洛中洛外 虫の眼 探訪

無形民俗文化財シリーズ 2
南山城村の田山の花踊り

付 海住山寺の巨樹
2008年11月16日(Sun)

[1] はじめに
 京都府の最南端、南山城村は、京都府唯一の村であるが、Tayama Chizu 1
古くから奈良との往来が密で、文化圏としては奈良に属しているといえよう。その村内の南、名張川をせき止めた高山ダムの東側に、奈良県と三重県に接して田山という集落がある。村域の約4分の3は山林で占められており、平地は少なく、人里離れた狭い谷間や丘陵の上Tyama Chizu 2でも水利のあるところは、茶園が広がっている。天明年間に近隣の柳生の里や伊賀の玉滝村から伝わったとも言われる宇治茶栽培は現在、和束町に次ぐ生産量を誇っている。
 この地に古くから伝わる雨乞いの祭りが地元の諏訪神社の神事として、大正の頃まで執り行われてきた。中断していたこの祭りは、保存会が結成され昭和38年に40年ぶりに復活された。財団法人地域創造が「地域文化遺産 ポータル」というサイトで伝統芸術等に関わる映像を公開しているが、その中に「田山花踊り 保存40年の歩み」というビデオがあり、復活の経緯が映像とともに語られている。この本篇は必見。
 以来年々隆盛となり毎年11月3日の文化の日に諏訪神社に奉納されている。現在では、京都府及び南山城村指定の無形民俗文化財となっていて、当日だけではなく、各地へ出演、万国博覧会にも参加し、NHKの芸能百選にも出演している。
 今年の文化の日は例年になく、あいにく曇天の日和であったが、雨乞いの花踊りは盛大に執り行われた。神社境内で演じられた庭踊りに先立って少年が軍配片手に口上を申し述べた中にもあったように、近年、雨乞いをするほどの日照りもなく、踊りを奉納する機会もなく踊り方を忘れてしまうから…、というわけで盛大に執り行われた。はるばる遠くから見学にやってきた甲斐があった。外国人の見物人も見られた。

[2] 田山の花踊り見聞記
 JR加茂駅まで迎えにきて下さったKさんの車で総勢5名、木津川沿いに月ヶ瀬の駅まで国道163号線を走り、そこから南下して山道に入る。10分もしないうちに到着。
 祭りは1時から、まずその第一部が、昔の有野家の庭、Nakaodori現在の旧田山小学校(2003年3月廃校)の校庭で始まった。小さな子供達が代わり代わりに打つ太鼓の響きと、雨乞いにはつきものの山伏のホラ貝のゆったりとしたリズムに乗って、女装の長羽織の12人の踊り手が輪になって舞う。この着物の柄は、皆川月華の手になる立派なものである。出で立ちはというと、足下は白脚絆にわらじ、手には白い手甲をはめ、赤い紐で結んでいる。背中には2mにもなるかと思われる棒に三段の色紙の房をつけ、その上に御幣と細長い棒に造花をつけたものを飾る。これを「シナイ」と称する。手に撥を持って、胸の前には紙製の鞨鼓(かんこ)を首からぶら下げている。こんな衣装でどんな風に舞うのかは、ビデオを見て下さい(ビデオ1)。私の表現力では、とても言葉でいいあらわせない。とりあえず「けんけん踊り」とでも称しておこう。本当の名称は「愛宕踊り」である。
 踊りの輪の中には、大団扇を手に、一枚歯の高下駄を掃いた天狗と、腰に籠をぶら下げ、長いわら草履を突っ掛けたヒョットコが、輪の中を前後左右にぶらぶらしている。何の役割か皆目検討がつかない。案内冊子には見物人を喜ばせる道化だと書いてある。見物人にとっては退屈な踊りなのだろうか。Tengu Hyottoko
 踊りの輪の外周りには、唄付けと称する黒紋付に白足袋の下駄履きで、造花で飾った菅笠の周りに金箔と白い布をぶら下げ顔を隠し、日の丸模様の扇を手にリズムをとって唄っている輩が12UtatsukeSarasa人、簓(ササラ)を手に、絣の着物に黄色い帯をしめ鉢巻姿の幼児が何人も、棒術の棒を振り回している白袴と黒袴姿の男女達、袴姿で襷掛の鉢巻姿の人や黒紋付の若者達。いったいこれからみんなで何をおっぱじめるのかと、期待して待っていたが、それ以上何もおこらなかった。
 踊りが一段落して、みんな、見物人も打ち混ざって校庭から三々五々出始めた。300mほど先の高台にある諏訪神社までの行列が始まるようだが、なかなか列が出来ず動き始めない。ようやく太鼓を載せた台車がキーキーいいながら引かれ始め、子供達の打つ太鼓の音も響き始めて、行列(ビデオ2)はゆっくりゆっくり諏訪神社に向かっていく。踊り手は重たそうな「シナイ」を背負って踊りながらの行進(ビデオ3)である。足下から天辺まで優に3mもあるから、諏訪神社の鳥居をくぐって急な階段を上るのは一仕事である。鳥居をくぐるところには、ちゃんと介護役(ビデオ4)がいて、思い切り頭を下げさせ、お尻をトンと押して順々に送り出していく。階段の上では神主さんが、上がってくる一人一人に、見物人にもお祓いをして浄めておられる。女坂を上がって境内に入った輩は穢れたままである。ここまでが「入端」と呼ばれる第一部である。
 狭い境内でも、校庭と同じ踊り「愛宕踊り」の続きが奉納された。これが終わると中休みで、「けんけん踊り」を小一時間も続けてきた踊り手はやっとここで、床几に腰をおろし、喉の乾きを癒し、衣装直しに余念がない。この間に村長さんの挨拶から始まって、来賓挨拶、府の偉いさんや議員さんのメッセージ披露等々、一通りのことが終り、いよいよ「庭踊り」が始まった。
 保存会の案内冊子によれば、庭踊りは、大太鼓の上に立って神夫知と称する少年が神前に向かって、軍配を片手に、雨乞いの願掛けの口上を述べ(ビデオ5)、太鼓の一番手の「ドドーン」を合図に全部で12段、91節の唄と踊りが始まる。全部終るには、丸々一日、時には二日にわたることもある、という大掛かりなものである。雨が降るまで続けられるのだろうか。幸い今日この頃は、少年の口上にあったように、日照りは少なく、踊りを忘れない程度で結構だという。今日では、五穀豊穣を願う祭りの一環として、その一部が選ばれ諏訪神社に奉納される踊りとなっている(ビデオ6)
 踊りは滞りなく3時過ぎに終り、紅白の餅撒きが始まった。かってを知った地の見物人たちは、拝殿から降ってくる餅を受けるビニール袋を手に待ち構えている。撒かれた餅全部がビニール袋に収まるわけではなく、上を向かず下を向いて地面に落ちたのを拾うこともできた。Goen-Mochi撒かれた餅の数は1500個、その中の200個には五円玉が仕込まれていた。一行五人の中二名が見事にこの福餅をしとめた。もちろん、五円玉が入っていると分かったのは、家に帰って焼いて口にした時である。こんな仕掛けがあるとは夢にも思わなかった。何はともあれ、めでたし、めでたし。

[3] 田山の花踊りの起源
 今のところ、最も古い田山花踊りの記録は、安永2年(1773年)に奉納した、というものである。それ以前の事は詳らかでないが、歌詞や踊りの形態から相当古くから伝承されてきたとされている。「京都府相楽郡南山城村田山の花踊りについての考察」という水原渭江の論文には、柳生藩との関係について興味深い考察がなされている。踊り手の周りにいた天狗や棒を持った人たちや山伏等の意味について次のように記している。
 「それは天狗流棒術であったことは、道化とともに天狗がいることによっても十分想像されることで、たとい、長谷川流とはいえ、棒振り、払い棒、といったものとの関連を考えてゆくと、こうした疑問は解決出来るはずで、山伏という、いわば似てもつかぬ要素が混入したと考えるよりは、むしろ、修験者の棒術の影響を受けた柳生藩の長谷川流がそもそも天狗流であったと解すべきかと思われる。また神社を管掌した観音寺の修験文化の投影とも考えられる。
 しかし、天狗が裲襠とおぼしきものをつけ、鳥甲をつけているあたりは、舞楽的な余薫をかぐことも出来る。ササラをもつところは田楽といった要素も認めることが出来るが、その影響はほとんど消失してしまっている。こうした芸術的要素は江戸時代に入って付け加えられたものと考えられる。
 柳生藩における田山の石高は550石で、かなり重要な地域であったことがわかる。そうしてまた、交通の要衝にあったことなどから考えると、祭礼の形式に武家的なものが多分に遺されていることも理解することが出来る。」
 さらに彼は、踊りの唄の唄い方に鎌倉時代の詠いの原書的なものが残っていること、歌い手の動作に猿楽能らしい遺響が認められることから、鎌倉時代の初期を下ることはないと結論づけている。そして上記のような新しい要素が江戸時代に加わったものとしている。

[4] 雨乞いのやり方
 この解釈では、何日も雨が降るまで踊られたという、本来の目的の雨乞いの要素はどのに位置づけられるのだろうか。先の論文では、簓(ササラ)を持つところは田楽の要素もつと簡単に記しているものの、農民的な要素については深く言及されていない。こちらがそもそも起源ではなかったのだろうか。とすると鎌倉よりずっと以前に翻れるのではなかろうか、と素人の勝手な解釈が一人歩きし始めた。この辺で打ち止めとしよう。
 と思った途端に、「田山花踊りについて」というきわめて興味深いブロッグ記事を見つけた。ここには、雨乞いの仕方がきわめて具体的に記述されている。復活当時は諏訪神社の祭礼の日10月17日に執り行われていたが、いつの間にか11月3日の休日に行われるようになった。校庭で踊られたのは愛宕踊りの三番までで、続きが諏訪神社の境内に練り込んで踊られたのである。休憩を挟んで、愛宕踊り以外の踊りは、適宜二曲が選ばれて奉納されたのだった。それで3時過ぎで終わった訳である。
 雨乞いの本来の姿は次のように極めて複雑なエンドレスの構成となっていた。
 花踊りは願掛けした後に奉納する願果ての踊りであり、伝承によれば花踊りは願掛け最終の段階で、雨が降っても降らなくても行われるものだった。その願掛けはまず「こもりの願」という願掛けから始まる。三日以内に雨が降ると、氏子が神社でお籠りして、願果たしの約束をする祈願を行う。三日以内に雨が降らないと「願が流れた」として次に「青物願」をかける。以降、三日間ごとにあらたな祈願おこなう。
 「青物願」では、願がかなうと各戸より一種類の青物を持ち寄って神社に奉納する。続いてそれでも雨が降らないと、「供の願」といって各戸より米を持ち寄り蒸し米にしてそなえる願があり、「百灯明」または「百八灯明」といって灯明をその数だけ供える願、千灯明の願、組ごとに大燈籠に火を灯して供える大灯籠の願、組ごとに切子灯籠を作って供える「切子灯籠」の願、組ごとに藁を芯にした人形を乗せた灯籠を作り供える「山灯籠の願」、「臨時大祭の願」、自由な衣装で集まって酒を飲み芸を披露する「総いさめの願」と果てしなく続く。それでも降らない時には「ふりかけ踊りの願」といって、三日間続けて衣装も自由で小道具もつけずに「花踊り」の踊り方で夜に踊り、それでも降らないと昼から踊り、さらに降らないと朝から踊る。そして胸に鞨鼓(かんこ)をつけて花踊りを踊る「かんこ踊りの願」、背中に「シナイ」の代りに笹をつけて踊る「笹踊りの願」と続き、最後に「花踊りの願」となる。花踊りの願は三日間という期限をつけないで、願がかなうまで行われる。願のかなう雨とは、総茅葺きの籠堂の屋根からしずくが垂れるほどの雨でなければならない。この花踊りの種類には、愛宕踊(9節)、庭の踊(5節)、御殿踊(6節)、陣役踊(18節)、鎌倉踊(5節)、綾の踊(7節)、屋敷踊(5節)、手きき踊(5節)、姫子踊(8節)、十九踊(7節)、八ツ橋踊(9節)、御庭踊(7節)の12段91節がもあった。
 以上は「田山花踊り」の記事を少々書き換え分かりやすくしたものである。計算すると45日降らないと、最後の花踊りを行ったことになる。かつての農民たちは、何と凄まじいエネルギーの持ち主だったことか。感服の至りである。
「田山花踊」は安永2(1773)年に奉納したという記録が残っている。これまで田山区に残された古文書によると、一度途絶えることになった大正14(1924)年までに15回行われたという。old phot of Hanaodori
大正13年の大旱魃のときの願済奉納の様子が残されている(右写真/クリックで大きく出来ます)。
 諏訪神社の地続きに観音寺がある。江戸時代は神仏習合で、花踊りに山伏が登場するのも、神社を管掌した観音寺の修験文化の投影とも考えられる。この地区の修正会(しゅしょうえ)即ち「おこない」は、今でも正月六日に檀那寺である真言宗観音寺で行われている。
「おこない」は、年頭に罪や穢れを祓って豊作を祈願する正月行事が仏教化したものといわれており、滋賀県の湖北や南部の甲賀地方で今でも盛大に行われている。様々な様式があるが、この行事の導師は僧侶が行うことが多く、僧侶が穢れを祓うという、まさに神仏習合の行事である(「やぶにらみの民俗学 二月は「逃げる」と言いますが…」参照。
 当日、トイレを拝借に、観音寺を覗いてみたが、ひっそりとしていて、今は祭りとは何の関係もなさそうだ。本寺は約550年前に建てられた長谷寺の末寺で、本堂には、鎌倉時代から室町時代にかけてつくられた十一面観音坐像と立像があるという。広い墓地があり、第二次世界大戦の戦役者の背の高い墓碑がずらりと並んでいたのが印象的であった。この大字田山からも多くの戦死者を出したのだ。

[5] 海住山寺とヤマモモの巨樹
 田山から加茂駅に帰る途中、私たち巨樹マニアの意を汲んで、Kさんが自宅の上にある海住山寺のヤマモモの巨木を見に連れて下さった。帰りは高山ダムの側を通る道から国道163号線に出て西に下る。笠置を過ぎると山峡が急に開けて木津川の流れが緩やかになる。このあたりは、瓶原(みかのはら)と呼ばれた地で、奈良から見ると「山の背」となるため山背の名が発生し、この名が、後に京都の国名となる「山城」の語源だという。現在の加茂町である。「みかの原湧きて流るゝ泉川、いつ見きとてか恋しかるらん」との小倉百人一首の兼輔の歌で広く知られた地である。天平13(741)年、ここに恭仁(くに)の新京が造営され平城の都が移った。一時は、山城の国分寺、川を隔てて、北に僧寺、南に尼寺等が甍を連ねたと言うが、天正17(745)年には、再び奈良に還都した。わずか5年の短い間だったが、人の記憶には長く残ってきた。万葉集に「三香の原 久邇の京は 荒れにけり 大宮人の還ろひぬれば」と歌われている。
 この由緒ある瓶原を一望に納める海住山、即ち三上山(さんじょうざん)の中腹、Kanatsuji-ke海抜200mの地に海住山寺がある。Kさんの自宅前から車一台通るのがやっとの細い葛折の坂道が寺まで続いている。坂道の角を曲がるごとに、ぐんぐんと高度が上がり見晴らしが開けてくる。車ならあっという間に、山門前の急な階段を迂回して境内横の駐車場に到着できる。30年前、国鉄の加茂駅から歩いて登ってきたことをかすかに思い出す。
 海住山寺はもともと、恭仁京造営の前、天平7(735)年の良弁による創建で、藤尾山観音寺と称した。保延3(1137)に灰燼となり、その後承元2(1208)年、笠置寺の解脱上人貞慶によって中興され、補陀洛山海住山寺と名付けられたのが、現在の寺基である。「瓶原の平野と、そのかなたに連なる山なみを海に見立てたとき、まさしくこの海住山は、南海の洋上に浮ぶ補陀洛山のごとくであり、とりわけ、うす曇りの日に山上から眺める光景はその感を深くし…」(補陀洛山海住山寺小誌より)と書かれているごとく、今日の薄曇りの日和は絶景であった。
 ちょうど秋の特別公開に当り、一万坪の境内ことごとく公開されており、五重塔(国宝)、本堂、文殊堂(重要文化財)、本坊が拝観できGojuuno-touた。五重塔は初重の屋根の下に裳階(もこし)が復元されており、現存する五重塔で、この裳階をもつのは、海住山寺と奈良の法隆寺だけだという。一階部分は一段高くなった床に内陣がしつらえられ、その四面には扉がもうけられていて、あたかも厨子を作り付けたような形になっている。初重での法要にあたって、雨がかからぬように裳階がもうけられたとのことであった。小さな四天王像もここに安置されていたが、今は、奈良の国立博物館に所蔵されている。幸い特別公開に当って里帰りしており、本堂のガラスの陳列台の中に見ることができた。また中心の支柱が初層の天井で止められている点が建築史上有名であるというので懐中電灯をかざして中を眺めてみたが、よく見えなかった。本堂ではご本尊の十一面観音像(重要文化財、平安時代作)を拝し、本坊の狭いながらも見事に手入れされたお庭を眺めながら一時の休息を得た。
 文殊堂から本坊へいく右脇の斜面に、目的のヤマモモの大木が悠然と聳えている。Yamamomo
30年前に見た姿と少しも変わっていないという印象を受けた。京都府のしぜん200選の一つに指定されている名木で、幹周りが5.8mもあるとてつもない巨木である。
 その側にはカゴノキのこれまた見事な大木がある。さらにその脇には、太い電柱のような主幹が、まっすぐに天高く聳えているモチノキのがあった。小刀で傷をつけたような跡がいっぱいあり、とても堅そうな木肌からモチノキに間違いはないだが、あまりに主幹が高く枝葉からモチノキと判定できず、思わずお寺の方に「何の木ですか」と訊ねてしまった。30年前に訪れたときには気がつかなかった。
 なお境内にはユニークなお地蔵さんなど、いろいろな形で願いを叶えてくれるものが設Nasuno-koshikake置されていた。「苦ぬき」観音、「一言」地蔵、「もち上げ」大師、そして極め付きは「なす(成す)」の腰掛けである。また、文殊堂の南の植え込みのかたわらに、岩風呂がある。これは長さ2m余り、幅1mほどの花崗岩をくりぬいた水槽で、正嘉2(1258)の紀年銘が刻まれている。同じようなものが、木津川の対岸の岩船寺の門前と浄瑠璃寺の庫裏横でも見られる。用途は冷水浴用で、大湯船が破損した際、急遽、作られたもとと推定されている。浄瑠璃寺にそのようなことを記した文書が残っているという(工藤圭章「美術文化シリーズ 71 海住山寺」中央公論美術出版, 1968)。

後日談
その1
 無事、5時過ぎに加茂駅まで送ってもらって、ちょうどホームに入っていた木津方面行き列車に飛び乗った。ほどなく木津についた時、京都方面行きの列車にうまく連絡していた。階段を登り2番線に降り立ったとき、ちょうどホームに入ってきた電車に乗った。夕暮れの曇り空の中を出発したものの、何か様子がおかしい。ほどなくすると加茂駅に舞い戻っていた。要するに、木津駅の2番線ホームは、奈良線の京都行き(上り)電車と、1988年に加茂ー木津間が電化され大和路線の愛称が使われるようになった関西本線の加茂行き(上り)電車に共用されているのである。慌て者の京都人には使い難い駅である。
Kidueki-noriba

その2
 10日ほどした、11月14日の京都新聞朝刊に1ページ全部を使って、田山花踊りの記事と写真が掲載された。記事はそれほど長くはないが、花踊りの様子と歴史が手短に要領よくまとめられていた。何枚ものカラー写真が、当日の生き生きとした祭りの様子をよくとらえている。その中の一枚は、旧田山小学校から諏訪神社までの行列を諏訪神社側から撮ったものであるが、行列に見物人達が混ざった光景が映し出されている。その後ろの方に、筆者の姿もあったのにはびっくりした。

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