は投棄されず、梟首を残して再び獄舎へ運ばれたのである」
引き回し 通常は、六角獄舎の罪人は、御仕置きされる前に、市中を引き回された。参考のため西の刑場で処刑された罪人が引き回されたコースを辿っておくと右の地図のようになった。相当な距離で驚く。
さっそく入り口を探して入ってみた。変哲もない新しい墓石が整然と並んでいるだけである。奇妙なことに墓域は南北に2分されていて北側はたった一つの墓が建っているだけである。何か込み入った事情があるのかも知れないが訊ねる人もいない忘れられた地である。竹林寺の境外墓地であることを示す看板が掲げてあったから、竹林寺までいけば手がかりが得られるかも知れないが、この近辺に浄土宗の竹林寺が2つある。一つは円町の北、西大路下立売通(西ノ京中保町)の金戒光明寺(黒谷)派の竹林寺、もう一つはその真東150mの下立売通の天神通西入ル(行衛町)にある西山禅林寺派の竹林寺である。どちらに訊ねて行けばいいのやら(実は、これから訪ねる安井の集落に、もう一つ竹林寺があるが、こちらは妙心寺派の禅宗の寺である。この竹林寺とは関係がなさそうである)。
 よく知られているのは後者の竹林寺で、ここには幕末尊攘派の志士達、平野国臣他37名の墓がある。平野国臣は六角獄舎に繋がれていたが1864(元治元)年の蛤御門の変に際して処刑された。明治になって西の京の刑場跡、多分、今いる足下を故あって掘り起こしたところ、姓名を朱書した瓦片と多数の白骨が発見された。平野国臣ら勤王志士の遺骨であることが判明し、それを後者の竹林寺に改葬したと伝えられている。となると、下立売通の天神通西入ル行衛町にある西山禅林寺派の竹林寺の方が話の筋が通るが、確認するのは後日にして今日は先を急ごう。

後記 家に帰ってから撮ってきた墓地の写真をつぶさに見ると、先に記した看板の末尾に寺の住所が書き添えられているを見つけた。ちょっと小さく読みづらかったが虫眼鏡を使って拡大して見ると「中保町」の竹林寺であることが判明した。

 墓を一回りして立ち去ろうとした時。北西の隅、ブロック塀際で面白いものを発見した。高さ1m、幅50cm、厚さ20cmほどの石に「牛魂碑」と大きく彫られた墓碑である。裏に由緒が漢文で彫られているが、摩耗しているうえブロック塀との間が狭くて読みづらい。なんとか読めたのは「…牛三十三頭流行 [?] 助…」の部分と「大正十五年十二月八日」の日付だけである。その下に15名連名で関係者の氏名が記されている。想像をたくましくして、牛33頭が紙屋川の洪水で流されて死んだことを慰霊した碑ではないかと考えた。よくある動物の慰霊碑なら頭数までを記すことはなかろうから。これも又の機会に調べることにして、墓地を立ち去った。

西大路から御室川まで
 壷井地蔵と壷井堂 西大路を越えると、市中の商店街の雰囲気が薄くなり、昔日は近郊農村であったことを思わせるにおいが漂い始める。平安京の道祖(サイ)大路にあたる佐井通までは、民家が軒を連ねているが、それを過ぎると、南側の畑に大きなビニールハウスがあるかと思えば、北側は何のことはない、マンションや、朱雀第八小学校、京都民医連中央病院、花園大学などのコンクリートの高い建物が広い田圃であったであろう地に並んでいる。しかし、古い街道であった痕跡は残っている。佐井通南東角、ガレージの一郭に壷井地蔵がある。その一郭は、大きなイチョウの葉をモチーフにした絵で装飾された塀で囲まれていて、「古蹟壷井地蔵尊」の石碑が入り口に建っている。道路より数段低くなった窪地の壁には「名水壷井」と彫った花崗岩がはめ込まれている。数段の階段を下りて中に入ると、壷井と称する井戸の傍に一体の小さな地蔵石仏が安置されている。台座には「壷井」の二字が彫られている。その下に半分隠れた円形の井戸が覗いている。背後の塀際には、壷井堂庵主「至道孝順尼首座」の黒い位牌が冬の日差しに照らされている。何とも変わった雰囲気の地中の空間である。
 由緒来歴については詳らかではないが、黒川道祐が、1681(延宝9)年4月に太秦広隆寺参詣でここを通ったとき、「壷井の地蔵とて、この辺りに井あり。この内より掘り出せりとて、ふるき壷の内に座せり。古へ好事の者、埋みおきけるか」と『太秦村行記』に書き残している。「ふるき壷の内に座せり」と云う一文は、今ある石仏のことをいっているのではないだろう。黒川道祐がいう地蔵は、次に訪ねる「壷井堂」に安置されている壺形の台座にのる木造地蔵尊のことではなかろうか?。ここの石仏は、同じ場所の反対側に 井戸を掘った時に出てきたものだという人も入る。花崗岩に半肉彫、両手を膝におき宝珠を持った蓮華座像であり、地蔵尊に見えない。江戸時代ここは広い刑場の範囲内であったので、市中を引き回された罪人に最後の水、「末期の水」を遣わした井戸だ、という。このような井戸には地蔵より阿弥陀の方が似つかわしい。下水道工事で20年ほど前に井戸れ枯れ、近くで食料品店を営む方が、毎日掃除をし参拝者のために水を入れたバケツを置いておられるとのこと。
 近くの京都民医連中央病院が出している季刊誌第6号(2005年冬号)に「行基僧正諸国巡礼の際、この地域で病気が流行り、たまたま野中に湧出する水を見つけ、その水に薬を加えて病人に飲ませると、たちまち病気が治ったということで、世間の信仰を受けました。そこで井戸の横に石の地蔵尊がまつられ、それが現在の「壺井地蔵」と呼ばれています。」とその由緒を紹介している。さすが病院の雑誌である。このようにしてたいして根拠のない説が庶民の間に流布されるのだなあ、と感心した。
 佐井通を越えた朱雀第八小学校の向の、今は民家の庭先になっている所が「壷井の茶所」(壷井堂)で、太秦広隆寺への参詣者のために設けられた休憩所である。かつて通りの北側にあったが、学校をつくるにあたって通りの南側に移築された。「茶所」と大きく彫られた石碑の後ろにもう一つの「壷井地蔵」を祀るお堂が、民家と一体になって建っている。堂内には壺形の台座に座る木造寄木造りの地蔵尊が安置されている。高さ2m、玉眼入、右手に錫杖、左手に宝珠をささげ、左足を下げ、右足を折っりまげて左足の膝にのせる、いわゆる半跏像である。先述の壷井から引き上げられたといういわれを着せられている。黒川道祐がいうようにこんな大きな地蔵像を、好事家が壺に入れて埋めていたとは考え難い。庭先と一体の境内には、壷井堂中興上人清遊法師の墓六十六部供養塔(願主は清遊上人)、2基の常夜灯、化粧地蔵を祀った2つの祠などががところ狭しとならんでいる。

 先へ進む。朱雀第八小学校と京都民医連中央病院の間の南北の道が佐井西通、次の、京都民医連中央病院と花園大学の間の南北道が馬代通、平安京の馬代小路である。「目安箱」さらに西の南北道が西小路通。ここまでが西の京、ここを越えて次の木辻通、平安京の木辻大路までが花園の春日町である。この先が太秦安井の春日町である。平安京の西京極で、平城京でいうところの「京終(キョウバテ)」である。書き続けるのに、少々バテてきた。
 このあたりからまた昭和のにおいが漂う商店街が始まる。安い商店街が設置した「目安箱」が残っている。

 安井の集落 安井の集落が鄙びた農村風景を失ったのは、太子道の南に新道が通じ、市バスが延長されここまでやってきた一昔前のことである。安井の商店街今では都市近郊の典型的な住宅地で、外れに大型商店もできているが、中心部では狭い道の両側に個人商店が軒を接している所も残る。目安箱のあったのもこの商店街の入り口辺りである。およそ観光京都とは縁のない存在であるが、子細に見れば歴史的な遺蹟もずいぶん認められる。安井は平安京の右京に属し、太子道は大炊御門大路の西京極であった。往時を偲ぶ址は少ないが「右馬寮」など官衙名に由来する町名にその名残りを見ることができる。安井馬塚址という史跡が、馬塚町の民家の傍にあって三角形をした小さな封土上にエノキの老木があったというが、今は完全に消滅してしまった。もう1本フジが絡んだエノキの老木があったという。場所は、二条通の藤ノ木町のバス停から北へはいった小路の東側、民家の間に弁財天を祀った祠があるが、ここにフジが絡んだ榎(常磐木)があったというが、もちろん今はない。町名に名を留めるのみ。
 「安井」という地名の起りは後白河天皇の皇女殷富門院亮子内親王(1147〜1216)の安井御所址による、と書いてあるが、なぜ「安井」御所なのかというの説明がないから、なんの意味もない解説である。逆に安井にあったから安井御所なのかもしれないというのは、素人の勘ぐりか。
 殷富門院亮子内親王は歴史や文学史上に登場することは少ないが、歌人として藤原定家に大きな影響を与えた大輔(たいふ)や定家の姉の健御前や京極局などを女房として擁し、彼女の御所は、才能溢れる女房と若い殿上人たちの活発な交歓の場となり、動乱に明け暮れて沈みがちな文芸の興隆に大きく寄与したと、五味文彦著「藤原定家の時代」(岩波新書)に指摘されている。彼女は後白河天皇の譲位により、斎宮に卜定されていたにもかかわらず群行もないまま、退下し、安徳天皇と後鳥羽天皇の准母となり、この地に「安井殿」と呼ばれた御所屋敷を建てて隠棲した。彼女が晩年を過ごしたこの安井御所は、現在の北御所町近辺にあったと推定され、「車道」「東裏」「西裏」「二条裏」などの町名が安井御所の四方を囲む呼び名に由来すると考えられている。1200(正治2)年、安井御所内に御堂が建立され、殷富門院は以仁王の遺児、道尊僧正を引き取って開基とし、蓮華光院と号した。第2代の土御門院の皇子、道円法親王の入寺以来、法親王累代門跡となり、安井門跡といわれる真言宗の名刹となる。中世以降、荒廃したが、1674(延宝初)年頃、性演大僧正が再興し、1695(元禄8)年に東山安井に移転した。そうなんだ、東山の「安井」は安井御所の「安井」だったのだ。次いで明治維新に際して大覚寺に併され「安井堂」となった。同寺の鎮守社のみが安井金比羅宮として残った。
 商店街が切れても、道なりに南に曲がらないで、細くなった道を西へまっすぐに進む。北御所町のこのあたりは、南から二条通まで突き進んできた葛野大路がさらに丸太町まで突き進む計画で、ぶちきられる運命にあったが、幸い計画は頓挫したままである。突き当たりを右に折れると浄土宗の西山禅林寺派の念仏寺に出くわす。門前に「京都文殊霊場」とあった。
 その北100mの北御所町の北の端に先述した3つ目の竹林寺がある。臨済宗妙心寺派の寺で、本尊に「長者地蔵」と呼ばれる地蔵尊を祀る寺として知られている。寺伝を記した『長者地蔵縁起』(竹林寺蔵)によれば、嵯峨天皇の御代、安井は仏法流布の霊地として釈迦如来像を安置した精舎があった。その後、比叡山の恵心僧都が霊夢により、安井に居住し、一刀三礼を尽くして地蔵菩薩を刻み安置した。江戸時代になって、一人の貧しい男がこの地蔵に朝夕熱心に祈願したところ、夢のお告げにより境内で宝珠を得ていちやく富み栄えて竹林長者と呼ばれるようになったという。それ以来、寺も竹林寺と名を改めた。本堂には長者地蔵尊の傍に竹林長者とつたえる小さい像が安置されている。
 その長者地蔵も今日では老いて力なく、寺は荒れ放題、本堂横はゴミ捨て場になっている。奥の地蔵の祠も大型ゴミか!
 少し進むと三面コンクリートで固められた御室川に出くわす。双ガ丘の西裾をぬって南下した御室川は、宇多川と合流して、500m先で東から流入してきた天神川に入る。この辺りが安井の西南端である。御室川に近い池田町一帯は、「竜翔寺の森」といい、ほんの最近まで樹木が鬱蒼と繁る幽静な地であったという。竜翔寺というのは、室町時代初期には禅宗五山十刹中の一刹、寺の広さも三町歩(約1万坪)に及ぶ大寺院であったが、応仁の乱後、寺運が衰退し1539(天文8)年に大徳寺西隣に移され、残っていた国師塔も明治の中頃に大徳寺に移された。安井で竜翔寺を偲ぶ址はただ一つ、宮内庁所管となった御髪塔だけが残っている。宮内庁が管理する御髪塔とはなにか。一寸、竜翔寺について調べてみた。竹村俊則の「昭和京都名所圖會 洛西」に次のように記されている。
「竜翔寺は後宇多法皇が南浦紹明(大国師)の塔所(筆者註:墓)として創建された禅宗大徳寺派の寺である。国師は鎌倉時代の禅僧で(中略)1304(嘉元2)年、御宇多法皇の招きに応じて入洛、当時安井村にあった韜光庵(トウコウアン)に入った。その頃、鎌倉にあって修行中の年若き宗峰妙超(著者註:臨済宗大徳寺の開山、大国師、妙心寺の開山山慧玄の師に当る)は師を求めて上洛し、国師にあいまみえ、師弟の契りをむすんだのは、国師がこの韜光庵寓居中のことであった。いわゆる『応灯関』といわれる日本の臨済禅の流れは、実はこの安井村から起ったものというべきであろう。」(下線は筆者)
 なるほど、ここは臨済禅の水源の地であったのか、と妙に感心した。御宇多法皇は生前、国師に深く帰依し、御髪を下賜され、国師は一塔を設けて蔵めた。これが御髪塔で、明治の中頃、宮内庁の管轄になって太子道に面して今も残っている。国師没後、御宇多法皇は彼の徳を慕って、1309(延慶2)年にこの地に離宮を寄進し大応国師を開山として建立されたのが竜翔寺である。大徳寺の西隣に移った竜翔寺のその後は、1816(文化13)年、自火により焼失、翌年再建された客殿は現在三玄院の客殿として遺存、明治維新後廃絶していたが、大正年間天瑞寺跡地に再興され、現在は大徳寺派の修行専門道場になっている。山口玄洞好みの五畳中柱「韜光庵」がある。境内3000坪、かっての1/3である。

余談:山口玄洞好の邸宅だったあとは、今は聖ドミニコ修道会の所有で聖トマス学院京都修道院として残っている。京都府立大学病院の北側、上京区梶井町の鴨川を背景にした広い庭園内に建っている武田五一設計の建築は一見の価値あり。現在は、病院の駐車場ができたおかげで、河原町通りからその全景が見られる。1923年清水組の施行で建てられた。

 宮内庁管轄の墓が、すぐ南にある。嘉陽門院の墓である。嘉陽門院は後鳥羽天皇の第11皇女、礼子内親王のことである。彼女は5歳で第35代の加茂斎宮となったが、彼女の退下の後、承久の乱の混乱と、宮中の資金不足で斎院制度が廃絶した。21歳で薙髪、72歳でなくなり、先述したように父の後鳥羽天皇の准母が殷富門院であった関係で安井御所の近くのここに埋葬されてた。

 ひょっとして安井の歴史をつぶさに見てきたかも知れないクスノキが近くにある。クスノキの大木
 
 礼子内親王の墓の北の大きな土地は、御室川に突き当たる大きな名無しの道路に面して「ライフ」という名の大型ショッピングセンターになっている。この道路を挟んだ北の一帯は、べらぼうに大きな駐車場となっているが駐車している車は疎ら。いかにも郊外のショッピングセンターといった感じである。その駐車場に影を落としているのが当該の枝張りがとてつもなく大きいクスノキである。駐車場の東に沿った道ばたにあるのだが、その背後は大きな屋敷の高い土塀である。「竜翔寺の森」が偲ばれる大木である。
安井の集落

 御室川の太子道橋をわたって、太秦まで距離的にはもう一息であるが、ここからは史跡が多く、じっくりと見て歩いたことを書くと長くなる。今月はここらあたりで打ち止めとし、来月に続きをかく。乞うご期待。

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