洛中洛外 虫の眼 探訪

木々 四方山噺
2008年から2010年
[1]松寿寺のエンジュ       2008年08月10日

松寿寺のエンジュ           写真は1994年の酷暑の夏、岡山松寿寺にて


[2]姥 芽 樫            2008年10月06日
「おい、すごいぞ。ここにもウバメ樫の垣がある。大したものだ」と井伏鱒二が奥さんに大声でいった。彼が京都の観光バスに乗って京都見物をしていた時の事である。「私が京都の観光バスに乗つて気がついたのは、到るところに見事なウバメ樫の生け垣があることであった。御所のぐるりには石垣で土もりした堤の塀が築かれて、その堤の上に老木のウバメ樫がずつと並んでいた。(中略)第三高等学校の生垣もウバメ樫で、バスの進む道と並行してまつすぐに続いてゐる。」この後に冒頭の一文が続く。
 本来、ウバメガシの生育地は、海岸部の痩せた露岩地か石灰岩や蛇紋岩地などの乾燥地である。日本では、瀬戸内海から九州にかけての沿岸部によく生育している。広島県福山市に生まれた鱒二は、小さい頃からウバメガシを目にして育った。 「別冊文藝春秋」に上の文章が掲載されたのが1967年2月であるから、70歳頃の小品である。
 思い出話として、白石島の磯辺の人家にあった大人の一抱え以上のウバメガシの巨木のこと、この木の若芽で「お歯黒」をしていた婆さんのこと、土佐ではマメ樫、白石島ではバベの木と言っていた事、島の至る所に生えていて、茂るままにされていたが、生垣にしたものはきれいに刈り込まれていたことなどを綴っている。
 ウバメガシは馬目とも書くが、本来は姥芽であろう。若芽が緑でなく、茶褐色であることによる。若い芽にはタンニンが含まれていて、これをお歯黒壷で水に浸した液で歯を染めた。本来のお歯黒液は、ヌルデの葉についた虫こぶの五倍子で作った。五倍子というのはヌルデシロアブラムシがついて生じた虫こぶの乾燥品である。明治のころは薬用、染料用として諸外国に輸出されていた。
 ウバメガシはひどく堅く、材としては良質であるが、曲がりくねって生育するので、建築用材としては利用し難い。材の使い道は炭である。この炭が熾ったときの色の美しさは絶品であるという。うなぎを焼くのに最上の炭である。
 枝が密に出て、灌木状の密な絡まりとなり、通り抜けることが難儀である事から、垣根にもってこいである。そこで、こんな風にされてしまうかも知れない。そして、京都大学の垣根 学生も先生もよく利用した。
 京都市内には、御苑京都大学以外にもウバメガシの立派な垣根が多いが、最近気付いたのは高野川の右岸の高野橋から北へ次の歩行者用小橋までの間と、府立植物園北辺の二カ所である。前者は、高野川堤防沿いの小道に沿って、ガードレールを巻き込むように長さ300mに亘って垣を作っている。背丈は低いが見事に刈り込まれている。植物園のは2mから3mの高さのウバメガシの垣根が東西500mに亘って続いていて、壮観である。手入れは余りなされていなくて、蔓草などがまつわりついていて、ウバメガシの濃い緑色が損なわれているのは残念である。

[3]御 柳              2008年11月01日


 今春の終り頃に、西陣を虫の眼探訪していたとき、連れ合いが小さなお寺の門の向うに変わった枝葉の木を見つけた。何だろうと門を入ってじっくり見ても皆目検討がつかない。まだ見たことがない木である。相当の古木で、幹は斜めに立っておりほとんど皮ばかりで、その先にふさふさのアスバラガスの枝葉を飾り付けたような一風変わった木である。ちょうど昼時であったが、気になって庫裏のインターホーンを押して訪ねてみた。若奥さんが出てこられて、住職のお父さんをわざわざ呼んでくださった。しばし待つと、口をもぐもぐさせながら黒い着物姿の住職が出てこられた。訊ねると「ギョリュウ」という木だそうで、初耳であった。ギョリュウ自体は、何でも江戸時代に日本にやってきたそうであるが、この寺のこの木の由来は詳らかではない、というお答えであった。
 写真を何枚か撮らしていただき帰ってきた(上の写真、クリックすれば大きくなります)。
 家で調べてみると、園芸種もあるようで、けっこうあちこちに植えられている。ギョリュウは御柳と書く。中国原産のギョリュウ科の中高木で、「?」あるいは「?柳」と書くそうである。?の音はテイである。なぜそれが御柳と書かれるようになったのか。古い話である。楊貴妃がこの木を愛し庭に植えさせ簾を隔て観賞し、御柳と呼ばせて以来ギョリュウとなったということが八重樫良輝著「岩手樹木百景」( 岩手日報社, 1999)に書かれていた。さらに、花が春と秋に二度咲き、早咲き遅咲きも含めて、「三春柳」という名称もある。以下この本などによれば、雨が降る前に、枝先の緑の葉がことごとく立って雨を迎えるので、「雨師糸柳」の名もある。その他にも、紅柳、西湖柳、山川柳。観音柳といずれも「柳」に見立てられているが柳ではない。?柳を俳句ではカワヤナギと読ませているそうである。英語名はTamarisk(タマリスク)。
 水を好み水辺に多く見られる。砂漠地でも水路沿いに生育している。適応性の強い木で、海岸の埋め立地の緑化樹木として最適である。枝葉を煎じて飲むと去痰、解熱に効果があると言う。また樹脂を?乳と呼び薬用に用いた[1]。中国から日本に渡来したのも薬用のためで、麻疹の薬としてもたらされた。小枝は大変しなやかで乗馬の鞭に用いる。もちろん葉や花を観賞する庭園木として多く利用されている。
 ざっと以上のような事を知った。木篇に聖ということで、聖書を紐解いてみた、というのは嘘。「同労者」という雑誌の第13号(2000年10月の9ページに聖書の植物(13) ギョリュウという記事があり、それによると「アブラハムは、ベエル・シェバ(註)に一本のぎょりゅうの木を植え、永遠の神、主の御名を呼んだ」(創世記21:33)、「サウルは…ぎょりゅうの木の下にすわっており、…」(サムエル?22:6)、「ヤベシ・ギレアデの住民たちは、…(サウルの)その骨を取って、ヤベシのぎょりゅうの木 の下に葬り…」(サムエル?31:11から12)など。いずれも日本聖書教会訳。新改訳聖書ではいずれもヤナギと訳されているそうである。
 根を長く伸ばし砂漠でもわずかな水で育つギョリュウは、大きく枝を伸ばし、心地よい木陰を提供したものと考えられる。また、こんな話もある[2]。エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野で食べ物がなく、モーセに不平を言った時、神は天から降ってきたマナでもって彼らを養った、と言われている。このマナは、シナイの荒れ野においてカイガラムシの一種がギョリュウの木の樹液を吸って出した分泌液であるという[3]
 次のようなこともインターネット検索で見つかった。
「ギョリュウの実を食べるアリマキは黄色い蜂蜜のような物質を分泌するのだが、これは夜の冷気で凍結し日中は溶けるのである。似たようなものが地元に残っている。少なくとも500年間、それは宗教巡礼者に売られてきたのだ、最近ではマナイトという商品名がついている」[4]

 今秋、花を見たくてもう一度、その西陣のお寺、弘誓寺を訊ねた。曖昧な記憶をたよりに、下立売通りを、堀川を越して西に自転車をこいでいったが、なかなか見つからない。千本下立売を西に一筋ほど先に行った所で、夕食前のひとときに道ばたで立ち話をされていた二人のおばさんに尋ねたが、「この辺はお寺が多くて…」と、弘誓寺の名前をご存知でない。拉致があかないので、もう少しさきに行く。何と10mも行かぬうちに見知った門が右手にあらわれたのである。なんぼお寺が多い界隈だと言っても…。お隣さんのお寺の名前を知らないなんて信じられない。幸いまだ門は開いていて境内に入れたが、花は咲いていなかった。またまた住職さんを煩わして、訊いて見ると、時々小さな目立たない花をつけているが、ほとんど咲かないと言う。やはり老木で、もうその元気はないのだろう。針のような葉はよく茂らせていた。
 京都でどこに行けば、ギョリュウの花を見られるのだろうか。府立植物園に行ってみたが、主幹がほとんど朽ちた老木が一本あるだけで、花が咲くとはとても期待できない。乞御教示。

註 ベエルシバ  ベエルシバはヘブライ語でベエルシェバともいい、 ベエルは「井戸」、 シバは「誓い」または「七」を意味する。 旧約聖書の創世記ではアブラハムはベエルシバでネゲヴの民と契約を結び、 ギョリュウを植え、 七つの井戸を掘ったという。 ベエルシバはヘブロンからエジプトへの交易路と、 アラバから地中海沿岸への通路の交差する要衝で、 聖書時代からビザンチン時代まで栄えていたが、 十字軍遠征で壊滅し、 1948年にイスラエルが建国されるまで人が住めない砂漠の荒野だった。 この街が再建されるきっかけは、 テルアビブ大学の調査隊が聖書時代の城壁と、 深さ40メートルの井戸を発見したからである。 聖書の記述通りに井戸が見つかったことは、 当時大きな反響を巻き起こした。 これまでの調査で、 この井戸の年代は紀元前12世紀とされている。 井戸の発見以降、 多くのユダヤ人入植者がベエルシバの街の再建に取り組み、 現在では人口12万のネゲヴ地方最大の都市になった。 ちなみに街の街路樹はほとんどがギョリュウである。

 次の図は、シーボルトの植物誌『Flora Japonica』(京都大学理学部植物学教室所蔵)のギョリュウ Tamarix chinensis Lour の画像である。
 その次に載せたのは、牧野富太郎「植物一日一題」(博品社, 1998)の裏表紙にあったギョリュウの手書き原稿のしゃしんである。活字本では「支那」が「中国」と訂正されている(2009年6月1日追加)。

   



[4]奇々怪々木の名前      2008年12月10日

写真      
ビデオ     


 日本語で木の名前はカタカナで書く。例えば、サクラ。漢字で「桜」と書けば、サクラの花のことになる場合が多い。実際、「桜が咲いた」というのは「サクラの花が咲いた」ことである。「柿が成った」は「カキの実が成った」ことであり、桜や柿は、サクラの木、カキの木のことではない。ところがすべての木の名前がこういう風になっている訳ではない。エノキ(上左の写真。クリックすれば大きくみられます。以下同様)は「榎」と書くが、これはエノキの木のことで、「榎の木」という表現はない。木が二重に成ってしまう。但し「榎木」と書きエノキと読ませることはある。「東大路通り」の類いで、「東山通り」と言い習わされている。しかし、「北大路通り」は「北山通り」ではない。北山通りは、北大路よりもっと北、洛外の通り名である。西大路通りも此の類いであるが、「西山通り」はない。
 木の話にもどって、同じニレ科のムクノキ(上中の写真)は椋と書いてムクともムクノキとも読む。そして椋の木とも書くからややこしい。ケヤキ(上右の写真)は欅あるいは槻と書くが、欅(槻)の木とはあまり言わないし、書くこともない。ケヤの木でもはない。
 エの木の「エ」は何を意味するのか、古今いろいろな説がある。柳田国男は昔からエノキを塚に植えることから、道祖神のサエノキを左榎と書いた地名があると記していることから、深津正・小林義夫はサエノキのサが略されてエノキと成った気がするという。彼らの著書「木の名の由来」(東京書籍, 1993)に、エは枝という説(新井白石、「東雅」, 1719)、よく燃えるから「燃えの木」からエノキになった(貝原益軒「日本釈名」, 1699)、槐をエノキと訓じた例から槐の呉音が「エ」であることから(天野信景「塩尻」, 1690)、肥の木の意味(林甕臣「日本語源学」, 1932)、道具の柄に利用するから(松岡静雄「新編日本古語辞典」, 1937)の諸説が上がっているが、決め手を欠いている。
 ムクノキの語源もいろいろあるが、実が黒い、「実黒」から、樹皮が断片と成って剥けるから、あるいは、葉がざらざらしていてこれでもって物を磨き剥くからなど、いずれもムクノキの実、葉、材の外見に由来する説が立てられている。案外こんな短絡的なことではないかもしれない。風土に由来した古い民俗的な事象からの呼び名でなかろうかと想像するのは楽しい。
 ケヤキは「けやけき木」から、というのがもっぱらの説であるが比較的新しい呼び名だと言う。樫と書いてケヤキと読んでいた例が16世紀初めの「饅頭屋本節用集」という本に出てくるというから、材の質、堅くて美しい木目を言い表したものであろう。古くは槻と書きツキと読んでいた。ツキは強い木としたもの、「斎つ木」から転訛したという説などがある。「ツの木」で、古代「ツ」に何か意味があったのでは、と此の巻頭言を書きながら思いついた。乞ご教示。
 槐はエンジュであるが、槐の呉音がエであるとすれば、槐はさしあたり「エの樹」からエンジュと成ったのかもしれない。普通にアカシアと称されている木をハリエンジュという。この俗称アカシヤの正式名はニセアカシヤである。それでは本来のアカシアとは? 「アカシア」というのは属名で、マメ(ネムノキ)科アカシア属の常緑樹の総称で600種類以上あるそうだ。
 アカシヤといえば、西田佐知子の「アカシヤの雨がやむとき」を懐かしく思い起こした(上のビデオ。真ん中の▲ボタンで再生開始)。60年安保の年だったのですね。ところが、69年の安田講堂攻防戦の映像とあわせたビデオもあった。この歌には疲弊・挫折感がよく似合う、ということでしょうか。映像はここをクリックすれば大きくできます。


[5]桾                2009年04月25日



 木偏に君と書いて何と読む。白川静の『字通』にもこの漢字は記載されていない。しかし、『読めない漢字がすぐ引ける ワープロ・パソコン 漢字辞典』(荒川幸式, JMAN, 1995)には記載されていて、漢音が「クン」で、「くぬぎ」と訓読みされている。コードはJISでは5B75、Shift-JISでは9E95、Unicodeは687Eである。よって、読みが分からなくてもパソコンに入力可能でちゃんと表示される。問題は読み方であるが、わがマッキントッシュのことえりの辞書では、「くん」と入力すれば「桾」が候補として表示されるから、何の問題もない。

 上の写真に掲げた木偏の漢字を羅列した手拭いが、今熊野の借家の片付けをしていたら出てきた。おどろくなかれ、「さるがき」と振り仮名がされているではないか。写真の右から8行目の下から2つ目の漢字「桾」に小さな振り仮名が見える。(小さくて見えない時は、写真をクリックするか ここ をクリックして虫眼鏡を使って 下さい)

 さっそく、「さるがき」とは何か調べてみた。桾の使用例として、地名の兵庫県三木市口吉川町桾原の「くぬぎはら」、名前では「桾沢」の「ぐみはら」、「桾本」の「くぬぎもと」と言うのが見つかった。「さるがき」と読ます例は皆無である。 なお、クヌギの漢字としては、櫟、椚、橡、櫪、椢、桾などをあてている。「苦脱」というのまである。一方、グミの漢字はとびきり難しい。茱萸や胡頽子でグミと読ましている。

 ウェブを検索していると「桾=さるがき=君遷子」というのがあった。「君遷子」というのは豆柿の一種である。和漢三才図絵の山果類に「ぶどうかき」として掲載されている。どうも、桾も豆柿の一種と思えてきた。晩秋の季語「信濃柿」の傍題に、豆柿(まめがき)、小柿(こがき)、葡萄柿(ぶどうがき)、君遷子(くせんし)などがあり、この中に猿柿(さるがき)もはいっている。しかし、「桾」とは書かれていない。最近の漢和辞典にはどれも記載がないので、連れ合いが持っていたとびきり古い郁文舎編纂「漢和大辞林」(杉本書店, 1908)を引くと、ちゃんと掲載されいて「桾 クン 桾橿は柿の屬、さるがき」と説明があった。これで決まり。

 ついでに植物方言を調べてみると、サルガ(カ)キ というのは、鹿児島県では、ナンテンカズラ、静岡県ではイヌビワ、静岡西駿・静岡遠江・静岡富士市・静岡市ではヤマガキ、新潟ではガマズミ、富山・静岡伊豆・静岡遠江・静岡天城湯ヶ島・静岡中伊豆町・滋賀・鳥取・愛媛・福岡の各地でマメガキのことである。

 比叡山の東の麓、日吉神社境内に「猿柿」と呼ばれている樹齢400年のヤマガキがあるそうだ(坪内稔典、「柿への旅1 カキノミの花」図書, 第722号, p.40, 2009年4月)。ヤマガキ(Diospyros kaki var. sylvestris)とマメガキ(Diospyros lotus)とは違う。ヤマガキは雌雄同株、マメガキは雌雄異株。よって、日吉神社の「猿柿」は「さるがき」にあらず。西の麓、八瀬の里にも柿の老大木がある。主幹の空洞が丸こげになっているのは、信長の比叡山焼き討ちに類焼したためと云われている。


[6]エゴノキを植える       2009年06月02日

 1973年以来、環境庁(当時)は「緑の国勢調査」と称して自然環境保全基礎調査を概ね5年毎に実施してきたが、その第4回(1988年)では「巨樹・巨木林調査」が行われ、その結果を都道府県別に取りまとめた報告書(全9冊<註>)が1991年に発刊された。

<註> 日本の巨樹・巨木林全国版/北海道・東北版/関東版(I) /関東版(II)/甲信越・北陸版/東海版/近畿版/中国・四国版/九州・沖縄版

 その近畿版の京都のページに、「加茂街道並木実測20本」として掲げられている中にエゴノキ7本があった。残りはムクノキ1本、エノキ5本、ケヤキ7本である。加茂街道は鴨川の堤防上の道路である。道の両側には落葉喬木がならんでおり、場所と季節によっては緑のトンネルになる。大変気持ちのいい自動車道である。そんな中に3割を越える本数のエゴノキが混じっているのは不思議である。
 当時は、エゴノキがどんな木なのか、見たこともなかったので、早速、図鑑で調べて見に出かけた。しかし、それらしき木は皆目見つからない。それ以来京都市内で、機会あるごとに探してみたが、容易に出くわさなかった。北海道から九州まで広く分布するというエゴノキは、ある図鑑には「樹皮は平滑で赤褐色から黒褐色である。あまり特徴のない樹木であり、特に稚樹の段階では同定が困難であるが、…」と記載されている。また「花期は5月ごろ、横枝から出た小枝の先端に房状に白い花を下向きに多数つけ、花冠は5片に裂けるが大きく開かず、ややつぼみ加減で下むきに開く」ともあるから、花が咲いたときなら一目瞭然、これがエゴノキだと、一度も目にしたこともない素人にも分かるだろう。
 ついにその時がやってきた。場所は湖北、時は5月の連休の一日、今津から湖岸沿いに北に向かってを歩いていたときのことである。前方左手にさほど高くない、ありふれた樹形の細い木が何本か生えていた。それだけなら見過ごして通り過ぎたであろうが、幸い、四方に張り出た横枝から何本も出た小枝の先に、白い小さな鈴のような花が束になってぶら下がっているではないか。エゴノキだと遠くから直感した。
 その時以来こんなに見事に花をつけたエゴノキにお目にかかったことはない。そして、相変わらず花がなければ、幹や樹形や葉っぱで何の木か言い当てることは出来ない。
 じっくり四季を通じて観察出来るようにと、昨秋、庭に3m程の高さのエゴノキを1本植えてもらった。冬の間は、植栽してもらったときのままじっとして動かなかったエゴノキは、春になると瞬く間に新芽が出し、小枝を伸ばした。その先には蕾みのふくらみが目に見えるようになってきた。しかし、なかなか大きくならない。開花は時間の問題であるにしても、待ちどうしい。5月も連休の終わった頃から開き始め、中頃には満開となった。何とも清楚な花たちである。10日程で散った。あとは何の木か分からない存在にもどって、緑の葉っぱを繁らせているだけである。「エゴ」の木と云う名前にふさわしくない、大変控えめな木である。



壱師論争

 おおかたの本には、「果実を口に含むとえぐ味があるからエゴノキという」と云うようなことが書いてあるが、こじつけポイ。万葉集に「路のべのいちしの花のいちしろく人皆知りぬわが恋妻は」とある「いちし」がエゴノキだという説もある<註>。牧野富太郎は「いちし(壱師)」は「ヒガンバナ(彼岸花、曼珠沙華)」であってほしいと、「植物一日一題」のなかで記している。「ヒガンバナの諸国方言中にイチシに彷彿たる名が見つからぬのが残念である。どこからか出てこい、イチシの方言」と例によって放言している。


<註> 壱師が詠まれている歌は、万葉歌多しといえどもわずかにこの一首。ところが、わずか一首に詠まれているこの壱師の花が何であるのか、多くの人の関心を引く、いわゆる「壱師論争」を巻き起こしてきた。壱師の花の特定には古くから諸説があり、ヒガンバナをはじめ、クサイチゴやエゴノキがその有力候補とされている。通説のヒガンバナ説は、かの大御所、牧野富太郎博士によるもので、「いちしろく」を「明白な」という表現ととらえ、漢名の「石蒜(せきさん)」が「いしし」と読め、これが訛って「いちし」になったと主張している。また、ヒガンバナの方言として、「イチシバナ」「イチジバナ」「イッポンバナ」があることもわかり、多くの学者がこのヒガンバナ説を支持しているようだ。しかし、歌の「いちしの花のいちしろく」という表現は、白い花の色がはっきりとした様子ととらえる方が自然な感じもする。万葉人は、明るくはっきりとした色に心を引かれた傾向を考えると、クサイチゴ説も捨てがたいものがある。
 それにしても、「壱師」を詠んだ歌がわずか一首とは、「道の辺」に咲く花ならばもう少しあってもよさそうなもの。万葉の選者の作為が働いた余地もあるようにも思えるが、どうだろうか。「万葉の花と緑」や、「野花と草木を詠う」のなかの「エゴノキはイチシ(壱師)でしょうか?」も参照。

方言集

 チシャノキ(萵苣の木)、ロクロギともいう。チシャノキの名は、実の成りかたを動物の乳に見立てた、チナリ(乳成り)ノキから転化したとされる。本来のチシャノキはカキノキダマシという別名をもつ落葉高木であるから、ややこしい。この木の由来は、若葉がレタス(和名チシャ)の味に似ているからという。レタスの語源はラテン語の「牛乳」でチシャもチチクサの略だというからますますややこしい。万葉集に「ちさ」の呼び名で何首か読まれている白い花がエゴノキだとも云う。
 ロクロギの「ロクロ」は傘の「ろくろ」のことである。傘の中棒を伝って開閉状態を固定する筒状のパーツのことであるが、これにエゴノキが割れにくい、粘りがあるから利用されたという。傘をつぼめるときに指をはさんで痛い目にあったことを思い出したが、その元凶がこの「ろくろ」とその下にある「はじき」である(ここをクリックして図参照)。「扇の要、傘の轆轤」といって、大事な所のたとえになっている。自由に伸縮するろくろ首の「ろくろ」もこの傘のろくろからきている。
 その他にもおびただしい呼び方がある。種から油をとっていた茨木や鹿児島では、アブラッコノキとかアブラチャンと呼び、果皮からとれるサポニンを洗剤に使ったので、千葉や石川、福井ではサボンとかセッケンノキというところがある。庭職人津里さんのホームペジには「標準樹木名と別名・方言などの対応表」と云うのがあって、エゴノキの方言が山ほど収集されている。列挙すれば、斯くの如し。

アオデ アカジシャ アカズサ アカズタ アカズラ アガタ アカチャ アガチャラ アガツラ アカツラ アカンチャ アカンチャラ アブラチャ アブラチャン アブラッコノキ イーズク イコ イゴ イツキ イッチャ イッチャノエゴ エゴタ エゴッツル エゴノキ エゴノミ エザス オヤニラミ オヤネラミ オヤメラメ カババノキ カラカワ キシャ ギシャ キシャノキ クロジサ クロロギ クロロノキ コガ コハズ コハゼ コハゼノキ コハデ コハラハンゼ コメジシャ コメミズ コメミョージ コヤシ コヤシノキ ゴヤシノキ コヤス コヤスカキ コヤスギ コヤスノキ ザトウノツエ サボン サマギ サルスベリ ジサ ジサカラ ジサキ ジサッキ シサノキ ジサノキ ジサボ ジシャ ジジャカラ ジシャガラ ジシャノキ シチャマギ ジッチャシバ ジヤカラ シャクシギ ジヤノキ シャボンダマ シャマキ シャモジキ シャモジギ ジュシャ ショーカラズエ ズサ ズサキ ズサノギ ズサノキ スシャ ズシャ ズシャノキ スダマ ズナエ ズボズボノキ セッケン セッケンノキ セッケンモモ ターマ チサ チサギ チサノキ チシャ チシャノキ チチャ チチャノキ チナ チナイ チナイエゴノキ チナイギ チナイノキ チナエ チナノキ チナヤ チナリ チナワ チネ チャノキ チョウメン チョーノキ チョーメ チョーメイ チョーメー チョーメギ チョーメツ チョーメノキ チンマラハゼ ツナイ ツナイギ ツネノキ トーヒバ ドクノミ トノスギ トブトブ ナベクダキ ナンジャモンジャ ニガキ ネコアシ ハゼ ハゼノキ ヒクロギ ヒトツバ ブクブクノキ ブトマネ ホトトキス ボトボト ボトボトノキ ボロボロノキ ボンボラ マンシャ ミツナリ メマガラ メンゴヤス ヤマギイ ヤマギー ヤマギリ ヤマジサ リゴノキ リシャ リネノキ ロクロ ロクロキ ロクロギ ロヤス

 これだけいろいろな言い方が各地にある木も珍しい。この木がとてもありふれた木で、大昔からその土地その土地での、人々の日々の生活にどのように生かされてきたのか、その利用のされ方にぴったりする方言で、呼ばれてきたためであろう。今は庭木として結構人気があるらしい。ピンク色をした花の咲く「ピンクチャイム」というのが、ホームセンターなんかで、「家のシンボルツリーに」といって売られている。大阪の花博の時に造られた園芸品種である。
 エゴノキの漢名は「野茉莉」(ヤマツリ)あるいは「売子木」をあてている。漢字表記には「斉?果」が使われているが本来はオリーブの漢名。「?」入力できなくて、「斉ゴ果」とか「斉ゴ木」とか書かれているのをよく見かける。英語ではJapanese snowbell、学名はStyrax japonica。

おわり

 環境庁が間違ってくれたおかげで、いろいろ勉強になりました。このあたりで探求は打ち止め。




[7]センダン            2009年07月20日

京都市中のセンダン

 初夏に咲く紫色の花といえば、フジとキリがすぐに目につくが、センダンの花は目立たない。しかし、今年はどういうわけか、京都の町中で一際目立ったのは、淡い紫の花が群れて咲いていたセンダンであった。



 市中をうろついていると、あちこち思わぬ所でセンダンを見かけるが、なにはともあれ、京都御所の参観の集合場所となっている清所門の前にある一本のセンダンの古木を見逃すわけにはいかない。場所が場所だけに、由緒ある名木であり、京都御所の参観の折に、ついでに見学する人も多い。
 何本も一カ所で見られるのは、東一条、今は京大正門前と呼称するバス停の五叉路の南西角にある京都大学医学部構内のテニスコートの周り。ここの東の向側にも、旧京都大学教養部の石垣沿いに何本かのセンダンが覗いている。
 目の高さで花を観賞できるのは、高野川に架かる御蔭橋の東南端、橋直下の堤防の下から生えているので、橋の上からなら樹冠が目と鼻の先である。
実は、堤防の下から生えていると云うのは間違いです。以前「リンゴのてふてふ」を作ってくれた市先生から以下のようなご指摘がありました。訂正します。
『ひとつ間違いを発見しました。
それは、生えている場所です。
土手の下からではありません。
橋のたもとの土手の上ですよ。
並木の桜とおなじレベルです。』
 7月3日に現地で実見していただき、たくさん実がなっていたという情報も頂きました。
 御蔭橋はかなりアーチ状になっていて、土手の上より結構高いのですね。それで目と鼻の先の感じです。
と訂正したところ、またまたおしかりをいただいた。
『御蔭橋の栴檀の花や実が目の前で見られるのは、橋が高いからではなく、栴檀の川側の枝が目の高さ位に出ていて、しかも欄干のすぐ近くまで枝が伸びているからです。
 樹の高さは目の高さよりずっと高いので、橋から樹冠を見下ろすことはかないませんでした。』
 というわけで、一見は百聞にしかずで、今日7月4日の朝、さっそく写真を撮りにいきました。その結果が下の写真です。仰せの通り、この木は土手上の川端通りから生えていて、ガードレールに幹が食い込んでいました。低い位置から出ている最初の枝が欄干上に伸びて、花時に自転車に乗って橋の上から見たとき、目と鼻の先にセンダンの木そのものがあるように感じてしまったわけである。



 思わぬ所と云えば、東鞍馬口通りが北白川通りにぶつかる交差点を南へ、京都造形芸術大学(以前の「芸短」)の学舎が切れてから二、三筋南、パン屋のドンク(Donq)がある交差点を東山の方へ道なりに登って行くと、左上方にある北白川幼稚園の階段にでくわす。いつも子供を送り迎えするお母さんたちは、この急な階段を登らず、下でたむろしておしゃべりに余念がないという。そのたもとに、格好の涼陰を提供しているとてつもなく背の高いセンダンがある。
 市民の誇りの木に選ばれたセンダンが下鴨の住宅地を流れる第二疎水分線の傍にある。疎水といえば桜並木であるが、以外といろいろな木々が繁って、大木に成長したものも多い。センダンの他にも、エノキ、カジノキ、ヤマモモ、オオバエンジュなどが疎水を散歩する市民に憩いを提供している。ちょっと珍しいこのオオバエンジュは、一住民の身勝手な主張を真に受けた市によって軽卒にも伐採され、多くの人を悲しませたが、ようやく切り株から新芽を出しはじめた。
 その他、神社の境内でも所々で見かける。伏見稲荷には立派なセンダンが柿(こけら)ふきの屋根の上から覗いている(「柿」は柿ではない。つくりの部分はなべぶたに「巾」ではなく上から下へ一画で引き通したものである)。建物の裏へ回ってみるとセンダンとしては相当の太さのものであった。幹周り6m以上もある愛媛県の三大センダン(野神のセンダン、琴平のセンダン。実報寺のセンダン)には遠く及ばぬにしても。
 加茂の競馬で有名な上賀茂神社にもセンダンがある。徒然草には五月五日の競馬をセンダンの木の上から居眠りをしながら見物している心配知らずの法師の話が出ている。本文ではセンダンは樗(あふち)となっていて、境内のセンダンの木の前にある立て札にも「樗(あうち)の木」とある。この呼称については後述する。



センダンの謂れ

 センダンの漢名は楝(れん)である。普通に使われている漢字の「栴檀」は香木のビャクダンの中国名でもある。西行法師の撰集抄に「栴檀は双葉より香しく、梅花はつぼめるに香りあり」と出てくる栴檀は、ビャクシンを指す。前の半分が一人歩きして、大成する人は子供の時からすぐれていることのたとえに用いられてきた。
 中世以前の昔は、「あふち」(樗)と称してきた。万葉集によく詠い込められている。大伴書持の「珠にぬくあうちを家に植えたらば 山ほととぎす離れず来むかも」や、山上憶良の「妹が見し あふちの花は散りぬべし 我が泣く涙いまだ干なくに」など。また、枕草子の「木のさまぞにくげなれど、あふちの花いとおかし、かれがれ(枯れ枯れ)にさまことに咲きて、かならず五月五日にあふもおかし」とでてくる「あふち」がセンダンである。前述の徒然草の樗(あふち)も今のセンダン(栴檀)である。

 きのうきょう 樗に曇る 山路哉   芭蕉
 どむみりと あふちや雨の 花曇   芭蕉

樗の別名は雲見草である。五月晴れではなく曇天をイメージされたのは何故だろう。

 雲見草 鎌倉ばかり 日が照るか   其角

  なぜ雲見草と「草」がつくのかもわからない。日本でごく普通に見られる雑草でセンダンクサというのがあるが、これはキク科の草である。いわゆる「ひっつき虫」である。草木の呼称はややこしい。
 センダンという和名は、貝原益軒の「大和本草」の巻之十一中の楝(れん)の項に「近俗センタント云」と出ているから、この呼称は近世に始まったものであろう。



熊楠とセンダン

 中世には、斬った首を囚獄の門の側の楝(あふち)にかけることが行われたようで、戦記物には、平の誰それの首を引き渡し、獄門の楝にかけ、さらし首にした描写がある。絵巻物にもその光景が描かれている。
 南方熊楠の随筆の中にこのような獄門台に「あふち」をなぜ用いるようになったかを考証したものがある。それによると、インドではこの木に邪鬼を除ける力があると信じられており、また、中国でも屈原の霊が蛟竜が畏れる「あふち」の葉を所望したという伝説を引いて、邪鬼を退ける霊力がこの木にあるという俗信が日本に伝えられ、獄門台に「あふち」を用いるようになったという。
 熊楠はセンダンにとても思い入れがあったようだ。不遇の熊楠が、進講の知らせを受けたときに邸内で花を咲かせていたのはセンダンの木で、その時の喜びを「ありがたき御世に樗の花盛り」と詠んでいる。その思いがよっぽど強かったと見え、臨終の床で熊楠は天井いっぱいに咲く紫の花の幻覚を見て、家族が医者を呼ぼうとしても、「もういい、この部屋の天井に美しい紫の花が咲いている。医者が来れば、この花が消えるから呼ばないでくれ」とつぶやいたという話が伝えられている。



栴檀の木橋

 大阪中之島の土佐堀川に架かる橋で栴檀木橋と呼ばれる橋がある。栴檀の木で造られた橋という意味ではない。この橋が最初に架けられた江戸時代初期、その橋筋に栴檀の大木があったからその名がつけられたという。1875(明治18)年の淀川大洪水で中之島の多くの橋とともにこの橋も流され、再び栴檀木橋が姿を見せたのは1914(大正3)年である。1935(昭和10)年に一度架け替えられ、現在のは1985(昭和60)年に新たに架け替えられたものである。高欄に栴檀の模様を配し、周辺も整備され、橋詰に顕影碑が建てられた。橋のたもとには実物のセンダンがある。このときに植栽されたかどうかは知らないが結構な太くなっている。




 1928年8月15日、栴檀木橋南詰で、関西初の本格的西洋レストラン「アラスカ」が開業した。テーブル5卓。以後、東京、京都、神戸、名古屋にも順次開店、また各地のカントリークラブ内にも出店。1984年には日本料理「もちづき」をも、東京有楽町に開店。2008年創業80周年を迎え、「なぜエグゼクティブは、アラスカに集まるか?」が幻冬社から出版された。谷崎潤一郎氏の「細雪」の中にもALASKAは登場している。
栴檀木橋南詰の店は1931年まであった。詳しくはレストランアラスカ沿革史をどうぞ召し上がり下さい。今では大阪本店は、朝日新聞ビル13階にある。京都の店は大昔になくなったのだろうか、今はない。京都新聞の1966年6月17日の記事に谷崎潤一郎の談話が出ている。
 「僕は年の割に、油濃いものが好きで、牛肉も三回に一度食べるが、肉も京都が一番うまい。肉はビフテキが本当の味がわかるのでアラスカへ行くが、京都のアラスカが東京、大阪より一番うまい。肉がよいのだろう」
 これは、「栴檀木橋 しがない洋食屋でございます。」という三代目望月豊氏著作に載っていた(古本が売価1円でアマゾンの中古商品から手に入る、送料340円を払ってもお得である)。京都のアラスカのあった場所をご存知の方、教えて下さい。
 横道にそれついでに、初代桂塩鯛(しおだい)原作の落語で米揚げ笊(いかき:東京ではざる)に栴檀木橋を渡らない話が出てくる。




[8]槐               2009年08月03日

enju3    (以下の写真はクリックすれば大きくなります)
 夏が始まると薄い黄緑の蝶の形をした花を円錐花序につけ、すぐに落下する。木の周りの路面が薄黄の絨毯になる。見上げると卵形の緑濃い葉を繁らせているエンジュが枝を拡げている。羽状複葉の間に一塊ずつ点々と散らかしたように咲いている花は目立たない。開花してすぐに落下するからエンジュがあると気がつく。 東山七条の智積院の境内を抜けて、市営墓地のある裏の地蔵山への緩やかな階段が左へ折れる角にエンジュの木が一本ある。
enju1さして大きくはないが、コンクリートの灰黒色の階段が一面黄色に変身するのは見事である。雨上がりのしっとりと濡れた地面に花びらがくっ付いているときは、樹冠の陰がいっそう涼しい。
 京都で有名なエンジュと云えば、御蔭通りのエンジュの並木である。1930年(1937年とも)に植樹されたと云うが、成長したエンジュが300mにわたって幅員11mの通りの両側に等間隔で並び、見事な緑のトンネルを作っていたのは、いつ頃だったろう。enju2

enju4昨今は車の波で緑のトンネルをゆっくり味わえないし、木々も、よる年波か、排気ガスのせいか、ずいぶん弱ってきたように見受ける。市内に緑のトンネルが少ないだけに、惜しまれる。
 京都府立植物園にはめずらしいシダレエンジュがある。花が終わって秋を迎え落葉したときの幹と枝だけの裸の樹形は、剪定の仕方で竜の爪のように見えるからか、中国では「竜爪木」と云う名があるらしい。枝が枝垂れる様子を「瀑布状」と表現する人もいる。ちょっと大げさであるが、そう見えないことはない。古来、中国ではエンジュは縁起のよい木とされているが、中でもこの変種のシダレエンジュはその最高種とされる。府立植物園のシダレエンジュは、1934年に2代目の園長であった菊池秋雄氏が中国東北部から持ち帰った穂木をエンジュに高接ぎしで増殖したものである。日本で最初に導入されたシダレエンジュとされている。今が花の見頃である。
enju5

 ちょうど1年前の「洛中洛外虫の目探訪」の第1号の巻頭言で岡山市の松寿寺の幹周り4.3mのエンジュの大木を紹介した。もっと近くにも、奈良町の一角、もちいどの商店街のはずれにある奈良市下御門町の吉田健蔵さん宅には幹周り3.9mの巨木がある。相当の古木であり幹は空洞になっている。第二室戸台風で主幹から折れたが、また息を吹き返し、再びもとのように枝を拡げて元気な姿をみせている(「ならの樹木」, p.15, 奈良市, 1998)。

 10年以上前に福岡県糟屋郡宇美町の宇美八幡宮に「湯蓋の森」、「衣掛の森」と呼ばれている2本のクスの巨木を訪ねたとき「子安の木」という名のエンジュの木があったことを思い出した。『神功皇后が槐の木にすがり応神天皇を出産したことにより、安産の幸をもたらすとして、この木を「子安の木」と称し、宇美八幡宮の神木とされる。』と福岡県のふるさとの歴史再発見に記載されている。
 もちろん、当時の木が、今あるエンジュの木であるわけはない。宇美八幡宮参拝の栞にも「当時の木は変り居るも其子を絶さず其処も変えずに今あり」という。神木には間違いないが、写真に見るように、それにしても貧相な木である。
umi koyasunoki

宇美八幡古文書 神社には「子安の木」と題した江戸時代の古文書もあり、由緒だけは立派である。これによると、わが国最初の史論書である慈円(諡号は慈鎮和尚で一般に吉水僧正とも呼ばる)の「愚管抄」(1230年)で、神功皇后が応神天皇を出産した時の故事が言及されているし、さらに貝益軒翁の「筑前国続風土記」でも紹介されている。

 フランスに由緒のはっきりしたエンジュの古木がある。パリの自然史博物館の地質学鉱物学部門の前庭で、1747年生まれ、262年まえに発芽したものである。この種子は、ゼスイット派の宣教師ダンカルビュユ(d'Incarville)が北京から送った由緒ある種子である。エンジュの学名はSophora japonica L.(シノニム : Styphnolobium japonicum)であるが、実際の原産地は中国である。リンネの命名によるが、これは彼がクレイホフから得た日本産の標本に基づいていたからである。
 パリの自然史博物館のエンジュは、1779年にはじめて花が咲かせ、当時王立植物園であったここで苗木を育てて、ベルサイユ宮殿の庭にも植えられた。これが立派に育ったのが、プチ・トリアノン宮の庭のエンジュである。残念ながら花が咲いた時の写真がないが、ご覧の通り結構な巨木に育っている。
   エンジュ/パリ
   パリ自然史博物館のエンジュ

   エンジュ/ベルサイユ
   プチ・トリアノン宮の庭のエンジュ(ベルサイユ)

enju13
 最後に大阪の町の真ん中にある「榎大明神」の名で知られているエンジュの古木があったのを思い出した。場所は大阪市中央区安堂寺町2丁目。説明板には「(この地は)大阪城域内で、この辺りは紀州熊野参りとお伊勢参りの街道筋だった。だから大きくそびえるこの樹は、なにより目印になったし、また地元の人達は産土神として『白蛇大明神』の祠を建てて、代々この樹をお守りしてきた。」と書かれている。地元では「榎大明神」とよばれているが、樹種はエンジュである。古くから地域の人びとが世話をしてきた。現在では、「箔美会」によって維持管理されているという。
enju10 上町台地特有の小さな坂道を登りきったところにある「正一位稲荷大明神」の赤い祠の背後にビルと競い合って聳えている。坂道には、生家がこの近くだった直木三十五の文学碑がたっている。また、彼の通った小学校の側に「直木三十五記念館」が最近開設された。彼は古物商の長男として安堂寺町2丁目で生まれ、「南国太平記」で一躍時代の寵児となり、大衆文学という分野で確たる地位を築いたが、わずか四十三歳で夭逝した。その翌年に友人でもある菊池寛の呼びかけで「直木賞」が設けられ今日に至っている。しかしながら、現在ではその作品が読まれることは稀になり、直木賞は知っていても三十五を知る人はそれほどに多いとはいえない。かくいう私も彼の名前も知らなかったし、作品も読んだことは未だにない。
 さて、当該のエンジュは樹齢650年と伝えられている大木であるが、大正期に都市計画のために一度伐採されそうになったが、事故が続きで伐採できずに残った、というよくあった信仰(フォークローア)のおかげで町中で生き続けてきた。1945年の大阪大空襲に際しても生き残り、この「榎大明神」の東側一帯が類焼を免れたことから、家内安全や商売繁盛、病気平癒、火災防止の御利益があるとも信じられている。
 2006年の真夏に訪れた時は、坂道が落下した薄黄色の花ですっかり覆われていた。
enju11

 思い出すままに綴っているうちに、長かった梅雨も今日で突然終わったようだ。雨水をしこたま吸い込んだ大地からは、水蒸気が立ち上り瞬く間に入道雲となって青空をおおって行く。今度は長い夏の始まりである。


[9]百日紅 怕痒樹         2009年09月02日

 サルスベリは、ミソハギ科の落葉喬木、原産地中国とビルマの国境。東南アジアの街路樹のなかで、本数が最も多いのはサルスベリだそうで、インドでも、インド固有の植物と間違われるほど、広く栽培されている。種類も、オオバナサルスベリ、オオミノサルスベリなどなど、20種類以上も野生種があるという(渡辺弘之「東南アジア樹木紀行」, 昭和堂, 2005)。日本には、以外に新しく、江戸時代初期に入ったらしい。お寺などに古木が多いから中国に渡航した僧侶が種子をもたらし、仏教にまつわる関係で増殖されたものと考えられている(八重樫良輝「いわて 樹木百景」岩手日報, 1999)。
サルスベリ並木

 百日紅(ヒャクジツコウ)は、字面の通り、6月中頃から9月中頃まで、100日も咲いていることに由来する。
 怕痒樹(ハヨウジュ)の「怕痒」は、痒みを恐れるの意。すべすべした樹幹を撫でさすると、くすぐったげに身震いして、梢の葉や花が笑うかのように動くから、この名がある。擽木(くすぐりのき)、笑木、ともいう。
 その他にも、紫薇 満堂紅、猿日紅、千日花、盆花、無皮樹、佛相花などときりがない。

 春遅く芽を出し秋早く落葉することから「怠けの木」ともいう。芥川龍之介は、サルスベリを代弁して、「何、まだ早うござんさあね。わたしなどは御覧の通り枯枝ばかりさ」と書いている(「新緑の庭」)。葉の落ちるのも早いことにも気付いて、この木の横着なことに腹を立てる。
 『自分の知れる限りにては、葉の黄ばみそむる事、桜より早きはなし。槐これに次ぐ。その代り葉の落ち尽す事早きものは、百日紅第一なり。桜や槐の梢にはまだ疎に残葉があつても、百日紅ばかりは坊主になつてゐる。梧桐、芭蕉、柳など詩や句に揺落を歌はるるものは、みな思ひの外散る事遅し。
 一体百日紅と云ふ木、春も新緑の色洽き頃にならば、容易に赤い芽を吹かず。長塚節氏の歌に、「春雨になまめきわたる庭ぬちにおろかなりける梧桐の木か」とあれど、梧桐の芽を吹くは百日紅よりも早きやうなり。朝寝も好きなら宵寝も好きなる事、百日紅の如きは滅多になし。自分は時々この木の横着なるに、人間同様腹を立てる事あり』(雑筆 九月十三日より)。
 サルスベリは仏花である。水上勉は生家の近くのさんまい(死人を埋める場所)のサルスベリの思い出を紡いでいる。『生きかえるといえば、死んだ人が、百日紅の根に吸われて、花になっているといったのは父である。(中略)父はさんまい谷の地下には、百日紅や椿の根がもち焼き網みたいに四方へ交叉してのびていて、新しい仏がうまれると、根の先はそっちへむいて行くのだと教え、一メートルぐらい掘ったところに、白い毛根をいっぱいつけた太根がのびているのをスコップでたたいてみせた。』
 彼のお父さんは、さんまい谷に住んで、棺桶をつくったり、塔婆をつくったり、死人を生める穴を掘ったりしていたという。
『私は、こどものころの父の話を思い出して、花の少ない夏は、死人が少なく、花あざやかな錦のかたまりのように咲いている年は、死人がおおかったのかもしれぬと思った。そういう思いからも、百日紅が百日もながく咲くことの不思議もとけてくるようで、やはり、仏花にちがいないとおもったのである』(百人一樹 上,「百日紅のこと」, 書房「樹」,1983)

さるすべり花弁 サルスベリの花を一個手に取って見ると、実に不思議な形態をしている。中央に6から9個の萼片に包まれて、多数の黄色う葯をもった雄蕊と、その外回りにさらに6本の長い雄蕊がひょろひょろと出ている中に、1本のめしべが飛び出ている。そして、それを包むように縮緬のように縮れた花弁がそれぞれ細い柄で萼に結ばれて散らばっている。
このような花が十数個で華やかに円錐花序を形成している。花弁の色には深紅から、紅、濃桃、薄桃、薄紫、白色と少しずつ違ったものがある。
さるすべり三色

 八月の暑い盛りに何かと雑事が入り、今月の「洛中洛外虫の眼探訪」がなかなか進まずやきもきしたが、幸いサルスベリは今盛りで写真が間に合った。北大路通りを東へ東へ、東大路通りを越えて、叡山電車の踏切を渡った辺りから、サルスベリの並木が始まる。写真は、9月に入った頃のものである。


[10]神 樹             2009年10月08日

basutei1 15,6年前、上賀茂橋のバス停のベンチの横に、高さ1メートル程の小さな木の細い幹に、「神樹 絶対に伐るな」と書かれた札がぶら下がっていた。神の木?、英語でTree of God とかTree of Heavenとよばれるこの木はニワウルシ(庭漆)である。葉の形はウルシにそっくりであるが、紅葉はしないし、かぶれもしない。なぜこんな所にこんな木が植わっているのか。それには深いいわれがある。この木が生えてくる前にここにはエノキの大木があって、夏の暑い日差しの下でバスを待っている人たちに、快い木陰を提供していた。ところが、いつの日か、突然何者かによってこのエノキはばっさりと根元から伐採されてしまった。1年もしないうちにその根元からエノキの若芽が芽吹いたが、その横にもうひとつ、自然に芽吹いたのか、それとも誰かが植えたのか知らないが、ニワウルシの木が生えてきて、どんどん背丈を伸ばして行った。そして、その細い幹に「神樹 絶対に伐るな」の札がぶら下がっていた。エノキのほうも、細い2本の蘖が成長しているが、ニワウルシの陰でなかなか大きくなれない。
basutei3 同僚のIさん、彼は毎日このバス停からバスに乗って、私と同様に京都から職場のある神戸まで通っていたのだが、彼にこの話したら、「それはうちの親父です」という返事が返ってきた。札をぶら下げたのは彼の親父さんとわかったが、ひょっとしてこのニワウルシを植えたのも同一人物かも知れない。なんせ、彼の家柄は上賀茂神社の社家である。上賀茂橋のたもとに「神樹」を植えるに似つかわしい人物ではないか。
 いまでは、このニワウルシは根元から2幹に分かれて、空高く大枝小枝をのばし、葉を茂らし、夏には以前のエノキにかわって快い木陰をつくってくれる。秋には扁平な莢のようなものに包まれた実をみのらせ束になってぶら下がっている。神様、自然の恵みをありがとう。上の写真を上下逆さまにして、一部分を切り取るとこんな風になりました。

basutei2

 英語のTree of God、God tree、あるいは、Tree of Heaven、ドイツ語のG?terbaumなどは、モルッカシンジュの現地名アイラント「天に届く高木」からこれを「神の木」と誤解したものとおもわれる。和名の神樹はその直訳である。漢名は「臭椿」、漢語の別名には樗、椿樹、鬼目などがある。なぜ和名がニワウルシなのかは何処にも書いてないから不思議である。中国北中部原産で、日本には明治8年に津田仙がウィーンから苗木を持ち帰り、養蚕の飼料として各地に植えられた。現在はそれがあちこちで野生化したといわれるが、古くから近畿地方に野生していたともいう人もいる。
 ざっと、この木の特徴を述べると、枝分かれが少なく、大きな羽状複葉の葉が、枝の先に集まって付くのが特徴的。高さは25mになる。樹皮は灰白色。皮目が多くて滑らか。老木では、縦に浅い割れ目ができる。葉は互生し、奇数羽状複葉。小葉は6から12対あり、卵状長楕円形で鋭く先が尖っている。基部近くに大きな鋸歯が1から2対あるのが特徴。鋸歯の先に腺点がある。葉はエリサン(えり蚕)の食樹。シンジュサン(樗蚕)と言う山繭もいhatomi/niwaurushi
hana/niwaurushiるが、この、2つは同じものではないが、近縁種で交配もできるそうである。花は、6月に枝の先に数個の円錐花序を付ける。雌雄異株。雄花の花弁は5個、雄しべは10本で雌しべは退化している。雌花には退化した雄しべが10本、先が5裂した柱頭がある。果実は狭長楕円形の翼果で、中央に種子がある。豆果のように見えるが、むけないので、鞘ではない。投げるとクルクル回って遠くまで飛んでいく。
 次に、その生態というと、水分を好むためか、ニワウルシは河川や小川などの堤防に生育していることが多い。単木状に生育しているときにはそのまま高木となるが、伐採されると枝分かれを形成する。毎年刈り取られても残りの期間で高さ数mにまで生長する。石垣の間などからも幹を出しており、場所によっては一面にニワウルシが生育して群落を作っている所もある。地下には地上部と同じ太さの根が横に広がっており、これから再生してくるものと思われる。1本立ちしている木の根から地上茎がでてくることはないが、一度地上部が伐採されると、多数の茎が出てくる性質は、アカメガシワやヌルデ、タラノキ、ハリエンジュなどにも見られ、結構多くの樹木が備えている能力である。 
 というわけで、近年、ニワウルシが河原に生育し始め、問題となりつつあるが、これは人間がいじめて根元からきってしまうからである。さらに、ダムの建設などによって大規模な増水が発生することが少なくなり、河原が安定して微粒の土壌が堆積して、ニワウルシが河原に侵入すると短期間で大きな樹林に生長してしまう環境画ある。その結果、洪水の際には水の流れを遮ることになって、しっぺ返しを喰らうことになる。単木だとちょうどいい木陰を作ってくれるが、はびこるとけっこうやっかいな樹木である。アメリカなんかでもでも野生化してはびこって問題になっているという。しかし、はびこらせたのは人間さまである。大きくなりたかったニワウルシをいじめた報いである。

木肌クイズ




[11]キンモクセイは二度花を咲かす
                       2009年11月10日

kinmokusei_b もう朝晩の冷え込みを感じる季節なのに、キンモクセイがまだ花をつけている。今年は長く咲いているように感じる、とわが団地の植木屋さん、小泉造園の小泉昭男さんが書いておられた。余談だが、この植木屋さんは毎月、A4一枚に写真入りで身の回りの自然についていろいろ書いてポストに入れてくださる。いつも感心するのだが、自然と人間の共生について深い洞察をさりげなく発信されている。今月号には、『KBSがフジバカマキャンペーンをしています。在来のフジバカマを増やそうというのです。とてもいいことだとおもいます。しかし、本来フジバカマは自生していたはずです。自生できる環境を戻すことを忘れてしまうとフジバカマだけが増えておかしな事になります』とある。当たり前の事ではあるが、みんな忘れて自然保護だとか在来種の復活などと称してエコがっている昨今の風潮をチクリと戒めておられる。
 さて本題のキンモクセイであるが、確かに今年は何か変だった。京都新聞の読者欄に10月の末に4件もその事を指摘した投稿があった。おおむね、今年は9月下旬に一度咲いたが、花も少なく、期待した程強く香らずにすぐに散ってしまった。でもまた10月になって再び開花、香りが漂っている。というようなものであった。我が家の近くでも、今(10月25日)盛りで、道路が黄色く染まっているのを見かける。その割につよく香らないのである。
 キンモクセイが二度咲くというのは、時々耳にすることである。「キンモクセイ 二度咲く」というキーワードでインターネットでウェッブ検索すると、Google では89,600件がヒットした。その中にこんな論文が引っ掛かった。「京都市上賀茂および下鴨地域でのキンモクセイ(Osmanthus fragrans var. aurantiacus)二度咲き現象の実態調査」(下村孝, 山本裕子/日本緑化工学会誌, 34巻1号, ps.109-114, 2008)。論文の結論では二度咲きの要因は不明であり、今後の研究が待たれる、とあった。この論文は新聞にも広く取り上げられ、おかげで多くの人に知られるようになったのは喜ばしい事であるが、以前から二度咲いていた事もあったのに気付かず、昨今の温暖化の所為にする意見が多々見受けられる。これに関してconoconoさんのブログに痛烈な批判があった。曰く『少数の、信ずるに足らないような記録(データ)からオカシな結論を導き出して世の中に警鐘は発したつもりでいい気になってしまうのでしょう。要するにデータとは関係なく言いたい結論が先ずあって、それをサポートしてくれるデータを恣意的に選んでいるだけなのです。そのような単なる個人的な思い込みを「自然からの警鐘」という形に言い変えて、真実性を与えたつもりになっているのでしょう。「自然」を持ち出されると論拠が薄弱でも納得してしまうという日本人の弱点を突いているのです。(中略)勘違いや早とちりで警句を発する者を聡明とは言わないでしょう。』とある。このconoconoさんの意見は冒頭に記した小泉さんの考えと一脈通じる所がある。キンモクセイの二度咲きに関する小泉さんの考えは『このキンモクセイは この時期に刈り込むとなん(と)二回花が咲くのをみたことがあります。強い花です。』と人間個人の所為にされている。いつも木を刈っている植木屋の悔悟の念があるのだろうか。yahooグラフ
index kinmokusei 大分横道にそれたが、ついでにconoconoさんが気付かれた面白いデータを示そう。右のグラフのように、yahooのブログ検索で「キンモクセイ」をキーワードにした時に表示される「注目度推移グラフ」とキンモクセイの千葉地方での開花のピーク日、2006年が9/23と10/9の2回、2007年が10/10(1回だけ)が見事に一致するのである(右のグラフの上)。聡明でない人は、「キンモクセイが二度咲くのは、人がキンモクセイに注目するからである」と結論づけることであろう。ちなみに今年の「注目度」をその下のグラフに示しておく。みなさんが気付かれた花盛りの時期と合っているでしょうか。これから見ると、今年は2度咲いたようである。そして2度目はかなり遅かったとが推測される。閑話休題。

kinmokusei/kihada kinmokusei haキンモクセイは金木犀と書くが、なぜ「犀」なのか。「木犀の字の由って来るところは、紋理犀のごとし、ゆえに木犀となづく」と松崎直枝の「草木有情」にあるというが、何が犀の何と似ているのか判然としない。或る人は、樹皮に菱形の紋があるからといい、或る人は固くて厚い葉に刻まれた文様が犀の皮のようだからだという。また、材の紋理が犀の皮に似ているから名付けけられたという人もある。もっと穿った説は、林羅山著と伝えられる「梅村載筆」で言及されている中国の禅僧東陽和尚の著「江湖集」の注にある説で、馥郁たる香りを辺り一面に放っている花の名を知らぬ人にこれこそ天上の桂花だと教えた二人に人物、李木と李犀の名から木犀の名が起ったというものである。中国でモクセイのを巌桂と称す。中国の景勝地桂林は古来キンモクセイの里として知られた土地である。唐代の詩人韓愈が「湘江の南(湘南)にある桂林まで来てみれば、あたかも月宮のモクセイの海を遊び歩くようだ」と詠んでいるという。

kinmokusei hana
 金木犀の花の香りはすこぶる強い。「秋ごとに垣の金もくせいは花ともない花をつけ、甘美な香りが女坂を上下する」と書いたは、京都女子大へ通っていた杉本秀太郎である。女坂は東山七条の妙法院と智積院の間の無慮数千人の女子大生が往来する坂のことである、とは彼の表現であるが、私は毎朝、この坂を上ってくる横着無人の女子中高生の波をかき分けて下っていた。甘味な匂いを漂わせた女子大生は、もっと遅い時間に上ってくる。またまた横道にそれたが、キンモクセイの花は短い筒部の先で深く四裂し、雄蕊が二本と退化した雌蕊がある。雌雄異株の木であるが、日本では身勝手な人間の嗜好の所為か、花付きのよい雄株のみ植栽されて来たので、毎年花を咲かせても実を見ることは出来ない。
 中国原産であるキンモクセイがいつ頃日本に入って来たかはっきりしないが、社寺の境内に植栽されて既に巨樹となり国の天然記念物に指定されたものもいくつかある。ちょっと古いが、沼田眞編『日本の天然記念物 5 植物?』(講談社1984)には、群馬県邑楽町永明寺の幹周りが3.4mもあるキンモクセイの巨樹が載っている。usugimokusei静岡県三島市の三島大社のキンモクセイは「新日本名木百選」に選ばれた有名木であるが、ウスギモクセイ(薄黄木犀)と呼ばれる沖縄,九州に自生している種で、花は淡い黄色である。二度咲きでよく知られている。その他、愛媛県西条市の往至森(オシモリ)寺、群馬県伊勢崎市の華蔵寺、佐賀県鹿島市の普明寺、宮崎県東臼杵郡北浦町古江本村河野袈裟七家の宅地内のキンモクセイ、熊本県甲佐町麻生原の馬頭観音堂のウスギモクセイが国の天然記念物となっているが、いずれも老樹で痛々しい姿である(詳しくは同書を参照)
熊本日日新聞Asobara by S この中で麻生原のキンモクセイを熊本に仮住まいしているSさんが花時に訪れて、写真を撮って送ってくれましたました。
 「10月17日の写真です。熊本日日新聞の天然記念物のキンモクセイが今年は小雨と気温が高かった影響で開花が一週間ほど遅れたという記事(右)を見て、出かけました。例年は9月下旬とのこと。花そのものの大きな写真がなくて残念なのですが、色はうすい黄色でした。」とのことですが、色が薄いのはそのはず、この 樹は中国原産で黄赤色の花が咲くキンモクセイではなく、九州 に自生して淡黄色の花が咲くウスギモクセイである。
 ギンモクセイという白い花を咲かせるモクセイがあるが、これが本来の植物学上のモクセイ科モクセイ(Osmanthus fragrans Lour.)であり、キンモクセイはその変種である。変種名のvar. aurantiacus Makinoは橙黄色の意味である。右下の画の如く、江戸時代の本草家はginmokuseikinmokusei_a精確にこの違いを描き分けている。即ち、白い花の画には「巌桂 即木犀」と添え書きし、キンモクセイの画には「一種 黄赤花ノモノ」と説明している。クリックすればはっきりと読めます。キンモクセイの蕊が4つ描かれていたり、ギンモクセイの花弁が5つになっているのは問わぬことにしよう。


[12]木 花 咲 耶 ……       2010年05月30日

Egono ki 開花の遅かったサクラも一段落し、アメリカハナミズキも終り、新緑がムンムンする初夏になった。今の時期は,余り目立たず話題にされることもないが、洛中ではいろいろな木の花が咲き競っている。去年の水無月号にも書いたが、わが家の狭い庭にエゴノキが花盛りである。垣根のヨウシュイボタ(プリペット)も、今春に伸びた枝の先端に円錐花序を出して白い小さな花をいっぱいつけている。お天気がよいと独特の香りを放つ。Seiyou Ibota
  
 香るといえばクスノキ。今、町中を歩けば、背の高いクスノキから、小さな開花後の黄緑花の殻がパラパラと落ちてくるのに出くわす。
KUBIKUBI CAFE 京大の時計台の前にある、京大のシンボルになっている「楠の大樹」の下で、解雇反対で座り込み、「くびくび cafe 」を開いていた人がこんなことを書いていました。「クスノキの落葉がやっと終わって毎朝の掃除から解放されたと思ったら、一斉に花が開き、こんどは大量の花殻が落下してきます。」
 落花といえば、京都虚樹迷木巡り4「モチノキ科」で聚楽第のモチノキのことを書いたことを思い出す。Gobo Manhole
 『散るときはねばりも見えずもちの花』
という句もあり、黄緑色の群生した小さな花を咲かしているときにはあまり目立たないが、それが一斉に散ったときは見事なことであったろう。

 この木は八雲神社の神木であったが、伐採され、神社もろとも消えてしまい、跡地は地上げにあっている。
 町中のあちこちにあるモチノキの花も今頃満開だろう。まっ赤な実がなる秋が楽しみだ。まっ赤な実といえば、豊中の墓地にあった葉っぱが全部なくなったクロガネモチが、Mochi no ki赤い実で樹冠をすっぽり覆っていた姿を思い出す。このモチの木も伐られて今はない。理由は知らない。
 秋といえばカキ。雨上がりの歩道いっぱいにおちょぼ口みたいな小さな花がいっぱい落ちていた。見上げるとマメガキが塀の上に枝葉を繁げらせていた。マメガキの雄花である。
 球形の小さな実といえば、センダン。この木についても去年の文月号で書いたが、今は、わたをかぶったような薄紫の小花を樹冠に付けている。mamegaki高野川沿い疎水沿い京都御苑、京大薬学部のテニスコートや旧教養部のグランド脇など、あちこちで青空高く枝葉を広げて、その中に咲いている。これも人知れず散ってしまうが、秋には茶褐色の円い実が葉のなくなった小枝にぶら下がって、人目を驚かすことだろう。
 上を向いて歩こうから 木花咲くのを見逃さぬよから
 (ドラム缶の上を歩く坂本 九)




[13]イボタノキ(疣取木/水蝋樹)                            2011年06月25日

イボタの木
【註】「水蝋樹」はほとんどの場合「水臘樹」と書かかれる。にくづきの「臘」に虫偏の「蝋」(ワックス)の意味はない。「臘」は「つなぎあわせる」という意味で、新年と旧年の境目となる旧暦12月のことを「臘月」ともいう。そういえば、蝋梅も臘梅と書く。

 今年の冬は雪が多かった。そんな年には、花樹が見事だという。イボタの盆栽五月の中頃から咲き始めた庭の垣根のイボタノキが、真っ白に雪をかぶったようになった。イボタノキはモクセイ科の落葉低木で刈り込んで垣根によく仕立てられている。盆栽仕立てのイボタノキも、その筋では、よく知られているようだ。
 イボタノキはモクセイ科で、その仲間であるキンモクセイやジャスミンのように強く臭う。そのむせるような臭いには「ちょっと……」という向きもあろう。その他モクセイ科にはヒイラギ、オリーブ、オウバイ、ハシドイ、レンギョウ、トネリコ、シオジ、ヒトツバタゴ、ネズミモチなど穂状に小さな白い花を付けるものが多い。
 材はきめが細かく楊枝などを作る。器具の柄などに用いる。薪炭材にもなる。
 ライラックを栽培する場合に、台木として用いられる。そのため、ライラックを購入して栽培しているつもりでも、いつの間にか芽吹いたイボタの方を育ててしまい、花色がおかしいということになる。
イボタロウムシ イボタノキの別名「水蝋樹」や「疣取木」は樹皮にイボタロウムシというカイガラムシの幼虫が寄生して蝋を分泌し、その蝋を疣取りに使うことに由来する。このイボタ蝋は、ろうそくの蝋にくらべて沸点が高く、疣取りや止血・強壮・利尿などの薬用以外に、本来の蝋としての用途はいろいろある。表具屋さんには欠かせないもので、掛軸の製作で、掛軸の裏面にイボタロウを塗って、裏ずり玉で掏り、まっ平らな状態で乾燥させた掛軸全体に、柔軟性を取り戻させ巻き取りやすくするのに用いられる。イボタ臘また、刀剣類の研磨、木工製品、銅製品の艶だしに使われている。白木の桐箪笥の上品な風合いはイボタ蝋の艶である。また、ふすまや障子など建具の敷居に塗って、イボタロウムシすべりをよくするのに使う。融点が高いので、夏でもべたつかす、埃がつかないという利点がある。木ねじを締めるときに硬くて入り難い場合にねじの溝にイボタ蝋をつけると、楽にねじを閉めることができるし、引っ越しのときなど、床にぬり滑りやすくするために利用できる。微粉末として古いSPレコードの再生を助けるために、充填剤としても用いられる。
 もう一つ、同じような用途で、大工道具の鉋や鑿を砥石で磨く際に使わるようである:
 『イボタ蝋は砥石で裏押しする際に、砥石の横に縦に擦り込んで、大工道具の裏透きの横の細い部分の減りを防ぎます。普通のロウソクよりも硬い蝋で、本来スベリ材なのですが目詰まりさせる材料に丁度よいです。鉋や鑿の裏は横の部分の裏が付いている部分が狭く、この部分に圧力がかかると直ぐに細い裏の部分が減って広くなって行きます。鉋ではベタ裏、ヒョウタン裏になり、鑿では手前の方まで裏透きが減ってしまいます』
とあるが、素人の私にはよく分からないが、砥石で研ぐ時、刃のはしっこが減りすぎるのを防ぐのに、このイボタ蝋を塗るといいということだろう(興味があれば、写真入の丁寧な説明をご覧下さい)。

里見と中戸川 19世紀末に釧路に生まれ、私が生まれる前年に死んだ中戸川吉二という大正時代の作家がいる。彼の代表作が「イボタの虫」。中戸川吉二は、里見?に憧れて弟子入りし、一時は里見と並び称されるほどの流行作家であった。「イボタの虫」は、作者が、肺炎で危篤になっている姉のために、母親からイボタの虫を買にやらされる話である。その効用はいかがであったろう。最後の一節は
『「これは、一匹幾らなんです」
 私は顰ツ顔をして云つた、それでも、ここまで来て、買はずに帰るのも業腹だつたので……。
「へえ、ありがたうございます。一匹拾銭といふことになつては居りますがな、その、七匹で六十銭といふことに願つてゐるのでございます」
 かう、番頭が引きとつて云つた。
 私は一匹だつてこんな虫に用はないと思ひながら、番頭に七匹買へば安いと云はれると、小切つて買ふことも出来ないやうな気持になつてゐた。
「ぢや七匹買つて置かう」
「へえ、へえ、誠にどうもありがたうございます」
 私は、やがて、さも貴重品でもあるかのやうに、小さな桐の箱へ入れられたりしたイボタの虫を、番頭から受け取つて、ムカムカしながら戸外へ出た。
 姉は心臓痲痺を起して了つてゐて、木村へ私が駆けつけた時分には、顔をみてももう私だとは解らぬらしくなつてゐた。私はイボタの虫の這入つた箱を母へ渡した。母は一寸葢をあけてみて、黙つて、涙ぐんだまま袂へ入れた。姉は、義兄や、母や、兄や、前田の姉や、花子や、雪子や、私などに枕許をとり囲まれて、眠るやうに死んだ。大正八年一月三十一日午前十一時である。イボタの虫は、木村の家や原町の家などで、お通夜や葬式などに風邪引きが沢山出来たので、母が飲ませようとしたけれども、誰もイヤがつて飲まなかつた。女中たちにさへ嫌はれてゐた。母がたつた一人、つい此頃まで、どうかすると思ひ出したやうに煎じて飲んでゐた。』


 全文は400字詰原稿用紙300枚程の小品で、ページを繰ってもしれています。繰りたければここにあります。

  「一匹拾銭」もするイボタの虫は、農村部の子供の小銭稼ぎであったという話が「庭師の歳時記」に「打ち出の小槌虫・日本の文化支える害虫」と題して載っていた(新潟日報 2007年9月7日)。まだ田んぼに稲架木(はさき)がたくさん残っていたころ、稲架木に使われたタモギ(サトトネリコ、トネリコ)につくイボタロウムシを集め、元締めのところに持っていく。それが結構な小遣い稼ぎになったのだといいます、とある。




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