洛中洛外 虫の眼 探訪

洛中巨樹探訪
西陣の樹木散策
2010年 9月

秋の樹木散歩 ご案内

 西陣の樹木散策 グリーンあすなら 自然観察会例会
akinomushi ようやく酷暑の夏も終りの兆しがみえ、彼岸が来てすっかり秋の風、虫の泣き声(LPレコードにしました)も、うるさいくらい。町中に散策に出かける気にもなります。
 グリーンあすなら 自然観察会、10月は、恒例になった「京都市内の巨樹探訪」です。毎年コース選定とガイドを仰せつかり苦労しますが、幸い好評で毎回50名前後の参加があり、企画のしがいがあります。そうはいっても、4回目ともなれば、そろそろネタ切れ。一日で歩いてまわれる範囲はしれており、市内に巨樹らしい巨樹がそんなに沢山あるわけでもなし、今年はどうしようかと、去年の「糺の杜・賀茂川コース」を終わってから、さんざん迷ったあげく、町中も町中、西陣を廻ることにしました。神社とお寺にある樹木を見て歩く事になりますが、神社からお寺、お寺から神社へいく道すがら、西陣の風情を味わえる道筋を選んでコースを組みました。出会えるのは、必ずしも巨樹とは限りませんが、平安京の歴史の襞が刻まれた場所にある樹木だけに、歴史散歩の趣きも味わってください。

実施日 10月17日(日曜日)            
集合・解散場所 京都市営地下鉄烏丸線 今出川駅北改札前
集合時間 10時                   
解散時間 16時頃                  
注意事項                       
 昼食は扇町天神公園で。弁当等は持参下さい。     
 前日の16日19時の天気予報が50%以上の雨予報の場
 合には、中止します。                

西陣の名木古木を見て歩く
 烏丸今出川の北東一画を占めている同志社大学から出陣して、西陣の中心部をぐるりと囲む道筋にそって、めぼしい樹木を巡ってみよう。目にする樹木は、道筋にある神社とお寺の境内にある木で、巨樹といえる程のものではない。長い歴史の襞が深い場所柄、歴史散歩の趣になってしまうが、普通のガイドブックには滅多に言及されない樹木を紹介するのが目的である。下の地図にコースを示した。上京区(一点鎖線で囲まれたエリア)の中に「西陣」と呼称されるエリアがあり、そのまた中に赤い線で繋がれているのが今日の道筋である。
上京区

 コースの概略は次の通りである。
 まず、同志社大学の構内の樹木を見る。その後西門から出て烏丸今出川の交差点を南東に渡って武者小路を西に向かい西陣に入る。まっすぐに堀川通りの手前まで進むが、途中新町通りを横断して北側の霊光天満宮に寄る。その後、油小路を北に向い、今出川通りを横断して白峰神社に立ち寄る。続いて油小路を北上するが、この細道は、並行して南から走ってきた小川通りに乗っ取られて上立売通りで中断する。しかし、北方の紫明通りから復活し、上賀茂橋の上流で賀茂川とぶつかり終わる。市内で最長の南北に通貫する道路である。ちなみに全長9.2Km。上立売通りを東にちょっと折れ、油小路を乗っ取った小川通りに入り、北に進む。間もなく小川通りは、寺之内通りにぶつかり、少し屈曲して北に続く。右手に表千家・裏千家を見ながら進むとすぐ左手が本法寺の東門前である。境内に通じる小川の橋をわたって門をくぐる。境内の石畳の道を道なりに取って、本堂と寺務所の間を抜けて、北門から上御霊前通りに出る。正面向いに扇町(天神)公園がある。その向うに水火天満宮の社叢が見える。
 上御霊前通りを西へ、堀川通りを横断して、旧成逸小学校に沿って歩いて行くと右手に北に入る路地が見つかるだろう。この路地をまっすぐに入ったどん突きは興聖寺の裏門である。門の柵を跨いで中に入り右手に回り込むと……。
 もと来た道に引っ返して、どんどん西へ大宮通りを越えて進む。この道の突き当たりの手前を右に入る。ここが櫟谷七野神社である。神社の社殿には登らずに石垣に沿って左手に回り込むと、そこは智恵光院通りから入ってくる路地のどん突きである。この路地から智恵光院通りに出て南に進む。右手の真教寺門前角の大日堂を見ながら、さらに南へ、廬山通りを越えて鉾参通りを右に入ると、突き当たりが、通称猫寺の称念寺である。門から本堂に向かう道に見事な松が見られる。
 門前の道を南へ一筋、寺之内通りを左(東)に折れる。すぐに右手に石畳の道がのぞく。この道が、整備された西陣の町並みが見られる浄福寺通りである。石畳を行くと、上立売通りの交差点であるが、この北東にちょっとした広場がある。ここに2m近い赤味をおびた巨岩を祀る祠がある。昔はこの一角は民家が密集する路地内であったが、今はご覧の通り、石畳の広場に変貌した。ちょっと寄り道して、上立売通りを東に、一筋目の智恵光通りの北にある西陣聖天と呼称される雨宝院を覗く。
 もと来た浄福寺道に戻り、南へどんどん下がる。今出川通りを越え、中筋通り、元誓願寺通り、笹屋町通りをやり過ごすと、ようやく右手西側に浄福寺の赤門があらわれる。赤門をくぐる前に、対面にあるの慧光寺をのぞく。ほとんど駐車場だけの境内を見渡してから、向いの赤門から浄福寺に入る。まず、すぐ右手の観音堂を覗く。後は塔頭が並ぶ石畳の道を西へ、本堂を見て,南門から出る。そこは一条通りである。
 向い右手に土屋町通りが覗いている。かっての繁華街「西陣京極」である。この道を南に下って、実際に坂道を下るのであるが、中立売通りに出る。右にまがればすぐ千本通りである。このあたりを「千中」と称す。かってはその名を冠した有名な劇場があった。昔ならこのあたりで、今日一日の精進落しができたわけである。
 一条通りに戻り、後はまっすぐ東へ、堀川の一条戻橋を渡り,ひたすら歩く。烏丸通りに出るまでに、室町通り辺りで北へ曲がって、もと来た武者小路を通って烏丸通りにでると、すぐ北に地下鉄の今出川駅の入り口である。
Nishijin routmap

西陣
「西陣」の名は応仁の乱で西軍総大将である山名宗全が堀川よりも西に陣をおいたとされたことに由来する地名であるが、現在は、京都市上京区内の、東は堀川通,西は千本通,北は鞍馬口通または北大路通、南は一条通または中立売通で囲む一帯を西陣と呼び、一般には、西陣織など織物産業が集中する地域として知られている。上京区今出川通大宮東入北側の京都市考古資料館前に西陣の由来を示す石碑が建っている。一方、細川勝元の東軍は、今の堀川より少し東の犬馬場・西蔵口・小川・一條を境に、これより東に陣した。muromachi bakufu ato当時、室町幕府は、花の御所と呼ばれ三代将軍足利義満(1358〜1408)が造営した邸宅に置かれていた。北は上立売通,南は今出川通,東は烏丸通,西は室町通に囲まれ、東西を、烏丸通と室町通、南北を今出川通と上立売通の囲まれた東西一町,南北二町の規模であった。現在、今出川通室町の北東角、理容店の前に「従是東北 足利将軍室町第趾」の石碑が建つ。
inuoi ezu なお、「犬馬場」と云う地名の由来は、「犬追い」遊びが行われた広場による。16世紀前半の「洛中洛外図屏風(歴博甲本)」(下図)を見ると、幕府の建物のすぐ横に犬追物の場面が描かれており、実際には馬場はやや離れた場所にあったようだが、馬場の跡地には、大正時代までやはり「犬の馬場」という広場が残っていたという。

同志社大学の樹木
 現在の学校法人同志社の創立者新島襄は1843年、上州(現在の群馬県)安中藩主板倉家の江戸神田一橋門外藩邸に生まれた。若くして蘭学を学び、当時鎖国をしていた日本にあって、海外に思いをはせて「漢訳聖書」を愛読し、神への畏敬と救国の理想に燃え、1864年、函館から国禁を犯して渡米した。敬虔なキリスト教徒であるハーディー夫妻の保護と援助を得て、フィリップス・アカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校に学び、キリスト教と教育についての考えを深めた。密出国してアメリカへ渡るまでの青春時代を回顧した小冊子「My younger days」あるいは、大野源次郎訳「私の青少年時代」に、このへんのことは詳しく書かれている。
 1874年にアメリカン・ボードの準宣教師として帰国後、当時京都府顧問であった山本覚馬氏、宣教師ディヴィス博士とともに、京都の地にキリスト教に基づく学校の設立を計画し、1875年11月29日、現在の同志社の原型である官許同志社英学校を寺町通丸太町上ル松蔭町の高松保実邸の半分を校舎として開設した。1876年に相国寺に接した薩摩藩邸の桑畑に移転した。それ以来ここには、同志社大学、同志社女子大・高校・中学校、同志社中学校の学舎が蛆集し、烏丸今出川一帯は、同志社の学生の町として賑わってきた。
 校内には、古くから育った樹木も多く、北側の相国寺、南側の京都御苑とともに、緑の多い界隈の一角を占めている。以下大学校内のめぼしい樹木を見て歩く。
Doshisha trees map

Niishima sekihi 京都御苑の今出川御門の向に同志社大学の正門があり、相国寺の南門へ通じる道を挟んで東側は同志社女子大・高校・中学校の校内となっている。正門を入ったところの広場はサザンカの低い植え込みに縁どられた円形の一画になっていて、その中にオガタマとクスノキが薄暗いまでに大きく枝を広げている。オガタマはクスノキよりも大きいくらいで、幹周り2.4mもあり、この正門広場のシンボル的な存在である。根本の茂みに隠れて新島穣の永眠50年に際して建てられた、徳富蘇峰の筆になる記念碑がある。碑にはShiori新島穣の書簡中の一節「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ 新島襄」が、彼の故郷の群馬県に産する碓氷石に刻されている。
 オガタマを左に見ながらレンガ建の校舎(有終館と致遠館)の間を抜ける途中の左手にはエノキの古木がみられる。校舎の間を抜けた所の神学館と致遠館の間の広場にはプラタナスの老木が見られる。さらに進むと、西門へ通じる広い道にでるが、右手北東のクラーク記念館の奥にある茶室「寒梅軒」の前にもエノキの古木がある。西門へ向かう広い道の中程の道の真ん中には、弘風館と至誠館を左右にひかえて、校内一の巨木のムクがある。
 至誠館の北側にならぶハリス理化学館と礼拝堂の間の通路を少し入った奥の醇厚館の前にユリノキが聳えている。そのすぐ向かい、扶桑館とハリス理化学館の間の小さな広場には、よそ者に負けてはならぬと、マツが高々と聳えている。この広場には韓国詩人、鄭芝溶(チョンジヨン)の詩碑尹東柱(ユンドンジュ)の詩碑がある。

 元の広い道に戻って南側の明徳館と図書館の間の道に入ると右手の徳尚館の裏にケヤキがある。その向うは、冷泉為任の冷泉邸である。
Reizen ke

 手前の守衛所車庫の横、今出川通りの喧噪を遮る白壁に接して脊の高いクロガネモチがある。このクロガネモチ、2年前の冬にすっかり葉を落として、形のいい円い樹冠全体に深紅の実だけをたわわに付けていて、今出川通りを行き交う人を驚かせていた。もう枯れるのではと心配したが、見事に芽吹き、今では黒々とした緑の葉を密集させている。クロガネモチを左に見ながら右奥へ入り込むと、教職員憩いの家「クローバーハウス」と同志社校友会が同居している貧粗な建物があるが、その傍にカリンの老巨木がある。幹の内はほとんど洞である。さらに塀沿いにほんのちょっと進めば、白壁に門があいていて、今出川通りに出られる。但し平日だけだろうから、もと来た道に引っ返して、西門へ通じる大通りへ出るのが安全だ。
Nanban tera sueishi 図書館の入り口に沿って進むと、珍しい物に出くわす。中京区室町通蛸薬師通りの一画姥柳町にあった南蛮寺の基礎石である。何でも同志社大学の考古学研究室が南蛮寺の発掘調査をされたので、土地の所有者であるタキカ株式会社から同志社大学に寄贈され、ここに置かれたと説明した木の駒札が傾いて建っている。その前に赤茶けた1〜2m程の大きさの楕円形の平たい石が置いてあり、その後に白っぽい、何か細工されたような石が4つ、散在している。どれが南蛮寺由来の石であるかはっきりしないが、珍しいものにはちがいない。
 図書館の向側は影栄館でその背後に同志社中学校の校舎である立志館がある。正確には今年の春まではあったが、岩倉に移転するとかで現在この一画は工事中である。こまった問題は、影栄館の前にアメリカキササゲ(カタルパ)があったのだが、影も形もなくなっていた。解体工事に伴ってばっさりと伐られてしまったようである。現在でも木の祟りはあるようだ。その後で、解体工事をやっていた人が事故で死んだのだ(下の新聞記事参照)。
ki no tatari 2

 日本にアメリカキササゲが渡来したのは、新島襄がその種をアメリカから持ってきて、徳富蘇峰が熊本に植えた結果だ。末光力作氏の「新島襄と植物」(北垣宗治編「新島襄の世界」p.193, 晃洋書房, 1990)の記事に詳しく書かれている。こんな由緒有る樹種が、本家の同志社校内になくなるとは。校内の樹木の世話をしていた植木屋さんと話した所、彼が実生で育てたアメリカキササゲが、岩倉の同志社小学校の校庭に植わっていると云う。彼も、「ここにあった事は知っていたが…。ウーン、Satsumahanntei ato sekihi何かの機会にでも、植えるように提案しますわ」と残念がられていた。
 西門から烏丸通りに出る。右手に薩摩藩邸宅跡の石碑が立っている。

霊光殿天満宮
 同志社大学の西門から出て烏丸今出川の交差点を南東に渡り、武者小路に入る。武者小路は西陣の中心部に向かう東西の通りで、全長約500mの短い通りであるが、応仁の乱以前にもみられる古い小路である。14世紀初頭の成立と推定される百科全書「捨芥抄(しゅうがいしょう)」に「一条有小路、武者ノ小路」と記載されている。明治期の京都を紹介する碓井小三郎の「京都坊目誌」には、「無車小路」とあり、この通りを挟む新町通りより東は、「武者小路町」であるが、西の一画は「西無車小路町」である。
Mushakoji
 新町通りまでは、何の変哲もない今時の風情のない町並みが続いているが、ここを通り抜け新町通りを渡ってから、少し変ってくる。北側に枳の垣根を前にした板塀が続いている家が、千家十職の塗師、歴代の中村宗哲の住まいである。「現在の当主は1986年に十二代を継承した女性で初めての千家十職の塗師中村博子さんである」と、今は言えない。
 2005年11月6日の共同通信は「中村宗哲さん死去 千家十職塗師十二代 中村宗哲さん(なかむら・そうてつ=千家十職塗師十二代、本名弘子=ひろこ)5日午後8時34分、心不全のため京都市下京区の病院で死去、?"歳。京都市出身。自宅は京都市上京区西無車小路町603。葬儀・告別式は8日午前11時から京都市左京区黒谷町121、浄源院で。喪主は二女公美(くみ)さん。葬儀委員長は千家十職竹細工柄杓師の黒田正玄(くろだ・しょうげん)氏。茶道の千家の茶道具などを代々作る千家十職の塗師。86年、父の十一代の引退に伴い十二代を襲名。女性として初めて千家十職を継承した。」と伝えている。2006年に心筋梗塞で急逝した十二代中村宗哲を継いだのは次女の公美さん

Kankyuan 中村さんの東側は、茶の湯三千家の一つ武者小路千家の官休庵である(右の図)。茶室の名は「士官を休む」の意で、一説によれば、武者小路千家の流祖、一翁宗守の百年忌の時に大徳寺第三百九十世眞巌宗乗(しんがんそうじょう)和尚により書かれた頌に、「古人云官因老病休 翁者蓋因茶休也歟」、茶に専念するために官〔茶道指南〕を辞めたのであろう、とあることからと云う。一翁は、はじめ陽明、近衞家に、そののち讃岐高松藩の茶道指南の地位にもあり、広くその名を知られる活躍を続けてした。一翁宗守は、故あって家を出た兄宗拙と共に宗旦先妻の子であり、一時は兄同様父の下より離れ、吉岡甚右衛門と名乗り塗師を業としていたが、千家の兄弟達の勧めでその技を初代中村宗哲に譲り、千家に復し、現在の地に茶室「官休庵」を建て、茶人としての道を歩み始めた。在地名から武者小路千家と通称されるようになり、現在に至っている。(以上は『武者小路官休庵』のホーム・ページより)。 

Omamori ちょっと先走ったが、ここまで来る途中、新町通りを横切った北側に、目的の霊光天満宮がある。石の鳥居に勇ましい扁額「天下無敵必勝利運」が架かっている。1281(弘安4)年、元寇の際、後宇多天皇が霊光殿天満宮で夷賊退治の祈祷を行わせたところ敵船が嵐で壊滅し、「天下無敵必勝利運」の宸翰の額を天皇より賜ったことに由来する。 
ogatama この鳥居の南脇にオガタマがある。剪定された樹冠に反比例して、その根は広くひろがっている。その様は何匹もの太い蛇が根本から這い出ているようである。地上張った枝葉は伐れても地に深く張った根は切るわけにもいかず、隣家の下に潜り込み家を持ち上げているんです、とは南隣の社務を司っておられる家の御主人の弁である。
 ささやかな境内の奥に、これまた切り詰められた樹冠のイチョウがそびえている。その他、ウメノキ、サクラ、クロガネモチ、クスノキがある。オガタマとクロガネモチは「区民の誇りの木」に登録されている:クロガネモチ?樹高10m・枝張5.3m・幹周1.3m 、オガタマノキ樹高13.5m・枝張6.7m・幹周.18m。さらにダイダイがたわわに実っている。ne鳥居のまえに出ておられた先述の隣家のご主人によれば、ダイダイよりもっとすっぱく、なんかとの間の子だろう、といっておられた。境内では七五三の家族が一組、写真撮影の最中。この神社の南側に接して、武者小路通りに店を開いている写真館「スタジオクレアーレ」があり、大入り満員であった。神社で写真を撮っていた人物の愛想の良い客あしらいも納得できた。
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 霊光殿天満宮は、管公(菅原道真)を祭神とする天満宮霊地十ヶ所(註)の一つである。祭神に徳川家康を合祀する。これは家康が若い頃から当社を崇拝し、代々当社の祠官であった若江家再興に尽力したためと伝える。創祀は寛仁年間(1017〜1021)、管公六世の孫、菅原定義(義郷)による。
(註)天満宮霊地十ヶ所とは、道明寺社、霊光殿社、梶折社、曾根崎社、綱敷社、太宰府社、紅梅殿社、文子天神社、上宮天神社、北野天満宮

Sugqzqrq shi Keizu 菅原定義は「更級日記」の作者菅原孝標の女の兄である。その人柄は日記中の、(4)まつさと、(46)初瀬への一、(58)高浜・住吉の浦などにみられる(関根慶子訳注「更級日記」前巻(上・下), 講談社学術文庫, 1977)。
『兄は私の面倒をよく見てくれました。帰京のおり、「まつさと」で乳母を見舞ったときも、私を抱いてこっそり連れ出してくれました。
 私が年をとってからも、ずっと仲良い兄妹でしたよ。大嘗会(だいじょうえ)の御禊(ごけい)の日に初瀬参りに出かける私を、「よりによってこんな日に行かなくても」と腹立てながら止めたっけ。兄は和泉守に就任すると、前任国司の非道による国の疲弊を朝廷に奏上したりしています。常識人で曲がったことが嫌いな性格だったのですね。
 頭も良く勉強家でしたから、父がなれなかった大学頭と文章博士になり、家業を再興したんです。1049(永承4)年には、やはり父が望んでいた近国の国司(和泉守)になれたんですよ。嬉しいじゃありませんか。私も兄といっしょに和泉国司館で数ヶ月くらしましたが、心弾む旅でしたね。』(菅原孝標の女の更級いちはら紀行より)。

という風に想像をたくましくして読めないこともない。

 当社は中世の兵乱で社殿は荒廃し、社領を失って、東寺境内に遷座していた。それが、家康参拝のおかげで復興したのである。境内には、菅原定義を祭神とする末社の老松(おいまつ)神社がある。その奥には古い井戸が残っている。
 社伝によれば「霊光」の名は、道真が九州配流の途次に立ち寄った、おばの覚壽の里河内若江の地で、天から一条の光とともに天一神・帝釈天が降臨して、「お前に罪は無いので落胆するな。お前が天に召された後、敵たちを滅ぼそう。」と道真に告げたという伝説に由来した名称である。
 その他境内には見るべきものが多い。

○霊光殿菅公千年祭記念碑
 1902(明治35)年の菅原道真千年忌にあたり,社殿を整備した時に建立されたもので、富岡鉄斎の撰書である。碑文は次の通り。
[表]
霊光殿菅公千年祭記念碑
[裏]
Tessai no hi霊光殿菅公神祠也其所剏置旧在河内国若江邑而徙
于今地蓋在寛永年間焉今茲明治卅五年実為菅公一
千年忌辰神主小栗栖元熈欲挙報賽之奠謀之信徒信
徒競献経費大闢境域新築社務所及正門営造結構倍
旧観焉於是従五月五日至十一日欽修祀典篤致奠饗
其間昼夜献燈其数殆過三万豈不盛哉嗚乎神徳広大
威霊感応可謂昭昭乎千歳矣元熈謂余曰曩事竭力信徒
之志尤可嘉尚也因勒其姓名共伝不朽云
tessai  明治卅五年十一月 鉄斎外史百錬撰并書
         祠掌 小栗栖元熈
            木村勘兵衛
            中西久吉
       信徒惣代 伊藤久兵衛
            松見栄治郎
            田中長兵衛

大意は
 『霊光殿天満宮は菅原道真公を祀る神社である。最初は河内国若江というところに創建され、 現在地には寛永年間(1624〜44)に移された。ことし明治35年は菅原道真公の千年忌にあたる。そこで神主小栗栖元熈は記念祭を実行しようと計画した。waka信徒は競って献金し、社殿を整備することができた。そこで5月5日から11日まで記念祭を行い、その期間,昼夜三万以上の献灯があった。菅公の神徳の偉大さは千年ののちまでも輝くものである。小栗栖元熈がわたしに相談するには、この盛大な千年祭は信徒の尽力によるものであり、まったく顕彰すべきであると。そこで彼らの名を石碑に彫って後代まで残す次第である。』
 この石碑の右前に歌碑がある。これも明治の建立であるが、全くよく読めない。風化しているためではなく、達筆の草書体の字が読めないのである。

○本殿の狛犬
Koma inu

○おみくじ
mikuji mikuji
 12種類のクジ軸のなかから出てきた軸の数を拝殿に掛かっている額から探す。?その額には1から12までの数字の下に吉やら凶などが書かれている。

○社殿
 明治5年に近衛家の旧鎮守社を移築したものである。覆屋に覆われている。社殿の前につり下がっている3つの金色の飾りには、三葉葵の紋があり「西御丸大奥御寄付」と彫り込められている。社殿前の舞殿の周りには、菅公千百年大祭に寄進された提灯がぐるりと廻らされているが、土地柄か、表・裏千家と武者小路家の提灯が並んで架かっている。
Ooiya

○十文字屋會十周年記念碑
tokei 十文字屋會十周年記念と書かれた脊の高い石碑がある。石碑の上部を刳り貫いて時計がはめ込まれている。当時からのものではないと思うが、今もちゃんと動いている。石塔の裏には、「大正四年一月建之 中西久吉商店十文字屋會」と刻されている。近辺で「中西久吉商店」をインターネットで検索して見ると、中西商店と(川越)久吉商店の2軒の糸商がヒットした。西陣の地にあることから、おそらく何らかの関係があるものと思える。町中に時計塔がほとんど見られなくなった昨今貴重なものである。
 右側奥の赤い鳥居は五所稲荷社である(これを末社の老松社としているものもあるが,確かなことは不明)。その右奥に枝葉を切り詰められたイチョウの木があり、さらに右手境内隅に古い井戸がある。反対側左手のの覆屋の背後にはクスノキがそびえている。

○梅の花
Ume Mitsuba  aoi
 天満宮にふさわしく社殿前にウメノキではあるが、小木である。入り口の石の鳥居の傍に有る方が大きいが、見るべき程のものではない。それよりサクラの巨木2本のほうが、花盛りには見事だろう。

白峰神宮の樹木いろいろ



 霊光殿天満宮を後にして、武者小路を西へ、西陣の懐に入る。小川通りを横切り油小路を右に曲がり北上すると、前方に緑の塊が望まれる。白峰神宮のオガタマの大木の青々した樹冠がである。交通量の多い今出川通りを渡り、左手の鳥居を潜り門内に入る。右手の土塀ぎわにはクロガネモチが塀越しに大きく黒々とした樹冠をひろげている。それに覆いかぶるようにそびえているのがオガタマの大木である。根本から大きな幹が2つに別れている。樹齢800年。この神宮ができるずっと以前から根を張っている。それもそのはずで、この神宮は、1868年、明治元年、明治天皇が父帝の孝明天皇の遺志をついで、四国讃岐の白峰より崇徳天皇の神霊を移し、この地に奉祀されたものである。それ故、神社ではなく神宮である。「神宮」は皇室の祖先である神々を祀っている。
 ここはもともと、飛鳥井家の屋敷があった所で、オガタマの前の手水舎の水が、名水の「飛鳥井」である。清少納言の「枕草子」168段に『井は、ほりかねの井。玉ノ井。走り井は逢坂なるがをかしきなり。山の井、さしも浅きためしになりはじめけむ。飛鳥井「みもひも寒し」とほめたるこそをかしけれ。千貫の井、少将ノ井、櫻井、后町の井。』とある。「みもひも寒し」は、平安時代の歌謡の催馬楽「飛鳥井」に『飛鳥井に宿りはすべし、や、おけ、かげもよし、御水(みもひ)も寒し、御秣(みまくさ)もよし」と謡われていることによる。samall riversここにはもうひとつ、別の水脈の井戸がある。潜龍大明神の御神体とされる井戸である。水脈が違うので味も温度も異なって、まったく別の趣があると云う。潜龍社は、水守護神であり、染・醸造守護神でもある。神宮前の道は「今出川」で、西は「堀川」、東は「小川」である。このように失われ暗渠となった洛中の小河川は多い。水脈が豊富な土地柄だっただけに、境内に今も残る様々な樹木を育んできたのだろう。以下順番に見て行こう。
ogatama miki オガタマは小賀玉あるいは招魂と書く。モクレン科の高木で、モクレン科で唯一の常緑樹である。神社によく植栽されている。すでに同志社大学と霊光天満宮でオガタマの木を見たが、寺町頭からこのあたりにかけて、なぜか民家にも多く見かける。
ogatama/Shiraminegu 白峰宮のオガタマは京都市内で最大である。地上約1mで南と北の2幹に別れている。南の幹は斜めに立ち上がって、太い幹から分かれて11m先まで伸展している。北の幹はほぼ直立しており、多くの枝を出している。この広い樹冠は東西17m、南北19mの広がりをもち道路上に張り出している。葉もよく繁り見事である。北東にシラカシ、南東にクロガネモチがあるが、このオガタマの木が高く覆いかぶさっている。地際では、ogatama mi幹の根もとが隆起して、露出した根と一体となって、根回りは周辺は10mを越していたが、根を保護するため、土が盛られて周囲を小石で囲い、一段高くなった中に押し込まれてしまった。そのためか見た目には、以前の迫力を失った感がある。なお、1980年の調査では、根本幹周り4.56m、南幹周り2.35m、北幹周り2.49mが記録されている。4年後の調査では、それぞれ南幹周り2.42m、北ogatama to togatama幹周り2.51m に太っている。しかし、近年この地の環境の変化は人間が感じる以上に、この老木には厳しいようであり、薬液注入等が行われたが樹勢維持が精一杯のようである。右上にオガタマの花と実の写真を掲げる。
 本殿の左右にトウオガタマが植栽されている。オガタマと同じモクレン科で、中国名は含笑花で、その名のとおり慎ましく微笑んでいるような花(右の写真)で、宋の李網の含笑花の賦に「南方花木の美なるもの含笑に若くはなし」(「南方花木之美,莫若含笑;?叶素?,其香郁然…」)とある。日本への渡来は江戸時代中期。開花期は長く、4月中旬から5月下旬までと順々に咲くが、花は2、3日で落花する。一輪だけでもバナナのような甘い香気が強く思わず見上げてしまう。
Shirq,inegu 2

 拝殿の前にタチバナとサクラがある。右近の橘、左近の桜であるが、サクラの花は黄緑色で鬱金(うこん)と称される品種である。
muku bannkon 伴緒社の手前に板根を発達させたムクノキがある。板根は、幹の下部から出る根の上側が幹にそって板状に地上に突きでたもので、土中深く下方に根が伸ばせなくなった樹木が支持材として発生させるようである。熱帯の巨木は幹を支えるために板状の根を発達させることがよくあるが、これは、多雨で、腐葉土層が薄く、根を深く下ろすことができないからであろうと云われている。日本でも、西表島のサキシマスオウが板根を発達させることで有名である。板状の根が発達するかどうかは、樹種や環境にもよる。例えば、ケヤキは、同じ環境でも象の足のような形の地上根を地上際の幹の周囲に形成して巨体を支える。同じニレ科の喬木でも、エノキはまた違った形で自分の体を支える工夫をしている。
sendan kihada 伴緒社の北側の塀際にセンダンの高木が見られる。樹冠は塀の外に張っていて、春の紫の小花や秋のつり下がった黄土色の実は、境内からは見えにくく、樹種の判断に困るが、注意すれば特徴のある木肌でそれと分かる。若い木の樹皮は平滑であるが、大きくなると縦に裂け、ミミズが這ったような木肌でそれとわかる。

mukuriji ha to mi 本殿の西側、蹴鞠のグランドの北西角にムクロジの老木がある。中国名「木患子」。「葉は大きな偶数羽状複葉で、互生する。小葉は4〜8対あり、広披針形で革質。左右がややずれて対生する。縁は全縁で大きく波うつ」と説明されているが、上の写真でも質感は分からない。一見は百聞しかずである。要するに、一本の柄に数枚小さな細長い葉がついている、普通の葉っぱであり。手触りはちょっとごわごわするかんじである。11月には黄色の実が熟す。約2cmの球形で、中に黒い種子が1個入っている。数珠や、羽根突きの玉に用いられた。また、皮はサポニンを含むため、かつては石鹸の代用とされた。社務所の前にムクロジの実がかごに入れて置いてあるから、いつでも見られる。
kajini ki2 神饌所の横から塀際に沿って奥まで進むと、どん突きに大きな葉がいっぱい落ちている。見上げるとカジノキである。 最近は環境の変化のためか、葉が丸くなり、特徴ある深く切れ込んだ葉形が温和になった。雌雄異株で、雄花と雌花の形が随分と異なる。花は目立たないが、実(集合果)は真っ赤で、落下して踏まれると道路に血のようなシミがつく。

kaji no ha2 古代から、神に捧げる神木として尊ばれ、七夕祭には、カジノキの葉に直接ヘラなどで「歌」を書き供える。 現在この行事は、七夕に、短冊に願い事を書いてササに飾りをつけることになったが、昔は、「梶」の葉や枝が用いられた。そのためにカジノキは、神社の境内などに多く生えられた。その大きな葉は神事の供え物「神饌」の敷物などにも使われた。

tanabata 特に、今も冷泉家に伝わる陰暦7月7日の七夕儀式「乞巧奠(きっこうてん)」には、牽牛、織女の二星(”たな”と”はた”)に、種々の供物をし、蹴鞠、雅楽、和歌などを手向けて、その技が巧みになるようにと祈りる。そのときの、庭に祭壇をもうけ、「星の座」になぞらえ、周囲に九本の燭台を廻らし、うしろに二本の笹の間に梶の葉と糸をつるした緒を張り、机の上に、星に貸すため、琴、琵琶などの楽器を置く。お供えの「うり・なすび・もも・なし・からのさかずき・ささげ・らんかず・むしあわび・たい」を梶の葉にのせ、机の前には、五色の布・糸、秋の七草などが手向けられる。最前列に水を張り、梶の一葉を浮かべた角盥(つのだらい)を置いて、この水に二星を映して観賞する。儀式は、午後、陽の高いうちに、手向けの蹴鞠から始まり、これを「梶鞠」といいう。
 社務所の前に細い背の高い松の木があるが、仰々しく「リギダマツ」という札がぶら下がっている。市民の誇りの木に登録されている。高さ10.5m、枝張り8.9m、幹周1.11m。三葉の松、ミツバマツである。北米東部原産、まつぼっくりに刺があるのが特徴で、pich pineうっかり握るとひどいめに会う。木肌が黒いので北米ではpitch pineという。サンヨウマツには、リキダマツ、テーダマツ、スラッシュマツ、そして、ダイオショウがあるが、この順に松葉が長くなる。ダイオショウにいたっては50cmにもなる。最も短いリキダマツの松葉は、7〜9cm程度である。松ぼっくりの一つ一つの鱗片に刺があるのはどれも同じで、テーダマツが最も突き出ている。松枯れには強いと云われる。
 韓国ではリキダマツのことを「倭松」という。なぜか。次の記事にその回答がある。
『別名『倭松』と呼ばれるリギダマツ(三葉松)が柳寛順(ユ・グァンスン)記念館の一帯と、毎年3.1節奉花祭が行われる梅峰山眼(メボンサン)一帯(京畿天安市竝川面塔院里)を覆って民族の精気を毀損すると指摘されている。
YuGansn2 柳寛順烈士記念館のある梅峰山一帯の数十万坪の土地には、日帝強占期と1960年代以降に緑化事業を通して数千本のリギダマツが伸びている。柳烈士の魂を称える招魂墓と追慕閣、生家一帯には日帝により植えられたリギダマツが30%以上を占有している事が確認された。
 天安市史跡管理所と村住民によればリギダマツは日帝強占期に集中的に植えられて、60年代にも政府の緑化事業の際に無分別に植栽されて、現在では樹齢50〜70年の木が数千本に達する。特に梅峰山は柳寛順烈士が育ち3.1運動大事を控えて烽火をあげた場所で、民族の精気が毀損されて樹種の入れ替えが急がれるとの声が高まっている。』(国民日報KUKIニュース/大田日報)

kusu shin-me 境内を反時計回りにぐるりと一巡りしたところに地上50cmあたりで3幹に分岐したクスノキがある。一見、何の変哲もないクスノキであるが、分岐した3本の幹のうち1本が、胸の高さで見事に伐られており、その切り口の脇から新芽が出ている。伐られても再生する勢いがあるというので、この切り株には、『有り難く切り株撫でて元気を貰って下さい!』という札がぶら下げてある。切断面の年輪を数えると100以上になった。おそらく、この神宮ができた頃に芽吹き、育ったのであろう。親の幹周り1m弱。祖父(母?)の幹周りは2m程度である。人間に精を盗られて、子はどのくらい大きくなれるか見てみよう。
 
 白峯神宮境内社の地主社は、平安朝の昔から鞠の守護神「精大明神」を、祀っており、昨今のサッカーブームで、ご利益をもらおうとやってくる若者も多い。そればかりに頭にあって、こんなにバラエティーにとんだ樹木が育っているとは思いもしなかった。当神宮のホームページにも「霊木」として、種々の木が紹介されているのは喜ばしい限りである。もう一度オガタマに挨拶して、奥の潜龍社のまえを通って裏口から、油小路に出る。
 この裏口周辺、潜龍社と本殿横の間にはクスノキ、シダレヤナギ、モミジ、サクラ、ウバメガシ、イチョウ、アラカシ、クロガネモチなどの木々が背比べをしている。かように、白峰神宮境内は樹木愛好家に取っては、洛中にあってまたとない楽しい場所である。(つづく)
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木々よもやま噺



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