洛中洛外 虫の眼 探訪

洛外散歩
京の奥座敷 貴 船
2010年07月01日(Thu)
Kibune-cho 貴船町は、賀茂川の水源の一つである貴船川に沿った細長い、細長い京都市左京区鞍馬の一つの「町」である。同じ賀茂川の支流である鞍馬川と合流する地点、貴船口から始まって、川沿いに北へ行くこと2.8キロに亘る帯状の谷間の地である。ほとんどの場所で幅は40メートルにも満たない。両側を国有林ではさまれ、川と道路だけといっていい町である。この町には、貴船川の右岸に沿って走る離合の難しい狭い道路側の山際にへばりついて、料理旅館が何軒も軒を連ねている。旅館の奥行きはほとんどないから客は川の上の床で饗される。これを川床料理と称す【註】。水の流れがやかましくて、会話を楽しみながら食べられないのだが、特に夏場は、凉を求める団体客でごった返す。ちょっと信じられないのだが、近年は俗に「貴船宿」とよばれ、祇園・先斗町に拮抗するほどの賑わいだったという。今はさほどでもなかろう。
【註】立命館大学産業社会学部子ども社会専攻の伊藤隆司研究室の2008年の学生さんのルポルタージュ「京のお宝シリーズ」に川床料理が取り上げられていた。参考のために該当部分をコピーしたのがこの記事である:福島翔『納涼床ーかもがわの小さなお宝 そのに』

 国有林に接する北の町境に貴船神社がある。貴船神社は、南から総本社、中宮結社、奥宮と貴船川右岸に並んでいるが、最後の奥の宮は町外、国有林内にある。料亭の連なりはこの町境で切れる。
 つゆの始まる前の真夏の日差しを思わせる六月の初めの半日、凉を味わいに貴船に出かけた。出町柳発鞍馬行きの叡山電車に、一乗寺から乗って、貴船口で下車。そこから京都バスで貴船まで。貴船のバス停は、貴船神社の総社まで徒歩5分のところにある。ここから奥の宮までは、料理旅館を素見しながら歩いた。以下はその時の見聞記である。例によって道草しながらの見聞記であり、なかなか涼しいところに辿り着かないけれどご容赦下さい。
Eizan Densha 実時間で貴船口まで、というお方は、右の叡山電車の新車両デオ902「きらら」号の写真をクリックしていただければビデオをご覧になれます。

1 一乗寺から貴船口まで
 叡山電車一乗寺駅は曼殊院道の商店街と交差してある。普通は一乗寺商店街と呼ばれているが、商店街はここから東へ白川通りまでである。曼殊院通りはさらに東へ続く。八大神社のお旅所とその向かいにある宮本武蔵と吉岡一門が決闘した「下り松」といいふらされている交差点で左折して曼殊院に向かう。「下り松」の本当のことを竹村俊則の「昭和名所圖會」から抜粋しておく。
 下リ松は一に「降り松」とも記す。[市バス『一乗寺下り松町』下車、東へ100メートル余。左京区一乗寺下り松町にある。現在の松は四代目、昭和57年1月に植樹した黒松]京都旧市内より比叡山に至る道筋の途中にあるよき目印として、また建武の乱には足利勢や新田・楠木勢が下り松付近に於て対陣したことが『太平記』巻十五にみえる等、古くから知られた名松である。
 しかし、この松を有名ならしめたのは、平敦盛の北の方が、一ノ谷の戦にて戦死した敦盛の遺児をこの松のもとに捨てたところ、折ふし比叡山より賀茂社参の法然上人がこれをみつけ、拾いあげて養育し、のちに僧にしたという伝説に負うところが最も大きい。[平敦盛遺児説は、室町時代に成立した『御伽草子』中の「小敦盛」、謡曲「生田敦盛」によるものであろう]。
 しかるに、いつ頃にかここが宮本武蔵と吉岡兄弟が決闘したところといわれ、松の傍には「宮本・吉岡決闘之地」ときざんだ立派な石碑が建つに至った。この碑は大正十年(一九二一)篤志家によって建立されたもので、その銘文には慶長九年(一六〇四)宮本武蔵は吉岡清十郎と蓮台野(北区)に於ての試合に勝ち、その弟伝七郎と洛外に出て雌雄を争い、これを斃した。これを恨んだ吉岡の門弟達は清十郎の子又七郎と謀り、試合に名を仮りて、この地に於て武蔵と決闘におよんだが、又七郎は斬られ、門弟達は逃亡した旨をしるしている。
 この伝説は作家吉川英治の小説『宮本武蔵』に採り上げられ、ますます世に有名となり、今ではあたかも定説のようになっているが、真偽の程は保証の限りではない。[江戸時代に刊行された名所地誌のすべてに亘り、武蔵一乗寺決闘説については、何も触れていない。([ ]内は脚注)


Sekihi Sagqrimatsu それでは本当の決闘跡はどこであったのだろうか。洛中の西陣、一條小町通りの角に「一条下り松遺跡」という石碑が実際にあり、このあたりが武蔵の決闘跡と語り継がれてきたという。場所は小川と堀川が合流する地点で、西陣織発祥の地、現在の西陣織会館の近くである。道場主の吉岡憲法は「憲法染め」の家で、水質のよい水が豊富なこの辺りに住んでいたことはよくわかる、と「隣のおばあちゃん、成逸女性会」のホームページが伝えている。その訪問記から引くと、
 過日、一条下り松の遺跡を訪ねました。ここは私有地【筆者註:堀川一条東入る一筋目北東角、川端板金塗装のガレージ。なお、西向の小町ガレージには小町双紙洗水遺跡を示す石碑がある】で、普段は遺跡がトタンでで囲ってあります。持ち主の方にお願いして写真撮影に協力していただきました。なぜとたんで囲っているのか、お聞きしたところでは、約30年ほど前にこの土地を買って工場を建て商売を始めたが、自宅から出勤してくると石碑が道に投げ出されていたり、削られていたりと被害にあうことが多かった。夜間は非行少年のたまり場になっていたようで、縄で括って持ち出そうとした形跡などがあり、防衛上トタンで囲うようになった。道を挟んで小町双紙洗水遺跡があるが、これはセメンで固めて動かないようになっている。今度、工場を直す時には持ち出されないようにセメンで固めなくてはならない。と話され、宮本武蔵とここの関係はご存じないようでしたが、一条戻り橋は伝説の多い橋で妖怪の話があるところで、この石碑が盗まれようとしても、いつも未遂に終っているのは、この遺跡の霊が存在を主張しているのかも知れないなどと思ってしまいました。
 私の知り合いの古老は、「この場所に下り松が明治の中ごろまで現実にあった。松が無くなった後に記念碑が建てられたようです。大正2年の碓井小三郎著の「平安坊日記」には一条下り松の記述が無いので、松は消えていたものと推察される。古老の祖父(幕末生まれで本草学に造詣が深い)の話では、宮本武蔵と名乗る浪人が吉岡道場の門弟に怪我をさせて逃走し大騒ぎになった。この話はその後京すずめの噂になりそれが伝わり祖父の話として何度も聞いた。
 一条通りは昔、北陸、東海へ歩き旅する時の出発地点、下り松は目印で歩き旅が無くなるにつれて一条通りもさびれ下がり松も必要が無くなったと推察される」と言っておられます。


Hqchidqi jinjyq 話をもとに戻して、曼殊院道に沿って左に曲がらずにまっすぐ東に登って行けば詩仙堂である。そのうらに八大神社があり、先代の下り松の枯れ株と宮本武蔵のブロンズ像(2003年建立)がある。何と手の込んだことか。写真は八大神社の公式サイトから借用した。Ichijouji eki叡山電車一乗寺駅にも「宮本武蔵ゆかりの史跡」の案内板がかかっている。駅のある曼殊院道の傍には、背の高い「石川丈山先生旧跡 詩仙堂 東一町」の石碑が建っているが、こちらの方は誰も気付く人はいない。
 こんなことを思いめぐらしていた間に、八瀬行きの電車と二軒茶屋止りの電車をやり過ごしたあとに、ようやく鞍馬まで行く電車がやってきた。

2 一乗寺から貴船口まで 駅ごとに途中下車
 うら若き女性が操るワンウーマンカーは、修学院→宝ケ池→八幡前→岩倉→木野→京都精華大学前→二軒茶屋→市原→二ノ瀬に停車し、22分で貴船口に到着。ホームを駆け下りてバス乗り場に向かった。小用を足す暇もなくバスの出発を唱える声が谷にこだました。
 ここでは、各駅で途中下車して駅の名前となっている上記九つの地名の由来について調べてみた。おつきあいください。

修学院 一乗寺の北につらなる都市近郊住宅であるが、その名は、一条天皇の代【980年7月15日(天元3年6月1日)〜1011年7月25日】に延暦寺の勝算僧正によって建立された修学院が地名として残ったものである。院は数百年後に荒廃したが、その後は長く禁裡御料地であった。

宝ケ池 駅の西にある「妙法」の山(松ヶ崎東山)の背後にある溜池の名前に由来する。この溜池は1763年に作られたもので、水不足と干ばつ苦しんでいた松ヶ崎村にとっては宝に等しいものであった。初期は単に溜池あるいは北浦溜池と呼ばれていたが、2回の拡張工事を経た後の明治の末に宝ケ池と名付けられた。なお、この駅で叡山電車鞍馬線は八瀬に向かう叡山本線と分かれる

八幡前 鞍馬線の八幡前は三宅八幡によるが、八瀬に行く本線では三宅八幡が駅名となっているのに注意。三宅八幡は、社伝によれば八幡大神を尊崇していた南朝の忠臣備後三郎三宅高徳が当地に来住し、邸内の鎮守として祀ったのに因るというが、本当のところはあきらかではない。このあたりの近郊農村地帯は上高野という。その由来については「洛外探訪 上高野 祟道神社と蓮花寺」を参照。

岩倉 駅名は松ヶ崎の北にある盆地の地名に由来する。口碑によれば、桓武天皇が平安遷都に際し京都の四方の山に大乗経を納め、王城の鎮護とし、これを岩倉と称したのであるが、ここはその北の岩倉にあたる。なお、東は東山の大日山、西は大原野の小塩山、南は八幡の男山に岩倉があったという。南の岩倉については異説もあり、洛中の松原麩屋町東入石不動之町にある明王院不動寺が南岩倉であるとも伝えるが、岩倉幡枝にお住まいの渡辺隆三さんの「四岩倉探索」の論文冊子「桓武天皇の平安遷都における納経の地 京都四岩倉について」(1992年7月日)にあるように、八幡の男山の近くにある橋本平野山の猿田彦社境内地が南岩倉であるというのが正解であろう。

木野 現在では岩倉の一町名である。最近京都精華大学がやってきて周辺はすっかり様変わりしたが、この地に人が住み始めたころは「木ばかりの野っぱら」だったのだろう。その昔は禁裏や仙洞(退位した天皇である上皇や法皇の御所)に納めた土器造りの里であった。この地の住民は、もともとは嵯峨天竜寺付近に住んでいて、同地の愛宕・野々宮神社の神官を務めるかたわら、土器作りを生業としていた。応仁年間(1467〜1469)に埴土を求めて岩倉幡枝町福枝に移り、その後1573年にこの地を賜って転住した。当町には旧地の愛宕神社から勧請した愛宕神社がある。戦前まで行われていた土器造りの一端は次のレポートに詳しい。市川恭世「岩倉の女性 かわらけ作りから覗く」(京都精華大学嘉田ゼミ学生レポート 地域計画演習レポート:岩倉(木野・幡枝)の地域社会と環境変化,2003)

京都精華大学前 京都精華大学の、同大学による、同大学のための駅。叡山電車の最も新しい駅で1989年に開業した。この駅のホームはイタリアの建築家アンドレーア・パッラーディオ(Andrea Palladio)が設計したトラスト橋をもとに建設された跨線橋でむすばれている、というくらいしかこの駅については特記すべきことはない。
 
Nikenjyaya二軒茶屋駅 路線の西側を通っている鞍馬街道にあった二軒の腰掛け茶屋に由来する地名からきている。東西二つの鞍馬街道の合流点であったこの地は、むかし鞍馬詣での行き帰りに休息する人々でおおいに賑わったという。精華大学前当りを過ぎて二軒茶屋に出たところで、東の鞍馬街道が、賀茂川沿いを北上して京都産業大学を過ぎて原峠を登ってきた西の鞍馬街道と出会ったのである。このあたりの詳しい考証は、西村勁一郎著「探訪 京都・上賀茂と二つの鞍馬街道 その今昔」(著者発行, 2008)に譲る。
「一軒は早く廃れ、今は一軒を残すのみ」と1982年発行の竹村の前掲書にあるが、今はない。同書によれば、観月の名所でもあったらしく、俳人墨客の来遊することも多かったそうである。

Ichihara市原 市原は南に細長い出口を持つ、漏斗のような形状をした小盆地である。この盆地の東北の山際に市原駅がある。 
 大昔は櫟原とも一原とも書き、寂しい原野であったが、今は郊外住宅がひしめき合っている中に、1964年に移転してきた川島織物の本社工場と2001年に竣工した京都市のごみ焼却工場である東北部クリーンセンターがでんと居座っている。特に、ごみ焼却工場は西隅の山の斜面を整地した上にあり、その偉容が東の山沿いを走る車窓から丸見えである。
Kokinchobun shu

 往年は夕暮れに追いはぎのでるさびしい街道が山間の原野を渡っているだけであった。「古今著聞集」巻九(上の図)には、鬼同丸(鬼童丸)が、いわれあって、「市原野で放し飼いの1頭の牛を殺して体内に隠れ、頼光を待ち受けていた。しかし頼光はこれを見抜き、頼光の命を受けた渡辺綱が弓矢で牛を射抜いた。牛の中から鬼同丸が現れて頼光に斬りかかってきたが、頼光が一刀のもとに鬼同丸を斬り捨てた」という話が載っている。Kido-maru江戸時代これをテーマにした歌舞伎「市原野」が大喝采を受け、明治になってからもまだ、豊原国周【註】の役者絵などで市原野の名は世に知られていたようである。しかし、今では知る人も少なく、北東の山間に発した長代川にかかる橋の名前に、頼光の名を留めているだけである。この橋は市原の南の外れ、先ほど通過した木野駅から南西150メートルのところにあるが、今は府道106号線が拡張され何とも殺風景な場所となっている。
【註】豊原国周の逸話 
 住まいと妻を変えることが癖で、本人によると転居は117回であり、同じく転居の多かった葛飾北斎と比べ「絵は北斎には及ばないが、転居数では勝っている」と誇っていたという。近所の空気が気に入らないといっては移転し、版元が絵を依頼しようとしても居所がわからず困ったという。「今日転居して来て、明日厭気がさすと直ぐ引越し、はなはだしい時は一日に三度転じたが、その三度目の家も気に入らなかったが、日が暮れて草臥れたので、是非なく思い止まった」という話まである。妻も40人余り変え、長続きすることは無かった。はなはだしい時は次の日の朝までもたず、ことの最中に離縁を迫ったという。


 この長代川は南に流れて岩倉川に合流して高野川に入るが、市原盆地の北を西に流れている鞍馬川は賀茂川に直接入る。これが昔は大問題であった。賀茂川は、皇居の御用水として利用されていたから、その水源地にあたる鞍馬川流域の人たちは、その流域に死者を葬ることを慎まなければならなかった。それで鞍馬川の南にある篠坂あたりに葬った。いま、小町寺で通っている補陀洛寺、鞍馬街道を挟んで西側にある恵光寺、静林寺がある一帯は元来、静市・鞍馬両町の共同墓地であった。今でも丘陵台地上に広々と広がる見晴らしのいい墓地がある。
 応仁の乱の兵火を避け、母とともに鞍馬に疎開した三条実隆は、疎開先の鞍馬で母が亡くなって「一野原志野坂」に葬って、命日毎に墓参をしていた旨が「実隆公記」に記されている。

Ninose二ノ瀬 市原を出ると叡山電車は山岳鉄道の趣を帯びてくる。線路の両側から樹木が覆いかぶさり、東側の樹林の下に鞍馬川の深い谷が走っている。誠に深山に踏み込んだ気分がするが、最近、秋の紅葉の季節に、ライトアップがなされ人里離れた山奥の感じは台無しである。間もなく線路の右下に蛇行する鞍馬川に沿った小集落が見え隠れしてくる。この地は惟喬親王が閑居されたと伝える集落である。いまも親王の母を祀った富士神社と親王を祭神とする森谷神社(守谷神社)がある。元々は禁裏御料地であったが、江戸時代は林家の地行地となった。村内には、林羅山が1611年に家康から賜った領地であることを後世に伝えるために建立された奉先堂、若死にした羅山の子等のために建てられた三哀堂や観薦堂などがあったが、維新後荒廃し、今は二ノ瀬駅の北100メートルの山際に奉先堂碑が残るのみである。堂内にあった羅山の画像や遺品は今なお今江家に蔵されているという。

Kibune-guchi貴船口 ここから貴船川に沿って北へ1.8キロばかり行くと貴船神社である。気候がいいお天気の日であれば、半時ばかりの散歩は、腹減らしにもってこいの距離であるが、駅前には料理旅館の無料の送迎バスが待機している。また、電車の到着にあわせて京都バスが発着している。こちらは有料で160円。バスが待機している駅の下の道路を南へ100メートル行った所で、鞍馬街道は貴船に向かう道と分岐するが、この地点に大きな貴船神社の一の鳥居が建っている。その傍に楫取神社がある。社伝によれば、玉依姫が浪速より舟で遡ってこられた時、ここで楫を取り外して貴船へ向かわれ、水夫として奉仕していた楫師を祀ったといわれている。今でも万事うまく楫がとれますようにとの信仰を集めている。その北150メートルの所で鞍馬川と貴船川がT字状に交わっている。
 また、鞍馬街道沿いに北へ行くと鞍馬小学校が見えてくるが、運動場の際のムクの大木の下に「鬼一法眼之古跡」の石碑が建っている。鬼一法眼については、既に「 京都の虚樹迷木巡り ムクの巻」に書いているが、ムクノキの方は見逃さないでほしい。
 ちょっといちゃもんをつけるわけではないが、畏敬の年を常々抱いている「昭和京都名所圖會」の竹村俊則翁は、樹種については幾つも誤りを犯している。ここのムクノキは彼によれば、『樹齢六、七百年と伝える「くす」の大木』となっている。
 閑話休題。すぐに出発するバスをやり過ごして、新緑の椋の大木を見に行く価値は十分ある。

2 貴船口から貴船神社奥宮まで、巨木に会いに
 バスはあっという間に「貴船」のバス停に着いた。途中に「梅宮」と云うバス停があり、この間に、べにやと栃喜久の二軒の料理旅館がある。バスの終点から貴船神社の総社まで徒歩5分、結社中宮まで10分、さらに奥宮まで5分の道程である。バス停から先には、何軒もの料理店がひしめいていて、歩くのには、車の往来と呼び込みが煩わしい限りであるが、間もなく総社に着いた。  
 その手前に鞍馬寺の西門があって、鞍馬川を渡る薄暗い登り道が山を巻いている。以前、十数年前には、とてつもない太いフジノキが何本ものスギの幹と枝にまつわりついていたのが川沿いから見えたのだが、今日は見つけることができなかった。1980年の記録では地上1.2mのところで幹周り2.0mであった(京都市の巨樹名木補遺3, 1981)。その西門の北には大きなケヤキの古木が聳えている。空洞になった主幹だけでよく持ちこたえられるものだと感心するばかりである。
 総社の階段の脇にはスギとケヤキの大木が、階段をを登った左手には、カツラの御神木に会える。スギのスギらしい直な姿ケヤキの根元の奇態、主幹の回りにぐるりと蘖(ひこばえ:不定芽)をはやしているカツラらしいカツラの姿に見入るが、いずれも大きさはさほどでもはない。神木となっているカツラは、1973年の調査ではたったの2.8m、樹齢も150年と推定されている。古社の御神木としては格不足である。貴船川沿いには自生のカツラが多く、概ねこの程度に成長しているが、全国的に見れば子供も子供、赤ちゃん程度といってよいだろう。

 本殿に参拝もせずそそくさと総社を立ち去ったが、帰ってから貴船神社についてちょっと調べてみた。本来「貴船」は「木生根」であった。社伝にいう、黄舟に乗って浪速から玉依姫(神武天皇の母)がこの地に上陸して一宇の祠を営んだのが始まりである、というのは、単なる地名付会の伝説ですぎない。平安遷都後、皇居の用水の水源地として、水を司る神(高龗神)を祀っている。上賀茂神社の境外摂社として冷遇さていたときもあるが、現在では独立して、夫婦・男女の中を守る神として、また、逆に男女の中を裂いたり、縁切りを祈願する神としても、幅広く庶民に信仰されてきた。
 夫の保昌に疎んぜられた和泉式部が当社に詣でて、夫の愛を取り戻した話は有名である。「沙石集」巻十にある話では、霊験あらたかだったからではなく、参拝した和泉式部の姿を盗み見していた保昌が、彼女の慎ましい態度に感心した結果であった。原文では、その顛末が詳しく書かれている。
kirinuki1「和泉式部、保昌ニスサメラレテ、巫ヲ語ラヒテ、貴布禰ニテ敬愛ノ祭ヲセサセケルヲ、保昌聞テ、カノ社ノ木カゲニカクレテミレケレバ、トシタケタルミコ、赤き幣ドモ立テメグラシテ、ヤウヤウニ作法シテ後、ツゞミヲウチ、マエヲカキアゲテ、タタキテ三度メグリテ「コレ體ニセサセ給ヘ」ト云ニ、面ウチアカメテ返事モセズ。「何ニコレホドノ御大事思食(おぼしめし)立テ、今コレバカリニナリテ、カクハセサセ給ハヌゾ。サラバナドカ思食タチケル」と云。保昌クセ事ミテンズト、ヲカシク思フホドニ、良久(ややひさしく)思ヒ入タルケシキニテ
     チハヤフル神ノミルメモハヅカシヤ身ヲ思トテ身ヲヤスツベキ 
カク云ケル事ノ體、優ニ覺ヘケレバ、「コレニ候」トテ、グシテ返、志不浅。コレヲゾ、格ヲコエテ格ニアタレルスガタナレ。若格ヲ堅ク執シテ、マエカキアゲテ、タタキメグタラマシカバ、ヤガテウトマレテ、本意モトゲジ。」


彼女は、老巫女にいわれても「マエカキアゲテ、タタキメグ」ることができず、ただ顔をあからめて、恥ずかしい気持ちを歌にした。それで保昌の気持ちをつなぎ止めえたのである。しかし、一般には、無名草子にある話の方が上品で、よく知られているようだ。

Izumishikibu sekihi 保昌に忘れられて、貴船に百夜参りて
    物思へば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る
 と詠みたるなど、まことにあはれにおぼえけり。
    奥山にたぎりて落つる滝つ瀬に玉散るばかりものな思ひそ
 と御返しありけむこそ、いと尊(たっと)けれ


 ここに出てくる和泉式部の歌は、後拾遺集にも取り上げられて、境内に石碑(上右の写真、クリックで拡大)まであるが、貴船の明神に慰められて、まもなく夫の心がもとに戻ったと云うに過ぎない。面白くもおかしくもない。
 よく知られた謡曲「鉄輪」のもとになった宇治の橋姫の話が「平家物語」剣 巻 にでている。貴船神社のどこかに、ワラ人形を五寸釘で打ち抜き相手の男女を呪い殺すのに使われている木が今でも奥宮辺りにあるらしい。奥宮のベンチでサンドイッチをほおばっていた時、その場所を知らないかと聞かれたのには驚いた。
 宇治の橋姫の話とは、
 嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。女房悦びて都に帰り、人なき処にたて籠りて、長なる髪をば五つに分け五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて三つの足には松を燃やし、続松を拵へて両方に火を付けて口にくはへ、夜更け人定りて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃え上り、眉太く、鉄漿(かねぐろ)にて、面赤く身も赤ければ、さながら鬼形に異ならずこれを見る人肝魂を失ひ、倒れ臥し、死なずといふ事なかりけり。斯の如くして宇治の河瀬に行きて、三七日漬りければ、貴船の社の計らひにて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし。(国立国会図書館デジタルアーカイブ所載 鈴木種次郎編「平家物語 上編」(剣巻、巻1−4), 袖珍文庫第5編, 1910 / 上の文は3ページ後ろから4行目から4ページ後ろから4行目までの引用)

Kibune Jinjya keidaizu 貴船神社は、水の神としての本来の姿や縁結び・呪いの信仰に加えて、近世では神仏習合の信仰地の側面を持っていたようだ。法華経の守護神として成立した「三十番神」で貴船は不動明王として描かれているものもあると云う。上半身裸で脛も露にした逆髪の憤怒相は呪詛神そのものである。江戸時代の境内絵図(右図)からもうかがえるように、神仏習合の形で庶民信仰を集めていたことがわかる。
 総社から徒歩10分ばかりの所に結社がある。中宮ともいう。古くより縁結びの神として信仰を集めてきた。すすきなどの細長い草を神前に結びつける習わしがある。前に掲げた和泉式部の和歌を刻った石碑が祠の傍にある。この奥の山中には「竜王の滝」があり、雨乞い祈願に黒馬を、雨止みの祈願には白馬を献じる古例があり、これが板絵馬になった。なぜかというと、度重なる祈願に生き馬に換えて馬形の板に色をつけた「板立馬」を奉納したということらしい。平安時代の文献である「類聚符宣抄」記載されている。Ema kibune jinjya
 この「板立馬」こそは今日の絵馬の原形というわけである。総社前に、黒馬と白馬の躍動する立派な銅像がある。
 中宮には観光する人影は少なく、祠の脇にある背の高いカツラスギの大木(幹周り5.8m)を、後ずさりできない場所で写真に収めるのに苦労していた間に、何人かの女性が、なにを祈願するのか、一人でこっそりとお参りする姿がみられた。

 いよいよ、ここから徒歩5分の所に奥宮がある。ここの参道にすばらしいスギの並木があったという何年か前の思出を確かめるのが今日貴船まできたの目的である。途中の沿道に「相生大杉」と名付けられた2幹のスギの巨樹がある。「京都市の巨樹名木 第1編」記載の1972年の調査結果では、2幹を取り巻く胸高周囲は9.35m、地上2mの所で別々に測れば、東の株が5.16m、西の株が5.80mであった。今も威風堂々としている貴船第一の大杉である。京都府下で台スギを除けば幹周り最大のスギであるといってよい。その後の成長のほどを1990年の環境庁(当時)の資料で調べると、9.6mまで成長していた。
 奥宮参道の杉並木を形成しているスギ達はこれにくらべれば子供である。径級の最大のものでも胸高周囲4.8mに過ぎない。推定樹齢250〜350年とされており、並木形式に植栽されたものである。室戸台風で多くの巨大木は風倒し、今は、道路側にしか並木を為していない。山側に2本の巨大な根株の残りが認められる。その代わりにか、サクラが何本か植栽されている。残っているスギも道路沿いにあるため、近年大型車両の通過が激しくなり、立地条件が悪化しているのは誰の目にも明らかであで、これ以上大きくなれないのではと心配する。以前見たときに比べてかえって小さくなった感じで、本数も少なくなったように見受けられる。鬱蒼とした参道がなくなり、奥宮の神秘な荘厳さが消滅して、奥宮の名に値しなくなったのは残念である。
 奥宮の鳥居をくぐったすぐ左手の日吉宮の背後にスギとモミジが合体した連理の木がある。その前で若い女性たちが、キャッキャいながら写真を撮っていた。そうかと思うと、先述したように、丑の刻参りの木がどこにあるのか、と尋ねられたりと、本殿の下の井戸に住むという竜神も戸惑っていることだろう。
 本殿横の玉垣の隙間から、一旦道路に出て本殿裏の山際にいってみた。この谷筋で一番大きいカツラとその横に聳えている背の高いトチノキに会うためである。ここのカツラには蘖(不定芽)がなく、一番下の枝高さは20mと、まことに完満な幹をしているカツラらしくないカツラである。主幹だけの胸高周囲5mを越える大木である。このカツラの至近距離にあるトチノキも負けじと、どんどん成長し、地上5〜6mの所から太い枝を伸ばして、新緑の大きな葉で街道上を覆っている。これもこの谷筋で最大級のトチノキである。胸高周囲は4m はするだろう。
shiryoku/ Kurama3 出会えた巨木たち
 新緑のまっただ中、カツラ、スギ、トチノキ、ケヤキを見上げて半日を涼しく過ごした。これらの勇姿は、目にもまぶしい新緑の中に隠れて、一見どれも同じに見えるが、太い幹と枝ばりに個性あふれる姿を認めることがでる。どれもびっくりするほど大きくはないが、それでも何百年もかかってこれまでになったので、その間には様々なことを見てきたことだろう。それを思うと敬虔の念に堪えない。右の新緑の写真をクリックしてその姿を見上げよう。


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