洛中洛外 虫の眼 探訪

洛外散歩
(続)太子道を歩く
2010年01月16日(Sat)
太子道
太 秦
大日本印刷の塀に沿って 
Uzumasa Old Map 宇田川と合流した御室川に架かる太子橋をわたると太秦である。御室川はこの先で紙屋川と合流して、天神川となる。天神川は、淀川水系の一級河川であるが、上流部は紙屋川とも呼ばれる。古くは西堀河と称した。「天神川」の名は、中流で北野天満宮の西を流れていることによると思われるが、太子道と交叉するあたりまで紙屋川と書かれた地図も多い。それはこの近辺に「薄墨紙」(再生紙)を漉く人たちが紙座を結び住んでいたからである。現在の河川法では、上流からずっと「天神川」である。
 太子橋を渡った南側は、大日本印刷の金網の塀が西に長く続いている。大日本印刷の前身は1876年に創立した活版印刷会社秀英舎である。1935年に日清印刷と合併し、大日本印刷となった。1950年代より印刷技術を元手にして他分野進出を図り、建材分野へ進出したのをかわきりに、情報産業や生活産業、エレクトロニクス分野へ進出している。さらに、最近では丸善、ジュンク堂など本屋まで子会社化し、ブックオフへの出資も決定しているというからおどろく。
 ここ京都の大日本印刷は、子会社のDNPテクノパック関西の本社であるが、名前が変わっただけで旧来からの大日本印刷である。京田辺市にも工場がある。働く者にはたいへん厳しい工場らしい。
詳しくは「中居和好さん過労死事件」のまとめサイトをご覧下さい。
Kaikonoyashiro そんなこともつゆ知らず、塀沿いにひたすら歩き続けて木嶋座天照御霊神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)、即ち「蚕の社」の前に出た。

木嶋座天照御霊神社の三柱鳥居
TreePillerTorii たいへん特異な神社である。その一つが三柱鳥居である。本殿の西、池の中にある石鳥居であり、鳥居の中心に小石を積んだ神座があり中心に御幣を突き刺してあり、三方から遥拝できる。昔はその下から水が湧き出て小川となって境内を流れていたが、いつの間にか枯れてしまった。今この湧水を復活させようというプロジェクトが太秦森ヶ東町の人たちによって行われている。Yuisho
 薄く読みづらくなった大鳥居横の板に書かれた由緒書によれば、三柱鳥居は、「一説に原始キリスト教の異端ネストリウス教団、「景教」が1300年前に日本に伝えた遺物とされている」とある。この教団は、「景教碑の謎」「続 景教碑の謎」というサイトによれば、西暦431年の宗教会議において異端の烙印を押されたキリスト教一派がローマを追われた後、シリア、ペルシャを経て、シルクロードの各地にその教えを広め、635年中国まで伝わった時に「景教」と呼ばれた教団である。中国で景教はその後、皇帝による保護と圧迫を繰り返し、玄宗皇帝の時代には再度盛んになり、唐末に衰退、モンゴルの興隆と共に発展したが、元とともに衰退した。「大秦景教流行中国碑」と云うのが1623年に西安で土中より発掘されている。この碑文には、約1900字の漢字と一部シリア語で、旧約聖書にある天地創造、アダムとイブ、キリスト誕生など景教の教義と唐への伝来、太宗の時代から147年間におよぶ景教の中国での発展の歴史、60余人の宣教師名などが書いてある。
 このレプリカが高野山にあると云うから驚く。なぜこのようなマニアックなものが高野山にあるか? それは、イギリス人エリザベス・アンナ・ゴルドン夫人が、仏教もキリスト教も元は一つ、同根であることを実証しようとする研究の一環として建てたものである。彼女については早稲田大学のWEB展覧会No.36に「石羊とゴルドン文庫」という記事で概略を知ることができる。さらに彼女の著作「弘法大師と景教」(高楠順次郎譯)が、国立国会図書館内電子図書館の蔵書の近代デジタルライブラリーに収録されている。
 太秦の地は古くは葛野氏や賀茂氏の居住地であったが、後に秦氏が来住し、山城北部の開発につとめ、平安遷都を財政的に支え、太秦一帯が秦氏一族の繁栄地であり、上代山城文化の中心地であった。ここまでは、歴史的事実として受け入れてよいだろう。問題は秦氏が応神天皇のころ、百済から秦始皇帝遠裔と称して来朝した功満王一族の後裔とか、百済から渡来した弓月君一族の後裔といわれている渡来人であり、秦氏は景教徒であったという。かような説は江戸時代に始まるが、広く知れ渡ったのは。1908(明治41)年「地理歴史」(主宰 喜田貞吉)100号に掲載された佐伯好郎の論文「太秦(禹豆麻佐)を論ず」からで、その潮流が、三柱鳥居が景教の遺物と書かせたのだろう。
 YataKarasu他の一説 は、鴨族の八咫烏のシンボルとする説である。鳥居の柱が円柱ではなく八角形である。正三角形の頂点に位置して立っている3本柱なら、六角形の柱にした方が理屈に合うのに、何故わざわざ八角形にしたのか、それは三本足の八咫烏になぞらえたものだ、というユニークな説である。
 現在の石製の三柱鳥居は、由緒書きによれば享保年間(1716〜1735)に修復されたとある。Konoshimasha ezuこの年代は、荒廃していた木嶋社を三井家が再興し、ここを三井家の祈祷所とした1713(正徳3)年に近く、現存する石造の三柱鳥居は、三井家が造営し木嶋社へ寄贈したものであると考えられなくはない。1780(安政9)年刊行の「都名所圖會」には現存のものとよく似た三柱鳥居が描かれているが、Hokusai mannga torii本文には「中に三ツ組合わせの木柱の鳥井あり。老人の安座する姿を表せしとぞ。当所社司の説」とはっきりと木製であることが書かれている。さらに、葛飾北斎が 1812年秋頃、門人の牧墨僊(1775年〜1824年)宅に半年ほど逗留して描いた300余りの下絵をもとに出版された「北斎漫画」中の一つに、三柱鳥居が描かれている。これは現在の鳥居とはかなりかけ離れており、木製とも見える。
 実は、現存する石造の三柱鳥居は1831(天保2)年に立て替えられたものである。はっきりと石柱に刻まれている。由緒書きを鵜呑みするなかれ。
 
Mitsu Mimeguri Torii 三柱鳥居は全国にいくつか現存している。その中でここの三柱鳥居と瓜二つのそっくりさんが2つある。その一つは東京にある三囲神社境内のもので、この由来は次の通りである。本殿の東にある摂社「蚕養神社」のゆえか、三井家が創業以来この社を信仰し、末社には三井家の祖を祀る顕名霊社があった。この霊社は、三井家邸宅移転に伴ってあちこちに勧請、遷宮を繰り返したが、現在は東京都墨田区向島の三囲神社境内に落ち着いている。「蚕の社」と「三柱鳥居」から三井家が登場するとは思いもよらなかった。
Tainei Ken Torii 他の一つは、地元京都の南禅寺の大寧軒にある。ここは明治以前は南禅寺の塔頭で大寧院であったが、明治の廃物稀釈で売りに出され、京都の老舗が買って大寧軒となった。庭園は明治末期に茶人の薮之内紹智により作庭されたものである。非公開庭園ではあるが時たま特別公開される。庭園内に琵琶湖疏水から採り入れた水が小川を流れ、その中に石造りの三柱鳥居がある。薮内流の釜の蓋置きに三柱鳥居模した物が多いという。
 三柱鳥居はこれで打ち止め。より詳細なことは「三柱鳥居の謎」を執拗に追っかけられている鈴木敏幸氏のサイトを参照されたい。

元 糺 / 鴨氏と秦氏は親戚
 三柱鳥居のある辺り一帯は元糺という。元糺とは下鴨神社境内の糺の森に対して云ったもので、社伝では賀茂の明神がここから移られ、糺の名もこれによって下鴨に移ったのだそうである。太秦の地は古くは葛野氏や鴨氏族の居住地であったが、後に秦氏が5〜6世紀頃に来住し、この地を本拠とするに伴い、賀茂氏は、出雲族の居住地であった今の出雲路から東一帯に移動したとされている。かような関係で「元糺」の呼称が使われてきたのだろう。
 鴨族はもともと大和の葛木(葛城)山にいた。その祖賀茂建角命が八咫烏となって神武天皇の大和平定の先導をつとめ、後に山城の岡田の賀茂(今の木津川市加茂町)に移り、木津川を下り、葛野川(桂川)と賀茂川(鴨川)の合流点にたどり着いた。そこへ秦氏がやってきたというのが筆者の認識であったが、秦氏の側からすれば、こうはならない。 
「鴨氏人を秦氏の婿となし、秦氏、愛聟(愛するむこ) に鴨祭を譲り与う」となり、鴨祭りは秦氏の祭りだったという(「秦氏本系帳」)。さらに、秦氏と鴨氏は雄略天皇の命で同時期に一緒に山代(山背、山城)に移ったともいう。松尾神社と木島坐天照御魂神社と賀茂御祖(みおや)神社と四明岳(比叡山最高峰)は地図上で一直線上に並ぶのは、意図的に設計されたものだ、というからおそろしい。(「摩多羅神はどこから来たのか?」第三章)
FutabaAoi Chouchin 渡来人の秦氏と鴨氏にとは濃厚な結び付きがあることに異論はないが。実際、ここの神紋は加茂社の紋と同じ二葉葵である。ちなみに、秦氏と関係の深い松尾大社の神紋もまた二葉葵である。日吉大社の神紋も二葉葵!Futaba Aoi Hiyoshi jinjya みんな親戚で地下深く結ばれている。
 二葉葵の神紋にまつわる話に深入りするのはやめ、詳しくは、五所光一郎の「ふたば葵のミステリーゾーン、東西南北神宿る」にゆずり、先を急ごう。

大映通り商店街 キネマストリート
 蚕の社前をさらに西へ、ほどなく太子道は三条通に合流する。正確にはこの道は三条通ではなく、「府道二条停車場嵐山線」である。三条通は三条大橋から千本通をちょっと越えた、山陰線の高架下で終わる。そこから西は「府道二条停車場嵐山線」。しかし、大概の人は嵐山まで三条通りという。実際、渡月橋の一つ手前の交差点は「清滝道三条」と名付けられている。広隆寺の門前に立っている道路標識も「三条通り」である。
Kinema gai というわけで、太子道と三条通の合流点から広隆寺の門前辺りまで、太秦三条商店街となる。この商店街は広隆寺の門前で府道の三条通から分岐し細い道となり、嵐電の帷子ノ辻駅まで続く。この部分は 「 大映通り商店街キネマストリート」である。最近、この商店街を舞台にし、職住一体の暮らしを描いた、山田洋次監督の映画「京都太秦物語」が完成した。5月公開予定。
 太秦といえば映画の撮影所が頭にすぐ浮かぶが、大映の撮影所があったのは、今となっては遠い昔、といっても半世紀程前のことであるが。戦時統合によって1942年に日活の製作部門、新興キネマ、大都映画の3つが統合された大日本映画製作株式会社(大映)が発足した。その折に日活太秦撮影所が「大映京都撮影所」となった。場所は商店街の南、現在太秦中学校とその周辺である。1972年大映は全従業員に解雇通告を出して倒産、京都撮影所も閉鎖され、跡地は売却され、商店街に名を残すのみとなった。
 一方、京都の新しい観光名所となっている東映太秦映画村はつとに有名であるが、撮影所自体の歴史は古く、大正末年来80年の歴史を持っている。戦時統合で大映が設立された折には大映第二撮影所となったが、1951年東映設立後に東映京都撮影所となった。1975年その敷地内に映画村がオーップンした。ここは、オープンセットを一般に公開し、併せて映画の歴史、製作過程が一目瞭然の映画文化館、映画実験室、パノラマステージなどを設けた一大テーマパークである。経営は別会社の東映京都スタジオである。
 もう一つ、太秦には松竹京都撮影所という会社がある。その沿革はちょっと複雑であるが、整理すると次のようになる。
 まず、1923年9月1日に起きた関東大震災に東京の松竹蒲田撮影所が罹災したため、京都に下加茂撮影所が開設された。1925年には、蒲田に引き上げ、閉鎖となる。1926年、下加茂撮影所は松竹京都撮影所と改称して再オープンした。1952年、京都映画に松竹が出資して子会社化し、下加茂の撮影所を同社に譲って下加茂の方は「京都映画撮影所」となる。下加茂撮影所は、1975年に閉鎖され、跡地はボーリング場になった。それも今はなく、建て売り住宅が建設され、下鴨の高級住宅地の一郭に食い込んで、撮影所があったという面影はまったくない。
 ここまでは下加茂撮影所の沿革であるが、1935年にマキノ正博が開所した「マキノトーキー製作所」に端を発する太秦堀ヶ内町の撮影所は、マキノトーキー解散後に、東宝系の「今井映画製作所」が撮影所として使用していたのを、1940年に松竹が買収して「松竹太秦撮影所」となっていた。1952年に下加茂の撮影所を京都映画に譲った松竹の映画撮影所は太秦堀ヶ内町に一本化され、「松竹太秦撮影所」は「松竹京都撮影所」と改称された。しかし、映画産業の斜陽化により1965年に閉鎖された。その後、この太秦堀ヶ内町の撮影所は、下加茂の「京都映画撮影所」を閉鎖した京都映画に1974年に譲渡され、「京都映画撮影所」となる。そして2年前の2008年に、松竹京都撮影所という会社が設立され、同所は、再度「松竹京都撮影所」となった。会社名と撮影所名が錯綜して混乱するが、要するに、現在、「松竹京都撮影所」という名の資本金1億の松竹の子会社が「松竹京都撮影所」と云う名前の撮影所を太秦堀ヶ内町で経営している、ということである。お疲れさまでした。
 民間会社、それも今は存在しない会社の名前を付けている商店街はここだけである。
「映画産業華やかなりし昭和30年代には、出番待ちのスターが、かつらをつけたままでパチンコをしていたり、八百屋で買物をしていたりの風景が当たり前の、面白い商店街でした。
 父親の関係で、撮影現場助手としてアルバイトしていた妻は、
役者が行きつけの場所を覚えていて、出番が来るとよく呼びに走らされたそうです。」(「京都ウエストサイド物語」より)
Kurosaw Rashoumon 大映撮影所跡地の太秦中学校門にはグランプリ広場があり、かつて大映がベネチア映画祭でグランプリを受賞した金獅子のレプリカが燦然と輝いている。その北側のマンションも撮影所の跡地に建ったもので、その入り口には「大映撮影所跡地」と標した石碑が設置されている。Daiei atoまた、商店街の中ほどの南角に日活の関係者によって建立された三吉稲荷がある。ここには日本映画の父と云われる牧野省三の顕彰碑があり、碑の裏には、いくつかの映像撮影会社もちろん、京福電車、京都バス、商店街振興組合、国松建設や、小道具装飾品で日本映画の創生期から関わってきた高津商会、東映の映画のかつらを一手に引き受けている山崎かつら、そして、往年のスターたちの名前がずらりと並んでいる。長門裕行、津川雅彦、南田洋子、藤田まこと、吉永小百合、由美かおる、渡哲也。松方弘樹、等々。監督の新藤兼人の名も見えている。もともと三吉稲荷社は八丁薮といわれていた竹やぶの中に鎮座する無格社であったが、大正の末年頃に、このあたりの竹薮が切り開かれ映画撮影所が開設されたとき、荒れるに任されていた当社を映画関係者の寄付によって再建されたものである。今は傍にあった中里八幡宮社と一緒に、先に訪れた木嶋座天照御霊神社の境外社となっている。そのことを公示する駒札が社殿横にたっているのは、面白いと感じた。境外社となったのは1981年のことである。町名はいまだに太秦多薮町である。
 石の鳥居は、太秦日活撮影所の所長池永浩久の、玉垣には往年の映画スターの名がずらりと刻まれている。浅岡信夫浅香新八郎山本礼三郎入江たかこ市川小文次(新之助)梅村容子大河内伝次郎葛木香一清川荘司楠英二郎(小笠原章二郎)久米譲沢田清酒井米子沢村春子(泉春子)実川延一郎瀬川路三郎片岡千恵蔵高勢実乗常磐操子鳥羽陽之助中野英治浜口富士子伴淳三郎伏見直江山本嘉一、その他大勢。
 往時とくらべて賑わいはそれほどでは無くなったかも知れないが、まだまだ、映画の町の雰囲気を漂わせている商店街である。松竹京都撮影所の門前には、何を待っているのか何組か、女性たち2、3人のグループが、寒空の中たむろしている。裏道を制作スタッフ風の男女の集団が移動している。寒空で駆け込んだ食堂、うどん丼の「きくや」は、たいへん盛況で、交わされている会話もその筋のことらしく、興味深く耳をそばだてた。ここのカレーうどんは絶品らしい。入ってくる人ことごとく「きのう、なんやったな。そや! 今日も、カレーうどんとごはんや」と叫んでいた。筆者は「鍋焼きうどん」。これも安くておいしかった。正月早々でお餅入であった。

西光寺と悟真寺
Saikou ji 三吉稲荷のある角を、細い斜めの裏道を南に少し行った右手に萱葺き屋根の山門が目に入る。浄土宗の尼寺西光寺の山門である。法然上人の弟子円空の住居跡と伝える。法然の死後、1227(嘉禄3)年、念仏に反対した比叡山の衆徒が上人の墓を暴き、鴨川に流す計画をたてたので、弟子たちが嵯峨野の二尊院に遺骸を移して隠したが、すぐに知れわたったので、密かにここ西光寺に移してかくまった。それ以来、浄土宗徒の厚い尊崇を受けてきた寺である。本堂に安置されている阿弥陀如来像は重要文化財に指定されている平安時代の寄木造りの坐像であるが、その台座が広隆寺講堂の阿弥陀三尊と全く同じ形式であることから、鎌倉時代に広隆寺から流出した佛像と推定されている。

Oukyo Haka 広隆寺の門前を北に土塀に沿って映画村の方向に進むと「自然幼稚園」と云うのに出くわす。ここは悟真寺が経営する幼稚園である。境内は幼稚園に荒らされて本体の寺の入り口がわからない。荒れた境内にぽつんとたっている門の両側に塀もなく、本堂らしき古小屋がまる見えである。渡り廊下の下をくぐった向うが墓地。正面に円山応挙の墓がある! 応挙(1733〜1795)は亀岡の穴太村に生まれ、京都に出て江戸時代後期の画壇を席巻した写生画の大家である。そんな彼の墓がこんなぼろ寺(失礼)にあるとは思いもよらなかった。彼の墓石には「源応挙墓」と刻まれており、この文字は光格天皇の弟の真仁法親王の筆とのこと。つまり、農家の次男の墓に天皇の弟が名を書いた。悟真寺はもともと市内の四条大宮西入ルにあったが、1951年に当地に引っ越した。その時円山一族の墓も移された。応挙の墓の左右に、右隣が2代目応瑞(1766〜1829)、左隣が3代目応震(1790〜1838)の墓が、さらにその外側、応瑞の隣には、木下応受(応挙の次男、母方の姓を継ぐ)の息子で応瑞の養子となった4代目応立(1816〜1875)の墓が、反対側の応震の隣に5代目応誠(?〜1916)の墓が一列に並んでいる。応挙の孫で応瑞の二男である応春の墓だけは2つの小さな五輪塔で、彼らの墓列の右手に直角に置かれている。それに並んで、奇妙なことに応瑞の室、浄信夫人(〜1831)の墓が並べてある。寺田貞次「京都名家墳墓録」(1922年刊)によると、四条大宮にあったときには、応瑞夫妻の墓石が仲良く並んでいた。応春の墓に対面して、反対側に「圓山家墳墓」と刻まれた新しい背の低い分厚い石の墓がある。以上が円山家墓石のすべてである。円山家は今も続いているようで、墓前には菊花が飾られ、真新しい塔婆が何本か立てかけてあった。

大酒神社と牛祭り
 もと来た路へ戻りほんの少し行くと大酒神社である。古くからある神社のわりに境内は狭い。当社は元々広隆寺境内の桂宮院の域内にあったが、明治維新の際現在の地に移され、近年広隆寺の境内を斜めに道路が敷設されたため、今や広隆寺の境外になってしまった。この道路と云うのが、今歩いている路である。しかし、広隆寺との関係は深く、大酒神社の祭禮で天下の鬼祭りといわれる牛祭 は、毎年10月12日の夜、広隆寺の境内で行われる。この祭りは、1012(長和元)年、天台僧の恵心僧都が摩吒羅神を勧請し、五穀豊穣・悪魔退散・国家安泰の守護神とし、法会修行のあと、風流を興行したのが起りと伝えられている。この風流が中古以来、この地の素朴な農民祭礼と習合して執り行われてきた。一時中断していたようだが、1885(明治18)年、有志により再興された。
Ushimatsuri 鼻のとがった白い面をつけた、白装束の摩吒羅神が黒い牛に乗り、青鬼・赤鬼の面を着けた四天王と子供の囃子を従えて、各町内から参加する提灯、松明とともに寺の周りを練り歩く。その後、広隆寺薬師堂の前にしつらえられた祭壇に上り、奇妙な祭文をながUshimatsuri Serizawaながと唱える。読み終えるのに優に1時間はかかる。その内容たるやチンプンカンプン、なにせ、摩吒羅神は異国の神である。読み終わるやいなや、脱兎の如く薬師堂に駆け込み、それを四天王が追っかけて、祭りはあっけなく終わる。拡声器がなかった昔は、声が低くてよく聞き取れないと、「もっとしっかりやれ」とか「おかゆ腹で声が出んのか」などとヤジが飛び交ったという。そしてこんな句も。
 ぐるりよりどなられておる摩吒羅神 鳩十

oosakejinnjya 大酒神社 の酒はもとは「辟」であって、開墾・開拓の開くの意味だとか、悪疫・悪霊を避けるとかからきているとか、秦氏一族の統領秦酒公から大酒神社というのだとか、その社名についてはいろいろ説がある。また、秦始皇帝、弓月君、秦酒公を祭神とし、あわせて呉織女と漢織女をも祀る。社前の鳥居の柱も八角柱であるなど異国情緒豊かな神社である。
 大酒神社の本殿は鳥居をくぐって右手に曲がった奥に隠れている。この社殿には上の神々の他に木枯明神という不思議な名前の神様が合祀されている。木枯明神というのは、広隆寺門前の大ケヤキに明神が影向されたところ、ケヤキはすぐに枯れてしまった。そこで神霊を祀って神社としたところ、ケヤキはもとの如く繁茂したという。それで木枯明神と称したのである。その社殿が大酒神社本殿の傍にあったが、近年の台風で社殿が倒壊、それ以来大酒神社本殿に間借りしたままである。風神を祀れば、倒れた社殿もまた立ち上がるかも知れないが、現代人はそんな知恵をとうの昔に失ってしまったようである。
 木枯神社は太秦地方の古社のひとつで歌枕にもなった神社である。清少納言の「枕草子」には「森は うへ木の森。岩田の森。木枯の森。・・・」(柳原紀光本 207段 池田亀鑑校訂 岩波文庫 黄16-1)と記載されているが、この木枯らしの森は、静岡県の藁科川と安倍川が合流する地点からやや上流にある小高い島のことだという説 もある。ここは静岡県指定名勝になっている。
 最後に、映像制作会社のプロモーションサイトであるが、駿河の国と秦氏の深い関係を示唆する面白いサイト がある。ちょっと覗いてみてください。

太秦の広隆寺
ミロクの指事件
 もと来た路に戻って広隆寺門前へ引っ返す。「太秦の広隆寺」である。別に他にも広隆寺があるわけではないが、習慣としてこう称する。「弥勒菩薩の指」の第2部 ”韓国帰化人の寺の歴史”の冒頭に『京都の人は、太秦(うずまさ)の広隆寺と云って、たんに広隆寺とは余り云わない。大原の三千院・醍醐(だいご)の三宝院・御室の仁和寺・高雄の神護寺……みな同じ習慣の呼び方である。』と記したのは、チョウチンこと田中重久先生である。高校の漢文の先生だった。この先生とこの寺の3つ弥勒菩薩像のひとつである「宝冠ミロク」を有名にした事件があった。
Houkan Miroku『有名な話がある。
あの誰でも知ってるくらい有名な、広隆寺の弥勒像は(昭和中頃)(註) 1960年8月、指が壊れたことがある。
仏像を見に来ていた、とある大学生が(京大生)、 あまりの弥勒菩薩の美しさに抱きついた!…という話である。
ハッと我に返る大学生!
「あぁ、僕はなんて罪深いことをしてしまったんだ!」
気づけば、きつく抱擁した時に思わず折れた指が手の中に、 あたかも…逃れられない罪の象徴のように、そこにある。
逃げる大学生。
そして、その大罪から逃れるように、逃走途中で思い人(想い仏像)の指を投げ捨ててしまう。
ポイッ!
結局、その、大学生は出頭したか、何かで警察に捕まったのだが、困ったのは、何処に指を捨てたか全くわからなかったこと。
警察は威信をかけて逃走経路をしらみつぶしに探したらしい…。
で、みつかった。
見つけたお巡りさんは表彰され、哀れ、大学生は裁判にかけられる。
行き詰まる法廷の判決。
無表情に判決を述べる裁判官。
「判決結果…省略…弥勒菩薩が美しすぎたのが罪である。よって無罪!」
なんて、粋な判決!
というわけで、無罪になったそうです。
めでたしめでたし。
しかしこれは実際にあった話なのです。びっくりですねー。
もっとも、後にこの学生が雑誌の取材に語ったところによれば、 弥勒菩薩が美しいからそうしたというわけではなく、 思ったより汚れているうえに、なんか側まで近寄れたからなんていうことを答えているらしい。
ガッカリだなぁ。』
仏教&仏像夜話 より)

 この事件で <我らのチョウチン> は、戦後再出発した国宝制度の第1号に指定された飛鳥時代の美術品に抱擁し薬指を折ってしまった罪は重大だと、学者、ジャーナリスト、そして検事や判事から徹底的に罵倒攻撃される火中にあった京大生A君を「折れた薬指は後世の新補がある、今度毀れるまでの状態が、ずっと続いていた。指などうっかり触れれば折れる状態だった」と、擁護し、減刑運動をした野人である。彼は、授業中にエッチなことばかり云う一介の高校教師でなかったのだ。他から一段秀でた一級の美術史家であることが分かった。
Tanaka Shigehisa『「わるいけど広隆寺のミロクは。彫刻として最も大切な立体感やヴォリュームがなくて、何だかべたんとした感じで……」
と云う人も何人かあった。だから京大生A君の
「写真を見て想像していたほどよくなかったので……」
というのは通説で、写真で ── 殊に修正を重ねた黒バッグの、飛鳥園の悪い写真で、美術史を教えた教師が悪いのだ。テレヴィのスタジオと、テレヴィをくらべても分かるように、大体写真というものは非常によく映るもので、写真だけ見ていたら凄くよかったのに、実物はもうひとつどうも……… ということは、映画俳優にも、男女の見合いにもある。この本のカバー袖の、岩雅彦君が奈良女子大学で写した私の写真なども、よく映っているが、実物はずっと悪い。』
とユーモラスたっぷりに、宝冠ミロクに美的魅力のないことを指摘されている。さらに、
『中年からさきの女は、死にもの狂いで手や頸・顔の皺(しわ)を匿(かく)そうとして、鏡台の前に坐み込むが、仏像でも頸にある三道は決していいものではない。平素学校で若い娘ばかり見慣れているので、私は皺のよった中年女や老女を、一入醜く感じる。あんな皺だらけの顔はご免だ。宝冠ミロクで一番厭なのも頸の三本の曲線で、昨秋、朝日の記者が見えた時にも、それを指摘したら再度来訪の時、西村所長 (註)美術院国宝修理所長 が以前は漆箔がかかっていたから、今ほど醜くなかった筈だと云っていたと、復元論で応じた』
と「弥勒菩薩の指」で述べている。この著者は『宝冠ミロクの指に頬がひっかかって折れた、不運なA君の減刑運動としてかきだした』というが、美術史には教科書的知識しかもっていなかった私の目から鱗をはぎとってくれた名著である。以下の広隆寺に関する記述の部分はこの著作に負うところが大である。『 』内の引用もすべて同書からである。

ミロク像は偽称
 一月の広隆寺境内はひっそりしていた。南大門(仁王門)を上りくぐって、まっすぐに新霊宝殿に向かう。奈良の寺院風の広々とした伽藍配置は京都人にとっては、何か異国に来たように感じられる。薬師殿、能楽堂、地蔵堂、講堂(赤堂)、本堂(上宮王院太子殿)、庫裏・書院の建物が点在している。庫裏の西側奥には桂宮殿(八角円堂)、その南側はとてつもなく広い駐車場になっている。境内には巨樹も多い。書院の庭を囲む白壁の上に大きく樹冠を拡げているクスノキが特に目についた。幹周りはどのくらいあるだろうかと思い、参拝受付の左手に庫裏の門が開いていたので、特に霊宝殿に並べてある彫刻を見たいわけでなかったが、礼儀として700円の拝観料なるものを払ってから、庫裏入り口の左手にあるクスノキの樹幹を拝ましていただけないかと、チケット売りの女性に鄭重にお願いした。答えはノン!「どなたにお願いしたらいいのでしょうか?」「教えられません」。これでは引き下がる以外にない。仕方なく醜い宝冠ミロクなどの国宝、重要文化財を拝見することにした。
『所謂霊宝館という所へ入るごとに、僧が古い仏像に米塩の資を稼がせて、自らは手を拱(こまね)いて徒食している観光寺院というものを、何か亡国の姿に思い比べる。観光寺院とは一体何か! もともと寺や宗教と何の関係もない京都市が横から飛びかかって来て、観光税と云う、どう考えても道理の通らんぴん挑ねを企て、一体誰のためになると思って、観光会館を立てるのか。観光寺院という名こそ、精神のない伽藍仏教の堕落も爰に極まったという感じで、美術の好きな金のない学生など、実に惨めだ。』
 新霊宝殿の正面に件の宝冠ミロクが、左右に宝髻ミロク(泣きミロク)と如来形ミロク坐像(塑造)を従えて展示されている。700円と引き換えに渡されたパンフレットには、宝冠ミロクの写真の下に「国宝第一号弥勒菩薩半跏思惟像」とあり、霊宝殿の説明の中に「飛鳥時代」と明記されている。この殺し文句で、広隆寺は年間数千万から1億近い収入を得ている。これは1960年当時、拝観料が大人50円で、数百万の収入があったというのを単純に700円で計算し直しただけであるが、飛鳥時代というのは、100パーセント嘘である。『宝冠ミロクは新羅仏で818(弘仁9)年の大火以後、890(寛平2)年以前に広隆寺に入ってきた』ものである。国宝第一号というのはその通りであるが、世間一般では、国産の一級美術品という意味に誤解している。事件当時、新聞雑誌の記者連中、刑事、警察署長もそういう意味に受け取っていたと云う。『国宝第1号は恰度テレヴィの「のど自慢」の、3つの鐘の「今晩の第1号」のようなもので、明らかに台帳番号にすぎないが、それにしても作品の優劣を表すのかと誤解される恐れのあるものであってみれば、第1号は潔く一旦解消して、あの広隆寺の切符売り場から「国宝第1号」という、がめつい木札を取り払わせ、……』となじられているのに、素知らぬ顔で嘘と誤魔化しで稼いでいるのである。
 そして、世間一般も、いまだに
 記念すべき国宝第1号、京都広隆寺の弥勒菩薩!ため息が出るほど美しい。指の一本一本に見とれてしまう。1960年、この麗しい姿に我を忘れた大学生が、頬ずりをしようとして薬指を折ってしまった。アホタレ!でも、その気持ち分からんでもない…。はぁ〜、ウットリ。
以下はこの仏を前にした、ドイツ人哲学者カール・ヤスパースの言葉→
「私はこれまでに古代ギリシャの神々の彫像も見たし、ローマ時代に作られた多くの優れた彫刻も見てきた。だが、今日まで何十年かの哲学者としての生涯の中で、これほど人間実存の本当の平和な姿を具現した芸術品を見たことはなかった。この仏像は我々人間の持つ心の平和の理想を、真に余すところなく最高度に表しているものです。」(至福!傑作仏像写真館より

と国宝第1号と国産の最高級の美術品とは同意語であるし、飛鳥時代の作というのがいまだに定説 となっている。その最たるものが、京都市産業観光局観光部観光企画課制作のホームページ「京都市文化観光情報システム 」である。「広隆寺にある飛鳥時代作の国宝彫刻。創建当時の本尊と伝えられる。国宝第1号。」明記している。これだから、この弥勒菩薩は「人よせパンダ」と揶揄されても仕方あるまい。
 「広隆寺には、仏像だけでも国宝が17体、重要文化財が31体もある。この寺は818年と1150年に火災にあって創建時の諸堂はことごとく失われた。それにもかかわらず、これだけ多くの仏像が護られてきたことは、奇跡に近い。」のではなく、『今寺にあるもので、或は818年以前の作かも知れないものは、半跏思惟像のミロク2体よりなく、これらのミロクも古いが、この寺へ入ってきたのは818(弘仁9)年4月23日の大火以後、890年(寛平2)年以前と考える他はない。寺で最も大切な本尊や、資財帖まで「皆悉く焼き亡」ぼしてしまったので、創立者や、移建者の祖国である朝鮮から、仏像を買い込んで、早く寺としての体裁を飾り整える必要があったのだ。』それも1150年の火災で『両足を焼き、右手の2本と左手の1本の指を失い、台座の大半を焼き、漆箔の大半を焼いたのではあるまいか? 少なくともぼろぼろになったのだ。』
 1904(明治37)年の修理以前の変色した写真が残っているが、それによると、HoukanMiroku 22Zu『顔面はハゲチョロケで、胴体にも何やら箔のようなものがくっついている。右肩には、今はない天衣(てんね)が下がり、頸からは、これも今はない金属の飾り物が長く垂れ下がっている。膝に上げた右足の先は親指を残して欠けている。左足も甲から先が1面にただれて見苦しい。台座はきれいさっぱりない」という状態だった。明治時代に行われた修理も顔以外は仕事が頗る存在で、左手にいたっては拙劣なること(第22図)論外である』
 何のことはない、採光を落とした、だだっ広い霊宝殿内で目にする「国宝第1号、飛鳥時代作」のミロクは、見事に「人よせパンダ」に変身させられたのだ。
 これを偽称と云わずに何という。

ヤクシ像はすり替え
 江戸時代は聖徳太子の寺として、朝野の信仰をあつめ、太子像を祀った上宮王院を本堂としていた。平安時代以降は薬師信仰で上下の人々は競って参拝したと云う。こんな歌謡が梁塵秘抄に残っている。
 「太秦の薬師がもとへ行く麿を、しきりにとどむる木島の神」
広隆寺への参拝者がひっきりなしに通過して行く人を、木嶋社(蚕ノ社)の神さんが、こっちにもお参りしてと袖を引いている情景が浮かぶ。穿った解釈では、
「この歌の意味、私は長い間解らなかったのですが、これは薬師とは広隆寺の本尊である薬師如来を指し、実は遊女の事を意味したのであります。広隆寺の御住職からお叱りをうけるかも知れませんが、あの近辺に遊里があったと思われます。昔は伊勢参りにかこつけて物見遊山の旅をして遊郭ヘ足をはこぶ人が多かったように、広隆寺に参詣すると偽って遊女の元へ遊びに行くのを木嶋の神が止めたという意味なのです。」(上田正昭「京都・太秦の歴史と文化」
案外、当っているかも知れない。しかし現在では、本来の薬師さんも秘仏で年一回の御開帳でしか見られない。
 広隆寺は、平安時代の818(弘仁9年)、大火によってほとんどを焼失するが、ほどなく秦氏の出という道昌(どうしょう)が再興し、864(貞観6)年願徳寺より移された薬師如来像が新たに本尊とされた。この薬師如来は霊験あらたかで、平安時代後期から、京都中から人々が参詣に訪れるようになったのである。
 これはこれで嘘ではないが、我々が目にする極彩色の秘仏薬師立像は江戸時代のまやかしものである。田中先生の話に耳を傾けよう。
『山本さん 註 写真撮影者の山本湖舟が、「田中さん、これは迚 トテモ or ドウシテモ弘仁なんてもんやおへんで………… 裾廻りの極彩色の模様から判断すると、江戸時代どっしゃろ…」と看破されたのはこのときである。注意されて克く観ると如何にも工合が悪い。顔など1747(延享4)年に、竹田出雲と三好松洛と並木千柳が合作した「義経千本桜」の狐忠信の扮した歌舞伎役者のように俗で、全体に弘仁仏にあるような刀勢というものがまるでない』
それを、
『寺ではいま木造彩色薬師如来立像を、2重厨子の中に「勅封」と詐称して本尊とし、これを秘仏にしている、内側の厨子は桐の白木で、外のは黒漆のかかった古い厨子だが、今日勅封は正倉院以外になく、嘘を書くにしても、どえらい嘘をついたものだ』
 広隆寺の古文書を活眼を開いて読めば、そもそも霊験薬師仏というのは、素木(しらき)居高三尺の壇像であることが明白であるという。この霊験薬師が広隆寺に入った経緯については「山城名勝志」が引用している「広隆寺縁起」に詳しく書かれている。
『霊験薬師はもと乙訓社(向日神社)のもので、それが792(延暦12)年の12月に大原寺(だいげんじ)に移り、大原寺の智威大徳の死亡後、丹後の石作寺に移り、仁明天皇の代(833〜50)には願徳寺に移っていたのを、清和天皇の病気の時、864(貞観6)年の5月5日に、道昌が天皇の宝算延命の祈祷をしてやると称して、これを広隆寺へ貰って来たのである。』
「都名所圖會」にも同様の霊験薬師の縁起が紹介されている。こちらは漢文でないので読み易い。霊験薬師を持って行かれた願徳寺側からのおもしろい話が、京都新聞の「ふるさとの昔語り 21」に紹介されていたので、参考のため載せておく(切り抜きのコピーなので読み難ければ、ここをクリックして京都新聞の該当サイトを見てください。まだ残っていればの話ですが)。素木の壇像では「人寄せパンダ」にならなかったので、極彩色の立像を二重の厨子に入れて勅封して、もったいをつけた、というのが真相であろう。
 今も、彩色薬師如来立像は霊宝殿の厨子の中にあり、そう易々とは見られない。見た人の話 を聞こう。
「…薬師如来じゃねえ。
…どっからどう見ても吉祥天です。

元々吉祥天だったのが、病に効くということで薬師如来の扱いになった、ということのようです
この霊宝館にやたらと吉祥天が多いのもこれで合点がいきました。
なぜか厨子の大きさに合ってません。1mくらいしかない。
更に周りの眷属たちもこの如来にはでかすぎて違和感バリバリ。あべこべというか不ぞろいというか
秘仏だったんで彩色も良く残ってます…いやあ、吉祥天って良くわかんないんですよねえ
時代とか大きさとかあまり個性が出ないんで、面白みがないというか。極端な話、この霊宝館にあるほかの吉祥天と入れかわってても気づかないというか」
 結局、現在、寺にある秘仏の薬師如来立像(重要文化財)は、通常の薬師如来像とは異なり、吉祥天の姿に表された異形像であり、本来の霊験薬師壇像は、南大門を入った左手すぐにある薬師堂に安置されているらしい。
 これをすり替えと云わずに何という。
 
馬子にも衣装のタイシ像
太子像 広隆寺は、1150(久安6)年に再び火災に遭う。1165(永万元)年には堂宇が復興された。それ以来本尊として聖徳太子の等身像 を祀って、広隆寺は聖徳太子信仰の寺として再出発したのである。この太子像は1120(元永3)年に僧定海が発願し、仏師の頼範が造立したことが、像内の銘でわかっている。聖徳太子が秦河勝に仏像を賜った時の年齢である33歳頃の姿を写したものといわれている。本像には天皇が即位などの重要儀式の際に着用されたのと同様の装束、黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう、綿入れの着物)を新調して着せるならわしがあり、現在は1994年に下賜された袍が着せられている。黄櫨染御袍は天皇が重要な儀式の際に着用する束帯装束で、天皇以外使用できない禁色とされていたものである。こんな立派な装束を纏った姿で庶民の信仰を集めてきたのである。
 1994年の更衣に先立って行われた調査で、従来からの通念によって像は近世の彫刻と思われていたが、像の首部、手などが非常に傷んでいたので修理が行われ、その時、像内に1120(元永3)年の銘が記されていることが分かったという(京都・太秦 廣隆寺上宮王院聖徳太子像 御束帯御装束調査について)。また、下着、下袴を着用した姿に造られていること、胎内納入品が多数あったことなど、新しい発見があったとされているが、「弥勒菩薩の指」に掲載された写真の説明に『束帯の下は裸ではない』と明記されており、この本の出版時(1961年)以前に既に知られていたことではないかと思いつつページを繰ったが、残念ながら本文中にはこの像に関して何の言及もなかった。先生の趣味からか、裸の聖徳太子像についての詳細な記述はあったのだが……。
 「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」として、太子自身を信仰対象にした例は古くからあり、室町時代の終わり頃から、太子の忌日と言われる2月22日(旧暦、聖徳太子の生没は、生誕 574年2月7日 即ち、敏達天皇3年1月1日、死没 622年4月8日、即ち、推古天皇30年2月22日である)を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになった。今日でも11月22日にお火焚き祭が行われ、太子に法楽を捧げる。土木建築業にたずさわる人々がこの行事に奉仕する習わしになっている。このときに衣装を纏った太子像を拝むことができるわけである。

根は一緒、秦氏も加茂氏
 ずいぶん広隆寺の彫刻に手こずってしまった。
「信仰と芸術の美しい調和と民族の貴い融和協調とを如実に語る日本文化の一大宝庫」(広隆寺の拝観パンフレットより)の中の、たった3つの宝物についてしか紹介しなかったが、「弥勒菩薩の指」には、まだまだ、広隆寺を題材にして、日本美術史の学界・官界に蠢く事なかれ主義の役人・御用学者を、痛烈に批判し、罵倒する小気味いい話が書かれている。この本、多くは売れなかったと見えて、ゾッキ本で古本屋に沢山出たことだろう。今でも1000円も出せば手に入れることができる。
 さて、さて、このあたりで退散としようと、桂宮院を横目に見ながら駐車場を覗きにいったときに面白い光景に出くわした。古くから秦氏と鴨氏は手をつないで、平安京造営に尽力していたのだ、と思わせる「民族の貴い融和協調」のシンボル的な光景が眼前にあった。
ne ha issho

嵐電太秦駅
Uzumasa eki けっこう疲れたので、帰りは電車を利用することにした。均一料金200円を奮発して、門前の嵐電太秦広隆寺駅の嵐山方面行きのホームから、路面電車に乗って、次の帷子ノ辻で北野線に乗り換えて、北野白梅町に出て、市バス204系統で帰ろう。
Uzumasa eki2 嵐太秦駅の嵐山方面のホームは路面よりかなり高くなっているが、ホームとして独立してあるのではなく「路地」道である。ホームの背後には民家と商店があるからベンチの類いはない。さらに奥に入る路地が2本もあるから驚きである。
uzumasa eki 写真で、この雰囲気を出すのは至難の業だが、上の写真のようなのんびりした風景である。ホームには自転車まで乗り入れている。商店のシャッターに描かれたユーモラスな絵には「Black Hole」と書いた虫除けランプがぶら下がっているし、隣の自動販売機は何を売っているのか、一見首を傾げる。どう見てもた機械はタバコの自動販売機であるが、見えている商品見本は ? 写真をクリックすれば答えがでます。
 寒空の中、なかなかこない電車を待ちながら、うろうろできる楽しいホームである。                    (了)
ending

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