洛中洛外 虫の眼 探訪

描かれた巨樹
もくじ
2011年 6月
[1]利根川図誌の巨樹名木
[2]清水寺 成就院の樫
[3]旧桂宮邸の肉桂
[4]西行桜と「求め来かし」の梅



[1]利根川図誌の巨樹名木         2009年02月01日
はじめに  寒中に巨樹名木を見に行くのは、おっくうである。木も冬眠中、周りがざわめくのは望まないだろう、とかってに考えて屋内で巨樹巡りすることにした。江戸時代に書かれた名所図絵や地誌の本、旅日記などを紐解くと、多くの巨樹名木に出会える。見事な図版に出くわす事もある。その木が現存するか調べてみるのも楽しい。それらを丹念に集めてみたいと思って、いろいろな資料に当ってきたが、これは大変な作業だ、腰を据えて取りかかる必要があると分かったのだが、なかなか腰が座らない。えっい、とりあえず取りかかろうと、年明けから岩波文庫の赤松宗旦著「利根川図誌」を読み始めた。この本には見事な書圖があるのにひかれたからである。一人の絵師が描いたのではない。著者が長年かかっていろいろな絵師に依頼して描いてもらったものが掲載されている。「巻中の書圖、名印無きは葛飾北斎なり。」と著者の凡例にも在り、また「利根川図誌に描いた絵師たち」という研究論文まであり、この書は底が深そうである。素人がかじれるものでなさそうだが、巨樹愛好家が書中の巨樹名木の記事を抜き出すぐらいできるだろう。
 岩波文庫に入っている「利根川図誌」には、柳田國男が長い読み応えのある解題を書いている。その冒頭に次のような一文がある。

 此書が世に公にせられた安政五年から、ちゃうど三十年目の明治二十年の初秋に、私は遠い播州の生まれ在所から出て来て、此地で医者をはじめた兄の家に三年ばかり世話になった。さうして大いなる好奇心を以て、最初に読んだ本が此の「利根川図誌」であった。それから叉五十年、其間に利根の風景も一変した。

 此の解題が書かれたのが昭和十三年、1938年7月である。それからさらに七十年が経過した今、此の書に叙述されている、現存するかどうかも定かでない巨樹名木のリストを作って何になるのか、と自問はするが、木の命は長い。150年前に存在していたものが、すべて無くなったとはかぎらないのでは、と思い直して、まずは図版も含めて150年前の利根川流域の巨樹名木が記述されている項を抜き書きすることした。ちょっと大げさな前書きであるが、以下はその巨樹名木のリストに過ぎない(項目の後の括弧内に岩波文庫版の該当ページを示す。青色の項目は図版があることを示しており、クリックすると現れる。

巻 一

   記載なし

巻 二

靜女舞衣(p.80)
  日光駅程見聞雑記上巻、栗橋條云、宿の西十町程入りて、伊坂の内寶治戸といふ所に、静の墓印の杉の大木あり。静御前義経の迹を逐ひ此の所に來り、奥の高舘にて戦死すと聞きて、俄に病で死たるを葬りしとなり。蒼の下に一言の宮とて禿倉あり。杉高さ六丈七尺、張り十五間、圍二丈三尺。

大櫻(p.85)
 日光驛程見聞雑記上巻、中田の條云、宿より東の方一里足らず、大山という所に、大光院といふ修験の寺あり。寺内に圍三丈程の櫻の大木あり。單辨にて香ありといふ。

大柳の圖(p.107)
 関宿城東半里許葦場といふ處に在り。故に葦場の大柳といふ。中利根川より三四十間南方、堤の内、園のなかなり。廿年前は枝の下一丈許ありという。今は草地と為れり。大枝三に分かれ、各太サ三四圍、南北延袤十四五間許、南の枝に朴樹の寄生あり。大四尺許。その本幹の蟠るに因みて命けて蛇柳といふ。一奇事あり。時としてこの柳北にみえて、夜行の舟に方向を失はしむ。此蓋し蜃楼の類にして、川北の空気に映ずる者なり。是を以てまた妖柳という。
[註]
此の大柳に関しては、青木利雄氏の「蛇柳考」(利根川文化研究,22,2002,利根川研究会刊)と題する調査報告があり、また、機会を見つけて紹介したい。

女夫松(p.116)
 長谷村(鵠戸沼の傍に在り、結城のゆんでにして岩井街道といふ)香取の社在り。圍一丈許、その葉晝は常の如く、夜は合して離れず。故又眠の松ともいふ、これを煎服すれば難産の患なしとて、人々取貯ふ。この香取の社より一町許北に、乳房の觀音あり。

御墓松の圖(p.135)
 小文間第六天山の東に在りて、利根川に近し。(この邊すべて西方といひ、その山下を南ネガラといふ、川の向は芝原なり)。小文間の城主一色氏の墓標なり。古はその下に五輪塔ありしといふ。頗る大樹なり。景色最も佳し。


巻 三

梅替の松・松替の梅(p.150)
 端龍山來見寺の項中) …この寺の住職は、昔遠州にて能く知らせ玉ひし僧なりしかば、望を申すべしと仰有りしが、堅固の道心人にて嘗て望なしと申上げける故、一入御褒美ましまして、庭前んび小さき松の有りけるを御所望あり、その代として梅を被下たり。今に御城矢來御門の内に、梅替の松とて大木あり。又來見寺に松替のい梅とて本堂の前に在り。この梅に御朱印三十石を被下といふ。因つて布川の事を松替の里といふ由なり。……
[註]
布川大明神の圖(p.151-152)
 図中の来見寺が描かれており、その庭中に松替の梅がある。


巻 四

名馬塚(p.223)
 (結縁寺の)本堂より未の方二丁計にあり、櫻の大木有り手道路を覆ふといえども、公役も其木をさまたげずといふ。
[註]
結縁寺村の圖(p.224)
 右上隅「名馬ツカ」とある

大楠樹の圖(p.233)
 右古城(臼井城)跡の内、西北の隅にあり。側に山王權現を祭る。楠の周圍五丈餘、また東の方へ九尺計隔てて、めぐり一丈ばかりなるが二本在り。枝の根付きたるものなりと云へり。其奇なること圖を見て知るべし。むかし此樟のもとに大蛇住みて、折々人を捕食ふ。何人の退治したりけん。其大蛇の皮なりとて、方二三尺ばかりにて鱗は四文錢程なるを、同所の實蔵寺傳へ持てり。予も見まほしく尋ねしが、如何したりけん、近頃は見せずと云へり。

関連記事
1. 古城の地圖(p.239)
 左下隅に「楠」「山王社」とある。圖の由来は以下の通り。
 「書成(ふみなり)筆をとりて今の有様を圖して予に示す。即ち是を北斎に縮圖なさしめて左に出す(臼井城跡の項p227)」
2. 圓應寺に傅ふる舊記中の「圓應寺草創記并八幡宮天神祠造営」(p.231)に、 「輿胤初相地于此時、自以所携之楠樹枝植地曰、若此楠樹活而生葉、以為靈神句來格之證。然後其樹繁茂碩。(今神前有是、周三丈計)」とある。
3. 臼井八景の図(p.239) 
 左端の「州崎晴嵐」の側に「クスノキ」が描かれている。
4. クスの残骸
 2001年12月現在、残っていた。今もあることを願う:千葉県佐倉市臼井台408番地 臼井台八幡神社 幹周8.7m 樹高約5m(「木の葉のゆりかご」参照))


巻 五

龍角寺龍神の社の松(p.269)
 相馬日記云、(中略)その洞穴の上に、國内第一の大なる松木の、根ひとつにて七本にわかれたるがさしおほへりとぞ。

大杉大明神(p.281)
 阿波村にあり。別當龍華山安穩寺、往昔より今宮大杉大明神と崇め奉る。
[註]
阿波大杦殿の圖(pp.282-283)
 霞が浦の下に「神木」と書き加えられている。作者は山形素真、号は揺月斉、落款あり。なお、「利根図志」の絵師については、川名登著:「利根図志」に描いた絵師たち(利根川文化研究, 2, 1991年, 利根川文化研究)に詳しい。

朝日[ケサ]淵(p.293)
 今は淵瀬かわりて草地なり、大なるしだれ柳六七本ありて、其下に碑あり、…
[註]
朝日淵の圖(pp.291-292)
 絵師素真の落款あり。

神崎明神のなんじゃもんじゃの大樹(p.308)
 鹿島日記に云う、かうざきの神社に詣づ。社の前になんじゃもんじゃとよぶ大樹あり。いと年へたる桂の木なりけり。
[註]
1.
神崎明神の圖(pp.306-307)
 左ページの利根川へ突き出た高い円い山の上に「神木」と添え描かれている。素真の落款
2. 押砂河岸よ里神崎眺望の圖(pp.310-311)
 円い山が利根川へ突き出た様子がよくわかる。側に「神崎の森」とある。
3. 著者宗旦冩真「山桂」ナンジャモンジャ(p.309)
 本草綱目月桂の條を引用して「枝葉とも樟脳の匂いがする」と記しており、タブノキではないかと思われる。

香取大神宮 名所(p.317)
 …、木母杉、弓掛杉、三本杉、…
[註]
1. 香取大神宮鳥居の圖(pp.318-319)
 何本もの杉が描かれている。絵師素真の落款あり。
2. 香取日記云、香取神社にまうづ。御まえの庭に大なる杉に?(まき)に二本たてり、そのさまいく千代ふりけんものともしらず。このほかにも老木若木の杉いとおほかり。


巻 六

海雲山長勝禅寺(p.333)
 馬場の兩がは松の並木、(中略)堂のかたはらに臥龍松、前に文治梅あり。

鹿島大神宮 七不思議(p.343)
 [のひとつに]、根あがり松[を掲げる]

鹿島大神宮の神木(p.350)
 安永道の記(徹山君)に、(中略)御本社の内に神木の杉、まことにすざましるいくとせ經たるものぞ、木高くつと[つと]に、かの主膳こまやかにかたる。
[註]
鹿島神宮の圖(pp.346-345)
 当該の杉が、正殿横に神木と書き添え描かれている。「立斉謹写」ときされている。「立斉」は初代広重の「一立斎広重」のこと。川名登:「利根図志」に描いた絵師たち(利根川文化研究, 2, 1991年, 利根川文化研究)を参照。

七本木(p.357)
 小見村の冨光山徳聖寺庭中にある銀杏の木をいふ。此木周り二丈ばかり、これに寄生六本あり。そは樟・松・楓・南天・竹・ウシコロシ是なり。銀杏とともに七本あり。依つて名づくといふ。

四季咲の櫻(p.358)
  [五郷内村樹林寺の]庭にあり。周り五尺許、石の玉垣をめぐらす。花一重なり。むかし小見川に有りし櫻の種なりと或人いへり。

椿の海(p.358)
 今干瀉八萬石といふは是なり。香取志云、神宮を相距る事六里許、香取・匝瑳海上三郡の交に接す。周匝十里餘、此湖水今は消歇して田園となれり。古老傅へて言う。大古此所に最大なる椿樹あり。高さ數百丈、枝葉三里の間に扶疎し、華咲く時は天紅にして、散る時は地に錦を敷くかと疑はる。吾大神つねに影向し玉ふ。此木壽盡きて根と共に自倒る。根の跡湖水となる。因って是を椿の海といふ。上枝の方を上總といひ、下枝の方を下總といふ(略)。

 に文中で言及されていないが、圖中に大木とおぼしき樹木が描かれている圖を採録しておく。樹種については確定できぬものが多い。

1. 布川魚市之光景(pp.54-53)
 雲の下から小枝に小さな葉をいっぱい付けた丸い樹形の木が覗いている。キンモクセイ(?)なら相当の巨木である。

2. [魚扁に連]魚(サケとフリガナあり)大網の圖(pp.68-67)
(註)
 土手に一本喬木が描かれている。枝振りからしてエノキに見える。
(註)本文p.59に「[魚扁に連]魚(れんぎよとフリガナあり)は朝鮮名にして,東醫實鑑巻二十一に見え、日觀要攷にも鮭([魚扁に連]魚)と註せり。鮭は和名鈔巻十九に載せたる鮏の誤りにして、本義はフグなり。(山海經巻三赤鮭の郭注に、今名鯸[魚扁に台]爲鮭魚音圭といへり)。サケに非ず。されど通用には鮭を用ゐるも可なり。」とある。

3. 布施弁辯天社の圖(pp.112-113)
 関東三弁天のひとつ。曙山の櫻楓を望む景勝の地にある。右手の土手のうえ、左手の石垣の下、さらに本堂左手、石碑の後ろに喬木が描かれている。エノキ、ケヤキのたぐいであろうか。

4. 印西合戰の挿絵(pp.198-199)
 右ページ(p.198)右下に玉蘭斉貞秀畫とある。玉蘭斉貞秀は、天保初年から明治初年まで活躍した浮世絵師。彼の事蹟については、川名登著「利根図志」に描いた絵師たち(利根川文化研究, 2, 1991年, 利根川文化研究)に詳しい。極めて興味深い史実が書かれている。掲載したのは左半分の図であるが、典型的な樹形の立派なマツが、多くの武者たちに囲まれて、描写されている。さすが、名のある浮世絵師の筆である。

5. 成田山新勝寺の圖(pp.252-253)
 成田山新勝寺の鳥瞰図。図中に何本かの大きな樹木が描かれている。延命院前庭にエノキが、本坊庭にイチョウもしくはケヤキが、その奥の御茶屋横の土山の上にヒノキらしい高い木が、弁財天前にサクラが、その中にはヤナギが、通眼院脇にエノキが、さらに右側の仁王門から本堂へ至る境内には杉が何本か描かれている。其の奥の妙見宮にもスギが描かれている。

6. 栗林義長典傳の挿絵(pp.278-279)
 素真の落款あり。絵は、三人の子供までも設けた狐の女房が、八年して根本が原の古塚へ泣く泣く別れて帰る場面を描いたもの。図中に「みどり子の母はと問はゞ女化の原になくなく臥すと答えよ」と書き加えられている。右から左へ傾いた老木が描かれているが、ごつごつした木肌、枝振り、枝先の葉からして庭先のサルスベリではないかと思われる。

7. 兒塚の挿絵(pp.300-301)
 素真の落款。高い鳥居のある兒大明神が、ヒノキのような背の高い針葉樹に囲まれている。反対側の源太河岸から滑川観音へ到る街道沿いに面白い樹形の木が大小二本描かれている。樹種不明。なお、図中左の一文は「白波に浮名をながす兒の原戀ぢにすつる身とも聞かばや 道興准后」と読める。

8. 石出より常陸の砂山を見る圖(pp.360-361)
 絵師は湖城喜一。喜一の落款あり。湖岸沿いに見事な松林が描かれている。石出は砂山に相対した風光明媚なところとして知られていた。



[2]清水寺 成就院の樫          2011年01月25日
成就院の樫の木
 低く直線的に刈り込まれた生垣に囲まれた平庭いっぱいに樹冠を広げた二本の堂々たる巨木がそびえている。左の木の根元は根上がりとなっている。右の木は板根を張っており、いずれも相当の古木と見受けられる。六人の描かれた人物は豆粒ほどにしか見えないほど高く枝を張り、固そうな葉を繁らせている。生垣の背後は晩秋を思わせる景色である。二本の常緑の高木はイチイガシではなかろうか。
成就院西庭部分 絵は秋里籬島の「都林泉名勝図會」(1799年、寛政11年刊行)の巻三の清水寺成就院の挿絵からとった。清水寺境内北東にある本坊の成就院の庭は、北向き書院の北側にある。「雪月花」の洛中三名園の一つで、「月の庭」として知られている。「宝塚歌劇団」の雪組・月組・花組はここからきたという。池に映る月を愛でるの借景式池泉鑑賞式庭園(国の名勝指定)である。他の2つは、北野か祇園にあったという成就院(廃寺)の「花の庭」と妙満寺の成就院の「雪の庭」をいう。
 掲載した絵はこの北の部分ではなく、京都市街を眺望するの西庭を描いたものである。図中の右の垣根際の二人の人物は、その仕草から南西方向を眺望しているように見える。いったい何が見えるのか。右の拡大図で知れるように大仏殿である。絵の左側、垣根の外、樫の木の樹冠の下あたりに「大佛」と書かれている。大仏殿当時は、まだ今の豊国神社の背後あたり一帯を占拠していた大仏殿の偉容が見られたか、と云うと疑問である。「都林泉名勝図絵」の刊行年の前年の1798年に大仏殿は雷火で焼失しており、すでに焼跡でしかなかったはずだ。洛東の景観の最たるものとして、以前の描画をそのまま用いたのであろう。焼けていなければ、この庭から大仏殿が確かに見えたであろうことは、当時の洛中の鳥瞰図である黄華山作「花洛一覧図」で確認できる(上図)。
 ここから、西の方角に、愛宕山、五山送り火の一つ鳥居形の曼荼羅山、嵐山などは、今も望むことができる。この庭は非公開ではあるが、特別公開・夜間特別拝観が頻繁にある。絵はがきが売れなくならぬようにと、例によって写真撮影禁止。とこころが、雪に見舞われた去年の大晦日に拝観を許され、割烹ふじ原雪に埋もれた「月の庭」の写真を撮られた人がある。祇園の「割烹ふじ原」(花見小路富永町東入ル一筋目北側)のご主人である。右に掲げた看板の写真に免じて、その雪の「月の庭」の写真をちょっと拝借する。
雪の成就院
 二本あった樫の木は左手南の一本しか残っていないようだ。その根元に三角灯籠(基礎、竿、中台、火袋、笠、宝珠などすべてが三角形)が移されている。右側にあった樫の木はない。


[3]旧桂宮邸の肉桂             2011年02月20日

都林泉名所圖會の図中の説明では
『桂宮は六条の北、西洞院の西なり。いにしへ天暦の帝御別殿としたまう。門前に桂の大木あり。』とある。しかし、左手に描かれた、太い一本の幹が真直ぐに立ち上がっている木は、その枝振りや葉の形からみて到底カツラとは見えない。少し長くなるが図中の説明を読むと
『震旦より渡りたる僧の長秀は原医師にてなん有りけり。此長秀宮へ参けり程に桂の梢を見渡して桂心此国にありけれども人見しらず侍れとて、童子を木末に登らせて然々の枝を切下せといへは、童子云うに随て切下したるを、皮を取りて薬に遣ける。唐の桂心には増して賢かりけると云々』
 この話のネタは今昔物語本朝部の第24巻「震旦の僧長秀、この朝にきて医師に仕われる語第十」である。
 ここに記された「桂心」とは何か。三省堂の大辞林に
 けいしん 【▼桂心】
  (1)肉桂の皮からとる薬。
    「桂心」と云ふ薬はこの国にも候ければ/今昔 24」
  (2)肉桂の粉をまぶした餅菓子。[和名抄]
  (3)ヤブニッケイの異名。[日葡]

とあるように、桂心は木の名前としては、(3)の「ヤブニッケイ」である。(1)の肉桂はニッケイのことで、この皮が漢方薬の「桂枝」として古くから知られてきたもので、正倉院宝物としても蔵されている。巻首に「奉 盧舎那仏種々薬」とある「種々薬帳」には桂心(ケイシン)として記載されている。中国南部からベトナム北部にかけてが原産の肉桂(ニッケイ)の皮からコルク質を除いて製薬されたものである。(2)はシナモンのことである。これはセイロンニッケイからとれる香料である。
桂心

 「都林泉名所圖會」の著者である秋里籬島が此の書を刊行する12年前の1787(天明7)年に刊行した「拾遺都名所圖會」中の桂宮の説明では
肉桂3『むかし此宮の門前に何とも名のしれぬ大木ありしが、ある時異國の醫師來り、此樹を見て日本にも桂樹ありけるよといふ。即ち枝を打せらるゝに比類なき肉桂なり。人々驚き日本にも桂樹發生する事を初て知り、それよりは此宮を桂宮とぞなづけ給ふ』と明快に「肉桂」の大木があったことを記している。南中国原産の肉桂(ニッケイ)は暖地性の樹木で、おそらく中国の僧侶長秀が見たのは、日本産のヤブニッケイの大木であったろう。ニッケイは享保年間(1716〜1736年)に渡来し、栽培されていたらしいが、邸宅の門前に植栽されたとは思われない。おそらくヤブニッケイを本物(中国原産)Cinnamomum sieboldii Meissnerのニッケイと見誤ったものと思う。シーボルトの収集標品中にCinnamomum sieboldii Meissnerというのがあるが、これはは逆に中国産のニッケイの一種とされている。
 江戸時代の三大農業家の一人 大蔵永常の主著である「広益国産考」の巻七中には肉桂の栽培法が記載されている。肉桂栽培図/広益国産考その冒頭に、寛政の頃(18世紀の終り)の話として、不毛の地に肉桂を数万本植えて、大儲けをした侍のことを記している。また土佐の国の名産として「高知肉桂」が全国的に知られていることも書いている。今昔物語の話とは違って、ニッケイは江戸時代には、よく知られていた木だったのではないだろうか。たとえ木は知らなくても、それからできていた漢方薬の方は、庶民に行き渡っていたと思える。例えば、十返舎一九の東海道中膝栗毛の第六編巻之下の中にこんな件がある。
  北「…あなたのお薬袋には繪がいてござりますが、どういたし
    たのでござりますね」
一九 桂枝いしゃ「イヤ、お尋ねで面目ないが、
    生得手習をいたした事がない
    さかい。」
  北「ハハア、あなた無筆じゃな」
いしゃ「さようさよう、かいもく字が
    讀めぬ。むしくぢゃさかい、
    それでかように薬の名を繪に
    畫いておきますぢゃて」
  北「これはおもしろい。さような
    らその道明寺の繪は何でござります。」
いしゃ「コレハ、桂枝ぢゃて」

 ここの桂枝はニッキの若い細枝のことで、同じニッキの幹の皮である肉桂と同様に、温通散寒作用がある漢方薬。なぜ「道明寺」かというと、「道明寺」は初代中村富十郎の当藝で、彼の俳名(今で云う芸名)が慶子であるから「桂枝」となるわけであるが、字をおぼえる方がやさしいのでは、と云いたい可笑味がある。
 中国産のニッケイは樹皮を薬にしたが、日本産のヤブニッケイは昔はお菓子になった。寺田寅彦が「自由画稿」に
ニッキ水の子瓶『子供の時分にそうした市の露店で買ってもらった品々の中には少なくも今のわれわれの子供らの全く知らないようなものがいろいろあった。肉桂の根を束ねて赤い紙のバンドで巻いたものがあった。それを買ってもらってしゃぶったものである。チューインガムよりは刺激のある辛くて甘い特別な香味をもったものである。それから肉桂酒と称するが実は酒でもなんでもない肉桂汁に紅で色をつけたのを小さなひょうたん形のガラスびんに入れたものも当時のわれわれのためには天成の甘露であった。』
と書いている。
 ああ、そういえば「ニッキ」と呼んでいたお菓子ようのものがあったことを思い出す。牧野信一(1896年11月12日 - 1936年3月24日)の小品「肉桂樹」にこんな件りがある。
『「肉桂(ニッキ)をお呉れ、肉桂をお呉れ!」
 僕の姿を見出した子供達は、必ず斯う叫びながら僕のまはりをとり巻くのが慣ひであつた。肉桂(ニッケイ)樹の細根は、ほろ甘さを含んでハラハラと辛かつた。子供達は肉桂の根を噛むことの刺戟に、中毒性を覚えてゐるかのやうであつた。僕のうちの桑畑の、裏山との境ひにあたる木立の中に、評判の肉桂の大樹が繁つてゐた。二抱えもある幹で、瘤々の根が赤土の上へ下へと四方に蔓(はびこり)、根は更に数本の若木を育てゝ小さな林を成してゐた。梢の下にただずむと、若い樹皮が豊香を漂はせて、僕等の胸を掻き毮つた。山を滑つたり、生垣を破つたりして忍び込む肉桂盗棒の絶え間がなかつた。甘辛い樹皮の香りに魂を奪はれた彼等は、シヤベルや箆を携へては朝となく夕べとなく来襲した。』


[4]西行桜と「求め来かし」の梅      2011年03月25日
西行桜と留子樫の梅

 上の二つの絵は、京都の俳諧師秋里籬島が著し、大坂の絵師竹原春朝斎が描いた墨摺本「拾遺都名所図会」に描かれている西行ゆかりの桜と梅である。1787(天明7)年、大坂の書林河内屋から板行された新版中の図を、国際日本文化センターの平安京都名所図絵データベースに掲載されているものから採った。
 西行ゆかりの名所旧蹟は京都に何ヶ所もある。その中の二つ、桜と梅の旧蹟を眺めてみよう。

西行桜
法輪寺石碑 「西行桜」と題した右の絵の説明には「法輪寺の南にあり」とかかれている。法輪寺は嵐山渡月橋の南詰にあって、俗に「嵯峨の虚空蔵さん」とよばれ十三詣りに参拝する寺として親しまれている。この法輪寺の南のどの辺りに、この桜はあったのだろうか。同じ著者の「都名所図絵」にも、『法輪寺の南にあり。西行法師この所に住みて桜元庵と号す。今の証菩提院これなり。西行田といふ字の田地この辺にあり』ともう少し具体的に記し、嵐山の鳥瞰図中にその西行桜を描き込んでいる。
 法輪寺の表参道の前の石碑にも「左 西行桜跡 松尾神社 西芳寺林寺… 」と刻まれている。ここから松尾道を西行桜2南へ歩いていくと、5分程のところに西光院というお寺がある。
 ここが西行の庵址でここで死歿したとも伝えられている。寺には、植え継がれてきた何代目かの西行桜もあるが、あくまでも言い伝えであろうが、けっこう大きな桜である。
 西光院は、西行法師が住したと伝えられる2つの庵を起源にする西光寺という寺と、その少し南にあった西光庵の2寺が、1909(明治42)年に合体し、山号をニ尊山、西光院の西行桜寺号を西光院と改称した比較新しい寺で、現在まで約100年の歴史しかもっていない。山門のすぐ東隣に白塀から旧街道に張り出したこの桜の老木も、元々境内の北側にあった桜が長い歴史の中で植継がれてきたもので、これも現存の寺の年齢とさほど変らないだろう。
 この絵の左上には

『なかむとて花にもいたく馴ぬれは ちるわかれこそ悲しかりけれ』

と西行の有名な歌が書かれている。これをもじった梅翁こと西山宗因の名句

 『ながむとて花にもいたし首の骨』

も世に知られている。花見もまた骨の折れるものだという滑稽
宗因西鶴
(柿衛門文庫所蔵の「花見西行偃息図」(はなみさいぎょうえんそくず)。絵は西鶴の手によると推定されている。別冊太陽愛蔵版「俳句」に原寸で掲載されていたもをコピーした)

とめこかしの梅
 左側の図は「とめこかしの梅」である。新古今に

『とめこかし梅盛りなるわが宿を 疎きも人はをりにこそよれ』

という西行法師の歌がある。梅の花が盛んに咲いているわが家に、こちらから呼ばなくても、誰か来てくれないかあ。普段は人がくるのがを疎ましく思っているが、 このような時には来てほしいものだ、というくらいの意味だろう。その身勝手な、寂しい気持ちはよく分かる。
 図中の説明に「とめこかしの梅」のある場所が次のように記されている。
『西行上人とめこかしの梅は上賀茂の堤の南西念寺といふにあり 此所堤の下にて地形低により世に窪寺ともいう』

 ここにいう西念寺は明治の廃物稀釈で廃寺と成った。もとは上賀茂神社の別所【註】で、上賀茂御堂西念寺といった。ここに西行の姉が尼として住んでいたという。図絵の説明だけでは西念寺が何処にあったかは特定できない。千本北大路を上がった所に西向寺というのがある。ここに「二葉の弥陀」と呼ばれる瓜二つの藤原時代の阿弥陀如来坐像があり、この仏像の胎内に納められていた文書から、これらはもともとは西念寺の仏像で、明治時代の神仏分離で西念寺が廃寺となったので、西向寺に移座されたといわれている。これからして、ここから遠からずの賀茂川の堤防の下あたりに、窪寺と呼ばれていた西念寺があったのだろう。西向寺のウメもちろん、「とめこかしの梅」は今ある筈はないが、幸いそれを偲ばせる梅の古木が、西向寺境内に何本かあるは奇遇である。その中で、名所図絵の「とめこしの梅」と樹形が最も似ている梅の写真を右に掲げる。
 西向寺という名前であるが、現在の立派な山門は南面している。ところが、門を入って左手に広がる墓地を北に抜け、本堂裏の庭に通じる小路をいく途中に、小さな鄙びた閉ざされた門があり、これは西向きで千本通りの喧噪を遮っている。京都市が南門の前に設置した駒札の説明によると、寛永年間(1624〜1644)に、清誉浄顕(せいよじょうけん)上人が西向庵という名の草庵をこの地に営み、念仏弘通の道場としたのが西向寺の起こりだそうで、当初は西に向って草庵の門が開いていたのであろう。現在の堂宇は1752(宝暦2)年、6世俊龍和尚により再建され、その後、1882(明治15)年、本山知恩院から寺号を得て、西向寺と名を改めた、と駒札にある。右の写真の両脇の阿弥陀如来像がもと西念寺にあった「二葉の弥陀」である。
西向寺のモッコク  その外にも、この寺には見るべきものが多い。まず、江戸五木の一つ木斛(モッコク)。江戸五木とは、江戸時代に造園木として重視された、モッコク、アカマツ、イトヒバ、カヤ、イヌマキのことである。モッコクは現在でも京都の寺院でもちょこちょこ見かけるが、これほど立派に育っているのは珍しい。もっとも有名だったのは伏見区の海宝寺にある伊達政宗ゆかりのモッコクである。枯山水の庭を眺めながら普茶料理が頂けるこの海宝寺がある一帯は「桃山町正宗」と呼ばれ、仙台藩の藩祖伊達正宗の伏見上屋敷があったところである。ここのモッコクは伊達政宗お手植えと伝わるが、残念なことに10年程前から樹勢が衰え、包帯を全身に巻かれて、痛々しい姿をさらしている。しかし、西向寺のモッコクは元気いっぱい、濃緑の分厚い葉を幾重にも繁らせた若々しい姿をしている。それでも、推定樹齢700年とされている。これはちょっと信じがたいが、モッコクはツバキ科の一種で、成長の極めて遅い木であるから、この程度の幹廻りからして、相当の古木であることには間違いない。
 西向寺でもう一つ見逃しては成らないのは、明徳二年(1391年)の銘が入った「地蔵菩薩板石塔婆」である。これと、知恩寺の塔頭了蓮寺の阿弥陀図像板碑、東山正法寺の阿弥陀三尊種子板碑と併せて、「京の三板碑」の一つとして知られている。板碑は、いつ死ぬか分からぬ戦国の世に生きた鎌倉時代の豪族や御家人達が、生前に極楽往生を念じて建立した供養塔から発生したものといわれている。この板碑は、高さ190cm、幅58cm、厚さ6cmの緑泥片岩に地蔵菩薩を線刻したもので、像高 53cmの地蔵菩薩が蓮華座に立って、右手に錫杖、左手に宝珠を持った姿がうっすらと見える。この板碑も「加茂のクボミ堂という所にあったものを、明治初年に西向寺に移した」と伝えるから、西念寺にあったものだろう。


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